秦素衣の最初の記憶は、一片の青だった。

青い海が音を立て、波が彼女の足元を撫でる。幼い秦素衣は海辺に立っていた。

何故か分からないが、その光景を思い出す度に、彼女は嬉しくなる。

顔を伏せると、柔らかい砂と白い波。顔を上げると、青い空と白い雲。

近くで誰かが話しているようで、声が聞こえる。しかし、秦素衣は振り向かなかった。

シャ——

ヤ——カ—カ——

奇妙な音がカモメたちを驚かせ、その羽根がゆっくりと落ちていく。

師匠は後ろからやって来て、彼女を抱き起こし、連れ帰った。

師匠の袖は赤く染まっていたが、その腕はとても温かかった。

この人の腕の中にいると、穏やかな気持ちになる。

それより前のことを、秦素衣はもう覚えていない。

その年、精衛仙人は東海で璃島の妖獣を退治した。

その年、八歳だった秦素衣は太虚山、精衛真人に弟子入りし、七番弟子となる。

一番弟子の林朝雨は、知らない場所に来て不安であった素衣の傍にいて、彼女の代わりに部屋を片付け、生活用品を揃えた。

最初、秦素衣は言葉も忘れていたが、林朝雨は、一言一言付き合ってくれた。

「家。」 「……家……」 「そう。」 一番弟子は優しく話す。 「これから、ここがあなたの家よ。」 「私の……家……」 秦素衣はゆっくりと繰り返す。 「ありがとう……朝雨姉さん……」 「ええ、どういたしまして。」 林朝雨は嬉しそうに拍手し、子供のように笑った。 秦素衣も彼女と同じように拍手して笑った。

それは彼女にとって、物心がついた時から最も楽しかった時間である。数年後、彼女の人生で最も苦しく、絶望した時にも、彼女はよく当時のことを思い出した。

林朝雨は彼女と三日間一緒にいた後、六番弟子の馬彦卿の世話に戻ると言い出した。

「もう一緒にいられないわ。彦卿はまだ幼いから、こんなに長く離れていたら、きっと泣いて暴れてしまう。二番弟子じゃ彼を止められないの。」

太虚剣派の弟子は入門した日時で順番が決まる。秦素衣は一番遅く弟子入りしたが、一番幼い訳ではないのだ。

彼女は五番弟子と同い年で、六番弟子よりも三つ年上である。

六番弟子のことは彼女も知っている。師匠が彼女を山に連れてきた時、六人の弟子——女五人に男一人が出迎えに来た。一番上の一番弟子の年齢は、師匠とそう変わらない。彼女の腕には迷った表情をした子供がいる。

秦素衣は好奇心からその子を何度も見たが、男か女か分からなかった。

その横には同じ顔をした女の子二人が並んでいる。片方は素衣を観察していたが、もう片方は目を横に向け、何かから隠れているようだった。

その左には、赤髪の少女がいる。彼女は砂糖に漬けた果物を口に入れ、素衣に向かって片目をつぶった。綺麗な笑顔だった。

右側を見ると、みんなの後ろに立つ少女が見える。彼女は金色の剣を持ち、無表情だった。

「今後はここがあなたの家です。彼女たちはあなたの家族になります。」 師匠は小声で言う。 「北荒に悪獣が出没していますので、数ヶ月ほどここを離れないといけません。朝雨、素衣のために空き部屋を片付けておいてください。」 「先に剣形を教えても構いませんが、素衣の前で剣心訣を読んではいけません。私が戻ったら、きちんと彼女に教えます。」 一番弟子と五人の子供が一斉に頷く。赤髪の少女は、また素衣に向かって片目をつぶった。 師匠はまたいくつか伝えた後、急いで出立した。子供たちは解散し、一番弟子は腕の中にいる美少年を赤髪の少女に渡した後、素衣の手を取り、話しながら彼女を裏庭に案内した。

三日は瞬く間に過ぎていったが、一番弟子は戻らなかった。

体が弱いからか、それとも環境が合わなかったためか、秦素衣は病気になってしまった。最初は全身から寒気がする程度だったが、その後、火傷をしてしまうぐらいの熱を出したのである。林朝雨は秦素衣を着替えさせ、薬を飲ませ、徹夜で看病してくれた。

秦素衣も一晩中眠らなかった。高熱のせいでぼんやりしていて、記憶が曖昧だった。

彼女はなんとなく、赤髪の少女が綺麗な男の子を連れてお見舞いに来たことを覚えている。邪気を祓うと言って、二人が彼女の枕の下に丸い何かを置いたような気がするが、起きた後は何もなかった。

あの双子の姉妹も来てくれたような気がする。一人は一番弟子の傍にいて、手ぬぐいを替えてくれた。もう一人は彼女の手を掴んで、悲しそうに泣いていた。

金剣を持った、無表情な女の子のことも気になったが、彼女が来たかどうかは分からなかった。

翌日の正午。強い日差しが降り注いでいた。秦素衣の熱は下がり、まるで生まれ変わったようだった。

素衣が体を起こして周りを見ると、一番弟子ではなく、赤髪の少女の姿があった。彼女は穏やかな一番弟子とは違う、軽快な足取りで部屋に入り、素衣の周りを一周して、懐から飴を取り出す。

「はい。」 素衣は受け取らなかった。 「まあまあ、毒は入ってないわ。」 赤髪の少女は強引に飴を渡し、一歩下がって、笑顔を見せる。 「もう元気になったのね。分かるわ。」 秦素衣は頷きながら、無意識のうちに扉のほうを見ていた。林朝雨の姿を探す。 「探すだけ無駄よ、彼女は彦ちゃんと一緒に戻ったもの。」 赤髪の少女は笑う。 「師匠はあなたを朝雨姉さんに託し、朝雨姉さんはあなたを私に託した。」 彼女は早口言葉を言うような速度で喋った。 「彦ちゃんは私から離れられないけど、朝雨姉さんは彦ちゃんから離れられない。でも、私はどうかしら?」 赤髪の少女は少し考えて、残念なのか満足か、分からないような笑みを浮かべる。 「私には離れられない相手がいないみたい。」 「あなたは?そういう相手はいるの?」 「……い……ない……」 秦素衣はゆっくり答える。 「昔のことを忘れたんだってね。」 赤髪の少女は素衣に近付き、目を見て話した。 「全部忘れるってどんな感じなの?束縛がなくて、自由って感じかしら?」 素衣も少女に視線を向ける。

「……ぜんぶ……忘れた……

……とても……悲しい……」

「自由……じゃない……自由が……ない……」 「……私……思い……出したい……」 彼女は難しそうに、一字一句口にする。 赤髪の少女は焦らず、催促もしなかった。ただ静かに、落ち着いた様子のまま、彼女を見ている。 「……私……覚え……たい……」 涙がぽろぽろと落ち、素衣の目の前が真っ白になる。 そして、予想外の出来事が起きた。

赤髪の少女が彼女の肩を抱く。何かが服に落ちたような感覚がした。

秦素衣にとって、誰かに抱きしめられたのはそれが二回目だった。師匠の温かいぬくもりと違い、少女の腕は冷たい。まるで彼女が、虚無の点になるまで押し潰しているかのようだ。

「師匠は意味のないことをしない。だから、思い出さなくていい。思い出さないで。」 赤髪の少女は耳元で囁く。 「覚えていけばいい。今のこと、そしてこれからのこと。思い出を大事にして、永遠に忘れないように。」 「……覚えて……忘れ……ない……」 「そう。」 少女はそっと離れ、彼女の涙を拭いた。 「今から思い出をちゃんと覚えていきましょう。まずは私の名前から—— 私は蘇湄よ。」