15分前—— ああっ!綺麗な海、綺麗な空! この砂浜でずっと日光浴していたいね。 シェイクスピア船長……煙が上がっているのを見たからここに上陸したはずだが? はいはい、わかっているさ。補給とガイド役が必要だからね。特にガイドは重要なポジションだ。 そういえば、ここはもうアレクサンドリアではないから、英語を話せる人も少ないだろう。 まず、その辺の確認をしておこうか——みんな、話せる言語を教えてくれるかい? ……ふーん、船長だから、船員のことは全てわかっているものと思っていましたが? まあ、言葉が通じなくても問題ないだろう——ふと思ったから聞いてみただけさ。 私は英語とラテン語しかわからないが……あんたたち戦乙女ならもっと話せるんだろ? ふん。 英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語——この4つくらいしか話せません。 メイドさんは? ……広く浅くではございますが、世界の主要言語十数種類は話せます。しかし、この「新大陸」で役に立つとは言いにくいでしょう。 ま、待って。待ってください。 「世界の主要言語十数種類」って……じゃあ、日本語も? もちろんですよ。 「古池や 蛙飛び込む 水の音」 では……中国語は? 「一曲新词酒一杯,去年天气旧亭台。夕阳西下几时回?」

注釈:

新しい詞を一曲歌うたびに一杯の酒を飲む。去年の日和のようだ。この亭台の景色は昔と変わりない。

——『浣渓沙』晏殊(宋)

な、なら……スペイン語は? 「Cuando una puerta se cierra, otra se abre. 」

注釈:

一つの扉が閉じたら、また別の扉が開く。

——『ドン・キホーテ』第1巻21節

……ほ、本当に話せるんですか? ははははっ、今のはわしが書いた言葉じゃのう。 ええ、セルバンテス様、あなたの『ドン・キホーテ』の中の一節です。 スペインから来たおじさんは、何かマイナーな言語を話せたりしそうだね? うーむ……「マイナー」か……アラビア語は違うじゃろうし…… 欧州の言語も……皆多少できるしのう。 すまんが、特に思い当たらんよ。 ふーむ……レイラとシュレディンガーさんは留守番だから…… ああ、そうだ。シャンポリオンさん、考古学者なら、どこか新大陸の原住民の言葉を学んでいたりするんじゃないか? ……すまない、エジプトのコプト語だけだ。 ははははっ、それもそうか、エジプトの研究をしてたんだからね! まあいい!ここは縁起が良いってことで、スペイン語が話せる人に先陣を切ってもらおう——神頼みにちょうどいい! ……どうしたら、そんな結論に行きつくんですか。 ……たぶん、「スペイン語は神と語る言葉」だからじゃろう。 そうそう、それが言いたかったんだ。 さあ、出発しよう——人の住んでいそうな場所を目指して! (……え、今のはことわざか何かでしょうか?知らないのって私だけ?)

注釈:

「スペイン語は神と、フランス語は男と、イタリア語は女と、ドイツ語は馬と語る言葉」

——カール5世(スペイン国王、神聖ローマ皇帝)

おーーい!誰かーーーーっ! ……いたら、返事をしてくれーーーー! おかしい……誰もいないのか…… ……のう、森の方から誰か走ってきたようじゃぞ。 そこのお嬢さん、スペイン語は話せるかな? …… あなたは……連邦の人!?でも、その服は…… ……連邦?何じゃそれは、ここの国家か?メキシコのことかのう? ……え? その……連邦のことを知らないんですか? でも……その言葉は……確かに「連邦標準語」ですよね? ……ふむ?今話しているのは「スペイン語」じゃよ。 「連邦標準語」なんて呼び方、聞いたこともない。 ……? ……あっ!わかりました! あなた方は「漂流者」ではありませんか?連邦の「大司祭」と同じ、他の世界から来たのですね! あーっと……たぶんそうじゃな? ——よかった! 神に通ずる漂流者様!突然のお話ですみません——連邦の軍隊が私たちの村を襲おうとしているのです。どうか、お助けください! ……何? わ、私はこの村の「神託者」、この地の守り神「イス・タブ」の「現神(あきつみかみ)」です。 私たちを助けて頂けるのなら…… その見返りとして、何でもいたしましょう! 現在—— 何を言っている? ……言葉が通じないのは厄介ですね。ビアンカ様の言葉をそのまま通訳いたしましょう。 「帰りやがれ、二度とこの村に来るな!」 ——以上です。 き、き、貴様ら、神聖なる連邦軍人を侮辱する気か!決闘を申し込む! ……落ち着くんだ、チャクハルくん。 忘れたのか?我々は彼らに文明を与えに来たのだ。野蛮な真似はよせ。 …… おかしいですね。人類の歴史上、あなたたちと同じような思想を掲げていた強盗が五万といます。 リタ、グローブを持ってきてください。 はい、ビアンカ様。 あなたたちのようなひとりよがりの、弱い者いじめは…… ……戦乙女の力を思い知ってください。 それと—— な——っ! うわああああ—— ——自分たちの巣に帰りなさい! おおお!神よ! あなた様はきっと戦神「ブルク・チャブタン」の化身、私どもを助けに来てくださったのですね! ……? (あなたはこの地の戦神の化身で、私どもを助けに来てくれたと言っています。) (……えっと、それはちょっと恥ずかしいですね。通訳お願いします、リタ。) ……ああ、私としたことが、自己紹介もまだでしたね。 この村の外からは「エル・レイ」と呼ばれています。本名はタソマール、ここ「イザート・ヴェニック」の村長のようなものです。 こちらは孫娘のイカナール、この村の守り神——「イス・タブ」の当代の「現神」です。 よろしくお願いいたします。 ……わ、私はビアンカ。こちらは船長のシェイクスピアと、メイドのリタです。 よろしく。 タソマール様、イカナール様、よろしくお願い致します。 さ、様だなんて、おやめください。私は修道女や巫女のような者です。 ふふっ、気にしないでください。リタはいつもこんな喋り方なんです。 ああ——そうだ!皆様、遠くからいらしてお腹も空いているのではないでしょうか? 挽きたての粉で作ったトルティーヤはいかがでしょう。 おお、噂に聞くタコスってやつかのう? おや、恩人様は知っておられましたか。では、なおさら腕によりをかけて、本場の味をお楽しみいただかなくては。 はっはははっ、腹の虫が今にも鳴りそうじゃ! イカナール、皆様のお相手をしてくれるかい?私は火を付けに行ってくる。 もちろんです、お祖母様!私も、海の向こうの世界をもっと知りたいですから。 ……海の向こうには、機械人形が街の管理をしているところがあると聞きましたが本当なのですか? ええ、文句を言わず、人々のために色々なことを手伝ってくれます。神話に出てくる「使い魔」みたいな感じですね。 ……ただ、そういった技術の裏にはデメリットもありますが。 もしかして……エジプトの神々がお怒りになったのでしょうか?人が頼らなくなったとかで。 いやいや、頼らなくなったとしても——それは人が自らの努力で成しえた結果です。 子供が親離れして、それを怒る親はいないでしょう? ……なるほど、そういった考え方もあるのですね。 ……ふふ。 ちょっと、どうして急に笑うんですか、リタ? いえ、ビアンカ様とイカナール様が打ち解けられたようで、微笑ましかっただけです。 …… な、なな、なに変なこと言ってるんですか! (イカナール様、ビアンカ様の照れたお顔もかわいいでしょう?) (……ふふ、リタ様はビアンカ様のお姉さんみたいですね。) ちょっと!私をよそに笑わないでください! (リタ、私の話をちゃんと通訳していますよね?) イカナール、ちょっとこっちへ来ておくれ!料理ができたよ。 はい、ただいま! わあ!美味しそうですね! おおっ、アレクサンドリアの風習を借りれば、あの「タイヤマン」が評価するレストランのレベルを超えているかもしれないね? で、では、いただきますっ! ひうっ!辛っ! ビアンカ様?……だ、大丈夫ですか? だ、大丈夫です!戦乙女たるもの、唐辛子なんかに負けません! このトルティーヤ、とっても美味しいです!肉の脂身がほどよく、トマトの焼き加減もバッチシです! た、ただ…心の準備ができていなかったから、ちょっと辛さにびっくりしただけで……全然、問題ありませんから! あれあれ~、私たちの舌に合わせて、辛さ控えめにしてくれているみたいだけどなぁ~? う、うるさいっ!バカ船長!こんなのわけないです! ……そうかい?じゃあ、村長に次は辛さ増し増しにしてもらおうか。 ま、ま——待ってください! あっはははっ!食べた食べた、もう入らない! ……底なし船長、全部で2ポンドくらい食べていませんでした? 明日から10日間、大きな祭りが催されます。この祝日中、まだまだ美味しいものを食べられる機会はたくさんありますよ。 10日も続くんですか? ええ。今日は12.19.19.17.18——明後日の13.0.0.0.0は、新しい「バクトゥン」を迎えます。 「バクトゥン」? ——聞いたことがある。「バクトゥン」はマヤ人の「長期暦」の単位の一つだ。西暦で約400年に相当する。 つまり、この日付は我々で言うところの「新世紀」……いや、「ミレニアムイヤー」のようなものだろう。 イカナールさん、先ほど10日間のお祭りがあると言ったが——その一日一日に宗教的な意味合いがあるのかな? いえ、そんなことはありません。 祝日が始まる前の「神託」以外は、宗教的な行事はないですよ。 私たちの信仰では、連邦の人のような「一人ひとりが神様と直接交流する」という考えはありませんから。 ……心の中で、瞑想中に神様に話しかけるのもいけないのですか? 欲があれば、それはいけないことです。 神様は自由気ままです。無闇に問いかけ、要求したりすれば、逆に不幸が降りかかることもありえます。 …… 正直に言うと……少し理解できません。 信仰は理屈じゃない。「信じる」か、「信じない」かであり、「理解する」「しない」ではないさ。 …… だが、我々からすればおかしな信仰でも、この村の独特な「ヒューマニズム」だろう。 ……? ひゅーま…?えっと、何かの専門的な用語でしょうか。 うーん。困った。説明しにくい概念だ。 そこの考古学者、何か簡潔に説明できないかな? そうだな……うん…… 簡単に言うと、一人ひとりの価値観と人格を尊重しつつ、思想の自由を守る環境だろうか。 例えば、『人間と市民の権利の宣言』の冒頭にこんな言葉がある—— 「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。」 「これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。」 ……? まあ、具体的に言えば、君たちが祝日と神を祀ることを分離したように—— 「ヒューマニズム」とは、可能な限りすべての人間が自分の意志を持って生活できる社会のことだ。 そういう意味では、イカナールさんのような神職者は、すべての人間が自分と同じ信仰、同じ道徳規範を強要すべきでない。 なるほど。 私は神「イス・タブ」がこの村における現神であり、村人の代わりにかの神の喜怒哀楽を受け止めるのが私の責です。 他の人間に神と交流を持つリスクを負わせない——それが私の責務となります。 ……ふむふむ。神が人に与える影響を最低限に抑えるのか。 人は成長するものだ。いつか父や母が万能でないことを悟る。自分しか頼れないことを知る。 ——神も親と同様だ。我々への助けは、「創世紀」の前に終わっていたのかもしれない。 それは悲しむことではない。逆に、人間が、民族が成熟した証だ。 ——自分の行動に責任を持ち、自由になったのだから。 自由、ですか。 今夜の御神託は、「自由」を主題にしましょう。 え? 私たちの村は、皆様がいなかったら独立を保てなかったでしょう—— ——でもいつか、村民でも、連邦の人でも、負担なく自由にこの世を生きられることを信じています。 …… ……午後から神託の準備に入ります。 明日、すべてが順調に終わったら、私もあなたたちの船隊に加えてもらえないでしょうか? 自分の目で、この村の、島の外の世界を見てみたいのです! はははっ、お安い御用だ。 ——なんなら、今からでも連れ出してあげられるぞ? 「イス・タブ」に呪われても、ですか? ああ。 だが、村の人たちが「呪われた」と思うかどうかは知らないがな…… (……船長様、その話はいささか——) (いい、そのまま通訳してくれ。) 船長様は、呪いを恐れないと仰っています。今からでも連れ出すことは可能ですが、問題は—— ——あなたが「信仰」に対する責任を終わらせられるかどうか。 …… (ちょっと、なんてこと言うんですか!空気が一気に重くなったじゃないですか!) ……いえ、違います、ビアンカ様。 あれ?英語がわかるの? 何を仰ったのかわかりませんが、心配してくださってありがとうございます。 ど、どういたしまして…… シェイクスピア船長の言う通り、私は神の化身です。私自身の未来を決める前に、村人への義務を果たすべきでしょう。 彼らの未来のために……私にどんな苦難が降りかかろうとも。 …… ……すみません、話をさらに重くしてしまいました。 皆さん、連邦の将軍の話を覚えていますか? 彼の言うことに一つだけ正しい点があります。彼らの神と違い、私たちを守ってきた古き神々は、確かに残酷です。 …… 太陽神「ギニッシュ・アハワ」、穀物の神「フーン・フナホップ」には、血を捧げてきました。 死の神「ギヒム」は、慢性的な皮膚疾患の人しか司祭として認められていません。 雨の神「チャック」は力が足りない時、幼い男の子で神力を回復します。 私たちの村の守り神「イス・タブ」、難産の母親や自殺者を守る優しき女神も、舌を貫くことで顕現させます。 あ、ありえない! ……言いたいことはわかります、ビアンカさん。 それが連邦の人たちが、私たちを野蛮と呼んだ原因です。 いや、あれは領土拡張の口実だと思うよ。 ……でも、その事実があるせいで、兵士たちは私たちを見下していました。違いますか? それを変えるためにも——私たちを守る神々には、私たち凡人がもっと自由に生きることを許してほしいのです。 ちょっと待ってください——それはあなたたち自身で「変わる」ことを決めればいいんじゃないんですか? 神は結局、人間の魂や意志が昇華したものでしょう? …… ええ、その通りです。 だからこそ、今夜の儀式が重要になります。 「紀元末」の儀式は400年に一度しか行えません。そんな機会でなければ、神々が人間に与える印象を一気に変えることはできませんから。 …… 皆さん、今日私たちの村を訪れてくれたこと、心より感謝いたします。 連邦の人を追い払ってくださっただけでなく—— ——おかげさまで、女神様に変革を求める決心も着きました。 本当に、本当にありがとうございます。 ……羽の髪飾りのお嬢ちゃんが洞窟の奥へ行ってしまったね。そういえば、戦乙女の二人は? 自虐儀式の準備なんて見たくないけど、止める理由も見つからないからって、先に船に戻ったよ。 わしらが口を挟むことではないが、確かに気分の良い風習ではないのう。 ……それに、少し心配だ。あのお嬢ちゃん、バカなことをやらかさないか。 ……バカなこと? 彼らの儀式、内容は門外不出だが、恐らく幻覚系の薬物が使われるのだろう。痛覚を排除し、狂信的になれるものだ。 ……彼女の頑張りようを見ていると、どう転ぶかわからない…… 「神秘」と「神聖」を守るには、彼女はそうする必要があるのじゃろう。 だが、論理的に考え、神の民として最初からあの異端信仰は最悪だと思っておった。 はははっ!さすが「スペイン」っぽいな! ほう?……そうとも限らんぞ? うん? 前々から思っておったことじゃが、異教徒や無神論者も、同じような憐れむ目でスペイン人を見ておる。 イエス・キリストとは何か?神の化身であり、「三位一体」の一部じゃ。 ——神が実在するかどうかは置いておいて、キリストはあの子の身分とそう大差ない。 では、キリストは何をした?我々凡人の原罪を消すために、自分を犠牲にした。 ——神が実在するかどうかは置いておいて、彼らが自らを貫き、血を流して神を祀るのとそう大差ない。 我々の唯一であり真なる神を信じない者は、主の神性も信じないじゃろう。 なら彼らにとって、キリストも頑固で陳腐で甘いお人好しなのではなかろうか。 ……ほう。 まあ、わしがいた「あの」スペインだったら、こんな話できるはずがないがのう。 この世界では、我々だけでなく、「旧大陸」の大多数の人間は狂信的でないようだ。 「壁」が100年以上存在しているからな。狂信者はほとんど「消費」されたのだろう。 ……未開拓地域の人々は、その限りじゃないな。我々が口を出すことでもないが。 それより、お嬢ちゃんが出てくるまでに、やることをやっておこう。例えば—— ——ここのとうもろこし粉はなかなかのものだ。多めに買っておこうじゃないか! 日が傾き、 星が現る。 潜水艦「カレドニア号」の中で、ビアンカ・アタジナは耐え難い12時間を過ごした。 武器の整備も、スペイン語の勉強も、ポーカーも、何もかも集中ができない。 まるで、戦乙女として初任務に赴く前夜と同じような感覚。 最前線の部隊に選ばれず、ヘリの中で不安を抱え、出撃許可が出るまで長い長い15分を過ごしたあの時のことが蘇る。 前方はアーグラ城塞、後方はタージ・マハル。人類文明の宝を守る作戦だった。

注釈:

アーグラ城塞(ヒンディー語:आगरा क़िला、ウルドゥー語:آگرہ قلعہ‬‎‎)。インドのムガル帝国全盛期の王宮である。バーブル、フマーユーン、アクバル、ジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブと、6代の君主に渡り使用していた。

タージ・マハルはアーグラ城塞南東2.5キロに位置し、シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルのため建設した墓廟である。シャー・ジャハーンは晩年、息子であるアウラングゼーブにより王位を簒奪され、アーグラ城塞に幽閉された。人生最後の8年、そこからタージ・マハルを眺めていた。

前線部隊は城塞へのダメージを最小限に抑えるべく、城の庭から崩壊獣を誘き出す任務。ビアンカがいた後続部隊は崩壊獣の退路を断ち、ヤムナー川で足止めし、前線部隊と協力して敵を殲滅する。 ……はずだった。
ビアンカ様、「エル・レイ」のタソマール様が面会を求めています。 ——メイドが現れ、少女の回想を中断させた。 え……私に? はい、ビアンカ様に。 戦神「ブルク・チャブタン」の化身よ!苦難なる魂の導き手「イス・タブ」の化身から仰せつかり、ぜひとも儀式のご協力をお願いしたく参りました。 ……? イカナール様は、ビアンカ様に儀式の手伝いをお願いしたいとのことです。あなたのことを神の化身だと信じ込んでおられます。 …… 女神「イス・タブ」の御神託であります。同じく神の化身であるあなた様にしかできません。 どうか、お願いいたします。 ……わ、わかりました。 村民たちに神聖な場所として奉られている鍾乳洞の中は、今たくさんの蝋燭が灯されていた。 老いた村長は一言も発せず、ビアンカを奥へ案内する。彼女ほどの地位の者でも、この洞窟の中では口を開けることが禁じられているのだ。 ——それは、「神の化身」の特権であると。 ほの暗い蝋燭の明かりが静かに揺れる。 水滴が落ち、石筍に当たり弾ける。 戦乙女の指先から血液が滴り落ちる感覚、それが蘇る。 ——ビアンカが戦乙女として参加した最初の任務。 ——その任務の生還者は、ビアンカただ一人だった。 その時から、ビアンカは自分が特別だと気づきはじめていた。 運が良かったのでもなく、わかりやすい天賦の才でもない。 ただ、一般人にはどの領域においても、見えない「天井」があり——その限界を超えることは叶わない。 ビアンカは違う。戦闘において、努力した分だけ成長できる。 ビアンカは直感した。それが「天才」であると。 しかし、彼女の心はそれを認めたくなかった。 どんな人間でも、自分の限界を超える力が備わっていると信じたかった。 一般人には、それすら贅沢すぎるものだということも、認めたくなかった。 老いた村長が歩みを止めた。 洞窟の最深部までの道は、ビアンカ一人で歩いて行かなければならない。もうひとりの「神の化身」が、ビアンカがここに到着するころには、すでに秘密の儀式が始まっているからと言ったためだ。 十歩、二十歩、三十歩。 角を曲がり、壁の割れたところをくぐり、更に曲がる。 まわりは静寂そのものだ。音楽など鳴るはずもなく、木靴が床を叩く音もしない。 蝋燭の火の先、赤い生地に黒い模様でトーテムのような文字が編まれたカーテンが下がっている。 ……イカナールさん?入るよ。 ——ビアンカが一夜漬けで覚えた数少ないスペイン語の一つである。 しかし、その声に答える者はいなかった。 訝しげにカーテンを開けると—— ——そこには、ビアンカが一番見たくない光景が広がっていた。