少女は急ぎもゆっくりもせず、包みを開けた。伝家の宝剣を取り出し、細かく観察する。 古剣 - 軒轅。 剣の長さは二尺一寸。剣身は金色で、両側に刃があり、暗灰色の模様が描かれている。 材質不明で、精鉄でも鋼でもないが、重さは感じられず、切れ味も良い。その鋭利さと硬さは世の名剣に匹敵する。 母親はこの剣を彼女に渡した時、こう忠告した。

「この剣は師匠が残したもので、私の大事な伝家の宝物でもある。

きちんと仕舞って、何があっても剣を手放しちゃだめよ。」

「『太虚剣気』の本当の秘密は内功でも技でもなく、この剣の中にある。

剣意を習得したら、母さんの言ってることが分かるはず。」

秦素衣は少女の頬を優しくつねって、それからまた、話を続ける。 「……もし習得できなかったとしても、大丈夫よ。[\s]剣意は難しい。私たち七人の中では、あなたの師匠だけが意蘊を習得できなかった。しかし武術の造詣で、彼女に勝る者はいないわ。」 母親は急にため息をついた。 「凌霜姉さんは淡泊な人で、利益のことなんて考えない……でももう、十数年が過ぎている。人は変わるものよ。」

「素裳、軒轅剣を彼女に渡しちゃだめ、たとえ彼女がそう命令したとしてもね。[\s]

もし聞かれたら、私がそう言ったって伝えなさい。」

素裳は大騒ぎした。いざ大漠に着いた後は、泣き真似もしてみたが、すぐに好奇心が勝り、師匠に質問し始めた。

子供は隠し事ができない。そんなに話してもいないうちに、軒轅剣のことを口にした。

そして母親の予想通り、師匠はあの軒轅剣を渡すように言ってきた。[\s]

正直者の素裳はしばらく考えて、最後は両手で古剣を差し出した。

さすがに師匠は5歳の女の子をいじめて、ものを奪ったりしないでしょう?[\s]

軒轅を渡した瞬間、少女はなぜか新しい服を見せびらかすような気分になった。

「……」 師匠は軒轅剣を膝の上に置き、黙ったまま切先を優しく撫でていたが、しばらくしてやっと口を開く。 「これが七番弟子の『墨染香』?」

七番弟子……素裳は呆気にとられたが、すぐに母親が師匠と同じ門派の出身で、七番弟子であることを思い出した。[\s]

『墨染香』は母親が使っていた軒轅剣の名前である。

師匠に言われ、少女は今まで母親の武術、そして武器を使っているところを見たことがないと思い出す。 「分からない、たぶんそうだと思う。母さんは伝家の宝物だって言ってた。」 「ふむ……伝家の。」 師匠は冷たく返事して、再び視線を膝の上にある宝剣に戻す。細い指が剣刃を優しく弾く。 素裳はぽかんとした。宝剣が空を舞う姿が見えたのだ。 それはゆっくり、ゆっくりと上がっていき、そして、止まる。 日差しが金色の剣身を照らした。変わった模様に吸収されたかのように、それは空中で七色の光を放つ。 「わぁ……」 素裳は、その景色に心を奪われた。 よく考えてみれば、剣が空を舞って落ちる姿など、一秒前後の光景に過ぎない。

しかし素裳にとっては、無限のように長い一秒だった。[\s]

幼い頃から剣と共に生きてきた彼女であったが、今まで、剣がこれほど美しいものだと知らなかった。

その減速されたかのような時間の中で、軒轅は輝きを纏い、ゆっくりと落ちていく。[\s]

そして彼女の目の前に落下し、剣身は、音一つなく地面に刺さった。

師匠は立ち上がり、袖の埃を払いながらこう言った。 「明日から、剣心の修行をしてもらう。剣心が終わった後は剣形の修行だ。剣形を習得した後であれば、この剣を持っても良い。」

思い出の中の素裳が、プッと吹き出した。[\s]

今の彼女には、この軒轅を使う資格がある。

手の中の宝剣を観察した素裳は、ふと遊び心に駆られた。

理性が邪魔するよりも先に、本能が率先して行動に移す。[\s]

少女は宝剣を撫で、それからあの時の師匠のように、切先を指で弾いた。

宝剣は空を舞い、風を切り、金の光が眩しく輝き出す。 ——次の瞬間、軒轅が天井に当たり、地面に落ちた。 「……まずい。」 穴蔵の門が突然開けられ、上から光が差し込んだ。一人の人間が階段から降りてくる。 相手は周りの雑音に目を向けることなく、真っ直ぐに彼女の前へと向かってくる。 李素裳は相手のことを知っている。 「ごめん、手が滑って……大丈夫だよね?うるさかった?」 相手は鉄格子越しに彼女を見ながら、突如凶悪な笑顔を見せた。 「首領がお前に会いたいと言ってる。」 「あちゃー……やっぱり。」 李素裳はため息をつく。自分が裏切られたことに気が付いたのだ。
「鷹」は喜び、驚き、そして怒りを覚えた。 部下が騒ぎを起こしたネズミを捕らえたと知って、喜びを感じた。

『侵入者』がまさかの小娘だと聞いた時、驚きを覚えた。

少女の姿を見た時、「鷹」は怒りに震えた。 彼が手塩にかけて育てた兵士が、10代の小娘にあんな風にボコボコにされただと!?

なんという侮辱だ!!!

怒りのあまり、衝撃すら感じた。 「鷹」は一歩前へ出る。目の前の少女を観察し、心の中が疑問で溢れた。 この小娘は何者だ!?

この漠北で、金砂会を恐れぬ者はいない。

官兵の精鋭でも、遠くて頑丈な金砂会を恐れ、衝突を避けている。

一体誰が、身の程知らずにも自らやってきて、この「鷹」を敵に回すというのだ?

彼には分からなかった。 更に——来たのは小娘だ。歳は高くとも16くらいだろう。子供っぽさがまだ残っていて、その眼差しからは少年のような心意気を感じる。 更に——彼女の武術は悪くない、むしろ驚くほど優れていた。「鷹」の自慢の部下が一斉にかかっても、彼女を捕らえることはできなかったという。 この小娘は一体何者だ!? 「鷹」はそう訊ねたかった。

しかし予想外にも、先に口を開いたのは彼ではなかった。

「あんたが『鷹』なの?へえ、想像していたのとちが——」 「鷹」は手を上げて少女に平手打ちを食わせ、少女の言葉を塞ぐ。

彼の縄張りでは、彼が先に口を開き、彼が先に質問するのが鉄則である。

少女は顔を上げた。口元に血が流れている。 彼女は信じられないといった表情で「鷹」を見上げる。涙目になっていた。 「あんた……アタシを殴った?母さんにも——」 「鷹」はまた少女に平手打ちを食らわす。今回は力が入っていて、素裳はあやうく床に足をつけるところだった。 「……今度、捕虜を連れ帰った時は、口を塞いでおけ。」 「はい、首領。」

「鷹」は手を拭い、少女の前にしゃがむ。

少女もまた彼を見ていた。その視線に恐れの色はなく、あるのは強情と怒りのみだ。

「鷹」は彼女の顎を掴み、ゆっくりと話す。

「お前が誰だか知らないし、その目的も知らない。

最初は、興味があったらお前の目的を聞いてやってもいいと思った。

もし俺を笑わせられるなら、大目に見てやってもいいとさえ思ったんだが。」

「……今、お前にそういう機会はやってこない。」 「鷹」は涙で濡れた少女の両目をじっと見つめながら、敵に制裁を与える快感を楽しむ。これは本来の彼のやり方ではないが、あの羅刹人と出会ってから、気分が晴れないままだった。 威嚇と恫喝に意味はないと知りつつも、彼は話を続ける。

「次は、自分が口を開いてもいい時機を覚えろ。

口を慎め。主人に気に入られるためにも、自分の命を守るためにも。

将来お前が日々付き合うだろう人間は、俺のように優しくはないからな。」

「お前はまだ幼い、顔も悪くない。調教すればきっと気に入ってもらえるだろう。正直に言えば、俺はお前をいい値段で売り捌くつもりだ。あと数日は安全だろうが、あまり調子に乗るな。」 「バイホイの奴隷商人がお前を連れ去った後、きっとお前は今日俺に殺されなかったことを後悔するだろう。俺が保証する。」

「思い切り後悔して、許しを乞えばいい……お前は死ぬまでそうする運命だからな。

俺の金砂会を挑発したやつは、その結末からは逃げられない。」

そう言って、「鷹」は捕虜を一目見て、満足する結果を得ようとしたが、また失望する。

少女は鼻をすすり、大人しく頷き、一言も口にしなかった。

様々な反応の中で、こういう態度が一番彼の逆鱗に触れる。

「鷹」は素裳を突き飛ばした。不快感を表すかのように服で手を拭い、横にいる部下を見る。 「何を考えている?」 突如聞かれた男はビックリした。汗だくになり、言葉もうまく発することができない 。

「さっきからお前は落ち着かない様子だった。

……言いたいことがあるんだろう?言え。」

「は、はい……こ、この娘は手強いです……用心したほうがいいかと……」 「鷹」が嫌悪した表情で部下をちらりと見ると、相手は驚いて一歩下がった。 「お前たち、彼女に『截気散』を飲ませたんだな。」 「は……はい、抵抗はされませんでした。その……首領に不利なことをするんじゃないかって、心配で。」 「十代の娘が、手枷で束縛されて、内功も使えない。」 「……そんな相手が、俺に不利なことをすると思うのか?」 「申し訳ありませんでした!」

男は気が動転して、慌てて跪く。

首領の口調が穏やかであればあるほど、怒り心頭の状態にあるということを、知っているからだ。

「……」 「鷹」は腹を立ててはいるが、顔色ひとつ変えていない。それは彼が長年培った習慣である。 羅刹人を見ると、気分が晴れない。小娘を見ると怒りが湧いてくる。そして部下の勝手な真似は、権威が損なわれたと彼に思わせた。 「あの娘を……地下牢に入れておけ。あの羅刹人と共にな。」 「食料は与えるな、バイホイの人間が来るまで飢えさせるんだ。」 「はい!」 衆人は一斉に呼応し、少女を引き摺り、暗い地下牢に入れるため連れ去った。 「……ん?」

先程跪いた男は、まだその場にいる。

頭を伏せ、顔を上げていないが、体の震えは彼の緊張を物語っている。

「まだ何か言いたいことがあるのか?」 男は罪を赦免されたかのように体をまっすぐに伸ばし、少し興奮した笑みを見せる。 「首領に献上したい宝物があります。どうか、これでお許しを。」 そう言って、彼は手品をするかのように包みを取り出し、両手で差し出す。 「鷹」は受け取ることなく、包みに視線を向けぬまま、質問した。 「中身は?どこで手に入れた?」 「鉄をも簡単に削れる宝剣、あの小娘から奪ったものです。」 「……」 「鷹」は依然として受け取らない。 男も宝物を献上する姿勢のまま、微動だにしない。

しばらくして、「鷹」はふと笑い出した。包みを取って帯を解き、宝剣の本当の姿を見る。[\s]

目の前の男には隠し事も嘘もないということを確認できた。それで十分だ。

「へえ——」 淡い月明かりの下で、宝剣が銀色の光を放つ。 一目見て、その剣が珍しい宝物であることが分かった。
ドン。 李素裳は突き飛ばされ、地面に転んだ。 「う——」 痛くはないが、素裳は本能的に喚いた。少女の柔らかい声は口の中に入れられた布のせいで打って変わって、低い鳴き声にしかならない。 強盗たちが牢屋の外で談笑し、汚い言葉を放つ。

ガタッ。[\s]

鉄格子の鍵がかかった。

松明の光が足音と共に遠くなる。少女は、暗い地下牢の中に置き去りにされてしまった。

素裳は体を動かしながら、座ろうと試みる。[\s]

彼女の目はまだ暗闇に慣れておらず、何も見えない。両足を動かす時に、何かにぶつけた。

そして、ため息が聞こえる。 その声と共に、部屋の中に仄かに揺らめく炎が現れ、かろうじて小さな牢屋を照らした。

李素裳は、驚く。[\s]

彼女を驚かせたのは突如現れた火の光ではなく、ため息をついた相手だった。

それは20歳くらいの女性で、白い肌と美しい容姿を持っていた。神州人とは全く違っていて、まるで伝説の中の仙人のようだ。 炎が彼女の耳元で揺らぎ、妖艶さを一層引き立てている。

[em italic]羅刹人……[/em][\s]

李素裳は強盗たちのひそひそ話を思い出した。[\s]

[em italic]羅刹人は、こんな感じなんだ。[/em]

その横を見ると、女性の横には大きな棺が置いてあった。

危うく蹴ってしまいそうになったものである。

棺桶はよくあるものだ。わざわざ避けるようなものでもない。しかし、怪談話をたくさん聞いてきた素裳は、やはり怯えてしまう。こんな時に、こんなものが暗い地下牢の中に現れるなんて、不気味そのものだ。

素裳は本能的に視線を逸らし、また羅刹の女性に戻す。

最初はチラッと見ただけだったが、相手の反応がないと分かった後は、開き直ってじっと見つめ始める。

羅刹人は彼女の無礼な眼差しを無視し、ただ手に持つ硝子の容器を揺らす。 「うううむ?」

口の中に布が入っていることを忘れていた彼女は、意味不明な音しか出せない。[\s]

李素裳は気まずそうな表情をしたが、周りは暗く、相手に悟られずに済んだ。

素裳は女性に、口の中の布を外してほしいと視線を送る。

だが、羅刹人は視線を戻し、素知らぬ顔をした。

何度か目配せをしてみたが、全部相手に無視される。少しの反応もない。

(こいつ——) ふといい案が閃き、素裳はあの棺を蹴る振りをした。 李素裳が枷をはめられた両足を上げようとした時、炎が一瞬消える。続いて、口元の重圧感から解放された。

そして、再び火が灯る。李素裳は壁際にいる羅刹人をチラリと見たが、彼女は先ほどの姿勢のままだった。[\s]

ただ、彼女がこちらに向ける視線には、かすかな苛立ちが混ざっていた。

「何がしたい?」

「男だったの?」

二人は同時に口を開き、同時に驚いた。

羅刹人は口を閉ざし、黙って李素裳の言葉を肯定した。

しかし李素裳の口からは、立て続けに言葉が出る。

「アタシ?別に何もしないよ。ただ、あんたに布を取ってもらいたかっただけ。

ありがとう。あんた、いい人なんだね。ただちょっと……女っぽいけど。」

「この恩は必ず返すよ。

気功を使ってこの枷を外したらあんたを——って、あんたの枷は!?」

猿轡をされ、手足に枷をはめられていた李素裳とは異なり、

この羅刹人の体は一切拘束されていなかった。

それだけではない。彼は凝った装飾の椅子に腰かけ、グラスを片手に持ち、赤い液体に口をつけている。その姿はとても上品だった。 「あんた……囚人でしょ?」 羅刹人は一言も発することなく立ち上がった。椅子とグラスは雪や水が蒸発するかのように、火の中へと消えていった。 「えええええ…… よ、妖術!妖怪!」 李素裳は血の気が引いた。

少女は怖いもの知らずだが、霊的なものには弱かったのだ。[\s]

彼女は羅刹人の妖術に腰を抜かした。女傑としてのメンツなどお構いなしである。

甲高い悲鳴が地下牢の中に長く響いたが、誰一人として応じる者はおらず、様子を見に来る者もいなかった。[\s]羅刹人は悲鳴が終わり、彼女が炎に映る自分の影を見るまで待ってから口を開いた。 「違う。」 素裳は少し考え、ようやくそれが、自分の質問に対する答えだと分かった。 「何が違うの?妖怪じゃないの?あっ、囚人じゃないって言ったよね。

あれ?じゃあどうしてここに閉じこめられているの?あんた、アタシを騙して——」

「……」 羅刹人は肯定も否定もしない。彼女の言葉が理解できているかも定かではなかった。素裳はその男性をチラリと見る。息を呑むほど美しい顔立ちをしており、ならず者には見えなかった。 無意識のうちに頭が回転し始め、素裳は目の前の羅刹人の過去について、あれこれと思い浮かべた。

「あんたも金砂会に捕まったの?

そんなはずないよね。あいつらは極悪人だから、囚人を鎖で繋げないなんておかしいもの。」

「もしかして、『鷹』の客?だからあんたに遠慮してるとか……

それも違うよね。そうだったらアタシをあんたと一緒に閉じこめるはずないもの。」

「……」 「まさか……アタシと同じこと考えてる?」 「そうなんでしょ?アタシの思った通りなんじゃない?」 羅刹人は肩をすくめ、口元にかすかな笑みを浮かべた。 「僕は君じゃない。何を考えているかなんて分からない。」 「うっ……じゃあ教えてあげる。」
少女は自分に言い聞かせるように言った。

「上にいる奴らが金砂会って名前なのは知ってるでしょ?

あいつらは大悪党で、悪事の限りを尽くしているの。」

「アタシは、この悪党どもを退治するようにと師匠から仰せつかってるんだ。英雄たる者、悪を懲らしめて正義を広め、この世に公正さと平和を取り戻さなくては……あっ、これは講談師が言ってて。」 彼女は咳払いして、恥ずかしそうに羅刹人の方をチラリと見た。彼が興味深そうに彼女に目を向けているのを見て、すぐさま嬉しくなる。無意識に背筋を伸ばし、口調も厳かなものになった。

「金砂会はならず者の集まりでしかないから、恐れることはないよ。

『鷹』って奴があいつらの首領なんだ。」

「こいつが一筋縄ではいかないの。師匠の話によると、かなりの修行を積んだ手練れなんだって。そうじゃなかったら、師匠もわざわざアタシをここに遣わしたりしないでしょ。」

「ここに来た目的は漠北の民の憂いを取り除くためだよ。

そして、アタシの腕を試すためでもあるの。」

大げさな口ぶりだったが、素裳もやや自信がなかった。 しかし、羅刹人を見ると、しっかりと聞いてくれており、異論も唱えなかった。すぐさま気分が良くなり、素裳はこの金髪の異邦人のことを最高の話し相手と思うようになった。 「アタシたち自在門の武術は『太虚剣気』って言うんだ。武術界の伝説である精衛仙人秘伝の奇術で、武術界の中でも一番上なんだよ。」 「太虚剣気には心、形、意、魂、神の五蘊があるの。」 「ここだけの話だけど、アタシの剣心、剣形、剣魂はちょっとできてるんだ。

……だけど、軒轅剣意の壁にぶつかっちゃって、どうやっても会得できないの。」

「剣意の修練方法は師匠も知らないんだけど、母さんはできるんだ。母さんは『軒轅と心が通じれば、剣意は自ずとできあがる』って言ってたけどね。ただの剣なのに、どこに心があるんだろ?」 「この剣に10年以上も話しかけてるけど、一度も返事してくれたことがないんだ。うんともすんとも言わないんだから。あ~あ、母さんに聞きたいけど、家にはずっと帰ってないし……」 「あっ、まだ言ってなかったね。軒轅剣というのは……うーん、やめておく。うまく説明できないし……」 「アタシの剣は金砂会の連中に取られちゃったけど、心配いらないよ。すぐに取り返してみせるから。どうやって取り返すかについては——」 「アタシにいい考えがあるの!」

少女は、興奮した口調で目を輝かせながら言った。[\s]

彼女の話がどれだけ飛躍し、論理が支離滅裂であっても、羅刹人は興味深そうに耳を傾けている。

「アタシね、師匠から剣術を10年も習ったの。

恥ずかしい話なんだけど、師匠以外の達人とは手合わせしたことがないんだ。」

「師匠はいつも、剣の腕を磨くことと剣を使うことは別だって言ってたけど、そんなに難しい話じゃないと思うんだよね。」 「アタシが年端もいかないからって見くびらないでね。こう見えてもすごいんだから。いい?さっき4人の男をぶちのめしたんだけど、1人も殺していないんだよ。」 「これって難しいんだからね。慎重に慎重に力を加減しないといけないし。」 「人を殺さない。どうやって金砂会を倒す?」 羅刹人の質問は的を射ていた。彼の神州語は正確なものではなかったが、素裳も気にしていなかった。

「うーん、それは、その、殺さなきゃいけない奴は殺すけど。

1人を殺して100人を救えるなら、それでもいいかな……って。」

「だけど、アタシは人を殺したことがないから、ちょっと……躊躇っちゃう。だって命には変わりないんだから!できることなら、あまり人を殺めたくないんだ……」

「だから、直接あの『鷹』って奴を倒したいの。

そいつを倒せば、金砂会は自然と消滅するでしょ。三下ばかり相手にしていてもつまらないし。」

「ああ。」 羅刹人は相槌を打っただけだったが、素裳は彼も興味を持ったと思い込み、すぐに顔を喜びで輝かせた。 「だからね——わぁっ!」 彼女は、手に枷がはめられていることを忘れていた。腕を大きく動かしたせいで鎖が引っ張られ、痛みが走ったのだ。 金砂会が彼女に飲ませた『截気散』は確かに毒薬だった。彼女の下丹田には真気が満ちていたが、経脈に流れることができず、強力な内功もまったく使いものにならなくなっている。 ——しかし、少女が習得しているのは『太虚剣気』だ。

精衛真人のこの奇術は、武術界の一般的な内功とはまったく違う。

通常の内功は丹田を鍛え、その中に真気を溜める。

しかし、『太虚剣気』はそうではない。

『剣心』を習得した者は、

天地を丹田とし、肉体を経絡とすることができるのだ。

ましてや『武』道の本質とされる『気』は、隠す必要すらない。

そのため、李素裳にとっては、下丹田を封じられたことは多少不便ではあるものの、大きな問題ではなかった。 「もうっ、これじゃ話すのも不便だし、先に気功で枷を外さないと——」 「僕がやろう。」

彼がそう言った瞬間、素裳は手足が軽くなったのを感じた。手足にはめられていた硬い鉄枷は粉々に砕け、地面に散らばっていた。[\s]

彼女の両手両足には傷一つなく、服も同様だった。

「あ……あんた……」 李素裳は一瞬、言葉を失った。この眉目秀麗な羅刹人に会ってから、不思議なことが数多く起こっている。

彼が妖術で椅子やグラスを消せるのであれば、鉄枷を粉々にできてもおかしくはないが……[\s]

……そんなバカな!!!!

彼女は思わず自分の学んだ知識を総動員して、目の前の棺を持った不思議な男を見つめ直した。[\s]

まさか、『彼』はただならぬ腕前を隠した達人なのだろうか?

素裳は信じなかった。

彼女が思い描く武術界の達人とは、師匠、母親、または未来の自分のような姿だった。

目の前の羅刹人は、彼女が思い描く武術の達人像とはかけ離れていた。

[em italic]だが、彼は確かに、ただならぬ能力を持っている……[/em] 彼女がぼんやり考えていると、羅刹人が不意に口を開いた。 「君の考えとは?」 「うん、あっ……えっ?」 「君の計画だよ。」 「あっ、アタシ……」 どういうわけか、羅刹人の技を目の当たりにした彼女は、急に自分に自信が持てなくなってしまった。 「アタシ……金砂会の拠点に潜り込んで、機会をうかがって『鷹』に戦いを挑むつもりだったの。」 「でも……はぁ、アタシ、あんたを騙したんだ。実際はそんなに上手くいかないよ。気功で鎖を壊して、外に出てアタシの剣を探して、それから……その時になってから考えようって思っていたの。」 「別にいい考えがあるわけじゃない。ただ……アタシ……口に出したくなくて。」 少女の声が徐々に小さくなっていく。 「勝てるかい?」 「えっ?」 「あの鷹に戦いを挑むんだろう?」 「……うん、大丈夫だと思う。」 「よし、行こう。」 「い、今から?」 「それが君の計画だろう?」 「そうだけど、でも……」 素裳は俯き、若干の後悔と焦りを伴いながら小声で言った。 「今は夜中だよ……夜中に戦いを挑む英雄がいる?そんなの正々堂々としてないじゃない……」 「正々堂々……」 羅刹人はその言葉を噛みしめるように言った。 「昼間のことを指しているのかい?皆がいる時にあの鷹に戦いを挑むということ?」 「そうよ!」 李素裳は力強く答えた。 「質問がある。」 「言ってみて。」 「昼間、正々堂々。あの鷹には100人の手下がいて、周りを固めている。彼は君の挑戦を受けると思うかい?」 「もちろんよ。これは武術界の掟だもの!あいつは……」 李素裳は少し考え、ため息をついた。 「……あんたの言うことにも一理あると思う。」

「だから昼間は、無理だ。

勝ちたいなら、夜しかない。」

「……うん。」

「神州の古い諺を聞いたことがある——

『魚は我が欲するところなり。熊掌もまた我の欲するところなり。』

両者は相容れず、選ぶのが難しいという意味さ。」

「『正々堂々』は魚。

『悪党退治』は熊掌。」

「君が正々堂々を求めれば、悪党退治はできなくなる。

『二つの者兼ね得べからざれば、魚を舍てて熊掌を欲するところなり。』

二兎を追う者は一兎をも得ず。どちらかを選ばなくては。」

「……」 羅刹人の手が宙で踊る。その動作は、とても上品なものだった。 「では、行こう。お嬢さん?」 「はぁ…… 分かった。」

羅刹人が微笑むと、空中の火が突如として消えた。[\s]

……違う。火は残っている。

その火は瞬間移動したかのごとく、突如として羅刹人の手のそばに現れると、ますます勢いよく燃えていく。[\s]

火の勢いが……まるで……

剣のよう?

素裳は唖然としながら、羅刹人の『妖術』を見ていた。[\s]

彼女が我に返った時、火はすでに消え、地下牢の扉が破られていた。焦げた臭いが鼻をつく。

「どうぞ。」 「……」 李素裳は大人しく前に進むも、少し歩いたところで急に立ち止まると、彼に顔を向けて強い口調で言った。 「アタシに悪事の片棒を担がせるなんて、あんた……悪い羅刹人なんだね。」 「はぁ。」 羅刹人はため息をついたが、申し訳なさの欠片もないようだった。 「そうかもしれないな。」 暗闇の中では、彼の表情は見えない。その口調からは、言い知れぬ悲しみしか感じなかった。 「僕がやろうとしていることは、良し悪しでは定義できないんだ。」

はじめ、この暗い牢の見張りは二人しかいなかった。

そのうちの一人は羅刹人を丁重に牢に入れると、病気だと偽って持ち場を放棄した。もう一人は食事を届けに行ったが、腰を抜かしてしまい、それ以後は二度と地下牢に入ろうとしなかった。

「あれは人間なのか?ありゃ妖怪だ!言葉を話す灯籠なんて、見たことあるか?俺は行かねぇ、死んでも行かねぇぞ。」

彼の口ぶりは、「鷹」よりも牢屋の中の異邦人を怖がっているようだった。

最も不思議だったのは、そのことを聞いた「鷹」がまったく怒らなかったことだ。これまでの彼からは想像もできない。

「数日もしないうちにバイホイ人が来る。人手を増やせ。」

彼が『人手を増やす』と、すぐに十数人と十数の武器が追加で配置された。

新たに来た者たちは戦々恐々としながら牢の配置につく。しかし、特に変わった点はなく、一同の恐怖は消え、前の二人の見張りを存分に嘲笑ったのだった。

金砂会の盗賊たちは、笑いながらも油断することはなかった。誰に言われるでもなく昼と夜で交代するようにし、常に五人が地下牢の扉を見張るようにしていた。

この時、五人の不運な男たちは、中で何が起こっているのかをまだ知らなかった。

その夜は控えめに言っても奇妙な夜だった。首領を怒らせたあの少女が牢に入れられてからは、中から何の音も聞こえてこなくなったのだ。

完全な静けさ——静寂が訪れた。

人の声も雑音も一切聞こえなかった。

見張りたちは異様な音には気付かなかったが、不思議な臭いには気付いた。それは、焦げた臭いだった。

何かが焦げているような臭いが強まっていく。五人はそれぞれの刀を抜き、入口の前に集まった。

「下りるか?」

見張りの一人が、小さな声で他の者たちに意見を求めた。

他の者が返事をするよりも早く、扉は轟音と共に爆発した。

五人が最後に目にしたのは真紅の火柱だった。

夜は更けていたが、「鷹」はまったく眠っていなかった。 古い宿場の広間には明かりが灯っており、建物の外の中庭は、火の光と暗闇によって二つに分かれていた。 「鷹」は中庭に立っていた。最も信頼する八人の部下が、傍らで彼の剣舞を見ている。 「鷹」は剣客ではなく、剣術の造詣も深くはない。彼は元々軍人であり、習得したのは刀術だった。

剣と刀は似ているように見えるが、まったくの別物だ。

「剣は軽やかに、刀は力強く」と言うように、剣が変幻自在の素早い動きをするのに対し、刀は直線的な動きで力を使って相手を倒す。

剣術を習得した者が刀を扱うと、剣術のような動きになる。その逆もまた然りだ。

そのため、「鷹」は剣舞を披露しているが、実のところは刀舞だった。

彼がこのようなことをしているのも、宝剣が手に入って嬉しかったからに他ならない。

彼はこれほど見事な武器を見たことがなかった。

「鷹」は剣を持ち、軽快に走った。突如、手首を軽く回して剣花の舞を3回披露した。 まるで、墨をつけた筆だった。剣先が移動することによって、ほの暗い筋が空中に残る。書道の筆遣いのようだ。

これは剣筋の美しさを示している。まさに完璧そのものだ。

「鷹」は剣を素早く突き出し、急に手首の力加減を変えた。剣身は動かず、剣先がかすかに震えて、ヒュンヒュンと音を立てている。

これは剣身のしなやかさを示している。剛と柔を兼ね備えているのだ。

剣が止まって見えるほど、勢いを落とす。刃は胸の横に当てられ、圧倒的なまでに冷たく鋭い光を放っている。

これは剣の光の強さを示している。骨に突き刺さるほど冷たい光だ。

「鷹」は思わず高笑いした。髪の毛を1本抜いて、剣の刃の上に置く。手を放すと、髪の毛は両断された。 これは剣の刃の鋭さを示している。息を吹きかけるだけで髪の毛を両断するのだ。 これら4つの特性を兼ね備えたこの剣は、まさに比類なき神器と言えるだろう。 「素晴らしい、素晴らしいぞ……」 「鷹」は呟くように言った。

「鷹」は決して、剣を愛でたり集めたりするような人間ではない。

彼が剣のことを褒めたとしても、それは山賊が戦利品を評価するようなものでしかなかった。

目利きの者が少女のこの剣を見れば、大金をはたいたとしても手に入れようとするだろう。 しかし、彼は武術家だ。 古来より名剣は美しい玉のようなもので、手に入れた者は必ずそれを身につけるのが習わしだ。 「鷹」はこの剣を自分のもとに置いておくことにした。金銀財宝とは関係ない。自分の地位を示すためだった。 自分のような人物が、地位に見合うだけの武器を持つのは当然のことだ。 金砂会の首領は李素裳の『軒轅』をしげしげと見つめる。見れば見るほど、この剣を気に入るようになった。 「あんた、そんなにアタシの剣が気に入ったの?」 「!!!!!」 「鷹」は驚きのあまり、本能的に6尺ほど離れた場所まで飛び退く。

彼の目の前には信じられない光景が広がっていた。[\s]

8人の手下がいつの間にか地面に倒れ、気を失っていたのだ。

そして、彼が自ら牢屋に閉じ込めるように命令したはずの少女が、目を瞬かせながら彼を見ていた。[\s]

[em italic]どういうことだ!?!?[/em]

……もしこれが何かの冗談であれば、首謀者を八つ裂きにして馬の餌にしていただろう。 しかし、少女は臆することなく、彼の方に手を伸ばした。 「ほら、もう十分でしょ。そろそろ返して。」 「……ふざけたことを抜かすな!」 「鷹」は動揺していたが、少女のその言葉によって怒りに火がついた。 彼はこうした理解不能な状況に陥ることを嫌っており、再び状況の主導権を奪おうとする。 「……どうやって逃げ出したんだ?」 「あぁ、羅刹人が手伝ってくれて……あれ、あの人は?」 少女はキョロキョロと周囲を見回した。 (※※、おのれ、羅刹人め!)

「鷹」は心の中で自分をひどく罵った。[\s]

『災い』だと気付いた時、すぐに始末しておけばよかったのだ。

皆が災いを恐れるからこそ、災いは問題を生じさせる。[\s]

「鷹」はあの羅刹の変人を軽んじたことを後悔した。しかし、今となっては後悔しても後の祭りだ。

彼は静かに後ずさりし、安全な会話の距離を保とうとした。しかし、剣を手にしているのは彼の方だ。本来なら必要のないことである。[\s]

……しかし、「鷹」が最も心配しているのは少女ではなかった。

この時、月は明るく、星はまばらだった。揺らめくロウソクの炎に照らされた影が、石畳の上で踊り続けている。問題を解決するには絶好の機会だった。 「あの羅刹人は?……あいつはどこだ?」 「知らないよ。」 少女の言葉は本当だった。彼女には嘘をつくという概念がないようだ。 「さっきまで後ろにいたのに、急にいなくなっちゃった。」 それは彼にとって、まさしく最悪の答えだった。[\s]実のところ、「鷹」は目の前の少女のことはまったく気にしていなかった。[\s]相手の武術がどれほど優れていようと、これほど馬鹿正直な子供に負けるはずはない。

彼は最初から例の羅刹人のことを、今宵の最も危険な人物と見なしていた。

そして、その人物の動きをつかめないことによって、彼は自信を大きく失ってしまった。

羅刹人は既に遠くへ逃げているかもしれないし、どこかに身を潜めて機会を伺っているかもしれない——いずれにせよ、彼の心はトゲが引っかかっているような状態であり、取り除くまでは安心できなかった。 「ちょっと。あの人に構うことないよ。今のあんたの相手はアタシでしょ。」 少女は伸ばしていた腕を引っ込め、拱手の礼をした。 「剣は返してもらうよ。自在門の門弟、李素裳。お相手いたす!」 彼女は場にまったくそぐわない言葉を並べ立てると、構えを取った。 「鷹」が動くよりも早く、少女の影は彼の目前に迫っていた。 次の瞬間、彼の前腕に痛みが走り、宝剣が手から落ちた。 「貴様——」 今度は胸に掌打を受けた。 「鷹」は数歩後ろによろめき、慌てて気を集中させて呼吸を整えようとしたが、体内の臓器はまだ波打つように揺れており、落ち着かせることができなかった。 「……おのれ!」

その掌打は内功を使っておらず、重くはあったが、内臓を傷つけるほどではなかった。

しかし、少女の軽功の妙技は、「鷹」も見たことがないほどだった。

驚きと怒りのあまり、羅刹人の存在を忘れる。

「鷹」は、この十幾つかの相手を改めて見定めることにした。

李素裳は低い姿勢のまま左ひざを地面すれすれまで曲げ、親指、薬指、小指で軽く地面に触れた。 もし誰かが彼女のその時の様子に気付いていれば、滑稽の極みとすら思ったかもしれない。 しかし、李素裳の身のこなしをもってすれば、凡人の動体視力でその不思議な構えを捕捉することなど不可能だった。

その技は太虚剣気ではなく、李家に伝わる軽功だった。

「飛燕功」。

黒い影が閃いたかと思うと、すでに李素裳が「鷹」の目の前まで跳躍していた。 彼女が最初に繰り出したのは手刀による攻撃だった。

彼女の右手が「鷹」の前腕に命中し、彼は「軒轅」を落とす。

そして返す手で稲妻のような掌打を男のみぞおちに叩き込み、吹き飛ばした。

それと同時に、彼女の左手は古剣を正確に掴み取っていた。

慣れ親しんだ安心感が素裳の胸に満ち溢れた。

再び剣を握り締める。しっくりくる感じだ。

李素裳は宝剣を振り、「鷹」に明るく微笑んだ。 「ありがと。」 彼女の口調は素直で可愛らしかったが、「鷹」にはこの上ない屈辱に聞こえた。

長年、漠北を旅してきたが、これほどまでに打ち負かされたことはない。

たちまち「鷹」に殺意が芽生え、それとともに復讐心が満ち溢れていった。

ただ李素裳を殺すだけでは飽き足らない。彼女にはこれ以上ないほど悲惨な死を与えなくてはならない。

彼は敵を迎え撃つ姿勢を保った。

金砂会の首領は気力を振り絞り、

目の前の少女を紛うことなく『強敵』と見なした。

これは戦争だ。

武術の手合わせでも、決闘でもない。戦争なのだ。

規模は極めて小さく、目的も単純だが、戦争に他ならない。

ならば、

この場所は「鷹」が最も得意とする戦場だ。

この時間は「鷹」が最も戦い慣れている時間だ。

わずか数秒のうちに、彼は頭を高速回転させ、弱み、強み、変数を全て計算した。

弱みは一つ。すなわち「実力の差」だ。

「鷹」はそのことをよく分かっており、恥じることなく認めていた。

目の前のこの少女の内功と外功は、いずれも自分のそれをはるかに上回っている。

もしかすると、自分が知っている武術界のどの人間よりも強いかもしれない。

天と地のような大きな実力差は、最初からこの戦いの結末を決定づけている。

——もし、これがただの手合わせであればの話だが。

変数は二つ。すなわち「不明の事実」だ。

先ほど2回繰り出した掌打は、いずれも内功を使っていない。「截気散」がまだ効いているのだろうか?

この二人は地下牢から逃げ出した。「羅刹人」はまだ近くにいるのか?

この二つの不明の事実も、結末を左右する可能性がある。

これらを悪い方向で考えれば、「鷹」に勝ち目はないと言ってもよいだろう。

——もし、不幸にも予想通りになればの話だが。

……形勢は非常に悪く、勝ち目はないに等しい。

それでも「鷹」は絶対に勝つ自信があった。

なぜなら、彼は「強み」も計算していたからだ。

そして強みは三つある。 「ハッハッハッハッハ——」 男は愉快そうに笑った。 「見事だ!小娘、いい腕をしている!」

「お前のことを見くびっていたようだ。それとも俺が年を取ったか……

俺から物を奪うなど、ふっ、羅刹鬼が束になってもできなかったというのに。」

「へぇ……それは、どうも。でも、これは元々アタシのだからね。

あんたの物を奪ったんじゃなくて、元の所有者のところに戻っただけだよ。」

「フッ……」 男は思わず笑みを浮かべた。 「元の所有者のところに戻ったのに、まだ立ち去らないのか?」 「まだあんたを倒していないもの。立ち去るわけにはいかないでしょ。」 「……」 「つまり……お前は俺を殺しに来たのか。」 「いやいや、そこまでは考えてないよ……殺しても殺さなくてもどっちでもいいの。 だけど、あんたはアタシに2回も平手打ちを食らわせたんだもの。正々堂々とお返ししないとね。」 「フッ。」 「鷹」は嘲笑った。

これが一つ目の強み、「経験」だ。

武術界に長年身を置いている彼に比べれば、李素裳は外の世界の経験がないに等しかった。

彼女は「鷹」が言葉の中に隠した糸口に気が付かず、

知らず知らずのうちに罠の中へと足を踏み入れていった。

二つ目の強みは「個性」だ。

「鷹」は敗北の味を知っている。だからこそ、勝つためなら何でもできる。

一方の李素裳は、融通が利かないほど正直でお人好しだ。

彼女の心の中では、いまだに公正さと正義が最優先となっている。

この二つの強みを活かしつつ、

三つ目の強みに頼るのだ。

そして、変数に賭ける。

「鷹」は、「勝利」の天秤が必ず自分の方に傾くと確信していた。

「正々堂々……いいだろう。俺もそのつもりだ。

こうしよう。小娘、俺たちで賭けをしないか。」

「賭け事はよくないよ……でも、聞いてあげるから言ってみて。」 「ハハ、いいだろう。」

「お前の望み通り、正々堂々と手合わせしよう。拳と足だけで、武器はなしだ。

俺が負けたら首を差し出してやろう。お前が負けたら宝剣を置いていけ。」

「そんなのダメだよ。」 少女は大きく首を横に振った。

「絶対にこの剣から離れないって母さんと約束したもの。

こうしよう。アタシが負けたらアタシも首を差し出すよ。これで公平でしょ?」

「……」 「鷹」は驚いたが、すぐさま大声をあげて笑った。 「公平!ハハハッ。確かに公平だ。公平この上ない!」 「うーん……約束してくれる?」 「約束しよう。」 「よし。」 李素裳は無造作に放り投げる動きをした。 軒轅の剣身が地面に深く突き刺さり、柄だけが古い石畳の上に伸びていた。 「アタシが先でいい?アタシの方が年下なんだし。」 そう言っている間に、素裳はもう剣心に意識を集中させていた。
夜風が吹き、銀色の月が高く昇っている。 月明りに照らされ、一つの影ができる。さらに揺らめくロウソクの火に照らされ、二つ目の影がその上に重なった。 影がねじ曲がり、様々な形へと変わっていく。その姿はとても滑稽に見えた。 一方、影の主人たちは微動だにしなかった。 少女は左手に剣を持っているかのような構えをし、右手で拳を握った。これこそ太虚啓剣形の最初の構え、「残月」だった。[\s]そして彼女は、一撃目は李家「垂燕十三式」の第六式「雨燕双帰」に決めていた。 少女は堂々と背筋を伸ばし、人生初となる正式な他流試合を楽しんでいる。

揺らめくロウソクの光が夜の闇の中で幼い少女を照らし、彼女の姿を実際よりもはるかに大きく見せていた。

一方、正面の男はかすかに前かがみになり、背中、両足、両腕を曲げていた。[\s]

この構えは河東駱氏に伝わる奥義「虎吼震九霄」だ。

武術界の人間がこの場にいれば、金砂会の首領がどうして河東門派の武術を習得しているのか不思議に思ったことだろう。[\s]しかし、武術界のことについてほぼ何も知らない少女は、そんなことを知る由もない。

男と少女は向かい合って立ち、微動だにしないまま互いに探り合っている。

今夜の月明かりのような沈黙が小さな中庭を包み込んでいた。

東洋人が決闘する前は、いつもこのような静寂が訪れるのだろうか?

……

二人とも、相手の隙を窺っている。

しかし、三人目の人物はやや痺れを切らしていた。

「神州人の考え方というものは……」 その人物は、手の中で小さな十字架を弄んでいる。 「理解するには、まだまだ時間がかかる。」 彼は十字架を宙に放り投げ、それが霧のように消えていくのを見ていた。 ——それと同時に、急に少女が攻撃を仕掛けた。 長いこと向き合い続け、ついに「鷹」が隙を見せたのだ。 隙はほんの一瞬だった。彼の呼吸がほんのわずかに乱れたのだ。

その一瞬、真気の動きが滞り、虎吼の構えも消えたのだった。

(——しまった!) 「……!」 李素裳はその隙を見逃すことなく、飛びかかった——! ——柔勁の拳は風のように、寸勁の掌は雷のように繰り出される!

パンッ![\s]

平手打ちの音が鳴り響いた。

「鷹」はよろめきながら後ずさりする。口元からは血が流れていた。 彼は何度か唾を吐いた。塩辛く苦い液体が、砕けた歯とともに石畳に叩きつけられる。 「これは1発目の平手打ちだからね。」 少女はニコニコしながら言った。 「2発目もお返しするから気をつけてね。」 「…………」

「鷹」は怒りが収まらなかった。

気の動かし方を誤り、ほんの一瞬だけ真気を失ってしまったところに、少女の平手打ちを食らってしまったのだ。

大した被害を受けてはいないものの、この失態によって彼は面目を失ったと感じていた。

ただし、李素裳はまだ本気を出していないようである。

このことで、「変数」に対する自信が増した。それと同時に、屈辱感も倍増した。

彼は長いこと「虎吼功」を使っていなかった。久しぶりに使ってみたが、やはり錆びついているようだ。[\s]

敵は気を抜いて勝てる相手ではない。同じ過ちは絶対に繰り返せなかった。

「もう1回だよ!」 素裳は再び「驚燕払簾」を使い、瞬く間に姿を消した。

二人は空中で三つの技を繰り出した。

力は拮抗しており、どちらも優位に立てなかった。

少女は優雅に着地すると、再び「啓剣・残月」を繰り出した。

虎の咆哮が空を飛ぶ燕を驚かせる。[\s]

河東駱家の虎吼震九霄はかねてから勇ましいことで有名であり、

垂燕十三式は軽快かつ変幻自在で、どちらにもそれぞれの強みがあった。[\s]

しかし、実力では勝っているはずの少女は「鷹」を相手に互角がやっとだった。

このこと自体が、信じられないような躓きだった。

(……どうして?)

「鷹」は賭けに勝った。

戦いが始まった時から、李素裳は真気を使うことができなかった。

彼女が家伝の垂燕十三式の後に太虚啓剣形を続けたのは、

まさにそのことを確かめるためだったのだ。

(あの薬はアタシに効いていないはずなのに……)

内功の強さで言えば、自在門の「太虚剣気」は天下一だろう。

神州の各派にはそれぞれ独自の心法がある。しかし、形式は変われど本質は変わらず、結局は鍛錬次第なのだ。

真気を水に例えると、通常の内功は水を入れる器を鍛え、容量を増やしていくようなものだ。[\s]

過酷な鍛錬を繰り返さなくてはならないばかりか、上達も非常に遅い。そして何より、人体に大きな負担をかける恐れがある。

一方の「太虚剣気」は、他の功法とは本質的に異なっている。[\s]

「剣心」は「容器」ではなく、「桟道」を鍛える。

天地万物から真気を吸い取り、内功を体の中で小川の水のように自由自在に流れさせるのだ。

この新しい方法は、太虚一脈の祖師である精衛真人が作り出した。

奥深く不思議なものだったが、非常に大きな制約もあった。

例えば、男性が太虚剣気を鍛錬した場合、大多数が途中で挫折し、上達できなくなる。類まれな才能を持つ少年でもない限り、この奇功を習得するのは不可能なのだ。

一方、女性が太虚剣気を鍛錬した場合、わずかな労力で大きな成果が得られる。

平凡な才能の持ち主でも、男性の手練れに勝てるほどの強さを手にすることができるのだ。

素裳の師匠は、歴代最強の剣心と言われ、内功だけに限れば、世界の誰にも負けないほどだった。

その彼女が教えた少女も、並外れた腕前を持っている。

しかし、今は、内功が封じられている状況だ—— 重い拳が連続して少女に襲いかかる。 人並外れた反射神経と直感力のおかげで、李素裳は「鷹」の攻撃を一つ一つ避け、防ぎ、凌いでいた。 (こいつの武術は侮れない……

だけど、それでも勝つのは、アタシ。)

これまで戦った金砂会の手下たちは、力任せに武器を振り回すだけだったが、「鷹」は違う。この男は拳の使い方だけではなく、真気を使って拳勁を強化する方法も知っている。明らかに非凡な内功の使い手だ。

しかし、真気を使えなくても、少女にはまだ絶対的な強みがあった。

剣心を鍛錬した肉体の強度は、常人をはるかに凌駕しているのだ。

そして剣形は、世界で最も奥の深い武術である。

「守剣・垂柳」!

大男は雨のように重い拳を繰り出すが、李素裳は一式の守剣形だけでほとんど防ぎ切った。

しかし、それでも虎吼の拳は休むことなく襲いかかってくる。まるで荒れ狂った波風が絶えず打ちつけるかのようだ。少女はゆっくり後ずさりした。手で剣を持つような構えを取り、柔勁で鋼拳を凌いでいく。 (ちょっと……この鷹って奴、疲れを知らないの?) 「ほう。」

金砂会の首領はまったく疲れていないかのようだった。

柳のように伸びやかな少女の柔勁に尽く拳を阻まれながらも、

一瞬たりとも攻撃の手を緩めなかった。

洪水のような拳の影が李素裳に襲いかかる。 体を守るための内勁がない今、この重い一撃を受ければ、体は枯れ枝のように簡単に折れてしまうだろう。 (いや、守剣の形に隙はない。) そんな考えが李素裳の頭をかすめたが、波紋を立てることもなく、すぐさま消し去られた。

(拳は大体見切った。六式の守剣で余裕だ。

…それにしてもこいつ、こんなに力を無駄遣いしていれば、自ずと衰えていくはずなのに。)

こんな簡単な理屈を「鷹」が分かっていないはずはない。[\s]

しかし、彼はどうして変わらず猛攻を続けるのだろうか?

(まったく。もう少し待とう……) 内功を失うという制約の中で、李素裳は不用意に手を出すのを躊躇っていた。 彼女は機会を窺いながら、[\s]隙ができるのを待っていた。

同様に、「鷹」も機会を窺っていた。

そのために、彼は自分から隙を見せようとしていた。

隙も見つけやすい。自分の頬だ。

「鷹」は既に少女の性格を理解している。

「平手打ち」の仕返しをするまで、少女の攻撃目標は決して他に向かないはずだ。

敵の意図さえ分かってしまえば、

その目標は急所ではなくなり、命を救う護符に変わる。

「鷹」は全力で猛攻を仕掛けると同時に、肩の上の部分だけを守っていればよかったのだ。

同じく命を賭けて戦っている李素裳に比べ、彼の負担は圧倒的に軽い。

もちろん、彼は「賭け」に応じるつもりなどなかった。

宝剣を手元に残し、李素裳の命も取るつもりだ。[\s]

そのために平手打ちを食らったとしても、どうということはない。

この戦いは最初から不公平な戦いだったのだ。

「鷹」はあらゆる技や秘技を惜しみなく繰り出す。その目的は敵を傷つけることではなく、

あの「軒轅」古剣がある場所に近付くためだった。

双方が互いに技を繰り出した瞬間、「鷹」はすぐさまこの少女が幼いながらも恐るべき腕前を持つことに気付いた。

勁力の強さや敏捷さは言わずもがな、虎吼九霄の中で自由自在に技を変えて繰り出せている点だけを見ても、武術界でも一流の腕の持ち主と言えるだろう。

その点だけは、彼は足下にも及ばなかった。

戦いが長引けば、敗北は必至だった。

——戦いの規則を守ればの話だが。

しかし、「鷹」は規則を守る人間ではない。[\s]

彼の望みは試合に勝つことではなく、戦いに勝つことだ。

これこそが三つ目の強み、「目的」である。

同じ「勝利」でも、「鷹」の「勝利」と李素裳の「勝利」はまったく異なっていた。

少女が追い求めているのは「試合」に勝つことだ。

「鷹」が望んでいるのは「戦い」に勝つこと。

「戦いに勝つ」……これは欲しいものを手に入れ、壊したいものを壊すことを意味している。

だから、李素裳は約束を守っている。

一方、「鷹」は約束を利用するのだ。

相手の「標的」を利用して自分を守り、

自分の「隙」を利用して敵をおびき寄せ、

さらにあの鋭利な「宝剣」を利用して相手を殺す。

これこそが「鷹」の仕掛けた罠だった。[\s]

これまでのところ、全てが彼の思い通りに運んでいる。

仕掛けは完璧だった。 少女は徐々に後ずさりしたが、動きや表情が軽やかになっていったことから、彼は少女が自分の拳に慣れてきたのだと判断した。 勝負の天秤は常にどちらかに傾いているわけではなく、優勢さを示す分銅も刻々と変化している。 この戦いは数秒の内に決着をつけなくてはならない。 虎の咆哮は止まらない。 彼は押し続け、あの「軒轅」に迫った……

宝剣は彼のそばの石畳に突き刺さっている。[\s]

手を伸ばせば届く……

「鷹」が左手を緩める。[\s]

仕掛けは完成した。片を付ける時が来たのだ。

このような戦いは、李素裳が当初想像していたものとはかけ離れていた。

必殺技、技の駆け引き、一進一退の攻防など、期待していたものは一切ない。

あったのは怒涛のように押し寄せ、せわしなく単調な攻撃と、徐々に罠を形作っていく防御だけだった。

……これは李素裳が思い描いていた手合わせではなかった。

彼女の目は既に「鷹」の拳術に慣れている。

「剣心」で観察を続け、虎吼震九霄にも

対抗する術があることを見つけた。

新たな「隙」はその時に訪れた。

「鷹」の右拳はまったく威力がなく、明らかに陽動だった。[\s]

しかし、その陽動は敵を誘い込むためでも、防御のためでもなく、彼女に態勢を整える十分な時間を与えるだけの、実に中途半端な動きだった。

素裳はそのわずかな隙をずっと待っていた。

一式「化剣・雲鷹」で防御から攻撃に転じ、

瞬時に「開剣・瞬塵」を繰り出して「鷹」の喉元に突き刺した。

太虚剣気の剣は実体を伴って伸びる。[\s]

剣を手にしている場合、この技は真気を注入して敵の喉の急所を真っ直ぐに狙う無慈悲な剣術となる。

李素裳の神速をもってすれば、相手は無理矢理この剣を受ける以外になす術はないだろう。

彼女は剣の代わりに指を使い、「鷹」の返し技に備えていた。

しかし、「鷹」は防御も回避もしなかった。[\s]

それどころか、彼の上半身ががら空きになり、隙だらけになる。

(えっ——!?) 素裳は大いに驚いた。この展開は予想していなかった。 敵が自分から隙を見せるということは、抵抗を諦めたか、捨て身の覚悟で攻撃を仕掛けてくるかのどちらかだ。

勝利に近付いた時ほど、危険が増す。

生きるか死ぬかの状況になると、人は往々にして思いもよらぬ行動を起こせるものだ。

しかし、一瞬、素裳の脳内に相手への心配が過ぎり、混乱した。 (この人を、殺してしまうの……)

「瞬塵」の速度は極めて速く、彼女に考える時間を与えてはくれなかった。

剣が実体を伴って伸びる。「鷹」が応じなければ、たちどころに絶命するだろう。

間一髪のところで、李素裳は唐突に気が付いた。

実のところ、自分はこれまで覚悟ができていなかったのだと。

彼女には剣を扱う覚悟、戦う覚悟、勝利の覚悟、人を殺める覚悟がなかった……

彼女は15歳の少女に過ぎず、武術界に足を踏み入れたつもりになっているが、実際には人の命を大切にする情、命に対する畏敬の念を捨て切れていなかった。

「——!」

間もなく自分の手にかかって死のうとしている極悪人を前にして……

首を賭けた約束、平手打ちの仕返し、一瞬で全てが頭から消え去った。

李素裳は歯を食いしばり、技を引っ込めることにした——

繰り出した太虚剣気を無理矢理押し戻す。

反動の指の力が体に戻り、腕に大きな痛みが走った。

技の勁力を分散させるため、彼女はつま先を軽く叩き、

「飛燕帰巣」を繰り出し、回転を利用して力を削ぐしかなかった。

ちょうどその時、足下にザザッという音が響いた。

一筋の白い光が目の前で煌めき、先ほどまでいた空間を寸断していた。

「チッ!」

素裳が技を引っ込めるのと同時に、

「鷹」の左手が急に「軒轅」を引き抜き、上向きに斬撃を繰り出した。

少女が後ろにさがっていなければ、体は一刀両断されていただろう。

李素裳の優しさが正しかったのかどうかは分からないが、

彼女自身の命を救ったのは間違いない。

剣が襲いかかってくる。空中にいる李素裳が目にしたのは、隠しようのない残酷な笑みを浮かべた「鷹」だった。 「……逃がさん!」 「鷹」が彼女に襲いかかる。手に持った宝剣、軒轅が眩い光を反射しながら、稲妻のように振り下ろされる。

(あれはロウソクの光?それとも月明りかな?)

死が訪れる直前、李素裳はふと思った。

(ちょっと、興味を持つ対象が違うんじゃない?)

十年の修行で極めた剣心はとても穏やかだった。[\s]

これまで死に直面したことがなかった少女だが、死の間際、これほどまでに虚しくなった。

(あぁ、負けちゃった——[\s]

負けただけじゃなくて、死ぬんだ。)

(容赦なく人を殺めることもできないし、

平手打ちの仕返しもできない。

武術界での経験がないことって、本当に命取りなんだね。)

(師匠、ごめんなさい。

母さん、ごめんなさい。

素裳は、アタシは——)

少女の思いは落ち葉のように剣心の湖に静かに浮かび、小さな波紋を立てた。 次の瞬間、素裳は心の湖の中央で波打つこだまが聞こえたような気がした。 「……私のために。」

それは女性の声だった。

遠い場所から、はるか遠くの場所から聞こえる……

[em italic]えっ、誰……?[/em] 「生きていくの。素裳、あなたはちゃんと生きていくの……母さんと約束して。」 [em italic]母さんの声……[/em] 「約束して!」 少女はまだ朦朧としていたが、体は本能的に動いていた。 素裳は飛燕帰巣の回転を推力に変え、自分でも信じられないような速度で攻撃を繰り出した。 少女は普段から速度を自慢としていたが、この指の動きは彼女の目でも正確に形を捉えきれないほどだった。 まさしく稲妻のごとく……いや、稲妻よりも速かった!

彼女は体からほんのわずかな距離で剣の刃を受け止めた。[\s]

続いて指で弾いた。

少女は意識がとてもはっきりしていた。剣心を極めている時ですら、これほど無駄のない動きで太虚剣気を扱えなかった。

この指の動きは、かつての師匠の指さばきに匹敵するほど完璧だった。

宝剣が「鷹」の手から離れ、空中を舞った。 「鷹」は激怒し、掌打で素裳をはじき飛ばすと、剣を受け止めるため走った。 今回ばかりは彼も少女の飛燕功を見くびっていたようだ。 少女は石畳に落ち、口から血を吐いたが、打ちつけられた反動ですぐに身を翻す。 次の瞬間には、空中に跳躍していた。

両者の目的は古剣「軒轅」だ。[\s]

手にした者が勝ち、手にできなかった者は死ぬ。

(……アタシを助けてくれるよね?)

体の動きを、完全に本能に任せる。

「少女」の、李素裳の意識が呟いた。

「あんたはアタシの剣でしょ……」

軒轅は最高の位置に達して一瞬停止すると、すぐに落下してきた。

突如、李素裳の中に、とても懐かしい感覚がこみ上げてきた。

この光景、どこかで見たことがあるような?[\s]

目の前に落ちてくる剣は、どうしてこれほど親しみがあるんだろう?[\s]

…………

何年も前のこと

…………

指が剣の柄に近付いていく。

剣のぶつかり合う音が、少女の頭の中で鳴り響いているかのようだった。

まさにその時、李素裳は、自分が「剣意」を会得したのだと確信した。

キィン—————— しかし、剣の柄を握ったのは彼女ではなかった。 「勝った!」 耳に届いたのは死を宣告する言葉だった。 「死ね、小娘——」 「…………」

この時の絶望と失望は今まで以上に大きかった。[\s]

少女は死ぬことを恐れてはいない。[\s]

しかし、希望を手に入れては失い、頂上まで登りつめては落ちていく苦しみを味わったのだ。

体に沁みこむような大きな後悔とともに。

悲鳴や震えは絶えることがなかった。

「——いや!」

次の瞬間には一刀両断されようとしていても、

本能は負けを認めようとはしなかった。

極めてぼんやりとした意識が素裳の掌剣を押し出し、

相打ちするつもりで必死に敵に攻撃を繰り出す。

この瞬間、「死」を理解して受け入れた少女は、

ついに一足遅れて、手にしたのだ……

「覚悟」を。

「鷹」は剣客ではなく兵士である。

彼が使うのも剣術ではなく、刀術だ。

そのため、逆手で柄を握った彼は、習慣的に手首をひねり、

刃側を前にして敵に向ける。

しかし、今夜は——[\s]

今夜、勝敗と生死を決める一瞬、

「鷹」の脳裏にある奇妙な考えが浮かんだ。[\s]

その考えは、彼が剣舞をしていた時に知らず知らずのうちに根を張り、芽を出していた。

(剣術と刀術は違うはずだ……)

ただの思いつきにすぎなかったが、拭い去れなくなってしまった。[\s]

ただの思いつきにすぎなかったが、「鷹」の生死を分ける場面で、手首をひねる習慣を止めさせてしまった。

そのおかげで、彼は一瞬の時間を無駄にせずに済んだ。[\s]

その一瞬を無駄にしていれば、剣の刃が少女の体を切り裂く前に彼は死んでいただろう。

少女の掌剣が稲妻のごとき速さで真っ直ぐ頭に向かってくる。

「鷹」は剣の柄を握りしめ、逆手のまま振り上げる。[\s]

剣と刀は違う。剣は両刃で前後は関係ない。

このように、ほんの一瞬の違いが、結果を全く異なるものにすることがある。

非常に鋭利な宝剣が月の光を切り裂いた。[\s]

剣先は柔らかく貫通し、少女の体に別れを告げ、両断する。

薄い紙を切り裂くかのごとく、容易く。

彼女の視線は空中の一点を見つめたまま固まり、もう動くことはない。[\s]

恐るべき手刀も力を失い、動きを止める。

「鷹」は少女を殺し、彼女の剣を奪った。

辛く残酷ではあるが、勝利に変わりはない。

——そうなるはずだった。

しかし、剣の切っ先が前を向き、李素裳の腹部に突き刺さろうとした時、「鷹」の真気が急に消えた。

長年鍛錬してきた強力な内勁が、まるで存在していなかったかのように跡形もなく消え去った。[\s]

彼が何をしようと、空虚な経脈は何の反応もなかった。

[em italic]バカな——[/em]

恐怖という名の寒気が瞬時に「鷹」の血管を駆け巡った。

[em italic]バカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカな——[/em]

彼の内息や気の動きには何の問題もなかった。

彼も、このような時に自分の気が暴走することはないと確信していた。[\s]

しかし、それは実際に起こった。彼の勝利が目前に迫った時に。

今夜、彼が内功を完全に失ったのはこれが2度目だった。

「鷹」はどういうことなのかを急に理解できた。しかし、時すでに遅しだった……

力が入らない手は、剣の柄を握っていられなかった。

「軒轅」は空中の少女を切り裂き、骨が見えるほどの深い傷を負わせたところで彼の手から離れた。

少女の掌剣が彼の頬を打つ。[\s]

平手打ちと骨が砕けるような音とともに、強烈な痛みと無念の感情が襲ってきた。

[em italic]何故だ?[/em]

砕けた側の頭から暗闇が押し寄せ、彼を呑み込もうとするが、彼は必死に抵抗した……彼の両目は狂ったように動きながら、何かを探している……

[em italic]何故だ————!?[/em]

あるものが彼の目に入った。[\s]

遠くの、古い宿場の広間、彼が気に入っていた椅子の前に一人の男が立っていた。

[em italic]羅刹人……[/em]

その男の横には、棺が静かに立っている。

[em italic]貴様か……[/em]

男は遠くから彼を見ていた。ロウソクの炎が揺らめく。彼は目を凝らして、その男の表情を見ようとした——

[em italic]貴様か!!!!!![/em]

彼の思考はそこで止まる。

怒りがこみ上げてきたところで、暗闇が彼を呑み込み、連れ去ってしまったのだ。

疲労と痛みが怒涛のように押し寄せる。まるで、再び体の支配権を取り戻したことを少女に知らせているかのようだった。[\s]

……ただ、その知らせ方はあまりにも残酷だった。

「イタタ……」

少女の口の中に、しょっぱい血の味が広がる。人生を疑うほどの苦みを伴っていた。[\s]

内臓が破裂したとかじゃないよね?

……剣に斬られた腹部から急に痛みを感じるようになった。

武術の修行には怪我や病気がつきものだが、

これほどの重傷は少女にとって初めてのことだった。

[em italic color=#FAFAD2]これが勝利の味だとしたら……

本当にほろ苦いんだね。[/em][\s]

李素裳はあれこれ考えているうちに、思わず吹き出して笑った。

そしてまたもや痛みで顔をしかめた。

「ちょっと、羅刹人……いるんでしょ?」 少女はやっとの思いで声をあげ、空の月に向かって尋ねた。

返事はなく、ただ足音がコツ、コツと聞こえるだけだった。[\s]

コツ、コツ。[\s]

遠くから近くへ、誰かが歩いてきた。

「エヘヘ……あんたでしょ?」

李素裳が問う。

その声はとても小さく、耳元のガサガサという音のせいで、自分でもよく聞こえぬほどだった。

「あんたが手を貸してくれたの?」 「喋らないで。」 金髪碧眼の羅刹人は、彼女の横で片膝をついた。 「……運が良かった。傷は酷くない。」

[em italic color=#FAFAD2]これでも酷くないっていうの?[/em]

李素裳は聞こうとしたが、あえて心の中に留めておいた。

彼女は静かに仰向けになりながら、整った顔立ちの羅刹人をチラッと見た。彼がまた何かをするのではないかと気になったのだ。 彼女の予想通り、羅刹人が手のひらを広げると、虚空から金色と青色の光が流れ出し、奇妙な物体を形作った。

素裳の目には、その物体は不思議な花模様が描かれた真っ白な紙の傘のように見えた。

傘はとても長く、先端は尖っており、とても鋭利だった。

「それでアタシを突っつくの?」 「喋らないで。」 羅刹人は再び言った。 垂れ下がった長い髪の毛が彼の目を覆っている。素裳は、汗とも涙とも分からぬ水滴が男の顔から滴り落ちるのを見た。[\s]羅刹人は漆黒の傘の柄を持ち、傘の先端を素裳の腹部の傷に押し当て、彼女の方に顔を向けて言った。

「痛くはない。でも、少し変な感じがするだろうね……

だるかったり、痺れたりするかもしれないが、じっとしていられるかい?」

素裳は頷こうとしたが、傷口を動かしたことによって激痛が走る。彼女は目を瞬かせるしかなかった。 「……あんたを信じるよ。」 彼女自身も自分が言ったのかどうか、分からなかった。 傘の先端が触れた部分から、繰り返し波打つような痛みが徐々に和らいでいった。[\s]剣心で見ていた素裳は、羅刹人が真気をその傘に注ぎ続けているということを把握する。 これは、とてつもなく負担が大きい。彼の顔には滝のような汗が流れていた。

[em italic color=#FAFAD2]金髪の人って、汗も金色なのかな?[/em]

李素裳は考えながら、心の中の3割が後悔、3割が喜び、3割が恥ずかしさで埋まる。残りの1割は彼に対する申し訳なさだった。

「似たようなものだが、性能は全然違うな……」 羅刹人が独り言のように言った。 「少し時間がかかるよ。」 「うん。」 羅刹人はそれ以上言わず、李素裳も口を閉ざした。

夜の風が優しく吹き抜け、羅刹人の長い金髪をなびかせる。

髪の毛が顔をかすめ、微かにくすぐったく感じた。

李素裳はそのことを口に出そうと思ったが、言いたくないとも考えた。

彼女は思い切って目を閉じる。[\s]

羅刹人の言ったように、体のあちこちが痺れたり、痛くなったりしていくのを感じた。不思議な感覚だが、我慢できるものだった。

「あ~あ。」 李素裳は波乱に満ちた一日を思い返す。 まず金砂会の四人の手下を倒し、次に囚人の気分を体験した。 「鷹」と呼ばれる男と武術の試合をしたが、勝つのはとても難しかった。 金砂会の首領に重傷を負わせたが、自分も深手を負ってしまった。 そしてこの不思議な外国人と出会い、彼が妖術で自分の傷を癒してくれている様子を見ている。 [em italic color=#FAFAD2]本当に長い一日だったな……[/em]

生と死の境を経験した少女は、天の裂け目を飛び越えたかのような気分だった。

今朝の自分のことを思い返すと、一昔前のような気がした。

満足感と虚しさ、楽しさと悲しさ。

李素裳の心の中では、何とも言えない感情が交錯していた。

いつの間にか、痛みは徐々に消えていった。[\s]

素裳の心の中に、成長したという小さな誇りが満ち溢れていく。

「ねえ、あんた……神州の掟を知らないと、後で困ったことになるよ。」 李素裳は空の月を見上げながら、小さな声で言った。 「ここでは手合わせの最中、部外者は手を出しちゃいけないの。[\s]さっき、もし見物人がいたら、武術界の道義に反する外道だって言われたはずだよ。あんたはよそ者なんだから、自分から問題を起こさないようにね。」 「分かった。僕は手を出さない。君が殺されるのを見ていてもいいということだね。」 「エヘヘ……」 「ありがとう。あんたは悪い羅刹人じゃないね。あんたは……いい人だよ。」 「フッ。」 羅刹人は彼女には目を向けず、彼女の傷を癒すためにその白い傘に真気を注ぎ続けている。 「礼には及ばないさ。僕も君にお願いしたいことがあるからね。」 「えっ?何?」 少女は急に興味を持った。 「教えて、教えてよ。アタシの命を救ってくれたんだもの。どんなことだって精一杯やってみせるよ。」 「先ほど地下で、君の武術は太虚剣気という、精衛仙人の秘伝の奇術だって言っただろう?」 羅刹人は臆することなく尋ねた。 「それは誰だい?どうして仙人って呼ばれているんだ?」 「本物の仙人様だからだよ。際限なく秘術を使うの。聞いた話だと、彼女は不老不死で、何千年も生きているのに、少女の姿のままなんだって。」 羅刹人は気持ちを落ち着かせた。手に持っていた白い傘が急に跡形もなく消える。 「彼女がどこにいるか知っているかい?」 「アタシが?知らないよ。」 李素裳は得意げに言った。 「だけど、アタシに聞いたのは正解だね。この世で仙人の行方を知っている人がいるとすれば、それはアタシの師匠だけだもの。」 「知ってる?精衛真人には全部で七人の弟子がいたの。師匠とアタシの母さんは、どっちも彼女の弟子なんだ……」 「って、どうしたの?仙人に会いたいの?」 「……」 羅刹人は彼女をしっかりと見つめ、急に笑顔を見せた。 「ああ。」 彼自身も気付いていなかったが、西域から神州大陸に来て以来、これほど気を緩めて、これほど自然に、これほど自由に笑ったのは初めてだった。 李素裳は彼の過去も、彼の苦痛も知らない。ただこの羅刹人が、今はとても明るく笑っていることだけは分かった。[\s]ある種の衝動に駆られた少女は、何も考えずに、また考える暇もなく、一気に飛び起きた。 「じゃあアタシと一緒に来て!一緒に師匠に会いに行って、仙人に会わせてもらおう!」 伝記更新:「羅刹人」

天穹峰、入雲階。

不思議な形の峰が天に向かって伸び、山の階段が延々と続いている。

見上げても、石段の先は見えず、山の中腹にかかっている雲や霧しか見えなかった。

山は高く、その山の頂にいる人物も達人だった。

数千段の石段を登ると、峰の頂に「拂雲」という名の小さな道観が見えた。

名前、構造、屋内の調度品、

拂雲観のどれもが、かつての太虚山、精衛真人の旧居とまったく同じであった。

この道観の主こそ、

まさに現在の神州六大派の一つ「太虚剣派」の当主だった。

精衛の一番弟子、「軽塵剣」の林朝雨。

……当主の寡黙な性格に加え、困難で長い道のりが待ち受けている。

そのため、太虚門の門弟はよほど重要な用事でもない限り、この入雲階を登ってくることはない。

そのため、この日もいつもと変わらず、穏やかで平凡な一日になるはずだった。

[em delay=1]コン、[/em][em delay=1] コン、[/em][em delay=0.5] コン。[/em] しかし、今は招かれざる客がニコニコしながら拂雲観の門を叩いている。 その者は颯爽とした装いで、双剣を背負い、髪は生まれながらにして赤く、とても美しい顔立ちをしていた。

武術界に現れることは滅多になく、その門弟たちも目立たないように行動している。[\s]

しかし、この者の名前は、六大派の当主や長老に劣らないほど有名だった。

伝記解放:「蘇湄」

彼女こそ精衛の二番弟子、現在の「無双門」の主、[\s]

「無双仙人」——蘇湄だった。

コン。 指の関節で木の門を軽く叩く。不愉快な音ではなく、乾いて心地よい音が響いた。 中からは返答がない。赤髪の女性も腹を立てることなく、終始、顔に穏やかな笑みを浮かべている。 コン、コン。 ついに門が静かに開く。

門を叩く者がずっと待っていたことに気付いていないかのようだった。

「軽塵剣」こと林朝雨は、ゆっくりと中から出てくると、かつての二番目の妹弟子を冷たい目で見た。

伝記解放:「林朝雨」 「朝雨姉さん、お久しぶりね。」 蘇湄が軽やかな笑顔を見せる。まるで長年の友人と久しぶりに再会したかのようだった。[\s]この世には無数の笑顔があるが、林朝雨もこの種の笑顔だけはどう反応していいのか分からなかった。 「……二十年ね。」 「二十年?」 「無双」の蘇湄は少し考えて、まったく気にすることなく笑いながら言う。 「そんなに久しぶりかしら?」

その声が林朝雨の耳の中へと入り、細い尖った針のように彼女の心を刺した。

彼女は思わず目の前の女性を一瞥する。

十年以上もの歳月が流れているのに、蘇湄はまったく変わっていない。まるで、彼女の世界では時の流れが止まっているかのようだ。 彼女の髪はまだ赤いままでツヤがある。

美しい顔には潤いとハリがあり、触れれば破けてしまいそうだ。

彼女の目は……相変わらず大きく、人を魅了する……

彼女の唇は朱く、色っぽいと思えるほどだった……この女狐は、一体どれだけの紅を使ったのだろう?

[em color=#FAFAD2 italic]……どうして彼女が?どうして私ではないの?[/em] 一瞬にして林朝雨の心が嫉妬でいっぱいになった。それは急激に沸騰し、凍りつく。氷のように熱く、火のように冷たかった。 蘇湄は彼女の気持ちを見透かしたかのように、絶妙な間合いでため息をついた。 「はぁ、二十年ぶりなのね。私も年を取ったわ。」 「……そうかしら。」 太虚剣派の当主は淡々と答えた。 「思い出話はよしましょう。あなたも私も世間話をする必要なんてないでしょう。用があるなら話してちょうだい。」 「ええ、それもそうね。」 蘇湄の目にはかすかな陰りが浮かんだようだったが、すぐに消える。林朝雨が自分の目を疑うほどの早さだった。 「……朝雨姉さんを訪ねたのは、彦ちゃんが情報を掴んだからなの。」 「彦卿が?」 林朝雨は急に顔色を変え、厳しい口調で言った。 「彦卿はどこにいるの?」

蘇湄の言った彦ちゃんとは、二人の弟弟子「百里逐駒」こと、馬彦卿のことだ。[\s]

この太虚剣派の六番弟子は傲慢な性格で、常に世間に縛られずに生きている。

馬彦卿と「無双」蘇湄は親密な関係で、武術界の誰もが羨む武術家の男女だった。

しかし彼は突然、二十歳以上も年の離れた一番上の姉弟子と結婚すると宣言し、武術界に衝撃を与えた。

婚礼の当日、今度は酒に酔った勢いでくだらない話をし、自分の昔の名前を恥じて捨てたと言い、居合わせた招待客たちに気まずい思いをさせた。

結婚後も、この太虚剣派の副当主が腰を落ち着けることはほとんどなかった。

1年のほとんどを、自分の愛馬「夜血」と共に各地を旅して過ごしている。彼の行いは良く言えば「義侠心がある」、悪く言えば「悪事を働いている」ということになるだろう。

上は権力者や金持ち、下は悪党や盗賊に至るまで……馬非馬は相手が誰であろうと構うことなく手を出し、喧嘩を売っていた。この「狂人」は十年ほどの間、確かに各地の武術界で名を馳せていた。

「彦卿……彦ちゃんはその名前を嫌っているわ。

朝雨姉さんは今でも呼び方を変えないんだから……もう、私たちの中では朝雨姉さんが一番昔を恋しがっているのね。」

[em color=#FAFAD2 italic]いえ……[/em]

林朝雨は心の中で思った。

[em color=#FAFAD2 italic]彼が嫌っているのは過去、まさに、あなたが作り出した過去よ。[/em]

その思いは胸にしまい、それきりにした。

それを言葉にすることもしなかった。

「彦卿はどこにいるの?」

林朝雨は再び聞いた。[\s]

蘇湄は彼女に向けていた視線をすぐに逸らし、ため息をつきながら言う。

「彦ちゃんの性格は知っているでしょう……夜を徹して漠北に向かったわ。」 「塞外に?……そんなところで何をするつもりなの?」 「凌霜を探しに行ったの。」 「——!!!」

突如、怒りの炎が硬い氷を融かした。

林朝雨は大きく前に一歩進むと、銀色の長剣を音もなく左手に握る。

「蘇湄……今度は一体、何を企んでいるの?

二十年経っても、まだ私たちがあなたに騙されるとでも思っているの!?」

「凌霜がどこで隠居暮らしをしているか、私と彦卿が知らないとでも?

凌霜が剣一本だけで各地を回り、名を馳せて災いに巻き込まれた時、誰が凌霜を湘南から逃がしたと?」

「密かに凌霜を漠北まで護衛して、身の回りの世話をしたのは誰だと思っているの?」

「彦卿の性格……ふふっ、彦卿の性格も凌霜の性格も分かっているわ。

たとえ明日、天が崩れるようなことがあっても、彦卿は凌霜を邪魔をしないし、彼女の静かな修行を妨げもしないでしょう。」

「それで?彦卿が私に知らせる暇すらなかった知らせとはどんなものなの?言ってみてちょうだい。」 「……」 「……またこんなやり方なのね。蘇湄、変わらないわね。彦卿はあなたの話なら喜んで聞き入れる。『彦ちゃん』……ふふ。」 「あなたは?あなたは彦卿を思い通りに使って、東へ行け、西へ行けと指図するだけ……私の夫を何だと思っているの?私を何だと思っているの?」

「蘇湄、今日こそはっきり言いましょう。

あなたの心に同門の誼がないのなら、

私は『無双』と戦うことも厭わないわ!」

「……」

長年溜め込んでいた言葉を痛烈に吐き出したが、決して気分は良くなかった。

林朝雨は相手の沈黙に満足したが、その沈黙を訝しんでもいた。

風が吹き荒び、天穹峰の頂には骨に突き刺さるような寒さが漂っている。

このような天気は怒りをかき立てるが、怒りの炎をかき消して意気消沈させることもある。

林朝雨は鼓動を17回数えた。我慢の限界が訪れようとした時、蘇湄が口を開いた。 「『軽塵柳』……」 蘇湄は林朝雨を見ることもなく、彼女が持つ軟剣をじっと見つめていた。

「本当に懐かしいわ……

それのおかげで、婉如は命拾いしたし、凌霜は剣を突き刺せたのよ。」

蘇湄は顔を上げ、林朝雨の視線を受け止めた。顔に浮かんでいた笑みはあっという間に消える。 「よかった、まだ持っていたのね。」 「あなた——」

二十年前のあの日の話題になり、林朝雨は無意識に一歩後ずさりした。[\s]

冷たい空気が背筋で凝結して水滴となり、氷のような汗となって服の背中を滑り落ちていく。

何年もの間、あの時の光景は骨の髄にまで入り込み、彼女を苦しめ続けていた。

彼女は過去を振り払ったつもりでいた。

しかし今日、蘇湄が訪れたことで、古傷に再び触れることとなった。

「昔の話はしない約束だったでしょう——」 「ええ。昔のことはね。だって過去のことだし、覚えていても意味はないから。」 「だから、私は新しいことを話しているのよ。」 「……えっ!?」 林朝雨は驚いたが、すぐに妹弟子の言葉の意味を悟った。 「まさか……師匠のこと?」 「ええ。」 蘇湄は空を見上げた。まるで何か面白いものでも見たかのように、口元にかすかな笑みを浮かべる。 「私たちの軒轅剣がまた抜かれようとしている。だけど、私の考えが正しければ——朝雨姉さんよりも私が先になるでしょうね。」 「そんな……あなた、そんなこと……ありえないわ……」 太虚剣派の女当主がここまで慌てた表情を見せるなど、この二十年の間で初めてだった。 「……師匠は亡くなったのよ。」

「ええ。でも、仙人が死ぬってどういうことかしら?私を信じて。師匠は戻ってくるわ。

朝雨姉さん、私、彦ちゃん……私たち七人は誰も無関係ではいられないのよ。」

「……いえ……」 林朝雨は下を向いてぼんやりとしている。まるで、蘇湄の話が返事に値しない、荒唐無稽な内容であるかのようだった。 「でも……もし……」 呟く声がますます小さくなっていく。

再び顔を上げて蘇湄を見た時、林朝雨の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。

それは、怒りと疲労が限界を超えたことによる笑みだった。

「師匠が昔のことで決着をつけに来るのであれば、はじめはあなたに会いに行くはずよ。蘇湄。」 太虚剣派の女当主は優しい声で言った。 「違うわ、違うわよ。師匠は誰が中心人物か知らないもの。予想では私は2番目のはずよ。でも、順番なんてどうでもいいの。私が朝雨姉さんに会いに来たのはそのためなのよ。」 蘇湄は目線をゆったりとした白い雲から、林朝雨の顔へと向ける。

林朝雨はドキッとした。[\s]

それは彼女がよく知っている蘇湄の目だった。

蘇湄は怖がることも慌てることもなく、落ち着き払って林朝雨を見た。 「師匠は既に一人殺しているの。」

果てしなく広がる暗闇の中で、[\s]死んだ仙人の意識が蘇った。

最初、新たに生まれた意識は世界の誕生と同じように、太虚の中にある一粒の光に過ぎなかった。

『その力』は限られている。感官から情報を受け取ることも、神経に指令を出すこともできなかった。

混沌の中、弱い意識は古の本能に従い、盲目的でありながら揺るぎなく存在し、伸びていく。

意識はまだ自分自身の死に気付いていない。[\s]

彼女は自分自身の死を認めようとしない——

常識で判断すれば、仙人は確かに死んだ。

右足は斬られ、くるぶしから下はなくなっている。 両手の脈は潰され、もう使い物にならない。 内臓も全部破壊されている。

一番重傷を負った胸部は、十数ヶ所も損傷していた。

しかし、最も致命的な傷は頭部にある。

それは剣による傷だ。

剣が彼女の額に刺さり、

彼女の脳を破壊し、 そのまま頭を貫通した。 普通の人間ならば、彼女が受けた傷のひとつだけで死に至るだろう。

しかし「仙人」は普通ではない。

仙人は不死で、不滅なり。

その体は千年経っても死なず、[\s]

その魂は万年経っても消滅することはない。[\s]

命の法則を徹底的に覆した、

神州唯一無二の仙人。

今、静かに石室に横たわる体は、まさにそういう存在であった。

ゆえに、

一つ一つの神経細胞から、

仙人の脳と肉体は長い修復と再構築を始めた。

周りの真気を吸収することで、

裂けた皮膚を修復し、

折れた骨を治し、

ボロボロになった筋肉を繋ぎ、

損傷した器官を再生する……

やがて、仙人の『意識』が辺りを知覚する。

石室の小窓の外で、光と影が織り成す線が、東から西へ、また西から東へと移動する様が見える。 石室の中で、消えない虫たちの死体による腐臭に紛れた、枯れた草木の匂いを嗅ぐ。 夏が終わり、秋の落葉が地に落ちる音や、雪に包まれた枝の揺れを感じる。

それから、痛み、痺れ、腫れ、痒み……体の様々な部位が悲鳴を上げる。

終わりのない苦痛が襲ってくる。

……終わりのない修復、終わりのない痛み。

仙人は沈黙したままだ。

「 私 誰 ? 」

頭の中は混乱したまま。覚えていることもあるが、忘れたことのほうが多い。

「 此処 何処 ? 」

記憶の中には断片的な言葉しかなく、彼女が求めている答えを繋ぎ合わせることができない。

「 …… 何 ? 」

そう思った瞬間、長いこと摩耗してきた感情が突如として胸に湧いた。

七……

彼女と最も親しい七人。

彼女のそばに最も長く居た七本の剣。

七人が共謀し、彼女を嵌めた。[\s]

七本の剣が罠を仕掛け、彼女を殺した。

「 …… 何 故 ? 」

湧き上がる感情が消えることはない。[\s]

怒り、[\s]

困惑、[\s]

憤怨、[\s]

腹立ち、[\s]

そして悲しみ。

「……どうして?」

答えはない、あるのは答えを求める渇望だけ。

……仙人は待つことにした。

かつての彼女は長い間、この地を守ってきた。時の流れは彼女にとってさほど重要ではない。

彼女は待ち続ける、体が完治する日がやってくるまで。[\s]

そしてあの七人を探し出す、自分を殺した理由を訊ねるため。

強い衝動がぼんやりした意識の中で焼印を押し、

彼女を促し、鞭撻し、変えていく。

待つことが習慣に、苦痛が自然になるように。

それから……

痛い

痛い

痛い

痛い

終わりのない修復、終わりのない痛み。

仙人は沈黙したままだ。

彼女は長い間我慢してきた、

彼女はまだまだ我慢できる。

ここは砂漠の中の小さな宿場。

1400年前、流浪のテュイク人がここでオアシスを発見した。

彼らは神様の加護に感謝し、思う存分水を飲んだが、止まることはなかった。

そこから300年、顔国の隊商がここを通った。

宝石と絹織物を満載した隊商に、一人の外交の使者がいた。

その使者の価値は荷物を遥かに超えている。なぜなら彼は西域に出向き、同盟を結ぶ責任を背負っているからだ。

商人たちはここで足を休め、翌日に出発した。

彼らは漠北を出ておらず、誰もその行方を知らない。

740年前、ハンユー族の遊牧民がオアシスの横に拠点を作った。

この水源がある限り、私たちはもう漂泊しないで済むと、首領は民たちにそう告げた。

100年後、匈人は北からやってきた。彼らはハンユーの村を一掃し、老人と男を殺し、女と子供を連れて遠い西域に向かった。

……オアシスは匈人たちによって残され、再び世界に忘れ去られた。

そして時が流れる。[\s]

文明は生まれ、滅亡する。人々は行ったり来たり、やがて歴史という川に消えてなくなる。

見上げると、大地を焦がすほどの烈日がある。 周りを見渡すと、立ち上る熱の気流の中、幾重にも重なる砂丘はまるで湧き上がる波のように見える。 「……はぁ。」

オアシスの来訪者は今、古い壁の陰に隠れながらため息をつく。[\s]

この重苦しい烈日と砂の海を、彼は3ヶ月間も見ているのだ。

「はぁ…………」

男はもう一度ため息をつく。

砂漠の物寂しさと暑さのせいで気が晴れない。

見渡す限り、景色は変わらない——

太陽、空、黄砂……何もかもが停滞していて、微動だにしない。

空気まで固まっているような気がして、少しの風も感じられないのだ。

「栄さん……そっちはどうだ?」 「…………」 離れた場所にいる男の仲間は返答せず、ただ頭を振っている——状況に変化なし、という意味だ。

相手は知っているのだ、男は単に退屈を紛らわすためだけに話しかけてきたのだと。

しかしこの黄砂に囲まれた蒸籠のような場所では、話すこと自体が贅沢だ。

口を開くというのは、精神の緩み、水分の流失を意味する。

『金砂会』の番人にとってそれはもったいないことだ。

注:

『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。

物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。

「ああ、いいさ……※※、分かったよ。」 拒否された男は少し苛立って、唇を舐めた。 彼はまだ新入りで、『金砂会』に入って数ヶ月しか経っておらず、まだ全てのルールを把握していない。そうでなければ、彼は水の貴重さを知り、首領が帰ってくるまで無口のまま、壁の影に隠れるだろう。

注:

『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。

物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。

「※、あれはでかい商売だぞ。」

男は鬱憤を晴らすために悪態をつく。

声は大きくない。たとえ仲間に聞かれても、内容を聞き取ることはできないだろう。

……しかし、男はちゃんと分かっている。首領は新入りの彼を馬鹿になどしていないと。

見張りの仕事は当番制、あいにく今日は彼の番になっただけだ。

金砂会の中では、拠点の守りと外での戦い、どちらも功績は同じで、もらえる報酬が少なくなることはない。

だが、彼は亡命者だ。その手は血に汚れ、足は無数の死体を踏みつけてきた。

略奪、強盗、蹂躙、殺戮こそが彼のすべきこと。

刀を振り回し、血に染まる刺激こそが彼が得るべき報酬だ。

男は自分の価値を信じている。ㅤ[em bold color=#ff0000]戦闘[/em]ㅤとㅤ[em bold color=#ff0000]殺戮[/em]ㅤ。[\s]

もし『悪』に真偽があるのなら、男は本物の残酷非道な極悪人だろう。[\s]

彼は暴力を恥じることなく、むしろ暴力を自分の強さの証明だと考えている。

そのため、長く計画されてきた『大商売』から外されたことに、

彼は屈辱に近い怒りを感じていた。[\s]

怒りのせいで焦燥感に駆られ、口が渇き、煩わしく感じる。

「ごくり——」 気分が最悪な男は水筒を持ち、ガブガブ​飲み始めた。 「あれは——」 男はぎょっとした。 視線の先から、一人の少女が歩いてくる。

目がかすんでいる訳でも、漠北でよくある「蜃気楼」を見た訳でもない。[\s]

あの少女……砂漠の向こうからゆっくりと歩いてくる少女は、本当に存在している。

「栄さん——!」

思わず叫んでしまった言葉は、すぐに熱気の中に消えた。

気付かぬうちに、男は金砂会の禁忌を犯していた。

一つ目、狼狽えること。

二つ目、軽率な行動を取ってしまったこと。

金砂会の古参なら、彼のように慌てることは決してないのだろう。

しかし、男の心には疑問があった。

漠北で横行する金砂会を相手に、自らやってくる女は今までいなかった。

「あの女は何者だ?」 「頭がおかしいのか?ここは金砂会の縄張りだぞ!」 「喧嘩か?この金砂会を相手に?」 ……たくさんの疑問は稲妻のように脳を駆け巡り、最後に一つの疑問へと収束する。 「あの女は一体……何者だ?」
男が予想だにしなかったのは、若く見える相手ではあったが、その肩書きは決して舐めてはならないものであったこと。 少女の名は李素裳(リー スショウ)。

彼女は川中『憶剣山荘』の若荘主、精衛真人の七番弟子『染香剣』こと、秦素衣の一人娘である。

精衛真人、染香剣、憶剣山荘。[\s]

神州の武術界では、どれも知らない人はいないほど名高いものだ。

しかし広い砂漠の中で、それらは何の意味もない単語でしかない。

砂漠とは、声望も虚名も関係なく、弱肉強食で生きるか死ぬかの荒原だ。[\s]

強い者は生き残り、弱い者は砂に埋もれるという世界。

だからこそ、母親は父親の反対を押し切って、子供であった自分を砂漠に送ったのかもしれないと、李素裳は思う。 李素裳が1歳の時、まだろくに話もできなかった頃から、母親は彼女に武術を教えた。

母親は彼女を可愛がっていて、つらい思いをさせたことがないほどだった。

しかし剣の稽古になると、母親は誰よりも厳しくなる。

素裳はいろいろ苦労した。腰や膝を痛め、骨が軋むのは日常茶飯事、夜中に痛みで目覚めることもあった。 彼女が父親に泣きつくと、その稽古はより厳しいものになった——父親が稽古の話をした瞬間、秦素衣は彼を睨んだのだ。 堂々たる憶剣山荘荘主、『川公子』こと、李紳は何も言えず、気まずそうにその場を去った。

その後、素裳は今まで以上に稽古に集中し、伝家の『憶心剣法』の十二の型を自由に使いこなせるようになった。

それでも母親は頭を横に振る。

素裳は、一体何が駄目であったのか理解できなかった。もっと勤勉になるべきだったのだろうか?

どうして自分はいつも母親の期待を満たすことができない?

疑問に思った彼女はある日、両親の会話を盗み聞きすることにした。 「私に言わせれば、問題はあなたたち李家の武術にあるわ。」 母親は冷たい口調でそう話した。

「飛燕功と垂燕十三式は川中では素晴らしい技かもしれないけど、師匠の『太虚剣気』と比べたらどうなの?

あなたの戯言を聞いて、憶心剣法の改良なんてしなければよかった。」

「…………」 父親は小声で何か言ったが、素裳には母親の冷笑しか聞こえなかった。 「私のせいにするとはね。いい、私が間違えて、10年の歳月を無駄にしたってことにするわ。」 「あなたのことはもう知らない、だから素裳のことにも口を出さないでもらうわ。あの子はあなたと違って、剣術の資質がある。五番弟子の凌霜姉さんほどじゃないとしても、私よりずっと上だわ。」 窓の外にいる素裳にとって、母親の言葉はとても冷たいものに感じた。

「私の剣心はもう駄目になったし、あなたは剣心を習得できてない。これ以上話すことはないでしょ?[\s]

明日漠北に行って、素裳を弟子にするように凌霜姉さんに頼んでくるわ。」

「凌霜姉さんには貸しがある。図々しいのは好きじゃないけど、私が頼めば、きっと彼女は断らないと思うわ。」 父親はぎょっとして、すぐに反対した。それを聞いた李素裳は、なぜか恐れを感じていた。彼女は父親に賛同したかったが、母親の言った『漠北』、『五番弟子』のことも気になっていた。 「——太虚剣気。」 その単語はまるで魔力でもあるかのように、口にした瞬間全ての雑音を消し去った。 「師匠が亡くなった後、この世で太虚第五蘊を習得したのは凌霜姉さんだけよ。」 「素裳が剣を極めるのなら、最高の剣法を学んで当然でしょ?」

母親はそれを実行した。

李素裳の5歳の誕生日に、両親は彼女にある贈り物を用意した。

憶剣山荘、川中、そして生まれてから離れたことのない『家』と別れを告げ、

李素裳はそのまま漠北に来て、十年間『最高の剣法』を学んでいた。

伝記解放:「李素裳」

10年の時は瞬く間に過ぎ去っていった。

家に対する思いは紙のように薄くなり、別れた時に母親が言った言葉だけが彼女の心に残っている。

剣法で何かを手にすることができただろうか?

武芸で何かを成し遂げることができただろうか?

今の自分は、母親の期待に応えられているのだろうか?

……素裳には分からない、だから証明が必要なのだ。 そして証明の方法は、『試剣』である。 故に、刀剣を手にした敵が彼女を包囲しながら近づいてきた時、

李素裳は意味深長な微笑みを見せた。

言葉などいらない。その笑顔が既に説明している——

少女の初の『力試し』は、今日にあると!

(一、) 少女は心の中で数字を数える。 (二、)

二人の男が左側から近付いてくる。

そのうち一人は、最も早く少女に気付き、声を出した男だ。

彼は剣を手に、嬉しそうな顔をしている。

まるで罠にかかった獲物を見つめる狩人のように、その笑顔は死を語っている。

しかし、少女は動じなかった。 彼女は視線をもう片方に向ける。 (三、)

右後ろの男は少女の視界にはいなかったが、

先程の男の声を聞いて走ってきたのだ。

(四。) 一番近くにいる男は、少女とは約五歩の距離しか離れていない。 相手は刀を持った筋肉質の男だ。四人の中では最年長で、その武術の腕も最も優れている。 ……少女は師匠との手合わせしかしたことがなく、実戦経験がない。 そうでなければ、武術の達人でも多勢に無勢という状況を避けるべきだと理解しているはずだ。 一人で、訓練された四人の盗賊と対峙するなど、まさに死に急ぐ行動である。 しかし、少女はその『常識』を持っておらず、生まれつき感情が希薄な彼女の師匠も同様だった。 だから彼女は恐れるどころか、ワクワクしているのだ。

——賊と彼女の距離はたったの五歩。

少女は包みを開き、逆手で古剣『軒轅』を握る。

剣が手にある感覚は、彼女を安心させる。

その後の出来事は、

きっとこういう展開になる筈だ。

少女は飛び立つ鳥のように軽い動作で飛び上がる。

着地した瞬間、剣の切っ先はすでに男の胸元に刺さっていた。

剣を戻し、振り返る——噴き出す血より、ずっと速い。

次の瞬間すぐさま剣で刺し、男の凶悪そうな笑顔を固まらせる。

こうして、四人の敵は二人だけになる——なんの抵抗もなく。

……少女は一瞬でその筋書きを思いついた。

彼女の武術の造詣と、古剣軒轅があれば——

その幻想を現実にすることは、難しいことではない。

——賊と彼女の距離はあと四歩。

しかし、少女は行動に出なかった。 ……相応しくない。 古剣軒轅——それはこういう相手と戦うための武器ではない。

目の前の四人は、宝剣を拝む価値すらないのだ。

この剣は遠い昔、仙人たちの時代から受け継がれ、幾千万年の時を見届けてきた。

その持ち主は武術界の伝説、唯一の真仙、神州の守護者『精衛真人』である。

今から29年前、精衛真人は東海で孤児の娘を七番目の弟子にし、その剣を授けた。太虚第七剣こと、秦素衣と『墨染香』の名は武術界に広く名が知られるようになる。

精衛真人が天に昇って仙人になった後、秦素衣はしばらく隠居したが、3年後に彼女は再び武術界に名を馳せた。

彼女と『川公子』李紳の恋物語は当時、美談​として語られていた。

10年前、引退した母親は『墨染香』を幼い素裳に渡し、[\s]

同時に素裳の肩には、「太虚五蘊を悟り、『天下一』になる」という母親の期待がかかり始めた。

これは他に比べるものがないほどの武器、その切っ先は強者のみを待っている。

目の前にいる平凡な人間たちの血で、この剣の威名を汚すわけにはいけない。

——賊と彼女の距離はあと三歩。

小さな誇りと満足感が、少女の心に満ち溢れていた。 フン、こんなやつら——

——あと二歩。

——剣試しにはまだ足りない!

一歩!

武者にとって、一歩はすでに命を賭けるべき距離である。 男は刀を振るい、少女の首を取ろうとしたが、青い影にしか当たらなかった。 ……少女は消えた。 「——何だ!?」

彼は本能的に下を見る。

その瞬間、足が痛み出した。

男は地面を見ようとしたが、なぜか目に映ったのは太陽だった。

(どういう……)

彼はまだ自分が蹴飛ばされたことに気付いておらず、何か冷たいものがこめかみに触れたと感じただけだった。

——太陽は暗闇に呑み込まれた。

男の体が地に落ちるよりも先に、彼は気絶していた。

体を屈めて攻撃を回避し、その勢いのまま男を蹴り、そして指一つで彼を気絶させる——少女はあっという間にそれをこなしてみせた。

彼女の精神は今までにないほど集中している。[\s]

目の前の敵を倒す以外、少女は何も考えていない。

それこそが、太虚剣気五蘊の「心蘊」。

入門の一蘊でありながら、最も難しい一蘊でもある。

『剣心 - 止水』!

「※!」 一歩踏み遅れた男は、彼が栄さんと呼んだ男に阻まれ、幸運にも少女と距離を取ることができた。 残った三人は合流し、速やかに態勢を整える。 「この女、只者じゃねえ!」 両隣りの男は返答しない。

しかし、金砂会の古参たちは少しも気にしていない。

なぜなら少女は彼らにとって、既に死人に見えていたからだ。

一方、砂の上にいる少女は突如跳び上がって、 左足で地を蹴り、砂を巻き上げる。

砂埃を利用し敵の視線を遮ることで、時間の優勢を手に入れる。

環境を最大限利用できれば、勝利の可能性を最大限に引き上げられる。

それが少女の考えだ。

しかし、それも敵たちに読まれている。

広い砂漠で何年も生きてきた盗賊たちは、そういう戦い方をとっくに身につけていたからだ。

少女よりも、彼らのほうが詳しいとも言える。

少女が砂を蹴り上げることは別に変わったことではない。過去に対峙した敵もそうしたからだ。

しかしそれで慌てると思ったら、それこそ金砂会を甘く見過ぎている。

——漠北強盗団「金砂会」はここ6年間、神州とインユウの辺境で活躍している組織だ。

彼らのすることはまさに流賊——諸国の隊商を相手に貴重な品物を奪い、男と老人を殺し、女と子供を奴隷に売る。

しかし普通の流賊と比べ、金砂会は規律を重んじる。

話によると、金砂会の首領「鷹」はもともと軍隊出身だった。[\s]

冤罪に遭い、左遷され、一族はその影響を受けた。

怒りに満ちた「鷹」は漠北にやってきて、金砂会に加入した。 彼は刀一本と生首一つだけで、たった一日で首領の座に上り詰めた。 そして前首領の名前は、二度と語られなくなった。 伝記解放:「鷹」

構成員が「鷹」を恐れているのは、彼が悪辣非道だからだ。[\s]

構成員が「鷹」を敬服しているのは、彼が常に無敗だからだ。

この男の出現は、金砂会に激しい変化をもたらした。[\s]

かつての流賊は規律を守る小さな勢力になり、漠北一帯の支配者となった。

構成員たちは朝晩、武術の稽古をしなければならない。[\s]

稽古が終わった後は、軍隊のような訓練が始まる。

「鷹」は飽きもせず、彼らに陣形、変化、団結、それから様々な合図や命令を教えた。[\s]

彼が欲していたのはまとまりのない盗賊団ではなく、軍隊そのものであった。

だからこそ、変わった少女を前にした三人は、敵を甘く見ることは一切なかった。 「敵は敵、老若男女問わず、生きるか死ぬかだけだ。どんな相手でも貴様らの命を奪える。だから狙ってるやつを最後の敵だと思え、あらゆる手段で相手を殺すんだ。」 「鷹」が何度も彼らに警告したからだ。 仲間が倒されても、三人は慌てなかった。 「戦場では仲間を守れ。だが倒れた仲間は戦友ではない、足手まといだ。倒れたやつを戦えるやつと同じだと思うな。諦めを知る兵だけが長く生き残る。」 「鷹」が何度も彼らに忠告したからだ。 同様、少女が砂を蹴り上げても、三人は少しの迷いもなかった。 「俺の計画通りに動けば、何の問題もない。」

それは「鷹」の保証。

彼らは「鷹」の言葉を信じて疑わない。

この5年間、「鷹」の指示は一度も間違っていないからだ。 一度もだ。

三人は素早く目を閉じた。

視覚を失うより、砂が目に入った時の痛みや条件反射による動きのほうがより危険なものになる。

目を閉じた瞬間、三人はすでに互いの場所と敵の位置を記憶した。

彼らがこれから取る行動や攻撃する方位は、「雁人陣」の陣形を完璧に再現したものになる。

真ん中にいる男は真っ先に刀で攻撃する。上から下へ、勢いよく振り下ろす。

左側の男は一歩踏み出し、標的の下半身を狙った横斬りを仕掛ける。

この二つの攻撃の心は攻撃ではなく、敵を誘導することにある。

「鷹」が考えた陣形と刀術は、決まった道筋に従って敵を回避させるもの。

標的がもしこの二つの攻撃を回避できたら、次の瞬間はきっと決められた位置にいるはずだ。

その時は右側の男が致命的な一撃を与える番となる。

敵が見えなくても、彼らはこの陣形で敵を確実に仕留める自信を持っているのだ。

陣形に間違いはないが、少女は金砂会の男達の想像を超えていた。

彼らの想像以上に、彼女は素早かった。

砂を蹴り上げたと同時に、少女はもう前に出た。

金砂会が「鷹」の陣形を信じて疑わないように、少女も自分の武芸に絶対的な自信を持っている。

剣心を極めた彼女には、男たちの攻撃を回避する必要はなかった。

真ん中の男が刀を上げた瞬間、少女はすでに彼の懐まで飛び入った。

反応するより先に、男の顎は思い切り殴られた。

衝撃は頭骨を通して直接脳に響き、激しい揺れに襲われた彼は意識朦朧となる。

次にやってくる少女の跳び蹴りが膝に命中することを察する暇もなく、彼は地面に倒れた。

少女は跳び蹴りの勢いのまま、「飛燕帰巣」を決め、瞬く間に左側の男の後ろに着地した。

片手で男の首を叩き、

もう片手で剣を奪い、残った敵のほうに投げた。

まさに電光石火、彼女は力と速度をうまい具合に計算し、正確に行動してみせた。

太虚五蘊の『剣心』、

それは脳の潜在能力を最大限に発揮する奥深い心法だ。

『剣腊』:

剣を構成する部分のひとつ。

剣の中央の芯は剣脊、剣脊の両側にある面は剣背。

剣脊と剣背を合わせて剣腊という。

剣腊は寸分の狂いもなく男の腹部に命中し、突如襲ってくる痛みに男は思わず口を開け、悲鳴を上げた。 その瞬間、天地がひっくり返り、均衡が一瞬で崩れた。 熱い何かが男の右顔にくっついたが、とても耐えられるようなものではなかった。 男が目を開けると、目に映ったのは黒に近い砂地だった。 何かが顔にくっついているわけではなく、彼の顔が地面に押さえつけられたのだ。 「……数が少なすぎるんじゃないかな。」 少女が男の背中に座る。そして、細い指で彼の頭をトントンと叩いた。 「四人だけ?他の人たちはどこに行った?」 その声は澄んでいて、聴き心地がよく、少女の天真爛漫な気質を感じさせる。 「本当のことが聞きたいんだよね。」

同時に、百里先では……

男は金色の砂に伏せたまま、動かない。

汗の粒が額、鼻、首、脇、足から湧き出し、体の所々が痒くて仕方がない。

それでも彼は動こうとしない。

服があっても、皮膚が熱い砂に焼かれているようだ。

気絶しないように、男は必死に精神を集中させようとする。

こういう時、彼はいつも「鷹」の言葉を思い出す——

彼らのような者が朝廷の兵に捕まると、胸元に烙印を押される。

烙印は砂よりも硬く、太陽よりも熱い。皮膚に触れるとすぐにくっつき、剥がす時は皮膚も一緒に剥がされる。

あの感覚は、「鷹」曰く、まるで地獄のようだ。

金砂会の構成員たちはよく地獄を口にする、[\s]なにせ彼らはそこで再会する運命なのだ。

地獄の中は不気味で恐ろしく、そして退屈だ。金も酒もなく、美人もいない。

良いものなど、地獄に存在しないのだ。

しかしここで、今日の「商売」が成功すれば、欲しいものは何でも手に入れられる。

今回の「商売」は今までよりも大きいと、「鷹」が信頼できる情報を掴んだのだ。

遠方から来た隊商は貴族の家族を連れており、金銀財宝をたくさん持っているらしい。

その情報に間違いがなければ、あと30分で全部手に入れられる筈だ。

そう思うと、男は顔を少し上げて、後方に唯一立っているもう一人の男に視線を送った。 男の見た目は40代前後。もみあげは白く、憎しみを形取ったかのように、顔にしわと傷跡がある。

彼の実年齢はもう少し若いが、それでも不惑の年に近い。そして顔全体を見れば、目だけが際立っていることが分かる。あれは猛禽類の目だ。

彼は遠方を眺めている。まるで獲物を見つめているかのようだ。

男はまさにこれからやってくる獲物を待っているのだ。待ち伏せしている金砂会は彼の手先である。 「鷹」——それが男の呼び名、敬称、そして唯一の名前だ。 「鷹」の命令であれば、熱い砂の上に二時間伏せることになったとしても、彼らは従う。

質問も承諾もいらない、

「鷹」の命令に従えば、返ってくるのは——

——「勝利」。

突如、男の顔に笑みが浮かび、

同時にその目つきも変わった。

その目はもう見張りの目ではない、ゆっくりと動き出す——狩りをする目だ。 「鷹」は手を上げ、後ろへ一歩、また一歩下がる。 隊商の護衛を視界から外し、その手の動きは出撃する合図をとる。

砂に伏せた男は視線を戻し、息を吸う。熱い空気が肺に充満したが、まだ我慢できる。

遠い先、塵が舞い上がる。

「来る。」

誰かが呟く。

長く待ち伏せしていた男たちはほっとする。苦しい時間が、やっと終わるのだ。[\s]

あとは、勝利のみ。そして、この勝利を……

彼らはすでに長い間待ちわびていた。

「……」 少し離れた馬車の中で、棺が静かに立てられている。 それは人間が一人分入るくらいの高さで、表面は白の漆で塗装され、華やかな紋章が刻まれている。

よく見れば、この棺はほぼ密封されていて、その周りに少しの隙も見当たらない。

数本の黒い本革の帯が棺をしっかりと縛っている。

まるでこの棺の持ち主が散々苦労して、やっとその中身を外の世界から隔離できたかのようだ…… その持ち主は今、棺の前にいる。

金髪緑目の男は棺の横に膝をつき、長い指で棺の表面に触れる。

その動きは撫でるみたいに優しいが、まるで、全身の力を使っているかのようでもある。

「……」

男は自分の手でこの棺を作り、その中身を外の世界と隔離した。[\s]

そして男はあらゆる法則に抗い、愛する者を連れ戻そうとした。[\s]

宿願が叶うまで、彼はまだこの世界から離れられない。

遠い先から聞こえる咆哮、叫び声、泣き声の中で、

ラクダの悲鳴、馬車の転覆、刀のぶつかり合う音の中で——

——男は微動だにせず、少しも気付いていないようだ。

まるで目の前にある棺以外のものとは、何の関係もないように。

そう、何の関係もないのだ……
パカラッ、パカラッ……

ラクダの足音が再び鳴り出し、馬車はゆっくりと進み出す。

その横には刀を持つ男たちが居て、隊商の人間と馬、それから財宝を守っている。

何もかもが同じように見えて、何もかもが徹底的に変わった。

商人たちは奴隷となり、強盗たちはその主になったのだ。

靴が暖かい砂の上を踏み、足裏から微かな暖かさを感じる。

注:

羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。

羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。

当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。

踏んだところは微かに沈み、重心が揺れる。まるで、大地に優しく引っ張られるような感覚だ。「鷹」にとってこの感覚は、羅刹国の、鮮血で赤く染められた雪原を思い出させる。 「鷹」は、雪原が嫌いだ。 勝利した「鷹」は無表情のままである。彼の陰鬱はまるで屏障のように、彼を中心にした領域を構築していた。その外にいるのは喜ぶ強盗たち。そしてその中では、混濁した沈黙が流れている。 彼は喜ぶべきだった。今日は完璧に、理想的に目標を達成していた。 手に入れた金銭や商品は数万にも及び、急いで売り捌いたとしても、銀錠にして七、八千両になる。 捕虜となった壮年の男女は九名。その中には、見た目が綺麗な者も何人かいる。次にバイホイの奴隷商人が通った時には、また金にすることができるだろう。

そして最も喜ばしいのは、部下たちの出来だった。

彼が金砂会の頂点に立った時の、沈んだ様子とは大違いなのである。

今回の隊商は待ち伏せの罠にかかってしまったが、護衛の用心棒たちは責任を果たそうとした。

一瞬取り乱したとは言え、彼らはすぐに態勢を立て直し、手強い抵抗を始めた。

——しかし、それは「鷹」の思う壺だった。

「鷹」は抵抗する対手を好む。

彼は挑戦の中で快感を得て、存在意義を探すような人間なのであった。

敵の抵抗が激しければ激しいほど、兵士を訓練した価値が高くなるだろう。

勝利の意味は、上がり続ける価値の中で最高の満足を得ることにある——

——北国の真っ白な雪の中で、彼はその満足が頂点に到達したと思っていた。 ——彼は家族と戦友が亡くなった場所から必死に逃げ、朝廷を新たな戦場とした。世界を左右する力を手に入れられると思ったのである。

——冤罪で投獄された後、新たな『戦友』は彼を見捨てた。何度も彼を夢から目覚めさせたのは、痛みでも悔しさでもない。羅刹鬼と殺し合った時間だった。

——しかし、命をかけて彼を流刑から救い出したのは、かつて彼が見捨てた部下だった。 そして、その時。自分の人生はあの長い戦いの中で永遠に止まっていたのだと、「鷹」はようやく理解したのであった。

注:

羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。

羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。

当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。

羅刹国を出た時から、彼の人生は止まっていた。

その後の時間は、何の価値もない行動を繰り返す屍に過ぎなかった。

だから、彼は漠北に逃げた。金砂会を奪い、忠実な兵士たちを手に入れた。[\s]

だから、彼は彼らを鍛錬した。鞭撻し、苦しめ、

彼らを死の狭間へと送った。彼らと共に生きたのだ。

過去を繰り返し、

過去に仕返しを行い、

過去を渇望する。

「鷹」という男は、既に止まってしまっている時間を動かしたいのだ……

故に、あの『羅刹人』に出会った時、

「鷹」は思わず、時間が繰り返され、過去の光景が再び目の前に現れたのではないかと錯覚した。

その人間を初めて見た時、背筋が凍った。

そいつは『災い』だと、脳が警鐘を鳴らす。

『災い』は隊商の馬車の中にいて、その空間を独り占めしていた。[\s]

数十人の隊商の中で、彼だけがその待遇を有している。

「鷹」の刀が簾をかき上げた時、『災い』は何かに話しかけていた。 「マッハディアカイネゾアゲン。」

男は片膝をつく。[\s]その口調は穏やかで、まるで親しい相手に囁いているかのようだった。[\s]しかし周りを見渡してみても、馬車の中に他の人間はいない。[\s]

あるのは、棺だけ。

彼と、棺だけであった。 「イッヒヴェアデレーゼン……」

相手が話しているのは羅刹語ではない。だから、「鷹」にはその意味がよく分からなかった。

しかし、その奇異な光景を見た彼は、既に冷や汗が止まらない状態にある。

彼は思わず、棺と会話する変わり者を観察した。

羅刹人の見た目は大体、20歳くらいだろうか。背は高いが、逞しくはない。

武術はできるが、達人ではない。

一人の武術の腕は、その見た目と体を観察すれば、大体は理解できる。

筋肉が肥大している人間は、外家拳を主とする武術者。

そういう人間たちの肩と腕は力が強く、金属や石を簡単に破壊でき、普通の鈍器を防御することも容易である。

しかし「鷹」にとって、そういう人間たちなど眼中にない。

優れた外家拳は平衡、つまり、力が全身に渡ることを重んじる。力量のみを求めてしまうと、却って臨機応変に動けなくなるのだ。

速度と力量を兼ね備えた者こそ、腕のある人物。

そして、内家拳の達人には、これとはまた異なったコツがある。

内家拳は内なる力を、即ち、経脈と『真気』を鍛える。

そういう者の形神は控え目でありながらも、存在感がある。眼差しと呼吸を観察すれば、その奥深さが分かる。

言うまでもなく、「鷹」は一目見ただけで、この羅刹人の腕を知った。大したことはない、と。そしてその乱れた呼吸から、相手が上級の内功を習得していないことも察する。 「出てこい。」 「鷹」はそう言いながら、刀の柄に手を置いた。 彼にとって、羅刹鬼は一番嫌いな相手である。また、昼間に棺を見ることも不吉であった。縁起の悪いものが一気に二つも現れ、「鷹」は相手を血祭りにしたい衝動に駆られた。

彼は何人もの命を奪っている。いまさら、一人増えたって構わない。[\s]

しかし……刀は抜かれなかった。

羅刹人はため息をつき、棺に何か囁いた後、

ようやく視線を強盗たちの首領に向けた。

その両目は翡翠のような緑色をしている。まるで、心を込めて研磨された翠玉のようだ。 「……」 どうしてか、「鋭敏」という直感がまた心に警鐘を鳴らす。 羅刹人は落ち着いた様子で、不自然ではありながらも、はっきりとした神州語でこう聞いた。 「到着?」 その質問は唐突で、訳が分からなかったが、「鷹」は頷いた。 羅刹人は地面を指差す。 「ここ、君の?」 「ああ、俺のだ。そしてお前も俺のものだ。[em bold]出てこい[/em]。」 「むっ……」 羅刹人は何も話さず、ただゆっくりと背伸びをして、苦労したかのように膝や腿に手を当てながら、立ち上がろうとした。

[em italic]羅刹鬼め、勿体振りやがって。[/em][\s]

「鷹」は思わず心の中で罵る。[\s]

[em italic]バイホイ人にお前を売ったら、どんな表情を見せるか楽しみだ。[/em]

彼は突如、過去を懐かしく思った。十年前の彼なら、もう刀を抜いてこの綺麗な首を切り落としていただろう。しかし、今の彼は、大目に見ることにしていた。

死んだ羅刹人は金にならないが、生きている羅刹人は高値で売れる。

バイホイの奴隷商人はこういうものが好みで、いい値で買ってくれるのだ。

「鷹」は大人しい羅刹人を観察しながら、ふと気になった。

彼は何故、あの棺に話しかけていたのだろうか?[\s]

馬車を貸切にしていることも、疑わしい……[\s]

そうだ、棺の中身を人に知られたくないからだ。

では……その中には一体、何が入っているのだろう。

……何だ??

刀を抜き、羅刹人の首に当てる。「鷹」は目の前の棺に視線を向けて、こう言った。 「開けろ。」 彼は簡単な命令を下し、予想外の返答を得た。 「断る。」 深い緑色の目が、ゆっくりと彼を見る。 「——!」

「鷹」はたくさんの人間を見てきた。

彼が見てきた眼差しも、数え切れぬほどだった。

恐怖、憎しみ、怒り、悔しさ、苦しみ……

いや、彼は見ていただけではない。彼自身こそが、そういう感情の原因であったのだ。

首に当てられる刀は、この世で最も有効的な自白剤だ。

人一人の心の奥底を徹底的に暴くことができる。

「鷹」は死ぬ寸前の眼差しに麻痺していて、

瀕死の際の感情に動くことはない。

そういうものを、彼はたくさん見てきているからだ。

しかし、この羅刹人と同じ眼差しは今までなかった。

あれは揺るぎない、狂気、残酷、愉悦、憐れみ、そして……

……[em bold]軽蔑[/em]?

[em italic]そうだ。[/em]

「鷹」はハッとして、唾を呑む。

この羅刹人は終始、彼のことなど眼中にないのだ。[\s]

相手にとって、金砂会首領たる「鷹」ですら、大漠の砂と何の違いもない。[\s]

価値はなく、意味もない。

次の瞬間、羅刹人に踏み潰されるような錯覚すらあった。

きっと、散歩するかのように簡単なのだろう。

故に、彼は刀を下ろした。

恐怖を感じたからではない。「鷹」は、自身に言い聞かせたのだ。[\s]

彼は決して、羅刹鬼を怖がらない。

しかし心の中の感情は恐怖よりも恥ずかしく、彼は、目の前の人間から逃げ出したいとさえ思った。 「……ついてこい、小細工はするな。」 そう言って、「鷹」は振り向き歩き出す。

遠い先に、一縷の煙がゆっくりと昇る。

金砂会の帰路を示す合図である。

「あ——」 「首領!」 「……ご苦労。」 考え事に頭を支配されていた「鷹」は、彼らとは多く話さず、真っ直ぐに宿場に入った。 門番の手下たちは視線を交わし、同時にほっと息をつく。 「ふう……」 しかし息をついた瞬間、威厳のある声が聞こえた。 「……俺が出征していた間、」 金砂会の首領は腕を組む。その目は、鷹のように鋭い。 「異常はなかったか?」

彼は目の前の二人を観察し、

少し離れた砂場に視線を向け、[\s]

また宿場の中へと意味深長な視線を向ける。

「鷹」は笑顔を見せたが、その目は笑っていなかった。 「……あったみたいだな。」
李素裳は元々、深夜まで大人しく待とうとしていた。そして、決して音を出さないと決めていた。 「……うまく行くのかな?」 しかし30分も経たないうちに綺麗に約束を破り、彼女は独り言を呟き始める。 よく考えてみれば、その約束というのも、彼女がとっさに思いついたものに過ぎない。 2時間前のことだ。李素裳は金砂会の4人の門番を倒し、彼らから情報を聞き出した。 「……113人?今夜戻る?

思ったよりずっと多い。まずいな……」

「ねえ、アタシよりも『鷹』に詳しいんだよね……

もし、一対一で勝負したいって言ったら、彼は受け入れてくれると思う?」

「お、お前、一体何者だ!?」 男は見当違いな答えを口にする。

「はぁ……[\s]

アタシは李素裳、『自在門』の一番弟子。

話を逸らさないで、まだ答えをもらってないよ。」

「何を言って……自在門……

……誰だ!?……」

男は、少女の話をデタラメだと思っているようだ。

李素裳は相手とは意思疎通できないと判断し、無視することにした。

(100人以上もいて、規律に従う?……そんなの面倒過ぎる。

今回の目的は「鷹」との勝負、それだけなのに。)

師匠の、[em color=#FAFAD2]「金砂会を知っている?彼らの頭を倒してきて。」[/em]という言葉は、

簡単そうに聞こえるが、そのせいで正直者の弟子はかなり困っていた。

少女はため息をつき、他に方法はないかと考え始めた。 「む……」 彼女の人生経験はまだ浅く、参考にできるのは父親、乳母、それから村の語り部から聞いた話だけ。 「真仙」こと、精衛真人……[\s]「軽塵剣」こと、林朝雨……[\s]「百里逐駒」こと、馬非馬……

武術界で有名な名前が次から次へと現れ、また次から次へと少女に否定されていく。

それらは名の知れた達人だ。自分のような境遇に陥ることなどある筈がない。

「何かいい案はないのかな……」

[em italic]閻世羅……[/em][\s]

不思議な力に導かれたかのように、40年前に存在した武術の怪傑の名が少女の頭に浮かんだ。

彼女は一度だけ、語り部からその話を聞いたが、はっきりと覚えている。 『武術界の豪傑たちが蓮花大会に集い、魔教討伐について話し合っていた。そこに変装した聖火教聖主、閻世羅が潜入しているとも知らずに。』 『閻世羅は大会当日、少、蓮、華の三派の門主に勝ち、玉蓮台に火を放ち笑いながら去った。』 [em italic]変装して潜入……[/em] (あった!) 少女はようやく参考になる方法を思いついた。 李素裳は男の頭に指を当てる。力は入っていなかったが、男は息を呑んだ。 「ちょっと、動かないで。あんたを殺していないのは、話し合いがしたいからだよ。」 「頭のおかしい奴め……な、何がしたいんだ?」 「首領が戻ってきて、あんたたちがアタシにボコボコにされたって知ったらきっと怒るよね。そして、あんたたちにお仕置きする。違う?」 男は返答しなかったが、図星だと察した少女は上機嫌で話を続けた。

「一つ提案がある。アタシの計画通りにしてくれれば、彼にバレないと思うんだ。

仲間を呼んできて。話し合いをしよう……」

こうして、少女は「自発的に」地下牢に入った。 『地下牢』は元々、宿場の穴蔵だ。金砂会がこの場所を占領した後、機能自体は変わらなかったが、蓄えるものが食料品から生きている人間になった。 強盗たちが略奪した「品物」はここに入れられる。バイホイの奴隷商人が月一で訪れ、地下牢を綺麗にし、相当の金銭を残していく。ここ数年間、この「宿場」の運営は非常に順調であった。

しかし自らやってきて、「品物」の振りをしてこっそり地下牢に入ってきた人間は、

金砂会が占領して以来、おそらく李素裳が初めてかもしれない。

地下牢は暗くて、湿っぽい。臭い匂いがする。時々すすり泣く声が聞こえるが、しばらくして、また静かになる。

素裳は枯草を整え、その上に大人しく座り、

『剣心訣』の黙読で時間を潰そうとした。

剣心訣は『太虚剣気』の入門となる内功、

武術界の誰もが求める奇術である。[\s]

しかし剣心訣の正体が、奇妙で不可解な音節であることを、ほとんどのものが知らない。

その音節には形式がなく、文字で表現することもできない。

気の流れを教えるわけではなく、体の鍛え方を教えるわけでもない。

『口訣』とはいうものの、実際何の意味もない。

何も知らない状況で剣心訣を聞いたとしても、うわ言としか思えず、

それが神州の武術界の頂点に立つ、無双の神業だとは誰も考えないだろう。[\s]

実は、その奥深さはここにあるのだ。

暗唱、黙読、そして、聞くこと。それが心の鍛錬となる。

「……モー……タラリ……モー……ラクラ……」

言葉には力がある。[\s]

素裳にはその中身を理解できないが、確実に『心』の変化を感じ取れた。

言葉の響き、韻律の起伏と共に、剣心訣はまるで血液に溶けるかのように、体の奇経を巡る。 「モー、マリ。」

体はますます軽くなり、頭の中も澄んでいく。

五感が一箇所に集い、心の湖に溶ける。

「モー、ウールト。」 湖は透き通っていて、憂慮が古い葉のように湖面に落ちても、さざ波にすらならない。 「モー、カバイスル。」 波が落ち着き、水が止まる。平静は「李素裳」という存在に満ちている。

それが、剣心四境の一つ。

——『止水』。

(続けよう……)

素裳は雑念を捨て、剣心に集中する。

次の境界へと入る——

心の湖が氷となり、

些細な考えを払い、少しの痕跡をも残さない。

第二境——『無塵』 (もっと……)

硬い氷のひびは消えてなくなる。

心の湖は限りなく透明に近く、万物を照らす。

第三境——『明鏡』 それは十数年の修行を経て、李素裳が悟った『剣心』の在処でもある。

しかしその上には剣心の最高境界……

この世で師匠だけが到達した第四境がある……それは……

…………『太虚』………… 「あっ——」

氷面が急に割れ、心の湖が流れ、剣心訣も頭の中から消散する。[\s]

李素裳はその場に座ったまま、激しい頭痛に襲われた。知らぬ間に、背中は冷や汗で濡れている。

「また……失敗しちゃった。」 『明鏡』に到達した後、素裳の剣心は止まっていた。 「……どうしてかな?」 師匠は2歳で弟子入りしている。入門した年齢が最も早いから、剣心の境界も弟子の中で最も高いのだと、母親は言っていた。

しかし自分は、生まれた時から母親が暗唱した剣心訣を聞いて育っている。

師匠よりも早く進展するはずなのでは?

師匠は13歳の時に『太虚』に到達し、

15歳の若さで無上『剣神』となった。

自分はどうだろう?同じ15歳になったというのに……[\s]

『剣心』が円満になっていないだけではなく、

『剣意』もままならない。

この二つの難題を克服したとしても、

その先には「神」蘊が立ちはだかっている。まるで雲霧の中にいるかのように、よく見えないのだ。

「……」 「あちゃー。」 李素裳はボーっとして、それから、ふと笑った。 「師匠はすごい!」

『情』は『心』蘊の敵である。

もし心の海に現れた感情を放っておいた場合、剣心が破損する恐れがあるのだ。

明鏡の心を有する素裳はよく知っている。

「平気、ただの挫折でしょ。大したことない。

今の最優先事項はやっぱり試剣のことだよ!」

素裳は横に置いていた包みを手にする。

計画通りにいけば、今夜こそ、剣が鞘から抜かれる時なのだ。