「仙人は世界で唯一、何千年も生きてる不老不死の本物の仙人だって言ってたよ。」

「三界を超越する無限の神通力を持っていて、片手で神州を平定し、剣一本で天下を平定するんだって。」

「神州の守護者として、彼女は数えきれないほどの妖魔や魔物を倒してきたの。」

「朝廷は彼女を上仙に任じようとしたらしいんだけど、

でも、彼女は政治や王朝の交替に興味はなかった。

それでも新たな皇帝が即位するたびに、彼女に挨拶するために太虚山へ行こうとしたの。」

「仙人に会えたら、寿命が延び、王朝が栄えると言われていたからね。」

「一方、仙人に会えなかった君主は、志半ばにして崩御したり、王朝が変わってしまったり、良い末路を辿れなかったんだって。」

「――大体こんなところかな。他にも色々聞いたけど、忘れちゃったよ。」

「ふむ……」

羅刹人は素裳の表情をじっと見つめている。 「それはどれも地に足のついた賞賛ではないね。実例はあるだろうか?」

「実例って……邪教の聖主、閻世羅を倒したこととか?目に見えない剣で璃島の妖獣を倒したこととか?

どれも巷の言い伝えばかりで本当かどうか分からないよ。

どんな例を聞きたいの?乳母もあまり話してくれなかったから……」

「たとえば……」

羅刹人の目つきが急に鋭くなった。

「仙人が無限の神通力を持っていて、三界を超越しているのなら、人を蘇らせることもできるのかい?」

「人を……蘇らせる?」

「ああ。」 羅刹人は小さな声で言った。

男の目は李素裳をじっと見つめているが、彼の目に映っているのは彼女ではなく、彼女の横にある、何か巨大なものであった。その巨大なものは光り、熱を発しており、彼の視線も熱を帯びて明るくなり始める。

「わ、分からないけど……」

素裳は熱い視線から逃れ、彼の前に置かれた棺をチラリと見た。

ある考えがパッと閃く。突然、何かが分かったような気がした。

「あんた……誰かを蘇らせたいの?」

「ああ。」

羅刹人は口を開いたが、出てきたのはまったく意味を持たない言葉だった。

言葉が消え、彼の目つきも暗く、冷たくなった。光と熱が一瞬の間に空中へと散逸する。

素裳のそばにいたのは、時折悲しげな表情を見せつつ、冗談も言う、これまで通りの異邦人だった。

「そうか。だから仙人を探してたんだね!……仙人に誰かを蘇らせてもらいたいんでしょ?」

「その通り。」

羅刹人は視線を下に向けた。

「誰でも、こういった願望を持っているものさ。普通だろう?」

金髪の男が優しそうな笑みを見せる。

「彼女を蘇らせてほしい。ただそれだけなんだ。単純な話さ。

だが、願い事が単純であるほど、叶えるのは難しくなる……」

「十九年になる。あと四日で、ちょうど十九年だ。」

「あぁ……」

李素裳は何かを言おうとしたが、何を言っていいのかわからず、下を向きながらため息混じりに呟くのが精いっぱいだった。 「長いね。」

李素裳はまだ十五歳だった。これまでの人生で愛された時間は短く、ましてや誰かを愛したこともない。そのため、羅刹人の言葉に込められた気持ちを理解することはできなかった。

「十九年……」

「ほんの一瞬さ。僕には時間があるからね。彼女も同じだよ。」

羅刹人は棺の蓋を指で優しく撫でた。 「僕たちが仙人に会えれば、彼女は戻ってくる。」 ――「僕たち」。

李素裳は、自分のことを言っているのだと思い、少し呆然とした。

しかし、羅刹人の翡翠の瞳はその棺をじっと見つめ、李素裳の存在を忘れてしまったかのように物思いに耽っている。 そのような彼を見た素裳は、不意に、羅刹人を落胆させたくないと思った。

[em italic](仙人は本当にあの人を蘇らせることができるのかな?)[/em]

少女は思わず身震いした。

羅刹人が伝説の仙人に対して、これほど大きな希望を抱いているとは思いもしなかったからだ。彼を師匠に引き合わせ、仙人に会う方法を師匠が彼に教えれば済むと考えていたのである。難しいことは何もないはずだった。

しかし、今の李素裳は、他人の願望の中に勝手に入り込んでしまっていた。

以前は気にしていなかった言葉も、彼女の琴線に触れ続けている。[\s]

彼女はただ……いや、彼女自身にも、はっきりとはわからなかった。

「そうだね。うん、戻ってくるよ!」

自分の言葉にまったく自信はなかったが、素裳はそう言った。 「その……羅刹人、師匠に会いに行こう。そうしたら、仙人に会えて、あんたも……」

彼女は何度もつかえながら言葉を続けた。彼に元気になってもらいたいと、心の底から思っていた。

しかし、恥ずかしさが邪魔してしまい、どうしても上手く言えず、声もだんだんと小さくなっていく。

「願いは……きっと叶うよ。」

「……」

羅刹人は口角を上げ、かすかな笑みを浮かべた。

「ありがとう、素裳。」

李素裳は呆然とした。そして、自分もおかしな笑い方をしていることに気付く。

彼女は慌てて口をとがらせ、視線を逸らす。

「あれ――」 馬の蹄の音が鳴り響く。 一人の男と一頭の馬が近づいてきている。それらが向かっている方向には、期せずして素裳がいた。 (あれ?師匠の知り合いかな?) 馬に乗った人物の顔がはっきりと見えるようになった。黄色の髪で、口の周りにひげを生やした壮年の男だった。 李素裳はふと思う。十年もの間、外の世界の人に会ったことがなかったが、この男を知っているような気がする。

偶然にも、その大男も李素裳と羅刹人をチラリと見た。

それは何気ない一瞥だったが、一瞬、何かに目を止めたかと思いきや、目つきを鋭くした。

「……まったく。」

大男は目を閉じたかと思うと、すぐさま再び見開く。 彼の顔には苦悩、無力感、そして、最高の興奮を伴った喜びが浮かんでいた。 彼は手を挙げる。手の中は空っぽだったが、四方に剣の光が放たれた――! キィンッ! 馬車を引く縄が、バッと音を立てて切れる。二頭の馬は前足を上げ、嘶きながら砂丘の方へと駆け出した。 馬車は勢いよく砂の中に突っ込み、前のめりになって後ろ側が持ち上がったが、大きな音を立てて再び着地する。 素裳はとっさに身構え、太虚守剣形「浄蓮」を使い、体を回転させながら着地した。 彼女はついでに羅刹人を引っ張ろうとしたが、柔らかい気の壁に包まれた。羅刹人がとっさに目に見えない障壁を展開させたのだ。 二人はよろめきながらも、転ばずに済む。 「!!!」 この突然の出来事を前にして、李素裳は心中でとても驚いていた。

それは、突然襲いかかってきた男が、彼女のよく知っている技を使ったからだった。

その技は太虚剣気「開剣形」の「岩破」だった!

[em italic](あの人は誰?……どうして太虚剣気を使えるの?)[/em] しかし、それ以上に素裳を驚かせたことがあった。 ――この男が剣を出した時、両手には何も持っていなかった。 [em italic]無形の気を神の剣に変える。[/em]

――それは太虚五蘊の最高境界ではないか。

彼女が知る限り、世界でそれを会得しているのは師匠だけだ……

「剣神」!?
馬非馬は、この奇妙な二人組を見つめていた。 一人は金髪の羅刹人だ。

体つきは長身で細身、整った顔立ちをしているが、見てくれだけで中身は大したことはなさそうだった。呼吸は基礎もできておらず、武術も平凡そうに見える。[\s]

しかし、馬非馬はよく分かっていた。この者は見た目とは違い、一筋縄でいく相手ではない。

剣心を使って見てみると、彼の体内の真気の動きは極めて不自然だった。[\s]

普通の人間が内功を流す、奇経八脈の中が空っぽのようなのだ。

だというのに、手の三陽三陰の真気は暴走しそうなほど勢いがある。

(……)

先ほど彼が剣で馬車を停めた時にも、この羅刹人はとても不思議な反応を見せた。

手足を動かしていなかったのに、ひっくり返った馬車の影響を一切受けていなかったのである。まるで、宙を浮遊するかのように。

(……羅刹国にもあのような神通力があるのか?)

馬非馬は信じられなかった。

金髪の男は、極めて優れた内功の使い手であることを隠しているのだろうか。それとも、怪しい武術の使い手なのだろうか。どちらかではあるのだろうが、と馬非馬は考える。

それにこの者の両目は……

とても若い顔立ちをしているが、それにまったく釣り合わない、奥深い目をしている……

それは、地獄を見て、[\s]辛酸を嘗め尽くし、[\s]血の深淵を乗り越えてきた者の目だ。

馬非馬の脳内に、注意を促す囁きが聞こえてくる。[\s]この羅刹鬼は俺を殺せる人間だ。

[em italic](本当か?……この男にできるのか?)[/em]

胸の中で、重い苦しみと渇望が激しい渦を巻いていた。

馬非馬は目を閉じる。[\s]

死。[\s]

夜気の中で咲き誇る花のように、死という刺激が心に広がっていき、あっという間に全身の寒さをかき消した。

[em italic](いいだろう……お手並み拝見といこうじゃないか!)[/em]

馬非馬は自分にそう言い聞かせる。[\s]

囁きは彼の言葉を受け入れ、ひとまず衝動を抑え込んだ。

そして、待ち切れないとでもいうように主人の号令を待つ。

[em italic](こっちの女は……)[/em]

彼女こそ、馬非馬が手を出した理由だった。 それは山吹色の服を着た少女だった。あどけなさが残る目には、どこか見覚えがある。 同じように、彼女が持っている剣にも見覚えがあった。剣の柄を一目見ただけだが、馬非馬は絶対に見間違いを起こさぬ自信があった。 軒轅剣――精衛真人が七人の弟子に授けた宝剣で、太虚「剣意」の拠り所となるものだ。 それだけではない。馬車が大きく揺れた時、少女は守剣・浄蓮で態勢を整えようとした。ほんの一瞬だったが、馬非馬には彼女が誰に師事しているのか、はっきりと分かった。

[em italic](……正真正銘の太虚剣気!

太虚真訣でも、素衣の憶心剣でもない……)[/em]

馬非馬はすぐに悟り、この少女は凌霜の弟子に違いないと考えた。 [em italic](ハハッ。なるほど!そうこなければ。本物の太虚剣気をどう受け継いだのやら。)[/em] 蘇湄が必死で止めようとするようなことでも、凌霜だけはまったく気にしていなかった。

馬非馬は急に嬉しくなる。

この中途半端な太虚守剣形から、二十年前に姿を消した上品な女性の姿がぼんやりと見えるようだった。

[em italic]ふ、過ぎ去った歳月か……[/em]

その歳月は彼にとって懐かしくもあり、心が痛むものでもあった。

ちょうどその時、羅刹人が口を開いた。

とても小さな声だったが、馬非馬のかすかな感慨を台無しにするには十分だった。

「素裳、気を付けるんだ。」 羅刹人が少女に言う。

[em italic](この男は、神州の言葉を流暢に話すな。まるで中原の人間のようだ……

霜姉さんはどうやってこんな奴と知り合いになったんだ……?)[/em]

「あの男は君の剣を手に入れようとしている。」 「え?アタシの軒轅を?」 …… 二人の男の目が合う。 だが、一人は視線を下に向け、一人は逸らした。

[em italic](ほう……見破られたか?

この羅刹鬼は、なかなかやるようだ。)[/em]

傷だらけの男は思わず満面の笑みを浮かべた。[\s]

彼の顔にある剣の傷痕が、まるで炎が燃え上がるかのように赤くなる。

好奇心が再び勢いを増し、抑えきれない衝動に変わった。

また耳元で囁きが聞こえる。「この男こそ、俺を殺せる人間だ。」

[em italic](決めた!よし、かかってくるがいい!死など恐ろしくはない――

この男にできるのか?)[/em]

[em italic](やってみれば分かるはずだ!)[/em] ――それは、彼が最も好む決断だった。

果てしなく広がる黄砂が、太陽に照らされている。

目に見えない気の波とともに、汗が噴き出るほどの熱気が押し寄せてくる。

しかし、目の前の男が放つ冷たい殺意に、李素裳は寒気がした。

男は頬ひげを生やしており、年齢は推測できない。彼の頬には痛々しい傷痕が残されている。真っ赤な稲妻のように下顎へと伸び、突然途切れている。……それはまだ、落ち続けようとしているようだった。 よくよく見れば、この男の体には数えきれないほどの傷痕があった。 それらの古傷がなければ、彼はきっと美男子だったに違いない。血のように赤い傷も、彼を凶悪な顔に変えてしまうどころか、格段に勇ましく見せていた。 「素裳、気を付けるんだ。」 羅刹人はゆっくりと馬車から降りると、棺をそっと砂漠の上に置いた。 「あの男は君の剣を手に入れようとしている。」 「え?アタシの軒轅を?」 李素裳は驚いたが、すぐにハッとした。色々と合点がいったのだ。 彼女が見知らぬ男に目をやると、彼は羅刹人を見つめていた。その目は光り輝いているようだった。 突然、男が笑い出す。

上がる口角と共に赤い古傷が動く様子は、やや不自然だった。しかし、彼は楽しそうに屈託のない笑顔を見せている。

男は笑い終えると、表情をやや和らげた。

「娘!お前は霜姉さんの弟子なのか?」 「……教えないよ!」 李素裳は怒りのあまり、目を大きく見開く。 「何がしたいの!お喋りしたいなら挨拶すればよかったじゃない!」 「フッ、どうやら間違いないようだ。」 男は怒るどころか笑みを浮かべると、片手を前に伸ばし、羅刹人に向けた。 「悪いが、色々と話したいことがある。話し終わったら始めよう――ああ、そこの羅刹鬼を、倒すんだ。」 「えっ……ええっ……何するつもり!?」 素裳は慌てて羅刹人の前に立ちはだかった。 「彼はあんたと戦ったりしないよ。彼は……あんた、一体何が狙いなの?どうしていきなり襲いかかってきたの!?」

「お前の馬車を壊してしまってすまない。

詫びとして、夜血で連れて行ってやろう。」

男はそう言いながら関節をバキバキと鳴らした。 「羅刹鬼の言う通りだ。ああ、俺はお前の軒轅剣が気になっている。だが、無理やり奪ったりはしない……少なくとも、今はな。娘、その剣はお前のものか?」 「アタシのに決まってるじゃない!」 「フッ、なら、やはり霜姉さんの弟子だったか。どうりで見覚えがある訳だ。いいだろう、弟子の序列に従うなら、俺のことは師叔とでも呼べばいい。」 「話は、その男を倒してからにしてくれ。ちょうど俺も、お前の師匠に会いに行くところだったからな。」 「この人はあんたと戦ったりしないよ。」 「いや、戦うだろう。戦うしかない。」 男は興味深そうに羅刹人を見つめた。 「何故なら、俺がそう決めたからだ。」 「あんた――」

――突如、異変が起こった。

激しい殺意が急に空を覆ったかと思うと、すぐさま跡形もなく消えてしまったのだ。[\s]

まるで、目の前の人物の形跡が世界から消えてしまったかのようだった。

李素裳は羅刹人に目を向ける。彼は相変わらず落ち着いているように見えた。 そうだ。羅刹人は分かっていないようだったが、李素裳だけは理解していた。これは、敵が剣心の境界に入ったことを意味している。

無意味な感情や価値のない思考を捨て、

欲望、怒り、邪念、憎しみを捨て、明鏡止水のような空虚さを保つ。

それこそが太虚剣心であり、精衛真人が生み出した神業なのだ!

眼前の謎の男は、精衛の直弟子に間違いない。太虚七剣で唯一の男の弟子、

「百里逐駒」こと馬非馬……

素裳は幼い頃、憶剣山荘で何度か彼に会ったことがある。この太虚剣派の副当主は世界を股に掛ける気概を持っており、素裳に深い印象を残した。 [em italic]……六大派の当主級の相手を前にして、己は勝てるのだろうか?[/em] 「羅刹人、あんたは……下がってて。アタシが相手をするから。」 いつの間にか、少女は相手の気迫に圧倒されていた。その声はか細く、ほとんど聞こえぬほどだった。 「ああ。」 羅刹人は頷く。彼は、最初から戦うつもりなどなかったようだ。

数歩ほど後ろに下がった羅刹人は、顔を上げて馬非馬を見つめた。

彼は何も言わず、その目は虚ろだった。

「……軟弱者。」 馬非馬はそう吐き捨てると、素裳の方を向いて言った。 「そいつを殺さないのか?」 「霜姉さんから教えられているだろう。太虚一門の人間は、魔に堕ちた者を殺さねばならない。」 「彼の気は暴走してないよ。」 「ハッ。そんなのものは時間の問題だ。そいつの腕からして、気の暴走よりもはるかに厄介なことになる。全く、何故その男の肩を持つ?その羅刹鬼は実力を隠している……お前には、想像もつかないほどの実力を。」 「……まあいい、俺にはお前を指導する資格などないからな。」 「……」 李素裳は大男をじっと見つめ、一歩も退こうとはしなかった。 「お前がそいつを殺していれば、こんな面倒なことにはならなかったんだが。」 馬非馬は肩を竦めながら言った。

「いいだろう。そこまでその男を庇うなら……お前が代わりに戦うんだな。

まだ準備ができてないだろ?時間をやろう、最高の状態に整えるといい。

忘れるな。必ず俺を殺す覚悟で戦え。分かるか?俺は手加減などしない。」

「……どうして戦わないといけないの!?」 「……」 馬非馬は彼女を見つめたまま、微かな笑みを浮かべた。 そうだ。話すべきことはすべて話した。これ以上言うべきことなど、何もないだろう?何故なら、馬非馬が「決めた」からだ。彼が「決めた」ことは、必ず成し遂げなければならない。 少女は唇を軽く噛みしめ、無理やり怒りを抑え込み、言われた通りにした。

目の前の敵は、決して力を抜ける相手ではない……

全力を出したとしても、必ず勝てるという保証はない。

何しろ――彼は太虚剣派の六番弟子、師匠と同等の腕を持つ最高の使い手なのだから!

[em color=#FAFAD2](もう。人生初の決闘から数日も経っていないのに、また戦わないといけないなんて。)[/em]

しかも相手は武術界最強の七人の中の一人……

[em color=#FAFAD2](まさに本に書いてあった通りだね、武術界ってとこは、海のように深い。)[/em]

李素裳は心の中で意味のない嘆きを呟くと、それを原動力にし、溢れんばかりの闘志に変えていった。

心は穏やかで波風一つなく、透明で、澄んでいた。

これは馬非馬の「止水」よりも高い境界だった。

剣心・明鏡。

彼女は手を伸ばし、太虚剣気の最初の技「啓剣・裂空」の構えをとった。 「ほう。」 馬非馬が小さな笑い声をあげた。喜んでいるのか、それともうんざりしているのかは分からなかった。 「来い!」 言い終わるよりも早く、彼の姿は跡形もなく消えていた。 いや、消えたわけではない。目で捉えきれないほど速かったのだ。 吹いた突風、微かな空気の震え、そして間近に迫る殺気だけが彼の存在を知らせていた。 次の瞬間、馬非馬は李素裳と羅刹人の前に立っていた。彼は片手で掌打を繰り出す。一見何気ない動きに見えたが、それは太虚開剣形の―― 開剣・震風だった!

三日前の素裳であれば、この技に対して為す術もなかっただろう。

しかし、今の素裳は以前とは別人のようだった。

心は鏡のように澄んでおり、外界のものを映し出している。

馬非馬の動きは彼女の澄み切った心の湖に落ちると、煌めき輝く波のように緩慢な動きになった。

虚空に入った瞬間、彼女は男の技を見切るだけでなく、すぐさま最も適した返し技を繰り出した。

素裳は躊躇うことなく右手を動かす。

布に包まれていた軒轅が空を舞った。

剣身が回転し、刃が寸分の狂いもなく男の手の平に向けられる。

[em italic]――技を止めて![/em]

李素裳はそう祈った。

さもなければ、あらゆる硬いものをも切り裂く神器が馬非馬の手の平を真っ二つにしてしまうだろう。

しかし、男の掌打は躊躇うことなく、真っ直ぐと軒轅に向かってくる。

鉄をも切り裂く神剣ではなく、脆い竹竿を相手にしているかのように。

「覚えておくといい。開剣と化剣は相通ずる。

技を出すのは剣ではなく自分だ。形にこだわるな!」

男の小指が微かに動き、軒轅を受け止めた。 中指を剣身に触れさせ、手首をくるりと返し、宝剣を後ろへと受け流してみせる。 [em italic color=#FAFAD2](化剣形「月鷺」……そんなバカな?)[/em] どうやったら、こんなに素早く、正確に…… どうやったら…………こんなことが!? 「状況に合わせて変えるんだ。分かるか?どうしてまだ啓剣を使っている?遅過ぎる!」 次の瞬間、彼の手が再び掌打に変わり、素裳に襲いかかってきた! 素裳は腕を上げて防ごうとしたが間に合わなかった。 「うっ――」 柔軟さと力強さを併せ持つ掌打が素裳に命中した。彼女は口を開く。気の流れが圧縮されて爆発し、後ろへと弾き飛ばされた。 この掌打も開剣――「震風」だった! 彼女の幼い体は勢いよく砂の上に落ちた。柔らかい地面が力の大部分を吸収したが、それでも素裳は痛みに耐えかねて声を上げた。 口や鼻から血を流す。眩暈もする――技を受けた場所に痛みはなかったが、少女は戦闘能力を失っていた。

強い箇所を避けて虚を突く。防御力が最も高く、硬いものを逆手にとって弱点へと変える。

――太虚開剣形の「震風」は、まさに真気を巡らし、強烈な振動を引き起こす不可思議な技だった。

無防備な状態で掌打を受けた素裳は、表面はそこまでではなかったものの、内臓に重い傷を負っていた。

最も衝撃を受けたのは頭部だった。今も、激しい衝撃の余波が残っている。

「うっ、うう……」 素裳は起き上がろうとしたが、空と地面がグルグルと回っているような状態であった。 空と地、青と黄が混ざり、螺旋を描く。 螺旋―― ドン。 少女は地面に膝をついた。目尻から滲む血で視界がぼやける。 彼女は何とか前を向こうとしていた。

捻じ曲がった世界の中で、彼女の目が捉えられたもの。

それは、羅刹人の翡翠のような目だけであった。

一撃。[\s]

馬非馬はたった一撃で勝利した。それでも、顔に喜びの色はなかった。

掌からは命中した手応えが伝わってくる。

馬非馬は思わず羅刹人の方を見たが、無反応で失望する。

無反応……そうだ。

羅刹人は素裳を注視していた。まるで、石や砂粒を見つめるかのような目で。

[em italic]少女が目の前で攻撃され、あちこちから血を流して倒れているのに、何故何の反応も示さぬのだろうか?[/em] [em italic]たとえ見知らぬ相手だったとしても……これほど重傷を負っている者を目の当たりにして、まったく動揺しないでいられるだろうか?[/em] [em italic](――つまらん男だ。)[/em]

落胆の感情が俄雨のように押し寄せてくる。

冷雨のような感情が頭から足先まで降り注ぎ、馬非馬をその冷たさで包み込んだ。

馬非馬はこの金髪の男が気に入らなかった。それは、本質的な拒絶と嫌悪感だった。

例えるなら、この羅刹人は世界の外で孤立し、浮いている氷のようなものだ。

何も必要としておらず、何も気にしていない。たとえ世界が滅んだとしても、いつまでも漂い続ける。

一方の馬非馬は――炎のような存在だ。

世界は煙で、馬非馬は燃え盛る炎だった。

彼が燃えているからこそ、この世界は存在している。

強烈な感情、爆発的な衝動、破壊的な戦いこそが彼を存在させている。

そして、その虚ろでぼんやりとした存在の中から、己のかすかな断片を見つけるのだ。

それらの断片こそが、人生の意義。

…… 馬非馬は少女の剣を拾い上げ、しげしげと見つめる。

それは間違いなく、本物の古剣・軒轅だった。

精衛真人が七人の弟子に授けた宝物だ。

[em italic](どこで手に入れた?

……霜姉さんの剣は折れたはず。この剣は?)[/em]

[em italic](湄姉さんは知っていたのか?どうりで俺に用心するよう言ったわけだ……)[/em] [em italic](どうしたものか?)[/em] 馬非馬は軒轅を握ったまま、膝をついた少女の方へ歩み寄った。その歩みはゆっくりとしていたが、力強い。 戦う気のない手練れよりも、自分に敗れた少女の方がずっと面白かった。 彼女もまた、炎だった。生まれたばかりの火種で、どのように燃えればいいのか迷っている。 [em italic](惜しいな――)[/em]

馬非馬は自分の力をよく分かっていた。彼は内勁をほぼ抑えていた。重傷を負うことはあっても、命に別状はないだろう。

それでも無視できるほどの傷ではないはずだが。

[em italic](惜しい――この娘の実力なら、経験さえ積んでいれば、開剣・震風を受け止められたはずだ……

相手が俺じゃなければ、こんなにあっさり負けることもなかっただろう。)[/em]

十六歳で剣心を「明鏡」の境界にまで鍛え上げた……

七剣の中でもこの才能を上回るのは、十三歳で「太虚」を会得した凌霜くらいだろう。

[em italic](どうりで霜姉さんが弟子にするわけだ。時が来れば、この娘も「剣神」の一人になるかもしれない。)[/em] それに……彼女は幸運に恵まれている。女として生まれた彼女には、太虚剣気を修練する最高の条件が備わっているのだ。
「しかし、世界とはかくも残酷なものだ。娘。」 馬非馬は彼女から体一つ分離れた位置に立った。彼女が震えながら、両手で膝を支え、立ち上がる姿を何の驚きもなく見る。

「威勢がいいのはいいことだが、俺には勝てない。

無理するな。お前には素晴らしい未来がある。」

「アタシは……負け……ない……」

少女の鼻先から血が滴り落ちた。

李素裳が顔を上げる。その目は焦点が定まっていなかった。

「アタシは……ゲホッ……ゲホ……あんたなんかに……」 「……」

馬非馬は、このような表情を何度目にしてきたことだろう?

二十年もの間、大勢の人が彼の命を狙いに来た。

多数の英雄、豪傑、優れた若者が彼に挑んだ。

そのほとんどがこうだった。

僅かな勝ち目すらなくても、最後まで諦めず、生死を分ける一瞬の可能性に賭けていた。

[em italic](悪あがきか?……そうだろうな。)[/em]

しかし、馬非馬はそれが嫌いなわけではなかった。

それどころか、彼を夢中にさせていた。

何故なら……この霧に包まれたかのような世界で、馬非馬は孤独であったからだ。

たった一度だけの縁でも、今後二度と会うことがなくても――[\s]

挑戦者が自らの命を燃やし、存在を証明しようとする姿を見ていると、己が世界に認められたように思えるのだ。

馬非馬は、そうした人の形をした霧が自分を包み込んでくれるような気がしていた。生きているという実感を与えてくれるのだ。

だから彼は、いつも戦いの相手に機会を与えていた。

だから、[\s]

彼は、いつも自分が殺されることを望んでいた――

少女の前で、軒轅が音も立てず落ちた。 「拾え。」 馬非馬は言った。 「剣がなければ――お前は俺とは戦えない。」 「俺は手加減しない。今度は全力で俺を殺しにかかれ。分かったか?拾え!」 素裳はゆっくりと下を向く。一滴の血が古剣に落ち、鳳凰の鳴き声のような小さな音を立てた。 「あんた……どうして……剣神を……」 素裳は口の中の血を吐き出した。そこでようやく、言葉をはっきりと話せるようになった。 「……?」 「ハッ――ハハッ!」

「あれが剣神だと思っているのか?ハハッ。それは買いかぶりすぎだ。

娘、剣神がどれほどの境界か分かっているのか?武術界の大半が一生をかけても触れることすらできないんだぞ。」

「精衛師匠や霜姉さんのような天才でなければ、神蘊など会得できない――娘、俺の技は剣神ではない、剣意だ。」 「見るといい。」 彼が手を伸ばすと、炎のように赤い大剣が突然姿を現した。 「これが俺の軒轅剣、『赤絶影』だ。」 「軒轅剣は俺たち七人の弟子が一本ずつ持っている。この剣は太虚剣気に同調し、剣意の変化に応じて巧みな技を繰り出せるんだ。」 「『赤絶影』は光を操れる。これの可視、不可視は俺の気持ち一つで変えられる。普段は滅多に見せないようにしているが、ここぞという時に剣意を錬成するんだ。」 「えっ……」

素裳は軒轅剣を拾うと、じっとそれを見つめた。[\s]

馬非馬の言う通りなら、自分の軒轅剣はどうして変化しないのだろうか?

まさか、あのぼんやりとした気は剣意の真の姿ではないのだろうか? 「ア、アタシの……」 「ああ……お前の軒轅剣は元の姿のまま、つまり、剣意が習得できていないということだ。お前が意蘊を習得すれば、その剣も形を変えるだろう。」 「そうだったの……そうか……まだできていなかったんだ。」

少し残念だった……しかし、それも事実なのだろう。

一口、苦い血を飲み込んだ。喪失感、羞恥心、悔しさ、悲しみも共に呑み込む。

大丈夫。素裳、二度目の試練の機会でしょ?

李素裳は背筋を伸ばし、剣を手に持った。

「あんたも……剣を……

それでこそ…………公平でしょ!……」

彼女の体はまだ震えていた。止まらなかった。特に、両足が震えていた。[\s]

しかし、彼女の瞳……彼女の視線は力強かった。それは――

燃えている者たちに共通している目だった。 「自在門……李素裳、改めて、師叔……お相手願います。」 「これは……試練なの!」 「――」 馬非馬は鼻にある赤い傷痕を撫でた。微かな温もりを指先に感じる。 [em italic]ああ。こういう孤独、こういう炎の光。[/em] 彼はまだ生きている。 「よく聞け。」 馬非馬は言った。 「俺が使う技は一つだけだ。開剣・山崩。」

「生きていくの。」

その声は、李素裳の心の湖で反響した。

湖面に波はなく、まさに止水であった。

「ちゃんと生きていくの。」

心の湖に声が響き渡る。

澄んだ風、そして、塵や埃も止まる。

「約束して……」

声が……響いている。

心は鏡のように大地を映し出す。

何故剣意が成っていなかったのか?もう疑うことはない。[\s]

何故剣意が成っていなかったのか?もう悔やむことはない。[\s]

何故剣意が成っていなかったのか?もう執着することはない。

悩みはすべて捨て去り、剣に集中する。[\s]

剣という人を殺める武器を使い、[\s]

剣術という人を殺める術を使う。

敵を殺し、生き延びる。

素裳の頭にあったのは、それだけだった。

何と皮肉なことだろう。目的はかくも単純だったのだ。[\s]

しかし彼女は回り道をしてしまった。遠い回り道を。

剣の柄を握りしめると、安心した。

今、彼女が頼れるのはこの古剣軒轅だけだった。

目尻の血や口元の汚れを拭う。

そして少女は剣を手にした。

いかなる剣の構えもとらなかった。しかし、

啓、化、守、開。

残月、[\s]断海、[\s]裂空。

飛鶻、玄隼、[\s]雨燕、藤雀、[\s]雲鷹、月鷺。[\s]

垂柳、幽蘭、勁竹、[\s]墨菊、浄蓮、青松。[\s]

岩破、乱雷、霹靂、山崩、瞬塵、震風。

まるで、太虚四形二十一式が手の中で自由に声をあげ、呼べばいつでも出てくるかのようだった。

「よく聞け。」 敵はすぐ近くにいたが、声は遥か遠くの場所から聞こえてくるように感じる。 「俺が使う技は一つだけだ。開剣・山崩。」 「……」 李素裳は何も言わなかった。 「技は一つだけ、開剣・山崩だ。手加減はしない。どう応じるか、見せてもらおう。」

応じる?

馬非馬の言葉が素裳の頭の中を横切ったが、彼女はもう気にしていなかった。

すべては一撃で終わるのだから。

「赤絶影」――[\s]

剣の長さは五尺九寸。古剣・軒轅は、剣意を感じ取り変化する。

――それが馬非馬の持つ、世界で二本とない神剣だ。

伝記更新:「馬非馬」

「山崩」――[\s]

太虚開剣形第四式。左手の五指から人差し指と中指を突き出し、守剣「幽蘭」の構えをとる。

右手に持った刃を肩に担ぎ、剣で寸勁を放つ。その威力は山をも砕くほどだ。

しかし、この技には弱点があった。[\s]

馬非馬のような達人でも、剣の構えを整えてから技を出すまでの間に、力を溜めるためのほんの僅かな時間が生まれるのだ。

並みの達人では、その瞬間の隙を見抜くことはできないだろう。

しかし、同じように太虚剣心を修練する者である李素裳が、その隙を見抜けるかどうかは分からなかった。[\s]

……しかし、馬非馬は技の使用を避けることも、隠すこともしなかった。

……化剣にすることもしなかった。[\s]

守剣にもしなかった。

開剣・山崩だけと告げた以上、放つ技は開剣・山崩だけなのだ!

生死や勝敗など気にしていない。馬非馬はただ、この瞬間だけを生きていた。

その心の中に残されているのは「山崩」だけだ。

すべては一撃で終わる。

技が放たれた![\s]

巨剣「赤絶影」は山をも崩すような勢いで砂の竜巻を起こす。

技が放たれた![\s]

素裳の軒轅が真っ直ぐ伸びた。それは「瞬塵」だった!

守剣でも化剣でもなく開剣だ!

開剣対開剣――[\s]

気が剣から放たれ、躊躇いもなく相手に向かっていく!

命を懸けて捨て身の攻撃を繰り出したのだ。素裳は、相討ちになる覚悟を決めていたようだ――[\s]

しかし、実際、そうはならなかった。

開剣に開剣をぶつけるという考えは、「震風」で負傷した時に思いついたものだった。 黄と青の不可思議な螺旋の中で、李素裳は羅刹人と一瞬だけ目が合った。 「……」

緑の両目は虚ろだったが、自分の方をしっかりと見つめていた。

その刹那……李素裳は、完全に彼のことを信じていた。

[em italic]きっと羅刹人が手を貸してくれる![/em]

そして羅刹人が手を貸してくれれば――

絶対に負けない!

そんな考えに基づいて作り上げたあらすじだったが、勝敗を決する時が来た。

全力を剣に投じている二人の後ろで、羅刹人が左手を上げる。

黄金の十字架がどこからともなく彼の手の中に現れ、燃え上がるように消失した――[\s]

それは天命派の三大至宝の一つ、「誓約の十字架」だった!!!

古代の神の遺産である法器が再び姿を現した!

目に見えぬ鎖が馬非馬に向かって飛んでいき、彼を縛る!

目標……固定!

真気……禁戒!

ちょうど三日ほど前の夜にあった、李素裳と「鷹」の死闘の光景が再現される。[\s]

突然、馬非馬は動悸がした。真気が消え去ってしまったのだ。

[em italic](なに――?[/em][\s]

[em italic]何が起こった――?)[/em]

一瞬の間に馬非馬は考えを巡らせ、原因を突き止めた。 [em italic](羅刹鬼!!!)[/em] 抑えつけられていた期待と喜びが急に爆発した。 [em italic](ついに手を出したのか!!!!)[/em] 「いいだろう!!」 馬非馬は大きな声で叫んだ。 「そうこなくては。かかってこい!」

彼は手を緩めて剣を放した![\s]

――しかし、山崩の勢いは最高潮に達し、もはや止められない。

真気を封じられても関係ないのだ![\s]

大剣「赤絶影」が勢いよく前に飛び出していく!

同時に馬非馬は左手を前に出した。それも、開剣・山崩である――

内功を失ったとしても、彼は太虚剣派の六番弟子、百戦錬磨の馬彦卿だ!

発達した筋肉による重い一撃を軒轅の剣身に叩き込み、上空へと押し上げる。

シャッ――[\s]

そして[\s]

ドーン――

軒轅は馬非馬の頭頂部をかすめ、彼の髪の毛を何本か切った。[\s]

赤絶影は素裳の真横を飛んだ。彼女の幼い体は大きな力に吸い込まれて後ろに引きずられ、地面に倒れる。

彼女の左肩は赤絶影に近かった。そのため砂の流れに巻き込まれ、骨が見えるほどの深手を負った。[\s]新しい痛みと、古い痛みが一気に少女に襲いかかり、彼女は気を失ってしまう。

馬非馬は、勝った。彼が使った技は確かに「山崩」だけだった。

しかし、馬非馬は敗れもした。彼が「山崩」を使ったのは一度だけではなかったからだ。

李素裳の「瞬塵」は最も速く、最も精度の高い開剣の技だった。

「瞬塵」を使っていなければ、素裳は赤絶影の山崩を前にして、馬非馬の脅威となることはあり得なかっただろう。

しかし、「瞬塵」は「震風」ではない。だからこそ、馬非馬は純粋な筋力で切っ先を逸らすことができたのだ。

それは運によるものだろうか?いや、そうではない。[\s]

技を見て分析する能力が卓越していたのだ。[\s]

つまるところ、実力に大きな開きがあったのである。

今回もまた、生死を懸けた決闘となった。[\s]

馬非馬はゆっくりと振り返った。[\s]

相手は、全力を出すだけの価値がある。

羅刹人は近くで立ったまま動かなかった。彼の顔からは笑みが消えている。先ほどまでの穏やかさはなくなっていた。 「手を出したな。」 「お前――手を出したな!?」

[em italic]あぁ、よかった!この男は血も涙もない人形ではなかった。

冷たい氷のようにに見えるが、燃え盛る炎があった![/em]

この時、馬非馬の喜びは頂点に達した。 ガッ!

内勁のまったく込められていない拳が羅刹人の頬を打った。

羅刹人はその意図を察してはいても、避けたり防いだりしようとはしなかった。

羅刹人の体が砂漠に倒れる。

彼は、よろよろと立ち上がった。

「……あれはどういう技だ?俺の真気を封じ込めるとは。」 大男が金髪の男に向かって歩いていく。 「西南の辺境に『玄天化気』という不思議な技があるらしいが、お前の技は明らかに違う。俺からあんなに離れていたのに、どうやって封じた?……まさか、毒か?いや、いつ俺に毒を盛ったんだ?」 「ああ、まあ、そんなことはどうでもいい。

大事なのは、お前が行動で宣戦布告したことだ。」

馬非馬は羅刹人の前で立ち止まると、隠そうとするそぶりもなく値踏みした。 砂で擦り切れた傷には血が滲んでおり、彼の整った顔はとても汚れているように見える。しかし、彼はゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばすと、不思議な緑色の目で馬非馬を見つめた。 「……あの剣を取りに行かないのかい?」 羅刹人が尋ねた。 「ああ?気にするな。必要になってから取りに行っても間に合うだろう。」 「それに、お前が真気を封じることができるなら、『赤絶影』に頼りすぎると却って不利になる。」 「……」 馬非馬は羅刹人の視線を追うように後ろを振り返り、思わず笑ってしまった。 「お前が何を心配しているかは分かる。安心しろ。あの娘は問題ない。」 「今はあの娘を心配したり、逃げる方法を考えたりする必要はない――お前の本当の実力を全部出して俺を殺せば、万事解決だ。なあ、お前には難しくないだろう?」 羅刹人は黙っている。何かを考えているようだ。 「じゃあ、君は僕の剣を受けるつもりなのかい?」 「はぁ?」 馬非馬は一瞬驚き、続けて大声で笑いだした。 「ハハッ。お前の剣を受ける?大きな口をきくものだ!面白い!いいだろう。お前の腕前を見せてもらおう。どの剣を使うつもりだ?あの娘の軒轅か?俺の赤絶影を貸してやってもいいが。」 羅刹人は視線を下に向け、ため息をついた。 「必要ない。」

馬非馬の笑顔が固まった。

目をゆっくりと見開き、思わず口まで開いた。 それはまさに、驚きが度を越していることの表れだった。

[em italic]何故?[/em]

このような驚きは、もう何年も味わっていなかった。

[em italic]どうしてこんなことが?[/em]

長らく封印されていた感情が蘇ってきた。

羨望、

嫉妬、

自己欺瞞、

狂喜、

悔恨……

……そして、懐かしさ。

[em italic]どうして……こんなことが?[/em]

目の前の羅刹人の手の中で炎が集まり、剣となっている。その剣と共に、あらゆる感情が胸に押し寄せ、止水無塵の剣心を打ち砕いた。

馬非馬は自分の目が信じられなかった。

目の前にあるのは、「赤絶影」のような目くらましではない。

火炎の剣だ。

ほんの数秒前まで、羅刹人の手には間違いなく何もなかったというのに!

だとすれば……この真気が集まり、できた火炎の剣はどこから来たのだろうか?

「剣神……」

馬非馬は呟く。

このような武術は、馬非馬の知る限り一つだけだった。

太虚剣気第五蘊「神蘊」。

神が剣に変わり、自ずと剣気が生まれる。

精衛真人と凌霜しか会得できなかった最高の技だ。

今この時、金髪の羅刹人の手中に現れた。

完全な衝撃が、馬非馬の剣心を粉々にする。

沸き起こっていた闘志は、剣心の欠片を別の剣心へと変えた。

止水でも無塵でもない。

それは

喜悦

興奮

快楽

満足

期待

渇望

幸福……

「覚悟はできたかい?」

羅刹人が尋ねた。

金髪の男が真紅の長剣を手にしている。その剣身は炎が燃え盛っている。

剣を持つ手は火に包まれ、黒く焦げていた。

「覚悟はできたかい?」

――この男は、閻魔の使いのようだ。

馬非馬は頷いた。もう自分が何を言ったかも覚えていなかった。

どれくらいの時間が経ったのだろう?師匠の精衛が彼の顔に剣による傷を残してから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか?[\s]

これほど恐ろしい脅威に出会ったことはなかったし、閻魔をこれほど近い距離に感じたこともなかった![\s]

こんな、燃え尽きる寸前の窮地に立ったこともなかった!

さあ、来い!

来るがいい、羅刹鬼!

全力でお前の剣を受けてやろう!

周囲の真気が馬非馬の全身の経穴に入り込む。

体は耐えられるだろうか、肉体にどれほどの損傷があるのだろうか。そんなことはどうでもよかった。

ただ、目の前の剣を受け止めるだけだった!

羅刹人が剣を振るった。剣光が空気を横切り、ジャッという音を立てた。[\s]

守剣形、化剣形……太虚剣気の最強の防御技が一つずつ馬非馬の脳裏を横切っていく。

そして、当然のことながら、

馬非馬はこの最強の剣の絶対的な破壊力を前にして、

どのような防御も無意味であることに気が付いていた。

剣とはこれほどまでに恐ろしいものだったのか。

まるで赤い死神のようだ。

命とはこれほどまでに純粋なものだったのか。

ただの松明のようだ。

今日が自分の命日だったのか。遅すぎることも早すぎることもない。

それにしても、剣神に敗れるのなら、死んだとしても何の悔いが残るだろう?

――――

彦ちゃん

――――

蘇湄の笑顔が馬彦卿の目の前に浮かんだ。

そして炎が浮かぶ。燃え盛る焔だった。[\s]

それは、燃えて、燃えて、燃えて。

――――――――そして

――――――

――――

―――

消えた。

炎は消えた。

一度は空まで昇った炎の光は、一度は金をも焦がした熱は、突然跡形もなく消えてしまった。

(あれ、どうしたんだろう――)

それが痛みに変わった。痛みは胸と腹、肩甲骨、頭頂部からまとめて押し寄せてくる。まるで、洪水によって堤防が決壊したかのようだった。

(ここはどこ――)

彼女に答えたのは激しい痛みだった。それらは頭の中で音を打ち鳴らし、その音と心臓の鼓動が混ざり、うるさくて眠れぬほどだった。

(うるさい!うるさいよ。起きるから――) 李素裳はゆっくりと目を開いた。 それは見慣れた天井、見慣れた小屋だった。そばで自分を見つめている人も、とても見覚えのある顔だった。

……安心でき、いつもと同じだと思えるほど見慣れていた。

「師……匠?」 「ええ。」 凌霜はまったく無駄のない返事をした。 「エヘヘ。アタシ―― イタッ!」 少女は体を起こそうとしたが、すぐに痛みで声をあげた。 馬非馬との戦いの傷は軽くなかった。今この時、少し動いただけで、全身に耐えがたい痛みが走る。

あれ?

馬非馬?

「あっ!」 素裳は夢から覚めたかのように、痛みに構うことなく慌てて言った。 「師匠、大変です!師叔が来たんです。師叔は――」 「何を慌てているの?彦卿が怖いの?」 凌霜は冷たく言った。 「誰があなたたちを送り届けてくれたと思っているの?大丈夫。あなたの手当をしたら、あの男を追い出すから。」 「えっ……」 少女の頭を激しい痛みが襲い、じっくりと考えることができなかった。 「あぁ――羅刹人は!?師匠、金髪の――」 「あなたの横にいるけれど。」 そう言われた素裳が横を見ると、羅刹人が自分の隣で寝ていた。 少し意外だったが、知り合って以来、彼が目を閉じているところを見るのは初めてだった。

……素裳の心の中に、同情のような悲しみが湧き上がってくる。

熟睡している金髪の男には、神のように澄みきった優雅さがあった。

しかし、今の彼は、起きている時よりも生身の人間に近いように思えた。

ごまかすことも、隠れることもなく、過去の悩みも未来への執着もない。

羅刹人はただ眠っているだけであった。普通の人とまったく変わらず、眠っている。

もしかしたら……これが彼の本来の姿なのだろうか?

……あれ? 彼はどこにいるのだろう? 「あああああ――――――」 少女は本能的に掛布団を引っ張り、足で羅刹人を蹴飛ばした。 金髪の異邦人は寝台から転がり落ち、床に倒れたが、それでも目を覚まさなかった。 「どどどどどどどうして、こここの人がアアアア……アタタタシの横に……」 素裳の顔が真っ赤になる。目には涙を浮かべており、今にも零れ落ちそうだった。一方、凌霜はまったく動じていない。 「寝台は一つしかないでしょう。あなたの横に寝かせなかったらどこに寝かせればいいの?床の上?」 「師、師匠のところにも寝台はあるじゃないですか!」 「――この人を寝かせたら私はどこで寝るの?」 「そ、それでもダメです!アタシはまだ、まだ……」 素裳は言葉が出なくなり、嗚咽を漏らした。 「師匠――男女が直接接触するのは良くないですよ!」 「えっ……」 師匠は目を伏せ、黙って考え込んだ。 少女はため息をつき、ふと気づく。師匠にこの手の常識を理解してもらうなんて、少し無理があるのではないか。 なにしろ――

彼女は太虚剣派の五番弟子であり、この百年間で精衛真人以外で唯一、最高の境界「太虚剣神」を会得した人物なのだから。

二歳で武術を習い始め、十三歳にして太虚境界に到達した。「我をも忘れる至高の神剣」と呼ばれる絶世の剣客である。

伝記解放:「凌霜」

凌霜はこれまでの三十七年間の人生において、ひたすら剣を持ち続け、本当の意味で世間に足を踏み入れたことはなかった。

挫折も失敗も味わわず、半端な願望や絆もない。

常識、規則、論理、理性、世情……凡人を束縛するあらゆるものに対して、凌霜は気にも留めず、注意も向けなかった。

しかし…… 「そうね。私が悪かった。」 幸い、それを知っているのは彼女と親しい人だけだった…… 「あなたくらいの年頃なら、男性のことも考えて当然ね。」 ……この人の独断能力は本当にすごい。 「??……何て言いました!?」 素裳は恥ずかしさのあまり、どうしていいのか分からなくなり、思わず羅刹人の体に目を向けた。凌霜も、ジロジロと彼を値踏みするように見ている。 羅刹人は不思議な姿勢で地面に倒れているが、誰も彼を抱き起こして寝台に寝かせようとはしない。 「少し老けているけど。」 凌霜は冷たく言い放った。 「あなたもあなたの母親も男を見る目がないようね。」 「えっ?違いますよ!師匠、誤解です――」 素裳は慌てて手を振り、あたふたしながら話題を逸らそうとした。 「あの、か、かかか……彼の傷は大丈夫ですか?」 「よくないわ。あなたよりもずっと重い。」 「この傷はあの馬非……師叔のせいなんですか?」 凌霜は首を横に振った。 「この程度の力なら彦卿の気を引くことはないでしょうね。彼は力尽きて敗れたのよ。」 「彦卿と戦うために、彼は体の中の真気を文字通り一滴残らず使い果たしたの。どんな邪法を使ったのかわからないけど、死ななかっただけでも御の字ね。」 師匠は床の上に転がっている金髪の男に目を向ける。 「片手は焼け焦げていて、もう使い物にならないでしょうね。筋肉や骨は影響を受けていないけど、内傷がひどくて寿命が10年は減ったでしょうし、様々な弊害が生じるかもしれない。こんな男はよしなさい、考え直すのよ。」 「……この人は大丈夫です。」

素裳は羅刹人の黒くなった腕を見つめる。それはもう人の腕には見えなかった。

しかし、彼女は彼が回復すると信じていた。そして、肉体を治療できる、あの「黒淵白花」を信じていた。

素裳は身をもって体験したので、その不思議さを理解していたのだ。

彼に十分な真気さえあれば……

「師匠、お願いがあります。」 「ええ、言ってみなさい。」 「その……師匠の剣気を彼に分けてあげてもらえませんか。」 「太虚剣気を?彼の年齢では習得できないでしょうね。あなたが剣心訣を教えてあげて、彼自身に試させてみなさい。」 「えっ?そういうつもりじゃないんです。内功を彼に…… あれ、待って。剣心訣って教えてもいいんですか?」 「どうしていけないの?」 「お、お祖師様が外部に伝えるのを禁じているのでは?」 「……」 「…………」 太虚剣派の五番弟子は目を閉じて物思いに耽り、しばらくしてまた目を見開いた。 「教えることはできない。諦めなさい。」 「アタシも…… ああ、もういいです!アタシが言いたいのは、師匠の太虚剣気で彼の内功を回復させてほしいってことなんです。 彼にはすごい法器があって、十分な真気さえあれば、どんな傷も治せるんです。」 「あら。」 凌霜は小さく頷いた。 「それなら少し待っていて。彦卿を追い払ったら手を貸してあげるから。」 「師匠、ありがとうございます!」 素裳は満面の笑みを浮かべた。 「やっぱり師匠は最高ですね!」 「ええ。あなたたち、もう少し眠りなさい。」 素裳は驚き、慌てて手を振る。 「いえ、ねねね――寝ません!」
太陽が西の方に沈みかけていた。 馬非馬は空を見上げている。 「……」

空には雲と夕焼けしかない。雲はいつもと変わらず、夕焼けも同様だ。

しかし、馬非馬は真剣に見つめていた。

何を見つめているかは重要ではない。重要なのは、待つことである。

彼は待つのは嫌いだが、得意だった。

この数十年、彼はいつも待っていた。

ギイッ―― 背後から、ほとんど聞き取れぬほど小さな音が聞こえた。 馬非馬が振り向くと、一人の女性が扉に寄りかかるようにして立ち、微かに眉を顰めながら彼を見ていた。 「彦卿、どうしてそんなに老けたの?」 「ハッ、さすがは霜姉さんだ。俺を余所者扱いしないでくれるとは。二十年も経てば、どう頑張っても老けるものだろ。」 馬非馬は思わず笑みを浮かべる。何年も会っていなかった五番目の姉弟子が昔のままだったのだ。嬉しくないわけがない。 「……老けたのに、中身は変わっていないのね。」 凌霜は室内をチラリと見て、冷たく言い放つ。

「子供の頃は大人しかったのに、今は来るなり揉め事を起こして。

あれは私の弟子なのよ。それをいきなり倒したの?」

馬非馬は少し驚いた。凌霜が弟子を取ったことは知っていたが、子弟への情と凌霜を結び付けて考えたことがなかったのだ。

馬非馬の中では、凌霜は感情をまったく持っていないという印象であった。

「……あの娘は?」 「素衣の娘よ。」 「どうりで見覚えがあるわけだ。 何て名前だ?」 「李素裳。」 「ほう、母親の名前と似ているな。」 「……」 女性は表情を変えず、無関心な様子だった。 「……いいだろう。雑談はよそう。」 馬非馬は笑いながら言った。 彼が手を挙げると、巨大な物体が突如として姿を現す。 それは大剣だった。長さは約五尺、剣身は赤く、どこか李素裳の軒轅剣に似ていた。 凌霜は馬非馬の巨剣を冷静に見つめている。その目には輝きが映り、心の奥にたくさんの言葉を秘めているかのようだった。 しかし、それらを口に出すことはなく、こう言っただけだった。 「何?見せびらかしに来たの?」

「ハハッ。霜姉さんの前でそんな身の程知らずなことをできるはずがないだろ?

軒轅剣がなくても、俺じゃ霜姉さんには敵わない。」

馬非馬は大きな声で笑った。そして、真剣な表情を作ると、畏まり、礼をした。 「二十年ぶりなんだ。手合わせをお願いしたい。俺の成長を見てもらえないか。」 「あなた、本当に年を取ったのね。以前はそんな性格じゃなかったでしょう。」 「……ああ、人は変わるからな。」 「ふん、悪い方に変わったのね。」 凌霜は中庭に出ると、服の袖を軽く払った。 「いいでしょう。かかってきなさい。」 「霜姉さん……武器は使わないのか?」 「不要よ。」 「信じよう。」 馬非馬は手に持っている巨剣を振った。 「だが、これは軒轅剣だ。太虚剣気が剣から出ている。油断しない方がいい。」 「バカなことを。気が剣から出ているって何?私には『軒轅』もないし、どんな武器を使っても同じでしょう?」

馬非馬は首を振った。それは彼が予想していた答えとは違っていた。

手合わせは手合わせとして、彼にはもう一つの目的があった。それは少女が持つ、あの軒轅剣がどこから来たのかを知ることだった。

「素裳のあの軒轅剣は霜姉さんのものじゃないのか?」 「あれは『墨染香』よ。素衣が自分の娘にあげたの。」 凌霜は周囲を見回し、地面に落ちていた剣の鞘を拾い上げた。 「はいはい。武器を持てばいいんでしょう。あなたの言う通り。」 馬非馬は驚く。 「霜姉さん、その木の棒で俺の『赤絶影』と戦う気か?」 「フッ、何が赤絶影よ……」 凌霜が冷たく言った。

「木の棒をバカにしないで。これにも『刃不破』っていう名前があるの。

どう?十分でしょ?あなたの赤絶影と比べてどう?」

「……」 「ハハッ!」 馬非馬は思わず笑いだした。とても爽快な気分だった。

この二十年、彼と互角の勝負ができる者はほとんどおらず、赤絶影を鞘から抜く機会もほとんどなかったのだ。

彼は数え切れないほど危険な目に遭ってきたし、何度も死線を彷徨ってきた。しかし、この勝負は命を懸けた戦いではなく、彼がずっと夢見てきた武術の手合わせであった。

「よし、『刃不破』が俺の技を破れるか見せてもらおう!」
そう言い終わると、赤絶影は光り輝き、中庭全体が霧に包まれたかのように明滅した。 「あら。」 凌霜は鼻であしらうような言葉を発すると、人差し指と中指で剣の鞘を挟んだ。 「一つの技を大事に使うことね。とっておきの必殺技を出してきなさい。」 「――いくぞ!」

気合いを入れる声を上げた瞬間、急に馬非馬の姿が二つに分かれた。

これこそが太虚剣派六番弟子の剣意「赤絶影」だった!

真気を軒轅剣に注入し、さらに太虚剣意で光を屈折させる。

馬非馬は剣意の鍛錬を20年以上重ねた結果、今では光を利用して自由に鏡像を作り出せるようになっていた。

そして分身は二体から四体へ、四体から八体へと増えていった。八体の分身が百になり、千になり、数え切れぬほどになる。

夕方の荒涼とした中庭に、無数の「逐駒剣」こと馬非馬が現れた――

同じような馬非馬が同じような赤絶影を手にしている。

まるで一枚の鏡から無数の破片が中庭に降り注ぎ、どの破片も馬非馬の姿を映し出しているかのようだった。

男の手には目に見えない巨剣が握られており、期待が顔に表れている。 「手合わせだというのに、」 凌霜は不機嫌そうに言った。 「どうして謎解きになってしまったの?」 「ほう。なら聞くが、霜姉さんは俺がどこにいるのか分かるのか!」 馬非馬の声が遠くから聞こえてくる。 「まだまだ甘いのね。解くだけ無駄な謎なのに、わざわざ解く必要なんてないでしょう。」 凌霜はそう言いながら、指を返して空に向けた。剣の鞘が真っ直ぐ上を向く。 「はっ!」

気合を入れる声とともに、剣の鞘『刃不破』は前方へと飛んでいった。

鞘の先端が落雷のように落ち、空気が轟音とともに爆発し、中庭全体が揺れる――

二人の周囲に立ち込めていた水蒸気が忽然と消え、大気は割れた鏡のように裂け目からバラバラに崩れていった。 馬非馬の無数の体にもひびが入り、粉々になっていく。 無数の破片の光の中で、凌霜は微動だにしなかった。 「真実と虚構が入り混じった見事な戦術ね。さすがは師匠の高弟。」 「……恐れ入った。いやはや……本当に感服した。」 「刃不破」の鞘の先端は馬非馬の喉のすぐ手前で止まっていた。 高く掲げていた赤絶影は地面に落ち、馬非馬は俯きながら大剣を見つめている。その顔には苦笑が浮かんでいた。 「霜姉さんに敵わないことは分かっていたが、一体何をしたんだ?俺には……」 「あなたの剣意には三つの綻びがあったのよ。」 凌霜は面倒くさそうに批評する。 「一つ目は水鏡。どの分身もあなた本人と同じ動きをしていたから、あなたがどこにいるかを当てるのは難しくない。」 「二つ目は声。戦いの時に私の言葉に応じるべきではなかった。軒轅剣で光は操れても、声の出所は変えられないもの。」 「三つ目は気の流れ。肉眼で見るまでもない。あなたが少しでも動けば、気配の流れで自然と位置が分かるのよ。」 「ハハッ……湄姉さんもそう言っていたな。」 「馬鹿なことを言わないで。私ですら三つも綻びをみつけたのよ。蘇湄姉さんなら十個は見つけるでしょう。」 「……」 「はぁ、くそ、俺の実力もまだまだだな。」 「霜姉さんに負けるのはともかくとして、木の鞘なんかに……太虚剣意を破られるとは思わなかった。」 「そんなに卑下する必要はなんてないでしょう。彦卿、あなたの成長は目を見張るものがあるもの。以前は曲芸みたいなことしかできなかったけど、今では自分の分身を作れるんだもの。剣意を鍛錬している証拠ね。」 「蘇湄姉さんと私以外の人では、あなたに勝つのは難しいでしょうね。」 「でも、遠路はるばる私と手合わせするために来たのだから、喜んで受けて立ったってわけ。小手先の技で勝っても面白くないから、あなたの技を崩そうとしたの――」 「それにしても、どうして私の弟子を倒したの?犬を叩く時には飼い主の顔色を伺うものでしょう?」 「それから、」 刃不破が空中でクルクルと回った。

「これは普通の木の鞘よ。とても使いものにならないわ。

あなたを破った技は剣魂ではなく剣神なの――分かる?負けてもしょうがないでしょう?」

「……」 凌霜の言葉は容赦なかったが、馬非馬は彼女が自分を褒めているということを理解していた。

武術に関して、師匠の精衛真人を除けば、この世で凌霜と互角に渡り合える者などいない。

天下の「太虚剣気」には、心、形、意、魂、神の五蘊がある。

魂蘊を会得することは、剣の道に通暁することでもある。形に囚われず、あらゆる武器を剣のように使いこなし、あらゆる武器を剣のようにできるのだ。

剣術の研究に専念していた一番弟子の林朝雨を除き、太虚剣派の六人の弟子はいずれも剣魂を会得していた。

しかし剣神は――精衛真人以外で会得できたのは、千年以上経った今でも凌霜ただ一人なのだ。

いわゆる神は――

技を使わずに技に勝ち、剣を持たずとも剣を持っている。

剣気を意のままに操り、神によって剣を作り出す。まさに自由自在に操れるのが剣神なのだ。

「残念だ。赤絶影には他にもいくつか使い方があるんだが。本当は一つずつ出そうと思っていたんだ。」 「よしなさい。技一つ、付き合うだけでも面倒なのに。あなたが売った喧嘩からは逃げられないという話を聞いていなかったら、相手にすらしていなかったでしょうね。」 「霜姉さんがまだ俺のことを気にかけてくれているとは、意外だ。」 「こういう田舎ではあなたの情報が次々と耳に入ってくるの。誰を倒した、誰に勝った、誰を殺した…… 勘弁してちょうだい。どうして武術界があなたを中心に回っているの?姉弟子たちは皆死んでしまったの?」 馬非馬は苦笑する。二十年ぶりだったが、やはり凌霜との会話は苦手だ。 「……皆、元気にしているさ。朝雨は今じゃ俺の女房なんだ。」 「ええ、聞いた。太虚剣派――さすがは当主ね。名前を変えるのすら億劫のようだけど。まったく。あなたは結婚するなり、漠北に行って、馬一頭を何百里も追いかけたって聞いたけど。」 馬非馬は鼻先をこすりながら夜血の方を見た。彼が漠北に行ったのは夜血のためではなかったが、そこで生涯の友と知り合えたのだ。 「美味しいの?」 「……」 馬非馬の口元が引きつった。 「……霜姉さん、冗談はやめてくれ。」 しかし、凌霜は笑っていなかった。 「彦卿、どうしたの?子供の頃のあなたはそんな性格じゃなかったでしょ。大人しくて揉め事なんか起こさなかったし、私たちなんかよりも女の子みたいだった。」 「この十数年であなたが戦った数は、師匠の数千年分よりも多いかもしれない。」 「でも、あちこちで戦っているくせに、まったく名をあげていないでしょう?今のあなたは天下一の達人か、武術界の最高位か何かなの?」 「ハハ。俺はそういうのに興味はないんだ。どんなに太虚剣気を磨いたとしても、姉弟子たちには敵わない。」

「武術界の最高位……それが何になるんだ?天下一の達人、誰がそんなものを有難がるんだ?

天下一の武術を誇った師匠がどうなったか……」

「ええ。分かっているなら、それでいいの。」 凌霜はフンと鼻を鳴らすと、小屋の方へ歩いて行った。 「中は狭いから、もてなすのは無理よ。まだ何かある?なければ私は帰るけれど。」 「ある。」 馬非馬が前に一歩進み出た。 「大事な話があるんだ。何としても俺の口から霜姉さんに伝えるよう、湄姉さんから言われている。」 「どうして早く言わないの?」 「師匠と関係があるんだ。」 太虚剣派の五番弟子は歩みを止めた。 「あら?」
李素裳は苦労して、昏睡状態の羅刹人を寝台に寝かせた。 頭はまだクラクラしており、指を動かすだけで全身に激痛が走る。それでも彼女は力を振り絞り、この難しい作業をやり遂げた。 彼女は羅刹人に掛布団をかけ、横に腰かけた。そして鼻歌を口ずさんだ。 「ラララ姉よ兄よ……ラララ……」 この曲は、まるで岸に流れ着いた枯れ葉のように、突如として彼女の脳裏に浮かんできた。 「ラララ……ラララ、姉よ姉よ……」 あぁ、この歌を聞いたのはいつだっただろうか?誰が歌っていたのだろう? 不思議なことに、素裳は母である秦素衣の姿を思い浮かべた。 普段着の母親が素裳の前にしゃがみ込み、手を伸ばして彼女の髪の毛を優しく撫でてくれた。 「まだ幼いあなたを、母さんのために遠いところに送ることになって……本当にごめんね。でも、母さんはちゃんと手配しておくから。将来、あなたの剣が大成した時にはもう、誰も私たちをいじめられなくなるわ。」 「母さんにも苦衷がある。今あなたに話しても、きっと分かってもらえない。この武術界に身を置くと、自分で決められないことがたくさんあるの。でも…… 生きていくの、素裳、あなたはちゃんと生きていくの。母さんと約束して。」 少女の澄んだ歌声がぴたりと止まった。 「……」 李素裳は特に理由もなく剣心に意識を集中させ、心の湖に大きく硬い氷を張った。 無数の荒れ狂う激流のように、思考が水の下へと沈んでいく。 その上に位置する心の湖は鏡のように澄み、万物を映し出す。 突然、素裳は未来を予知できるような感覚に襲われた。間もなく扉が開き、師匠がいつものように淡々とした表情で、自分の方へと歩いてくるのが分かる―― すべてが予想通りだ。

凌霜は重い足取りでゆっくりと素裳のそばへと歩み寄る。

彼女の顔にはまったく表情がなかった。あらゆるものに対して興味がないかのようだ。

李素裳は師匠を見て、拭い去れない影を追い払うかのように本能的に微笑んだ。 「……」 凌霜はやや間を置き、面倒くさそうに瞬きをして、言う。 「あなたのお母さんが亡くなったそうよ。」 伝記解放:「秦素衣」
石段は長くないが、曲がりくねっている。「精衛真人」は黙って階段を下りていった。 伝記解放:「精衛」 「……」 すぐ後ろには、可愛らしい少女の姿があった。彼女は精衛の後を軽やかに追いかけている。時には近く、時には遠く。 「……」 少女も何も言わなかった。彼女の沈黙は、精衛とは別のものだった。少女は存在しない人間であり、彼女の一挙手一投足、一歩一歩の動きはこの世界とまったく関係がなく、その声もまた然りであった。 精衛を除いて、彼女の存在は誰に対しても意味を持たなかった。 そして、この静まり返った山の中で、精衛だけが少女の小さな囁き声を聞くことができた。 「師匠、見てください――山荘が燃えています。」 精衛が振り返ると、一筋の細長い黒煙が山奥から立ち昇り、墨の花が咲くように広がっていた。 [em italic](素衣……)[/em] 彼女は足先に力を入れる。一瞬で十丈あまりも移動していた。 「……手遅れです、師匠。」

少女が小さな声で言う。

彼女は目の前に現れ、精衛の行く手を塞いだ。彼女の上空では墨の花が静かに回っている。

精衛は足を止め、ぼんやりと見つめているだけだった。 「……素衣は死に、憶剣山荘も主と運命を共にしました。」 少女が呟いた。 「師匠、戻っても無駄です。あなたが現れると破滅をもたらします。それを取り去ることはできません。」 「彼らは死ぬべきではありませんでした。」 「では誰が死ぬべきだったのですか?変わられたのですね、師匠。以前の師匠なら、絶対に人間の生き死になど気にしなかったはずです。」 「……気にしなかった?」

「師匠が気にしたのは生き方だけでした。すなわち『気の暴走』です。

ふふ、人間がそれに陥れば、死んだも同然です。」

少女は肩を竦め、遠くの黒煙を一瞥すると、更に尋ねる。 「『墨染香』はどこにあるのですか?」 「素衣はどうしても、墨染香の行方を言おうとしませんでした。あぁ、彼女が死んで、多くの物の行方が永遠に分からなくなってしまいました――」 「ですが、師匠は諦めたりしませんよね?どれだけの時間を費やそうと、必ず全ての『弟子』を見つけ出し、すべての『軒轅』を取り戻す必要がありますから。」 精衛は空を見上げながら、無意識に頷いた。 「ふふ、師匠ならできると信じています。」 その言葉に精衛は衝撃を受け、思わず視線を少女の顔に向けた。 少女は真っ直ぐ精衛を見つめている。

彼女の視線はとても誠実で、その笑顔には羞恥が滲んでいた。

彼女の言葉には熱がこもっており、尊敬と信頼に満ちていた。

彼女は……

彼女のことはよく知っている気がする。

遥か昔、彼女たちと共に過ごしていた……

彼女たちとはかつて……とても長い時間を共に過ごしていたのだ。

眉間を寄せ、精衛は瞬きをする。目の前の美しい少女をはっきりと見ようとしたのだ。 彼女は十七、八歳くらいだろうか。それは不思議なことではない。彼女の世界の中では、時間が固まっているのだから。 少女は実在しておらず、精衛の傷ついた脳が作り出した無数の幻影の一つにすぎない。しかし、幻影は現れては消え、明るくなっては薄れ、多くの者が去り、残ったのは彼女だけだった。 ――かつてその手で、自分を殺した女性。 自分を殺した犯人以上に、自分のことを理解している人間がいるだろうか? 「教えてください……私はどのような人間なのでしょう?」 「…………」 存在しているようで存在していない少女は優しく微笑んだ。 「よくご存じのはずですよ。私はただの記憶でしかありません。私が出す答えは、どんな疑問も解くことはできないのです。」 「それは単に、師匠が自身に問いかけた結果かもしれませんし、受け入れ難い内省なのかもしれません。あるいは、私たちの何気ない会話、手紙かもしれません……」 「私の答えは師匠の記憶に深く刻み込まれています。ですが、その真偽を判断するのもとても難しいでしょう。」 「師匠、今の師匠の苦痛はどれも、過去に対する執着でしかないのです――しかし、その過去はもう存在しません。」 「忘却とは、過去の重荷をすべて取り除いてくれる贈り物です。そして、世界はとても広い。行きたいところに行き、やりたいことをやっても良いのですよ。師匠は自由なのですから。」 精衛は何も言わなかった。しかし、この声が自分の心の中から出てきていることは分かっていた。彼女の感情は果てしなく長い歳月に殺されたわけではなかった。ただ生き埋めになっていて、彼女の死後に戻ってきただけなのだ。 「――教えてください。」 「本当に知りたいのですか?一度知れば……一度決断を下せば、あなたはまた精衛真人となってしまいます。過去の人となり、かつての道を歩み、同じ結末を迎えるでしょう。」 「……」 沈黙はとても長く感じられたが、精衛が口を開くと、とても短いようにも感じられた。まるで存在していなかったか、まったく躊躇しなかったかのようだった。 「知りたいのです。」 「……ええ、分かりました。」 少女は目を閉じた。 「あなたは精衛真人で、私たち七人の師匠です。私の母親はあなたの手にかかって死にました。私が六歳の時、母の気が暴走したのです。その時以来、私はずっとあなたに付き従っています。」 「あなたはとても強く、確固とした信念を持っていました。不老不死で、比類なき武術の力を持っていました。この世界であなたに敵う者はいないでしょう。初めてお会いした時、あなたに心服しない人はいないだろうと思いました。」 「あなたは神のような姿をしていますが、それは、人間にはどうやっても辿り着けない境地なのだと思います。」 「あなたと山に戻った時、皆が喜びました。私たち七人は全員が孤児でした。私たちはあなたを心の底から尊敬し、愛していました。しかし、一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、私たちは分かってきたのです。」 「あなたにとって私たちは一時的な相手であり、使い終われば捨てられる駒でしかないということに。」 「あなたはまさに、最初は惹かれても、一緒にいる時間が長くなるにつれて離れたくなるような人なのです。」 精衛は黙っていた。夏の雨のような悲しみが、何にも縛られることなく心に降り注いだ。 ついに、彼女は十年以上も抱えていた疑問を口にした。 「朝雨、どうして私を殺そうとしたのですか?」 林朝雨という名の少女は両目を見開き、ため息をついた。 「師匠、私は三十年も付き従っていたのですよ。三十年も。」 伝記解放:「幻像」
「ふぅ……」

少年は大きく深呼吸した。

彼は手を伸ばして扉を叩こうとしたが、拳が扉に当たる寸前で止める。

「どうして僕なんだよ……」 不満と無力感が、少年の心の中で渦巻いていた。 少年の名は枕玉という。太虚剣派に入門してから三ヶ月も経っていない弟子なのだが、当主から大目玉を食らうために、天穹峰の頂上にある彼女の部屋へと遣わされていた。 (当主様からお叱りを受ける役目を僕に押し付けるなんて、姉弟子も兄弟子もひどすぎるよ……) 少年は当主の怒った姿を想像し、不安で落ち着かない気持ちになった。

太虚剣派当主――『軽塵剣』こと、林朝雨。

今年で五十六歳になり、天命を知る年齢も過ぎている。

精衛仙人が金色の光に包まれて天に昇り、太虚山は炎に包まれた。

その後、仙人の一番弟子だった彼女と六人の兄弟弟子はこの天穹峰に残り、

太虚剣派を再建した。

十年余りの時を経て、太虚剣派は見事に復活を遂げ、

神州武術界の六大派に名を連ねている。

そのため、林朝雨の名声もとても高く、夫の『逐駒剣』こと

馬非馬と共に、武術界の誰もが羨む武術家夫婦となっていた。

一門の主である林朝雨は決して偏屈な性格ではない。

その逆で、彼女は誰に対しても優しく穏やかに、

平等に接する。

幾つかの例外を除いては。[\s]

その例外に接すると、林朝雨はいつも

人が変わったように怒り狂う。

少年が天穹峰に来たばかりの頃、世話好きな兄弟子たちが彼に教えてくれた。

「枕玉、お前は来たばかりだから、ここの掟を教えてやる。

当主の前では、ある話題と二人の名前を絶対に口にしちゃいけないんだ。」

「ある話題とは、副当主のことだ。

副当主が外でやっていることについては、何を聞いても当主には話すな。この二人の話には口出し無用だ。」

「それなら大丈夫だよ。」

枕玉は慌てて頷いた。夫婦の問題など、部外者が口を挟むべきではない。

彼は口数が多いほうではない。なので、そんな失敗はしないだろう。

「ある話題についてはわかったよ。それと、二人の名前って?」 「一人は俺たちの師匠の師匠、つまり大師匠、精衛真人だ……」 兄弟子は急に声を潜め、周囲を見回した。 「お前たちはまだ小さいからこの名前を聞いたことがないかもしれないが、昔、大師匠はすごく有名だったんだ。下界に下りてから、千年も年を取っていない神様だって。」 「精衛真人は二十年前に、仙人の世界に戻った。だけど、それを口に出して当主を刺激するなよ。大師匠が天に昇った時、当主を連れて行かなかったもんだから、ずっと気にしているんだ。」 「うんうん。」 精衛真人の名前は時間が経つにつれて色褪せていたが、少年は彼女に関する話を多々聞いていた。むしろ、『唯一の真仙』の存在があったからこそ、遠路はるばる天穹峰までやって来て、太虚剣派に入門したと言ってもいいくらいだ。 「もう一人の名前は、『無双』こと蘇湄だ。彼女は当主の妹弟子なんだが、二人の関係は水と油なんだよ……」 「この名前は口に出すどころか、お前の耳にも入れるな。無双門の人間に出くわしたら、遠く離れて隠れるんだ。奴らとは一切関係を持つんじゃないぞ。」 「えっ?」

無双門――それは二十年近く前、新たな太虚剣派と

ほぼ同時期に創設されたが、規模はまったく違う。

今の太虚剣派は六大派に名を連ねているが、

無双門はいまだに小さな宗派だ。

しかし、無双門の門弟に手を出そうとする者はいない。

その理由は、当主――『才色兼備』の蘇湄にあった。

絶世の美貌、そして、優れた知性を持つ女性。

蘇湄は精衛真人の二番弟子だったが、武術界では

太虚七剣の中で最も恐ろしい人物とされており、畏敬の念を込めて

『女諸葛』、『無双仙人』と呼ばれていた。

「……そんなに恐ろしいの?」 兄弟子たちは顔を見合わせ、一斉に頷く。 「恐ろしいんだ。」 「…………」 彼がぼんやりしていると、部屋の中から当主の声が聞こえてきた。 「枕玉、外で何をぼんやりとしているの?」 「あっ……はい!弟子、枕玉。入ります。」 少年は緊張していたが、それと同時に興奮もしていた。 「当主様……どうして、僕のことをご存知で?」 「何故?弟子の名前も覚えられないほど年老いてはいないわ。」

当主が答えた。

その声の中には、非難というよりも自嘲の響きがあった。

「門派の者は217名、全員のことをしっかりと覚えているわよ。[\s]内息は乱れているし、足どりもしっかりしていない。明らかに基礎ができていない。そんな者は、入門したばかりのあなたしかいないでしょう。」 「……あっ、は、はい。これからもっと、修行を頑張ります!」 枕玉は瞬時に冷や汗を流した。[\s]彼はまだ入門してから3ヶ月しか経っておらず、『太虚真訣』の入門となる『太易勁』もまだ会得できずにいる。そのため、入雲階を登るだけで息を切らしていたのだ。 師匠の言葉は淡々としていたが、枕玉には修行不足を指摘されたように聞こえ、急に恥ずかしくなった。 「この入雲階を登ってくるだなんて、それだけでも大した子でしょう。怖がらせちゃダメよ。」 枕玉は少し不思議に思った。今の声は、当主のものではないようだ。 扉が急に開く。中には、少年がこれまで見たことがないほど美しい女性が微笑みながら立っていた。 「……」 彼女の背後にいる当主、林朝雨は暗い顔をしている。 「蘇湄……無双門のあなたが、いつから私の太虚剣派の弟子を評価するようになったの?」 「あら、余計なことを言っちゃったかしら。」 目を見張るほど美しい女性が、枕玉の方を向いて目を瞬かせた。 そこで、ようやく林朝雨が少年に視線を向けた。 「枕玉。何の用なの?言いなさい。」 「あっ……」 少年は思わず躊躇う。彼は、兄弟子と姉弟子の代わりに師匠に謝りに来たのだ。

早朝の話である。『無双仙人』こと蘇湄がいきなり天穹峰へやって来て、

副当主からの言付けを当主に伝える必要があると言ったのだ。

姉弟子や兄弟子たちは師匠の逆鱗に触れるのを恐れ、

誰も、蘇湄を連れて山を登ろうとはしなかった。

そうこうしているうちに、無双門の当主はいなくなってしまったのだが……

……まさか、既に拂雲観にいるだなんて、誰も思わなかっただろう。

少年はどうしていいのか分からず、ありのままを話すことにした。 「はい、師匠。無双門の蘇当主がお会いしたいそうです。二番弟子の姉さんや玄離兄さんは勝手に決められないとのことで、山に登って師匠に報告するようにと言われたんです。」 「ふふっ。」 横にいた蘇湄は、思わず声を出して笑った。 当主は明らかに面白くなさそうな顔をして、冷たく言い放つ。 「本人がここにいるのに、そんなことを報告してどうするの?戻りなさい。」 「はい……失礼します。」 枕玉はうなだれながら一礼した。 「それから、」 当主はため息をつき、優しい声で言った。 「これからは使い走りで来る必要はないわ。玄離に太虚真訣を教えてもらい、太易勁と太初勁の基礎をしっかりと作りなさい。そうすれば山を登っても、そんなに疲れることはないでしょう。」 「かしこまりました。」 当主は少年のことを思い遣っていた。枕玉は心から感激したが、何と言えばいいのか分からず、頭を垂れてこう言っただけだった。 「ありがとうございます。」 「行きなさい。」
少年は礼をすると、背を向けて山を下りていった。林朝雨は弟子の姿が石段のほうに消えていくのを見届けてから、黙ったままの蘇湄に向き直る。 「あなたのことは妹弟子だと思っているけれど、私の太虚剣派に口を挟む権利なんてないのよ。」 「ごめんなさい。」 蘇湄は笑顔のまま視線を遠くに向け、そして、またこの小さな部屋を見回した。 「太虚剣派、拂雲観……ふふ、それらはすべて朝雨姉さんのものよ。」 林朝雨は冷たく、ふん、と鼻を鳴らして応えた。 「いずれにしても太虚一門は伝えていかないと。私の手で途切れさせるわけにはいかないわ。」 「はぁ、私たち七人の中で、朝雨姉さんが一番昔を懐かしがっているわね。」 二人は世間話を続け、いつまでも本題に入らなかった。林朝雨は辛抱強く待ち続けたが、蘇湄は瑣末なことに興味津々な様子だった。 「朝雨姉さんの弟子は中々の素質があるわね。度胸もあるし。ただ、男なのが残念ね。彦ちゃんの境地まで鍛え上げるのは難しいでしょう。」 「……私は弟子を取る時、師匠ほど才能を重視しないの。それに、彦卿は誰も敵わないほどの武術の才能を持っているのよ。男女など関係なく、私の弟子は誰一人として彦卿には及ばないわ。」 「でも、枕玉は確かに筋がいいわね。太虚派は、いずれ次の世代に引き継がれるでしょう。もしかしたら彼が私の最後の弟子になるかもしれないわ。」 「朝雨姉さんったら、今から最後の弟子のことを考えているの?」 林朝雨はやや呆然とし、急に青ざめる。 精衛の七人の弟子の中で、彼女は最も年長で、二番弟子より十五歳も年上だった。[\s]林朝雨も最初は気にしていなかったが、歳月が経ち、さらに一番年下の馬非馬と結婚したことで、余計に年齢を意識するようになっていた。 「蘇湄、私の辛抱強さを試そうとするのはよしなさい……本題に戻りましょう。」 太虚剣派の当主は、腹の探り合いを打ち破る。 「師匠が復活して、妹弟子が死んだ。次は私たちの番――あなたはどうするつもり?[\s]雑談をするためだけに、久しぶりに会いに来たわけではないでしょう?あなた……もう一度、師匠を殺すつもりなの?」 「……」 林朝雨は、妹弟子の沈黙を肯定と受け取った。 「蘇湄、あなたのことは好きじゃないけれど、かつては実の妹のように思っていたわ。だから、一言忠告してあげましょう。」 「今は昔とは違う。私たち七人が揃うことはもうないわ。あの時は運がよかっただけよ。もう一度やっても、同じ結果になるとは限らない。」 林朝雨は長いため息をついた。

「もう二十年も経つのに、あの晩を忘れたことはないわ……

婉如と凌霜も、危うく命を落とすところだった。もしあなたがいなければ、彦卿の顔のあの剣も……災いとなっていたでしょうね。」

「やっぱり、朝雨姉さんは昔が懐かしくてたまらないのね。ふふ、もう二十年よ。『もし』なんてないわ。」

蘇湄は、過去のことにはまったく興味がなかった。

林朝雨も理解していたが、まったく賛同できなかった。

「ふん、言ってごらんなさい。あなたの計画はどんなものなの?」 「計画なんてないわよ。」 武術界では誰もが聡明だと認め、『知計無双』の異名を取る蘇湄だが、彼女はそう言い放った。 「どんなに考え抜いても、完璧にうまくいく計画なんてないでしょう?計画通りにいくなら、師匠は今頃死んでいるはずだし、この世に戻って来るはずもない……」 「だから計画なんて立てるつもりはないわ。変化は常に起きているし、人の心なんて計算できないもの。」 林朝雨の心の中に、急に冷たいものがこみ上げてくる。 蘇湄を嫌ってはいても、内心では、彼女には何らかの考えがあるはずだと信じていたのだ。 ちょうど二十年前、彼女が七人を集め、天下無敵の真仙である精衛の誅殺を企んだ時のように。――時間とともに、世の中も移り変わる。それは分かっていたが、太虚七剣も昔とは変わってしまっていた。 「それで、あなたは……」 「そうね、計画はないけど、方法ならたくさんあるわ。」 林朝雨は訝しげに眉をひそめる。 「方法?」 「ええ。」

「二十年前、私たちは師匠を葬り、太虚山に火を放った。

その後、山に戻ってみたのだけど、不審な点が見つかったの。」

「師匠の軒轅剣がなくなっていたのよ。」 蘇湄は一歩前に進み出る。林朝雨を見つめる目には、さらに深い意味が込められているようだった。 「……なくなっていた?」 「……」 蘇湄はじっと林朝雨の顔を見つめていたが、急に視線を逸らす。 「……朝雨姉さんじゃないわ。」 「えっ?」 蘇湄は何か面白いことでも思いついたかのように、顔にうっすらと笑みを浮かべた。 「私が戻った時、師匠の棺は燃え尽きていたの。棺の中の骨も焼け焦げ、見る影もなかったわ。残念だけど、棺の位置は私が決めたのよ。あの場所なら火の手が回るはずはないと思っていたから。」 「だから、私は現場を調べてみたの。そうしたら、やっぱり――」 「棺の中の亡骸は師匠のものではなかったわ。」 「……何ですって?」 「…………」

「つまり……あなたはずっと前から、師匠が生きていることを知っていたの?あなた……二十年前から知っていたの?

それなのに、教えずにいたなんて……何も言わず、黙っていた……」

「……」

「知らなかったわ。ずっと知らなかった……彦卿は?彦卿も事情を知らないの?婉兮と婉如は……

それに、素衣。少なくとも素衣には知らせないと――」

「いいえ。誰にも言ってないわ。」 林朝雨は後ろに下がった。突如、小じわの増えた頬に痛みが走る。老いは、太虚剣派の当主の誇りを打ち砕いた。彼女は一瞬で十歳も年老いたかのようだった。時間が、彼女のごまかしを消し去っていく。

「素衣は生涯孤独に生きてきたわ。あの子は私たちとは違う。私たちは準備をしているけれど……いずれにしても、あの子に知らせないわけにいかないわ。

一体、どうして?蘇湄、どうして私たちに黙っていたの?」

「そうね……どうしてかしら?」 蘇湄は呟くように言う。その目には霧がかかっているようだった。 「……時間……」 その口から、ぼんやりとした言葉が出てきた。蘇湄は気が動転したかのように周囲を見回す。まるで記憶を失った老人が、過去の遺物の山の中から自分でもよく分からない宝物を探しているかのようだった。 「ただ……もう少し……時間が……」 そう言いながら、彼女は目を閉じる。どうやら、話題の終わりを意味しているようだ。[\s]彼女が再び口を開いた時、老人の幻影は消えていた。林朝雨の前に立っているのは、落ち着き払った無双門の主だった。 「そうよ……私はずっと前から知っていたわ。二十年前、師匠の遺体が太虚山から消えたの。誰かが盗んだのかもしれないし、師匠は既に蘇っているのかもしれない――分かるわけないでしょう?私はただ、1つの『可能性』に気付いただけ。」 「師匠は死んでいない、生きているかもしれないってね。」

「どんなに信じられなくても、可能性がある以上は無視できない。[\s]

だから無双門を作り、彼らを中原の各地に派遣したのよ。彼らには妖魔を倒すだけでなく、師匠の行方を探し、怪しい場所を見張る任務も与えていたの。」

「そして私は……

ここ数年、師匠と軒轅剣の秘密をずっと探ってきたの。多少は収穫があったわ。[\s]

必ず勝てるという確証はないけれど、使える手段は十分ある。」

『手段』……その言葉は林朝雨をやや不愉快な気持ちにさせた。 「師匠に汚い真似をしてはダメよ。向こうは精衛真人なのだから。」 「ええ……私だって師匠に失敬なことをするつもりはないわ。」 蘇湄は口元にかすかな笑みを浮かべたが、そこには悲しみが混ざっていた。 「師匠が私を殺しに来るなら、それは当然のことよ。殺された人には復讐する権利があるもの。」 「だけど、師匠殺しについては後悔していないわ。ああでもしなければ、私たちは今でも果てしない苦痛の中にいたでしょうから。朝雨姉さんは?」 「……」 一緒に過ごした三十年の月日が細い針となり、太虚剣派の女当主の胸に軽く刺さった。 「……私も後悔していないわ。」 林朝雨は小さな声で言った。

「いいの。私は座して死を待つつもりなんてない。これから、全力で師匠と戦うわ。生死や勝敗は神のみぞ知る――[\s]

それがここに来た目的よ。朝雨姉さん、力を貸してほしいの。」

林朝雨は、目の前の赤髪の女性をじっと見つめた。[\s]

彼女はかつて、自分の妹であり、親友であり、仲間であり、恋敵であり、敵でもあった。一度決別した以上、死ぬまで関わることはないと思っていた。

しかし今、林朝雨の心の中には様々な感情が渦巻き、一つにまとまらずにいる。 そして、彼女は最後にこう言った。 「言ってごらんなさい。」 蘇湄は拂雲観から出て、天穹峰の頂上で両腕を広げ、円を描きながら答える。 「朝雨姉さんの太虚剣派が欲しいの。」
「!!」 砂漠の中で、少女ははっと目を覚ました。

心臓がバクバクと鼓動し、服には冷や汗が滲んでいた。

少女は無意識にそばの布袋に手を伸ばし、軒轅剣を握りしめる。こうしていると、少し安心できた。

「悪い夢でも見たのかい?」 そばから聞き覚えのある声がした。 彼女は言葉をかけてくれた羅刹人の方に顔を向ける。 本当に不思議だ。知り合ったばかりの頃は、彼の神州語はさほど流暢ではなく、おかしな西域訛りがあった。しかし、まだ二日も経っていないというのに、彼は現地の人とほぼ同じくらいに言葉を話せるようになっていた。 「……ううん、大丈夫。」 羅刹人は肩を竦めて視線を逸らすと、グラスを持ち上げて赤い液体を揺らし、唇をつけた。彼がグラスを置くと、赤い液体の揺れもぴたりと止まる。その液体はいつも同じような高さのままで、増えることも減ることもなかった。 それが一体何なのか、少女はいつも気になっていた。いくつか想像もしてみたが、口には出さなかった。 李素裳は起き上がる。眠気は一瞬で消えてしまった。彼女は服を整えると、再び羅刹人の横に腰を下ろし、西域の不思議な炎を見つめる。 それは、とても不思議なものだった。 見た目はただの青い球だったが、どう転がしても中の炎は動かず、光と熱を放ち続けている。 砂漠の夜は気温がかなり下がるが、二人と二頭の馬はこの球を囲っているだけで、まったく寒さを感じなかった。 (彼の奇術は、どれもすごい……) 素裳は思わず、横にいる金髪の男を見た。 「ねえ、羅刹人。」 「僕にも名前があるんだが。」 「あんたたちの名前って、変テコで覚えるのが大変じゃない。」 羅刹人は微笑んだが、答えることはなく、そばの棺に目を向けた。

彼はずっと、大きくて重そうな棺を持ち歩いている。彼は時折、棺に向かって何かを呟いていて、そのたびに素裳は不快な思いをしていた。

李素裳はしばらく待っていたが、羅刹人は何も言わなかった。 「ねえ……あんたはどうして仙人を探してるの?」 「……」

長い沈黙だった。

素裳が次の話題を探そうと考えた時、羅刹人が急に口を開いた。

「僕は仙人に会ったことがあるんだ。」 「えっ?」 少女は驚いたが、すぐに表情を元に戻す。

「あっ、またアタシを騙そうとしているの?この前、アタシに仙人って誰?って聞いたじゃない。

まったく、あんたたち羅刹人って本当のことを言わないんだね。」

「騙してないよ。でも、話せば長くなるからね。」 「大丈夫。時間ならあるし、どうせすぐには眠くならないでしょ。」 羅刹人は足下の砂や小石を見つめながら言った。 「本当に聞きたいのかい?」 「うん!だけど、難しく話さないでね。簡単に、できるだけ簡単にして。」 「分かったよ。二十年前……」 「待って、二十年前?あんた、今何歳なの?」 「……そうやって遮られたら話せないよ。」 「あっ、ごめん。続けて。」 「はぁ……」 羅刹人はため息をついた。 「二十年前、ヨーロッパ大陸と神州との間に戦争が起きたんだ。ヨーロッパの遠征軍は天命騎士団という名前で、僕もその中にいた。明帝国はとても強かった。」 「それまで、天命はそこまで強い相手と戦ったことはなかったが、[em font=Arial]Walküre[/em]と[em font=Arial]Der Schlüssel Gottes[/em]の力によって、天命は優勢で――」 「ちょっと――待って、ヴァル何たらとデル何たら?」 李素裳は不満そうに口を尖らせた。 「あんたたちの名前は変テコって言ったじゃない!イジワルしてるの!?」 「……本当にすまないね。言い慣れているものだから。」 羅刹人は申し訳なさそうに両手を広げる。 「神州の言葉で説明しよう。」 「うんうん、そうして!話を続けて、今度はもう邪魔しないから。」 「うーん……」 「えっ?」 異なる言葉への切り替えが難しかったためだろうか。羅刹人は何度か口を開こうとしたが、言葉にならないようだった。 「とにかく……うん。西洋の騎士は、君たちがいうところの、武術家みたいなものだ。」 羅刹人はようやく思考の糸口を掴んだようだ。彼は軽く手を叩き、困った表情も見せていたが、不意に微笑む。

「最初から話そう。神州の西側に、ヨーロッパという名前の大陸があるんだ。[\s]

神州の武術界には色々な門派があるが、今のヨーロッパ大陸には一つだけしかないんだ。天命派という名前だよ。」

「天命派は三人で一緒に作った組織なんだ。創始者は比類なき武術の腕を持ち、天下無敵だったと言われているよ。」 「天命は数年でヨーロッパ大陸でも無視できないほどの勢力になり、その後は神々の神殿、英霊宮、荊冠門などの各宗派を併合し、非常に大きな勢力となっていったんだ。」 「天命はヨーロッパ大陸を支配したが、一人では処理しきれないほど煩雑な雑務が増えていった。そこで、天命の大権は御三家……三大宗門が引き継ぐようになり、かれこれ千年経ったんだ。」 「へぇ、千年も!」 李素裳はとても驚いた。 「うわぁ、それって本当にすごいね。アタシたちの六大派だって、千年もの歴史を持っているところなんてほとんどないよ!その天命って、剣派?どんな修行をしているの?」 「剣術もあるし、槍術もある。でも天命は、本当に独自の秘技を極めているんだ。君たちが『妖術』や『奇術』と呼ぶようなものだね。」 羅刹人は左手を上げ、黄金の十字架を見せた。 「君たちの文化に合わせるなら、法器と呼んだ方がしっくりくるかもしれない。」

金の鎖が光る。李素裳は、たちまち体から力が抜けていくのを感じた。内功がなくなってしまったのだ。

しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐにまた元に戻った。

彼女が羅刹人の手のひらを見ると、金色の十字架は既に消え、煙になっていた。 (あれ、この感覚は……)

「天命派の三大至宝の一つ、『誓約の十字架』だよ。

これは崩壊エネルギー――つまり、『真気』の流れを封じることができるんだ。」

「そして昨夜、君の治療に使ったのは別の法器、『黒淵白花』さ。

あれは人の体を癒し、骨や肌を再生させる。十分な真気があれば、どんなに重い傷でも治せるんだ。」

「だけど、君が目にした二つの法器はどちらも本物ではない。偽物なんだ。」 羅刹人は細い指で自分のこめかみを指した。 「ここには天命派も知らない、僕だけの法器――『虚空万象』がある。」 「虚空万象は真気を使うことで、見たもの、触れたもの、理解したものすべてを『模倣』し、実体化させられるんだ。[\s]だから僕は、天命派の三大法器の力を模倣することで、それらを少しだけ扱えるのさ。」 「……」

李素裳は腕を組んで首を傾げる。無意識のうちに、唇を軽く噛んでいた。[\s]

羅刹人の話を信じていないわけではない。ただ、様々な用語によって、頭が混乱してしまったのだ。

「……ちょっと待って、ちょっと待って。天命派ってのは面白そうだけど、法器とかは……」 素裳は考えながら口を挟んだ。 「急にどうやって習得したの?いいや、やっぱり言わないで、あんたがすごいのは分かっているから。天命派の話を続けて。」 「ああ。」 羅刹人は長い息を吐くと、素裳の方に目を向けた。 「天命はヨーロッパ大陸を強固に支配していた。時が経つにつれ、その野心は膨れ上がり、ついに広大な土地と豊富な資源を持つ隣国に目を付けたんだ。」 「二十年以上前、天命は兵を出して神州に攻め入った――いや、神州を訪問した。神州と――そうだね、手合わせをしたかったんだろう。」 「君たち、神州の軍隊は強かった。しかし、天命の戦乙――いや、女武術家は優れた法器を使い、ついに試合に勝った。」 羅刹人は何度も止まりながら話す。李素裳が史実を理解できるよう、内容を改めようと苦心しているようだった。 その証拠に――強い日差しの下でも汗をかいたことがなかった羅刹人は、大粒の汗をいくつも頬から滴らせている。 彼の苦心する姿を横で見ていた素裳は嬉しくなった。 「天命はほぼ勝利を掴んでいた。しかし、仙人が現れた。」 「そして、僕は彼女に会ったんだ……」

「さすがは仙人、と言うべきだろうか?……

彼女が手を一振りしただけで、空に雷鳴が轟き、大地に氷が張り、風もないのに炎が燃え広がった。」

「怪奇現象の数々によって、天命の陣営は崩れた。聖騎士が次々と出撃したが、彼女の敵ではなかった。」 羅刹人は苦笑した。その声は徐々にぼんやりとしていく。

「最強の戦乙女……『誓約の十字架』を使いこなす天才ですら、

彼女と対峙し、完敗した……」

羅刹人の目が、再びあの棺に向けられる。 李素裳は彼の視線に注目していた。[\s]彼女は羅刹人と一日中、ずっと共にいて、あることに気が付いたのだ。彼は喋ったり笑ったりしながらも、棺に目を向けると、外界を完全に拒絶するような孤独に陥る。 「あの中には何が入っているの?」 戦争にはまったく興味がない李素裳は、ついに我慢できずに尋ねた。 「いつもあれに話しかけているけど、中に誰か入っているの?」 「いや……」 羅刹人は首を横に振る。彼はとても困惑しているかのように、視線を棺に向け、そして自分の手のひらを見つめた。 「知らないの?あんたも開けたことがないの?」 「……」 羅刹人は答えなかった。彼の思考は遥か彼方へ飛んでいき、李素裳のそばに残っているのは空っぽの抜け殻であるかのようだった。 素裳は辛抱強く待った。彼女は下あごに手を当て、容姿に似合わぬ羅刹人の虚ろな目を見つめる。不思議だ、と思う。羅刹人は、何を考えているのだろう。 [em italic](故郷が恋しいのかな?)[/em]

遠く離れた、彼女には想像もできないような西域の祖国が恋しいのだろうか?[\s]

それとも、誰かを懐かしんでいるのだろうか?

[em italic](……羅刹人にも、父さんや母さんがいるのかな?

あっ、馬鹿なことを考えちゃった。いるに決まってる!

いくら何でも、石を割って生まれてくるわけないし。)[/em]

[em italic](友達は?恋人は?

きっといるよね……まさかもう結婚しているのかな?

師匠はいるのかな?その天命派とやらの弟子なのかな?)[/em]

少女は、己が羅刹人について何も知らないことに急に気が付いた。 二日間ほどずっと共にいたが、少女は、羅刹人とあまり意味のある会話をしていなかったのだ。 名前も聞いたが、返ってきたのは奇妙奇天烈な言葉だったので、覚えるのを諦めてしまった。今では、どう頑張っても思い出せなくなってしまっている。 伝記更新:「羅刹人」 [em italic](もっと羅刹人と話さないと……)[/em] 素裳はやや気落ちした。

彼女はふと気付いたのだった。この羅刹人を連れて師匠の元に戻ったら、彼とは別れることになる。[\s]

彼と一緒にいる時間はもう半日ほどしかないだろう。短い、とても短いのだ。

「あーあ……師匠が羅刹人を何日か留め置いてくれればいいのにな?」 少女は何故か、更にがっかりした気分になる。 これまでの十五年の歳月の中で、初めて友達ができたのだ。彼女は、一緒にいることの楽しさと別れることの悲しみを味わっていた。 夜は長く、眠れない二人は並んで座ったまま、夜が明けるまでぼんやりと考え事をしていた。
同じように眠れぬ一人の男と一頭の馬が、広大な砂漠の海を駆けていた。

馬の方は血の色の汗をかき、蹄は黄金だった。細い頭と長い首、赤褐色の体に赤いたてがみが特徴的で、背中は細長い。[\s]

一日に千里以上を走ることができ、蹄が砂を踏んでも足跡は残らず、平らなままだった。

男の方は修行を積んだ者のようだった。大きな体に長い髪、短い髭を生やし、引き締まった筋肉をしている。[\s]

顔には剣による大きな傷があり、整った容姿を台無しにしていたが、豪傑らしさを損ねることはなかった。

この男と馬は息が合っていた。主従の関係を超えた、長年来の親友のようだった。

中原でこの奇抜な組み合わせを遠くから見かけると、武術界の者たちは心の中で罵詈雑言を浴びせる。しかし、表面的には拱手の礼を取り、笑顔を浮かべながら「馬副当主!」や「馬さん!」と声をかける。

それは、彼が精衛真人門下の中で唯一の男の弟子であり、

七剣の六番弟子、

広く名を馳せている天穹峰太虚剣派の副当主、[\s]

『逐駒剣』――馬非馬だからである。

伝記解放:「馬非馬」

表向きには、彼はいくつもの肩書を持っている。名も轟いているため、武術界の者なら誰もが彼と知り合いになりたいと思っていた。

しかし裏では、人々はこの馬非馬を、『異常者』、『狂人』、『変人』、『殺しても死なない馬非馬』などと呼んでおり、実際に彼に会うと、誰もが頭を痛めながらも友好的な会釈をしていた。

実のところ、彼と親しい付き合いをしたいと思っている者など、どこにもいない。

何故なら、馬非馬は武術に優れているだけでなく、その行いが非常に傲慢だからである。

太虚剣派の副当主という肩書を持ちながらも、馬非馬は一匹狼の豪傑だった。

太虚剣派の門弟でも、彼に会える機会は年に数回もない。彼は妻である林朝雨よりも、愛馬『夜血』と過ごす日の方が多いのではないだろうか。

天穹峰にいる時の馬副当主は穏やかで礼儀正しく、謙虚に振舞う。

しかし山を下りた途端に別人のようになり、どんな喧嘩や挑発も受けて立つ。

相手が名家だろうと、王侯貴族だろうと、馬非馬は一切お構いなしだった。

正義のために戦う?悪を駆逐する?

逐駒剣にそのような大義名分は必要なかった。

喧嘩したい時に喧嘩をし、戦いたい時に戦う。

剣を使いたければ剣を使い、拳を使いたければ拳を使う。

助けたい人を助け、殺したい人を殺す。

すべては心の赴くままなのだ。

そのため、武術界の人々は彼を恐れて避けている。彼の起こした騒動のために、太虚剣派の当主、林朝雨が奔走することもしばしばだ。

彼の敵は各地におり、誰も公然と太虚七剣の怒りを買おうとはしないが、裏で彼の首に懸賞金をかけている者は少なくない。

それらに対する馬非馬の態度は「来るもの拒まず」だった。

「俺を殺したければ来るがいい。いつでも相手をしてやろう。

俺が少しでも逃げれば俺が腰抜け、俺を殺せなければ、お前が役立たず。ただ、それだけの話だ。」

彼を殺しに来る者は本当に後を絶たない。

待ち伏せ、陰謀、罠、毒、色仕掛け、決闘、試合……

あらゆる技を使ったが、それでも馬非馬は死んでいない。恐ろしい傷痕が無数に残されてはいたが、彼はピンピンしていた。

「私の夫は自由を愛するが故、衝動的で不躾ではありますが、悪人ではありません。どうか私に免じて、許してやっていただけませんか。[\s]何かお役に立てることがあれば、私は、太虚剣派は必ずお助けいたします。」 数年前、林朝雨は五十歳の祝いの席という名目で、武術界の各門派を招いて宴を開いた。[\s]宴での乾杯の挨拶は、実のところ謝罪であった。夫の代わりに、彼が怒らせた各勢力に許しを請うたのだ。 馬副当主は笑いながら立ち上がると、自らも罰として何杯もの酒を飲み、何度も謝罪をした。

酒が腹に入り、男の涙に変わる。

涙は簡単には流れず、孤独な夜に大雨となって流れる。

人々が真実だと思っていることは、世の中で最も大きな嘘であった。

馬非馬には自由などなかったし、自由を好んでいたわけでもなかった。

師匠が生き返ったことを知った馬非馬は、夜を徹して急ぎ、無双門へと向かっていた。

このことを、真っ先に蘇湄に知らせるために。

「知ってるわ。」 「あそこには私の弟子がいるから、情報が入ってくるの。でも、あなたより半日早かっただけだけど。ちょうどいいところに来たわね。私の手元には簡単な情報しかなかったから、あなたの意見を聞きたかったのよ。」 『無双仙人』こと蘇湄は、顔色一つ変えず、聞き終わると彼にもう一度説明させ、細部について色々と尋ねた。

「あまりに急だったから、付近で少し話を聞いただけだ。

色々な説明を突き合わせてみると、師匠であることは間違いなさそうだが。」

「いまだに二十年前、あるいはそれより前の姿だったの?」 「そうだ。」 「師匠は老けないのね。」 二番弟子が笑うと、馬非馬の心もつられて躍りそうになった。

「……変ね。時間も場所もおかしいわ。

でも、それはつまり、私の推測が正しかったということを証明している……」

そう言うと、蘇湄は黙り込み、癖で視線を上に向けた。

「あなたの口ぶりはどこか変ね、彦ちゃん。

……何か腑に落ちないことがあるのね?」

「人を殺して、建物を焼き払う。

……師匠の性格からして、そんなことをするとは思えない。」

「ええ。」 蘇湄は軽くため息をついて言った。

「そうね。私も変だと思う。最初は情報が間違っているか、何か裏があるんじゃないかと疑った……

でも、あなたの言う通り、『師匠』は間違いなく現れたのよ。」

「………………」 「『人を殺して、建物を焼き払う……師匠の性格からして、そんなことをするとは思えない』って言ったわね?」 「それじゃあ、師匠はどんな性格なの?私が子供の頃、師匠は朝雨姉さんを連れて行って、望山を焼き、聖火教の民を大勢殺したのよ。今でも覚えているわ。」

「閻世羅は妖術で教徒を操り、彼らの気を暴走させた。望山は……

朝雨の話によれば、あそこには真気が満ちていて、放っておいたら妖獣が生まれ、大変なことになっていたそうだ。」

「ええ、師匠は気が暴走した人だけを殺し、妖気の酷い土地だけを燃やした。

でも、だから殺したり、燃やしたりしてもいいってこと?」

「……良し悪しについては、俺には何とも言えない。

だが、妖魔を倒すのは太虚剣派の門人としての務めだ。」

蘇湄は馬非馬の顔に視線を向けた。 「気の暴走、妖化、屍変……呼び方は色々あるけれど、本質的には同じことよ。つまり、真気が人体の許容できる範囲を超えてしまうの。」 「過剰な真気は人の理性を奪い、狂暴にし、殺戮と破壊だけを行う野獣へと変えてしまう。これが始まると、どうやっても元には戻せない。」 「だから、救うために殺すの。妖魔一体の命を奪うことは、何千もの罪なき人の命を守ることと同じ。そう。太虚剣派の務めは、魔に堕ちた者を容赦なく殺すことよ。」 「……私はその教えを守り、一度も背かなかった。この二十年間、私の無双門が倒した魔物の数は、千は下らないでしょう。だけど、私はそれを誇りに思ったことはないわ。それどころか、この戒律を憎んですらいるの。」 「……彼らは本当に死ぬべきだったの?[\s]気が暴走した人のほとんどが武術に触れたことのない一般人で、武術家の子弟は少数だったわ。彼らの大部分は普通の人であって、悪人ではない。」 「ただ……不幸にも、『真気』によって災いをもたらされただけ。」

「『真気』には目がなく、『天意』には慈悲がない。だから人間が犬になるの。

あなたは師匠が人を殺めるのは間違いじゃないと言ったわね。私もそうだと思う。でも、過ちは必ず存在しているのよ。」

「師匠にも、私にも、死者にも過ちがないとすれば、天にあるということになるわ。」 「彦ちゃん、太虚は檻でしかないの。師匠の武術がどんなにすごくても、『天』の囚人なのよ。死んでから二十年経った今、この『妖魔退治』の戒律はまだ師匠を縛れると思う?」 「昔の印象だけで新しい物事を判断しないことね。足を掬われるわよ。」 「……」 馬非馬は蘇湄の整った顔を見つめる。[\s]かつての苦しみが再び心の底に湧き起こったが、彼はもう慣れていた。この女は、子供の時からそうだった。いつも非情なほど冷静で、何事にも動じない。

[em italic]しかし、昔とはもう違う……[/em]

両目が溶けそうなほど熱くなり、彼は、何年も前に口にした言葉を彼女に言いたい衝動に駆られた。

「無理よ。」 突然、蘇湄は口を開いた。 「何を言おうとしているのかは分かるわ、彦ちゃん。顔に出ているもの。」 「――」 「あなたって人は。」 蘇湄は軽く首を横に振ったが、別に彼を責めているわけではなかった。 「あなたは世界で一番私のことを理解している人だけれど、それでもまだ理解が足りないわね。私は世界で一番あなたのことを理解している女だけど、愛しているわけじゃないの。」

「私はあなたを愛していないし、誰も愛していないのよ。

これはあなたのせいじゃないし、あなたが変えられることでもない。」

「……ははっ。」 馬非馬は苦笑いした。 「他にも俺に頼みたいことがあるんだろ?俺に適当な嘘でもつけば、もっと一途に思い込むかもしれないと思わないのか。」 「バカ言わないで、彦ちゃん。あなたは騙されないでしょうし、私も騙さないわよ。」 蘇湄は指をくねらせる。馬非馬は思わず、その白くて綺麗な指に視線を奪われた。 「一つ、尊敬しているところがあるの。彦ちゃん――あなたはいい人よ。あなたはとっくの昔に、私に付き纏うお人形さんではなくなっている。」 「そうなる必要もなかったのよね。そう、分かっているわ。あなたはあんな過ちを犯す必要なんてなかったし、何よりもそんなに苦しむ必要もなかった……分かっているわ。」

「だから、あなたに不本意なことはしてもらいたくないの。

分かってる?私があなたに何をやらせようとしても、あなたは自ら進んでやろうとする。」

「……でも、進んでやるということと、幸せであることは違う。

それは、あなた自身で選択しないといけないのよ。」

馬非馬は肩をすくめた。彼は幸せではない。分かっている。彼女も理解していた。

「いいわ。あなたに選択肢をあげる。選ぶのはあなた自身よ。

これから私が言う話は、あなたにも選択――」

「俺は残る。」

蘇湄は目の前の男を見た。まず彼の目を見て、次に彼の喉、そして手を見た。[\s]

彼女の視線は彼に大きな喜びを与え、そして、話す勇気を与えた。

「師匠は湄姉さんを探しに来るだろう。湄姉さんを死なせるわけにいかない。」 「…… 大丈夫よ。私は死なないわ。」 蘇湄はさらりと答えた。

馬非馬は黙っていた。彼女の言葉が彼を黙らせていた。[\s]

なぜなら、『無双』こと蘇湄の言ったことは、いつも本当になるからだ。

彼女は蘇湄だ。確信のないことはやらないし、意味のない約束をすることもない。

「ずっと前から準備していたの。師匠は戻って来る、そう予想していたしね。

あなたには、この知らせを他の人に伝えてもらいたいの。」

「俺に……俺に戻って朝雨に知らせろと言うのか?」 「その必要はないわ。朝雨姉さんには私が直接伝えるから。あなたにはもっと遠くに行ってもらいたいの。」 「婉兮姉さんなら通り道だが……霜姉さんか?」 「そうよ。」 蘇湄は手を叩いて、パッと笑った。 「あなたには漠北に行ってもらいたいの。夜血の速さなら半月もかからずに着くでしょう。[\s]あなたには凌霜を見つけてもらって、師匠が戻ってきたと伝えてもらいたいの――」 「――それから、凌霜が軒轅剣を持っているかどうかも確認して。」 「えっ?霜姉さんの剣は……?」

「そうよ。だから確認してちょうだい。

軒轅剣の行方はとても重要だから、すべてを把握しておきたいの。」

馬非馬は俯きながら、蘇湄の言葉の意味を反芻していた。

蘇湄がそう言った以上、何らかの意図があることは分かっていたが、彼には理解できなかった。

しかし、蘇湄とは知り合って三十年以上になる。

賢い女性は、男に説明する行為が好きではないことも分かっていた。

「分かった。伝えるだけでいいのか?中原に連れ戻したほうがいいだろうか?」

「ええ、伝えるだけで大丈夫。どうするかは凌霜の自由よ。

その後は天穹峰に戻ってちょうだい。そこで落ち合いましょう。」

「分かった。」 馬非馬は答えたが、出発しようとはしなかった。 「朝雨は……」 「分かってるわ。」 まるで、男の一言が疑問や不安をすべて伝えたかのように、彼女の返事はとても的確だった。それ以上の余計な言葉はいらなかった。 馬非馬は返事をすると、背を向けて出発しようとした。 「彦ちゃん~」 蘇湄が後ろから彼に呼びかけた。 「私は騙していないし、死んだりもしないわ。」 男は黙ったまま頷いた。それで十分だった。 その夜、馬非馬は夜血に跨って砂漠に入った。蘇湄に言われた通り、太虚剣派の五番弟子に会いに行くためである。 夜は長かったが、一人の男と一頭の馬は休むことなく、夜明けまで走り続けた。

潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]

潮が満ち、[\s]潮が引く。

目の前にあるのは、何万年もの時間をかけても見終わることのない知識の宝庫だった。[\s]

偽りの体がある場所は、普通の肉体では決して入り込めないデータの海だった。

潮が満ち、潮が引く。

情報の波が男の意識に押し寄せて来る。何度も、何度も。[\s]

彼は必死に、意識を保とうとした。

この大海原には、言葉にできない情報が浮き沈みしている。

男が掴み取れるのは、百億分の一の断片に過ぎない。

そして手にした情報のうち、使えるものはほとんどない。[\s]

長い時間をかけ、緻密な選別を行わなければ、

無限の知識を持っていても、愚人と何ら変わらないのではないだろうか?

だから彼は探し続けている。

知られざるどこかで、かつて倒した相手――「虚空万象」の本体が彼の肉体を欲しがっている。

無限の知識は彼をおびき寄せるための餌であり、気前のよい贈り物は彼を倒すための武器だった。

「それ」は男が気を緩めるのを待っていた。男もそれを知っていた。

彼はそれでもなお、探し続けていた。

探すことを止めなかった。

それはすべて、あの人を救い出すため――

そのためなら、苦労が何だというのだろう?[\s]

危険が何だというのだろう?[\s]

時間が何だというのだろう?

永遠も……何だというのだろう?

潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]

潮が満ち、[\s]潮が引く。

男の意志が揺らぐことはなかった。

潮が満ち――

彼はなおも探し続けている。

太陽が空高く昇り、羅刹人の目に生気が戻る。 彼は深く、ゆっくりと息を吐いた。その音は小さかったが、首を傾げながら彼を見ていた李素裳の耳は聞き逃さなかった。 「起きた?」 「ああ、起きたよ。」 羅刹人は返事をして、無理矢理笑ってみせた。 李素裳は口を開いては閉じる動きを何度か繰り返し、ついに我慢できなくなって、訊ねる。 「ねえ、羅刹人って、目を開けながら寝るの?」 「……えっ?」 「あんた、話の途中で寝ちゃったの。だけど、目は開いていたからびっくりしたよ。手を振っても何も反応しないんだもの。」 少女はそう言いながら、白くて綺麗な手を羅刹人の前で振ってみせた。

「……いや、それは、僕の意識が『虚空万象』の中に入ってしまったからだ。

ちょっとした疑問があって、中から答えを見つけなければならなくてね。心配をかけただろうか。すまないね。」

「精神を集中させなければいけないんだ。こういった法器は威力が強いけれど、力にはそれなりの代償も付き纏うからね。」 「『虚空万象』には大いなる理が隠されていて、探求はいつも危険と隣り合わせなんだ。集中していないと、意識が『虚空万象』に呑み込まれてしまう可能性がある。」 「他に、『天火聖裁』という天命の第三の至宝があるんだが、それにも山や海を破壊するほどの力があるんだ。だが、聖なる炎を放つと必ず反動があり、所有者自身も命を落としてしまう。」 「……君の治療に使った『黒淵白花』もそうだ。あの異様な力は、僕でも完全には抑えきれない。以前、あれを使って自分を治療したことがあるんだが、その結果、後遺症が残ってね。君たちの言葉で言う、内傷というやつさ。」 「今でも時々、年を取ったり若返ったりすることがある。そうなると、回復するのに数十日はかかるんだ……」 「内傷……?」 (真気の乱れによって若返る……どこかで聞いたことがあるような……) [em italic]……気の暴走の前兆?[/em] ある考えがパッと閃き、悪魔の種のように、李素裳の頭の中に入り込んできた。 ――!!

突如、押し寄せてきた感情が少女の心を押さえつける。

一瞬の驚き、後悔、苦痛の下に、絶望的なほど強烈な殺意が隠れていた。

魔に堕ちた者は死すべし――

それは、幼い頃から母や師匠がしつこいほど彼女に教え込んだ掟である。太虚一門の使命であり、特に禁忌のない『自在門』で、唯一の鉄の掟だ。

素裳の『剣心』が一瞬で明鏡の境界に達した。急に右の手の平が真っ直ぐに伸び、一瞬で啓剣『裂空』の形になる。今この時、彼女の手にはどんなものでも打ち砕く妖魔退治の剣が握られていた――

「いや……そんなに恐ろしいものじゃないよ。ただの、法器の副作用だ。

その解決法も『虚空万象』で見つけたんだ。」

羅刹人は手を伸ばし、優雅なそぶりをしてみせた。 「当時の出力で『黒淵白花』の力を反転させるだけでいいんだ。精度を制御するのが難しいが。[\s]僕の法器は模倣して作られたものだから、本物に比べて効率が悪いんだ。だから、大量の計算が必要になる……」 羅刹人の話は続いていたが、使う言葉が素裳には理解できないものになっていった。

「もう、治るならそれでいいよ。くれぐれも気を暴走させないでね……

それに、あんたがどんな怪我をしたのか想像もできないよ。法器って、そんな風に使えるの?」

羅刹人はやや呆然としたが、少し考えて答えた。 「教えない。」 「ちぇっ。」 口を尖らせる素裳を見て、羅刹人は微笑を浮かべる。しかし同時に、心を痛めてもいた。[\s]共通点はほとんどないが、この東洋の少女と一緒にいると、どうしても『彼女』のことを思い出してしまう。 [em italic]ああ、いつの間にか、これほどの年月が経っていた……[/em] [em italic]カレン……[/em] 羅刹人は、山吹色の乾いた砂をじっと見つめていた。目の前に、明るい瞳で微笑む少女がぼんやりと見える。 「ねえ、偉大な発明家さん――」

そうだ。彼女は彼のことをそう呼んでいた……[\s]

記憶の中の少女は手を後ろに回して立っている。銀色の髪がそよ風に吹かれて、なびく。

「――私ね、ある願いがあるの。あなただけに教えてあげるから、笑わないでね。」

その声はいまだに耳に残っている。まるでその瞬間で時が止まり、二度と進まなくなっているかのようだった。[\s]

しかし、それは三十年以上も前のことなのだ。

一瞬にして、羅刹人の目に涙が浮かぶ。 「――お嬢さん。」 羅刹人は回想の中に浸っていたかったが、無理矢理、自分を現実世界に戻した。

虚空万象との戦いよりも、過去の思い出から離れることのほうが遥かに大変だ。だが、それを理解できる者はいないだろう。

「ここ数日、法器を使い続けていたせいで、真気を大きく消耗してしまったんだ。神州の武術の中には真気を伝える術があると聞いたのだが、君はできるかい?」

かつて天命と神州が戦った際に、羅刹人は気付いていた……[\s]

奥深く、理解し難いエネルギーである『真気』だが、同じものである筈なのに、東洋と西洋とで使い方に多くの違いがあった。

彼はそれをとても不思議に思っていた。

西洋では真気を疫病と見なし、その汚染から逃れようと必死になっている。

しかも、それに対抗するために、様々な技術を発展させてきた。[\s]

しかし、東洋人はそれを受け入れ、利用している。

自らを強化するための力にしているのだ。

天命と比べ、神州の科学技術は確かに遅れている。

しかし、真気に対する理解は東洋の方が全体的に優れていた。

……どうしてこのような違いが生まれたのだろうか?

「あっ、それは……」 李素裳は悩み、考える。

「あんたが言っているのは伝功でしょ。自分の真気を他の人に移すやつだよね?

先に言っておくけど、アタシたちの太虚剣気がダメってわけじゃないよ。

ただ……他の武術とは違うの。」

「自在門の祖師は精衛真人なんだ。彼女は世界に災いをもたらす妖魔や妖獣を倒すために、天下を旅していたんだって。そのこともあって、真人は気の暴走を最も忌み嫌ったの。 だから、彼女の武術は真気の修行をしないんだ。」 「おや?その話は初めて聞くね。」 「だってあんたは外国人だもの。知ってるはずないじゃない――あははっ!」 何がこの少女の笑いのツボになったのかは分からないが、素裳は楽しそうに笑い、話を続けた。 「だからね――えへへ……アタシたちは他の門派みたいに内功や丹田を鍛えたりしないの。体を鍛えて、真気の通り道にするんだ。」

「知ってる?いわゆる『先天一気』の本質って、命の活力のことなの。

それはどこにでもある。葉っぱや花びらの中でも、どこにでも真気は存在するんだよ。」

羅刹人は微笑んだ。彼からしてみれば、崩壊――東洋で言うところの『真気』は、生命力の代名詞というよりも、命の破壊者と称した方が適切に思えた。しかし、少女の意見を訂正する必要はないだろう。 「太虚剣心と剣形を会得すると、周囲から真気を吸収して、経絡に流し込むことができるの。必要な時に大波のように大きくしたり、細い流れにしたり、自由に制限なく使うことができるんだ。」 「だから他の武術に比べて、太虚剣気の威力は強いんだけど、アタシたちは丹田に真気を蓄えていない。」 李素裳は両腕を広げた。 「だから伝功はできないんだ。」 「しかし、君の説明によれば、」 羅刹人は少し考えた。 「君が自分で内功の流れを操れるのなら、世界中から真気を吸収し、それを僕の経絡に流し込むこともできるんじゃないだろうか?」 「えっ……確かにできそうだね。でもアタシには無理だよ。」 「教えてあげるよ。」 「あんたが?」 素裳は驚いた。 「あんた、できるの?」

「君の武術体系に合わせるために、もう少し説明してもう必要があるが。

東洋と西洋では真気に対する理解に違いがあるけど、本質は変わらない。」

「僕の頭脳と『虚空万象』があるんだ。太虚剣気の本質が分かれば、気の伝え方を導き出すのは難しくないだろうね。」 素裳は驚いて彼を見つめ、そして、突然笑い出した。 「危うく返す言葉が見つからなくなるところだったよ。あのね、あんたたち羅刹人は……あっ、そうか、あんたたちは天命派しかないのか。それなら武術界の掟を知らなくても無理もないよね。」

「武術は勝手に外部の人に伝えちゃダメなの!禁忌だから!

誰でも太虚剣気を習得できるようになったら、神州は大混乱になっちゃうじゃない!」

羅刹人はやや驚いた。確かに彼は、神州にそのような掟があるとは思ってもみなかった。 「……すまない。」 「えっ、別にあんたを責めているわけじゃないよ……あんたも……内傷を治したいんでしょう。」 「分かったよ、お嬢さん。あと半月ほど休んで、内功を調節してから自分で治そう。」

彼はそう言ったものの、実は考えがあった。彼の異常を引き起こしたのは天命の秘宝「黒淵白花」の本体だ。[\s]

模造品を使って逆行させるやり方など、自分の力では絶対に不可能である。最終的には、やはり東洋人の不思議な武術に頼るしかない。

「もう――あんた、よそよそし過ぎるよ。素裳でいいから……」 李素裳は無意識に口を尖らせた。表情が晴れと曇りを行ったり来たりしていて、苦しかった。 羅刹人が自分の力を消耗させてまで、毎日彼女の傷を癒してくれていたことに思い至ったためだろうか。少女は、この男を助けてあげたいと思った。[\s]しかし、『太虚剣気』は何があろうと絶対に外部に伝えてはならない秘密だ。 彼女はしばらく迷っていたが、急に立ち上がる。 「羅刹人、今すぐ出発しよう。時間を無駄にしちゃダメ!」 「たぶん、あと半日くらいの距離だから、今夜には家に着くと思う。馬を速く走らせれば、もっと早く……師匠に会ったら、あんたを治療してくれるよう頼んでみるよ。師匠が断ったら、その時は……その時は……」 素裳は考えに考え、唇を噛み、力強く言った。 「その時は、師匠の言うことなんて聞かない!」

窓の外は、まだ暗い。だが、凌霜はすでに目を覚ましていた。

彼女はいつも、この時間に目を覚ます。早過ぎることも、遅過ぎることもない。

桶に水を汲み、髪をとかして着替えると、彼女は寝台の上で座禅を組んだ。

剣心訣の黙読を始める。一度始めると二時間は続き、雷が鳴っても止めることはない。

そして立ち上がり、ほうきで床を掃く。部屋を綺麗に掃除すると、

近くの市場で小麦粉を焼いた生地と羊肉を買う。[\s]

水を使い切った場合は、隣の井戸で水を汲む。

朝食を終えると、凌霜は古い織機の前に座り、機織りをする。

以前は、満足のいく織物を一日で織ることができた。

弟子として素裳を迎えてからは、その速度は大幅に遅くなった。[\s]

遅ければ一週間、早くても四日はかかるようになったのだ。

李素裳は自分が出ていった後、

師匠が空いた時間に何をするのか、どのような修行をするのか気になっていた。

十年近く一緒にいたが、素裳は、

師匠が空いた時間のほとんどを古い織機の前で過ごすとは思ってもいなかっただろう。

はじめ、機織りは修行とまったく関係がなく、

ただ生計を立てるための手段でしかなかった。

しかし、凌霜にとっては全てが繋がっていた。機織りと武術に共通点があるのだろうか?

いつの間にか、凌霜にとっては機織りも、剣心を鍛え、武術を磨くための手段となっていた。

剣の道にはあらゆるものが含まれており、剣自体も拠り所に過ぎない。

立つ、座る、寝る、着る、食べる、暮らす、動く……生活のあらゆるところに、武術の道が隠されている。

一挙手一投足のすべてが武術の修行であり、不動の静寂もまた剣の鍛錬だった。これこそが、『渾然天成』。

そして素裳の師匠、精衛の五番弟子、『自在剣』こと凌霜は――[\s]

まさに渾然天成の人、天下無上の剣と言えるだろう。

精衛の弟子の中で最も才能があり、間違いなく今の武術界で最高の腕を持つ凌霜だが、どうして人知れず、漠北で何年もひっそりと暮らしているのだろうか? 理由を知っている者は、かつての同門だった者たちだけである。しかし、彼女たちは、決してそれを外に漏らさないと誓っていた。

凌霜はというと、ただひたすら剣心訣を黙読し、機織りをする毎日を繰り返していた。[\s]

彼女がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、誰も知らなかった。

……こうして、李素裳が試練のため外に出てから八日目。[\s]

凌霜が織機の前に腰かけていると、突然遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。

金砂会の最も上等な二頭引きの馬車が、飛ぶような速さで走っていた。

李素裳は馬車の荷台に肘をかけ、鼻歌を口ずさんでいる。機嫌はすこぶる良い。

「羅刹人、神通力を使うのはやめたら?ほら、風に吹かれるのって気持ちいいでしょ。」

疾走する馬車が強い風を起こす。素裳の編んだ髪の毛が二本の黒い小川のように流れていた。

一方、羅刹人は目に見えない空気の障壁で自分の周りを何重にも囲んでいた。[\s]

法器「虚空万象」が作り出した領域の中で、男の長い髪は静止している。その顔も穏やかで落ち着いていた。

「暑くないのかい?」

「暑いよ。でも、砂漠ってこういうものじゃない。」

「……ふむ。」

羅刹人は目に見えない障壁を拡大させ、少女も覆おうと思っていたのだが、その言葉を聞いて止めた。

「嫌なの?もう、ごめんね。あんたが馬車を……あんな風にするから。」

一日目に羅刹人が使った変幻の奇術は、簡素なものだった。

しかし、二日目に彼が使った奇術は、素裳の許容範囲を超えていた。

その馬車は丸く、デコボコしており、鮮やかな橙色がとても目を引いた。

羅刹人は「カボチャ」というのだと口にしながら、さらにそれを見つめ、頷きながら微笑んでいた。

李素裳は心の中で困り果ててしまった。あんな馬車に乗るくらいだったら、歩いた方がマシである。

「それに、あんたは傷を負っているんだから。危険を冒して奇術を使わないでよ……

……こうやって乗るのも悪くないでしょ!」

素裳は、羅刹人が残りわずかな内功を使い果たしてしまうのではないかと本気で心配していた。

しかし、羅刹人は風に対して、深い恨みでもあるかのようだった。

彼はオンボロの馬車に乗ることは承諾したが、身だしなみをきちんと整え、上品さを保つよう気を配っていた。無造作に垂れているように見える金髪だったが、一本たりとも風に吹かれないようにしている。

「……あんた、そんな能力があるのに、どうして捕まって地下牢に入れられていたの?

いくら考えても納得がいかないんだけど。」

「捕まった?僕は『鷹』の招待を受けて、彼らの集落に客人として滞在していただけさ。」

「……客人?」

李素裳は目を瞬かせた。 「地下牢にいる客人?」

「……場所は少し変だったけどね。」

羅刹人は手を下あごに伸ばし、考え込んだ。 「しかし、『鷹』は僕に、『この地はすべて私のものです。そしてあなたのすべても私にお任せください。どうぞお降りください。私の従僕について行ってください。煩雑な礼節は省略しましょう』と言ったんだが……これは招待じゃないのかい?」

「……あんた、神州語を誤解していたんじゃないの?」

李素裳は困ったように頭をかいた。

「そんな話し方をする人なんていないよ。『鷹』はどういう風に言ったの?」

「ここは俺のものだ。

そしてお前も俺のものだ。

出てこい。

ついて来い。

小細工はするな。」

羅刹人は「鷹」の口調を真似て話す。本物そっくりだった。

「……羅刹人、あんたの解釈はお人好し過ぎるよ……」

「仕方ないさ。君たちの言語は複雑すぎるんだ。」

李素裳は、気にも留めていない金髪の男を疑いの眼差しで見つめた。羅刹人が彼女をからかおうとしているのではないかと思ったからだ。 羅刹人の容姿はとても整っているが、やることや話すことは突拍子もなく、まったくつかみどころがない。

「もう、あんたと話すのは危険すぎるよ。

どの言葉も落とし穴みたいで、アタシが穴に落ちる姿を見て笑うのを待ち構えているみたい。」

「そうだ、天命派のことをもっと話してよ。」

「えっ?」

整った顔が手のひらから滑り落ち、手首の骨にドスンとぶつかった。羅刹人は飛び跳ねて、目をこする。

「いや、やめよう。本当に頭が疲れるんだ……」

「えー――」

李素裳の顔に落胆の色が浮かんだ。

「それは何日か後にしよう。もう少し整理させてくれないか……

日を改めて聞かせてあげよう。」

「だけど、家までまだかなりあるよ。お喋りしなかったら退屈だよ。」

羅刹人はしばらく黙っていた。

「それじゃあ、君が話してくれないか?あの仙人のことについて話してみてはどうだろうか?

確か、君は精衛と関係が深いと言っていたが。」

「関係が深いのは師匠やアタシの母さんだよ。アタシは……仙人に会ったことがないの。」

素裳は頑張って思い出そうとした。

「本当だよ。アタシは会ったことがないの。父さんも母さんも、仙人について話したことはなかったから。

精衛真人のことは、乳母から話してもらっていただけなの。」