「極北の高地にある『スヴィスヨード』という国には、雄大な山がある。」 「長さも高さも百マイルもある。」 「千年に一度、小鳥が山の頂上に訪れ、岩でくちばしを研いでいく。」 「やがて山が平らになり、永久なる日々のたった1ページが過ぎた。」

注釈:

ヘンドリック(Hendrik Willem van Loon)の作品『人類の物語』(The Story of Mankind)より引用。原文は:


High in the North in a land called Svithjod there is a mountain.

It is a hundred miles long and a hundred miles high

and once every thousand years a little bird comes to this mountain to sharpen its beak.

When the mountain has thus been worn away a single day of eternity will have passed.


p.s. 「Svithjod」は「スウェーデン」の古い呼称、古ノルド語が語源。

英雄が去り、傷は癒えつつある。 日常が戻り、星々は日々東から昇り西へ沈んでいく。 世界の泡の中の時間が十年過ぎた。
アントーニオは来ていないのか。 こちらに、殿下。 残念だったな。 冷酷無情な相手と法廷で相まみえることになるとは。憐れみも慈悲も知らない、人の心を持たない悪党と。 殿下が何度も注意してやったと聞きます。それでも彼はやめようとしなかった。彼の魔の手から逃れる合法的な手がなければ…… ……誰かが言った。沈黙の中で爆発するのではなければ、沈黙の中で滅亡するしかない、と。だから私は…… 私は…… お恥ずかしながら、分不相応なことができる度胸は持ち合わせていません。だから今日はここで自分の運命を受け入れます。 ……え? タレスさんの今のセリフ……台本にはなかったですよね、船長? ハハハハ、いいじゃないか。 セリフを忘れることなんてよくあることだ。情景に沿ったセリフを言い続ければ、物語は動く。 そうそう、ここでは「船長」ではなく、「劇団長」と呼んでもらおう。名は体を表すと言うだろう。 ……ああ、すみません、つい癖で。 ハハ、そうかしこまらなくていい。 慎ましいのは悪いことじゃないが、私は自由奔放なあんたの方が好きだ。 ……う、リタにもそう言われました。 でも、それも「成長」なんだと思います。色んなことを経験して、何かを失ったり、何かを得たり…… 見た目が大きく変わろうと、心の奥で最も大切な宝物を守ったんです。 ずっと昔の、本当の自分を。 ……大きくなったな、ビアンカ。 こちらに比べたら、時間の流れは遅いだろうが、私たちが過ごした十年よりずっと…… 劇団長、そろそろ出番だ! おっと、私の番か。ビアンカ、ちゃんとセリフを合わせてくれよ? はい。 貸し主、前へ。ここにいる全員が君の心が変わることを待っている。この不幸な商人から肉を1ポンド削ぐのをやめてほしいと。 総督殿下、こちらの意思は申し上げた通りです。 天に誓って、契約に記した通りに処罰することを望みます。 殿下、ヴェニスの法律は私の要求を実現できます。 何故金貨三千枚より腐るしかない肉を欲しがるかといえば…… ……そうしたかっただけ、とだけ答えておきましょう。 もし私の屋敷にネズミが出て、金貨1万枚を出して駆除してもらっても、私の自由でしょう? うるさい豚が嫌いな人がいれば、猫を見るなり怒る人もいる。笛の音を聴いてトイレに行きたくなる人もいるだろう。 ……ほら、私たちの感情は好き嫌いに支配されている。どうにもならないのですよ。 どうしても理由を聞きたいのであれば、 好き嫌いの琴線に触れれば、理由なんて必要ないのです。誰もが醜い一面を出してしまう。 私の場合、アントーニオとは因縁があったから、譲れないのです。たとえこの裁判が私に利益がないとしても。 これが私の答えです。 こ、この人でなし! なんて恐ろしいことを、生まれながらの悪人め! おまえに好かれたくてここにいるわけでもあるまい。 イカれている! 嫌いな人が死ななければ気がすまないのか? ハッ、殺したくないやつを憎むわけないだろう? ちょっと気に入らないだけで、そこまで憎むなんてことあるものか。 は?おまえは毒蛇に二度もかまれたいのか? 我が友よ、この冷酷な人間に説いても、砂浜で波に鎮まれと言うのと同じだ。 狼に、羊の母親が何故子供を失って悲しく鳴いているのかを聞くのと同じだ。 はたまた山の上の松の木に、強い風に吹かれても揺れることなく、恐ろしい「ザザー」という音を出さないでと言うのと同じだ。 だから友よ、これ以上の交渉は無駄だ。 さっさと判決を下して、この野蛮人の望みを叶えてやろう。 そ、そんな簡単に諦めないで! そこのご老人、彼があなたから金三千を借りたなら、六千を返そう。 今言った話がわからないのか!? いいか、小僧。その六千の金貨の一枚一枚が六等分できて、それぞれ三千に化けるとしても、 それでも、そんな金はいらない。ただ契約通り、罰を受けてもらうことだけが私の望みだ。 そ、そんな無情なことを言って、この先の裁判で情に訴えても聞いてもらえなくなるぞ? 何を暗示しているのでしょうか、殿下。悪事を働かなければ、何故罰を恐れましょう? あなた方貴族は奴隷を買い、畜生のように汚い、苦しい仕事をさせています。 そんな金は気にするな、自由にさせて、奴隷たちをあなた方の子供と結婚させろ、と言われたら? 同じ柔らかさのベッドに寝て、同じ食事を食べさせろと言われたら? この問いを聞いている時、あなた方の心に慈悲はありますか? あなた方が「奴隷は私たちの財産だ」と答えるのならば、 私が「この人間の肉1ポンドも、私が金をはたいて買ったものだ。必ず手に入れる」と言っても責められるはずがないでしょう。 それなのに私の要求を拒否するなら、ヴェニスの法律もただのお飾りでしょうね! 無礼な! 総督殿下、判決を下してください。私がその1ポンドの肉を手に入れるかどうかをお決めください。 ……ぺ・キホーテに使いを出した。博識な博士だ。この件の審判を任せる。 今日来なければ、裁判は延期だ。 ま、まって? その「博士」の名前は一度出ています。勝手に変えちゃだめですよ? そうだ、ビアンカの言う通り。細かい内容は役者のアドリブに任せられるが、物語の骨格は変えてはならない。 「ベラーリオー」はヒロイン「ポーシャ」の従兄だ。第三幕の「ポーシャ」のセリフに登場した。 はぁ、歳じゃろうか、頭が回らなかった。 その博士の名前が思い出せなくて、「ドン・キホーテ」を混ぜてしまった。 ハハ、ならこうしたらどうだ? バサーニオのセリフを追加して、博士の名前を補完させる。 私が言うんですか? ああ。総督は名前のところで言葉を濁して、「使いを出した。えー……」 そこですかさず「ベラーリオー博士です、殿下」と。 そうすれば総督は「そうそう、ベラーリオー博士、博識な方だ。彼にこの件の審判を任せる」と続ける。 おお、いい案じゃ! じゃあ、続けるよ? コホン。使いを出した。えー、えーと…… ベラーリオー博士です、殿下。 そうそう、ベラーリオー博士、博識な方だ。彼にこの件の審判を任せる。 今日来なければ、裁判は延期だ。 総督殿下。 どうした。 パドヴァからの使者がいらしてます。ベラーリオー博士の手紙を持ってきたそうです。 ちょうどいい。手紙をこちらに。使者も呼んできてくれ。 もう少し嬉しそうにしたらどうだ、アントーニオ! 友よ、まだ諦める時でないぞ。 この野蛮人が私の皮、肉、骨、私のすべてを持っていっても、私のせいで君に血を流させはしない、一滴も。 はぁ……私は羊の群れの中で最も役に立たない病気の羊で、殺されるのが運命だ。 「一番柔らかい果実が一番早く地に落ちる」という。私の一生を早く終わらせてくれ。 バサーニオ、君が生きて、私の墓に言葉を残してくれれば、私は満足だ。 おい、やけになるなよ!ほら、使者が来たぞ。 総督殿下。 君があの博士の使者か? はい、殿下。ベラーリオー博士から言付かっています。 これが博士の直筆の手紙です。どうぞ。 シャリ、シャリ—— シャリ、シャリ、シャリ—— おい、煩いぞ!何大きな音を出してナイフを研いでるんだ? もちろん、あの破産した野郎から、私の取り分の肉を切り取るためだ。 こ、この卑怯者、鉄でできた心でナイフを研いでるんだろう! し、処刑人の刀でも、その冷たい心の半分の硬さもないはずだ! ど、どうお願いしても聞いてくれないの? ……ジミー、緊張しすぎです。 ご、ごめん……あ、悪役に訴える話だと思うと、つい…… ハハ、いいじゃないか? 臆病なのに、素朴な正義感を貫きたい「グラシアーノ」も面白いだろう? あ……すみません…… そういう人間を見ると、つい焦れったくなって…… ハハハハ、みんなぶっつけ本番なんだ、自分をキャラに反映させたほうが、上手くいく。 では、リハーサルの続きといこうか。 明日の本番は、全世界に中継されるぞ? ……ダメだ。おまえが、おまえらが、いくら情に訴えても、無駄だ。 じ、地獄に堕ちろ! ハハ、そんな言葉でこの契約書の判を消せるとでも?吠えていても感情の無駄だ。やめておけ。 老婆心で忠告してやる。冷静になれ。ここで醜態を晒したり、収拾がつかないことをしでかしたりするでないぞ。 ……総督殿下、私は法律により公正な判決を求めます。 ……手紙には、博士は裁判には出られないが、若いが有望な人をこの任に推薦するそうだ。 使者よ、その若者は同行したのか? はい、外で控えています。入室の許可を頂けますでしょうか。 もちろんだ。さあ、早くその者を迎え入れよ。 若者、君が博士のところから来た者か。 はい、殿下。 歓迎するぞ。掛けたまえ。 今日ここで審理される件、双方の立場はわかっているか? ええ、あらかた把握しています。 どちらが破産した商人で、どちらが貸し主ですか? アントーニオ、シャイロック、前へ。 あなたがシャイロックですか? そうだ。 この裁判はおかしなものだが、ヴェニスの法律によれば、あなたの主張は成立します。 アントーニオ、あなたの生死は彼の手にかかっている、そうですね? ……そう言っている。 それで、あなたはこの契約を認めますか? ……認める。 相手が認めているのなら、貸し主は慈悲の心を持つべきかと思います。 何で皆私に「慈悲」を強要するのだ?君はどんな理由で私を説得する? 私は学者です。説教っぽく聞こえるかもしれませんが、 慈悲は美徳です。無理をして手に入れられるものではなく、甘露のように全人類に降りかかります。 慈悲は与えられる側に幸せをもたらすだけでなく、与える側にも異なる幸福をもたらす。それはどんな権利や富よりも尊く、我々の魂を救うものです。 この話をしたのは、あなたが原告として少し譲歩してほしいからです。元の要求を貫く場合、法律は商人を有罪にするしかないでしょう。 譲歩しない。契約の通り、罰を与えてほしい。 では、商人は借金を返すことができないのでしょうか? いいえ、私がこの場で代わりに返す。倍の額でも構わない。 貸し主の気が済まなければ、私の首と心を担保に、十倍返すことを契約してもいい。 それでも気が変わらないというのならば、私の友を殺そうとしているとしか言えないだろう。 博士、なんとか融通をきいてはくれないだろうか。 小さな齟齬を引き換えに、大きなものを取ってください。この残忍な悪魔の意のままに、法律を盾に人殺しをさせないでください。 それは不可能です。ヴェニスにおいて、法廷で一時的に法律を変える権力は誰も持っていません。前例を作れば、法律は効力をなくします。 絶対に不可能です。 なんて清く正しい裁判官なのだろう!この青年の智慧は世にまれに見るものだ!彼の言葉にすべて賛同するよ! 貸し主さん、契約書を見せて頂けますか。 ここに。どうぞ見てください、博士。 貸し主さん、もう少し考えてみませんか?三倍以上の大金で返済すると言っているのですよ。 いや、いや、私はこの約束を守らない人間に罰を与えると天に誓ったのだ。誓いを破る汚名を背負わせろと言うのか? いや、いや、いや!ヴェニスを与えられても、譲るわけにはいかない。 わかりました。では契約の通り処罰しましょう。 法律により、貸し主は商人の胸から1ポンドの肉を取ることが許されています。 ただ……シャイロックさん、最後にもう一度聞きます。慈悲の心で、三倍のお金を取り、この契約書を破棄させてはもらえないでしょうか。 そこに書かれた通りの罰を受けたら、ご自由にどうぞ。 あなたは良い裁判官だ。法律をわかっている! あなたの言葉は理にかなっている、さすが法律界の新星…… だからお願いだ、今すぐ判決を。 和解なんていらない、罰を実行したいだけだ。 ……この絶望した心も、判決で苦しみを終わらせてほしい。 ……わかりました。 では被告人アントーニオは、原告シャイロックによってナイフで胸を刺されなければなりません。 ハハハハ、あなたは最も偉大な裁判官、最も優秀な青年だ! この判決を下したのは、契約書に基づく処罰が、ヴェニスの法律に抵触しないからです。 その通り!聡明な裁判官よ、あなたは若いのに、テキパキことを運んでくれる! ……アントーニオ、胸を出してください。 はい。「胸」の、「心臓付近」だと、はっきり書いてあるからね! ……はい。そういえば、肉を計る天秤は持ってきましたか? 肌身離さず持っている。 では、ご自分で外科医を雇って、失血で命を失わせないようにすることをおすすめしますよ。 彼との契約にそんな内容は書かれていないだろう? ええ。でもいいじゃないですか。 悪いけど、外科医なんていないし、そうする義務もない。 ……では、商人アントーニオ、何か言いたいことは? 何も。……準備はできています。 バサーニオ、手を。お別れだ。 この結末は君のせいじゃない。誰だって、友を思っているなら、そうするだろう。 バサーニオ、奥さんによろしく。アントーニオの最期を、アントーニオは友を思っていると、アントーニオが死を受け入れる姿を、伝えてください。 私の物語を語った後、聞いてみてください。バサーニオには思ってくれていた友人がいたのか、その友人は本当に死を受け入れたのか。 楽にしてくれ、バサーニオ。友人を一人失ったからって、苦しむことはないのだ。あいつがナイフを深く刺してくれれば、一瞬ですべての借金を返せるのだ。 ああ、アントーニオ!私は自分の命を愛するように妻を愛してる。けれど、私の命より、妻より、世界よりも、君の命より大切なものなんてない! 君を救えるなら、私のすべてを悪魔に捧げてもいい! ……コホン。ご夫人がその言葉を聞いても、感謝するとは限らないでしょう。 いや、リタ…… ……あ。 ……すみません、セリフ間違えました。 くす。 ハハハハハハ! ……大丈夫大丈夫、セリフを間違えやすいところや笑ってしまうところは、後で練習すればいい。 このくだりは物語のアクセントだ、自由にアドリブを入れてくれて構わない。 ……じゃあ、続けるよ? ……はい。 ご夫人がその言葉を聞いても、感謝するとは限らないでしょう。 いえ、博士、これは比喩表現で、別に本当に家族を…… あ、ああ、私にも妻がいる。わ、私は誓って彼女を愛している。 で、でもこの時、へ、変な考えを思い浮かべるのも無理はない。例えば、彼女がもし天国に住んでいるなら、神にあの人の恐ろしい執念を消してくれるようお願いできるんじゃないかって。 ……本人がいないところでの戯言でよかった。でなければ、数日は騒音によって近所迷惑になっていたでしょう。 うっ…… ほら、これがおまえらの言う「文明人」の「良い夫」だ! 私には娘がいてな。海賊の子孫に嫁いでも、こんなやつには嫁がせないぞ。 さあ、これ以上は時間の無駄です。早く判決を。 はい。 商人アントーニオの肉1ポンドはシャイロックのものだと判決します。 正しい裁判官が公平な判決を下した! 原告、被告の和解案を一切受け入れなかったため、法律に則り、彼の胸から1ポンドの肉を取らなければなりません。 さすが博識な裁判官!さあ、皆さん! 待った。 ……他になにか、裁判官様? もちろんあります。 原告、契約には彼の血を取ることを許していません。「肉1ポンド」としか書かれていません。肉は取って良いのですが…… 肉を切り取る際、被告が一滴でも血を流せば、あなたの土地と財産は、ヴェニスの法律に則り、全て没収されます。 ……え? み、見たか!?こ、この忌々しい吸血鬼め、これが正真正銘、公平公正な裁判官だ!は、博識な裁判官だ! ……法律がそんなことを!? ご自分で調べても構いませんよ。 公平を求めるのであれば、公平を与えます。求められた以上のものを。 「博識な裁判官!」 「正しい裁判官が公平な判決を下した!」 ……じゃあいいです。返済を受け入れます。契約の三倍でいいです。 ここにお金が。 待ってください、被告の友人。 判決は下されました。原告が和解案を一切受け入れなかったため、被告の胸から肉を取らなければなりません。 代替案は認められません。 あ、あなた以上に公平な人なんていません、裁判官様! さあ、シャイロックさん、肉を切り取ってください。 血を流すことも、切り取った肉が1ポンドより多くても少なくても認められません。 守れなければ、あなたの命を、財産を、没収させて頂きます。 「なんて清く正しい裁判官なのだろう!この青年の智慧は世にまれに見るものだ!彼の言葉にすべて賛同するよ!」 原告、どうぞ。 ……貸した金を返してくれれば、なかったことにしてやる。 問題ない、金はここにある。 被告の友人? 言いましたよね、一切の代替案は認められません。 貸した金を返してもらうこともできないのか? できません。あなたには命の危険を犯して肉を切り取るほか道はありません。法律でそう決められています。 法律が被告を有罪としました。この事実を無にすることはできません。 ちっ、金もいらない!この裁判はやめだ! 待ちなさい、原告。それならまだ法律上の問題があります。 ヴェニスの法律では、異邦人が直接もしくは間接的に国民に危害を加えようとするものは、 その財産の半分が被害者のものに、もう半分は国に没収されます。 犯罪者の命は総督預かりとなります。 原告、今すぐ土下座して総督殿下に命乞いをすれば、まだ間に合うかもしれませんよ。 シャイロックよ、「文明人」の精神を見せてやろう。まだ何も聞いていないが、あなたに死罪を言い渡す気はない。 財産の半分はアントーニオに、もう半分は国が没収する。誠心誠意反省するのであれば、国の半分はいくらか融通も効かせよう。 いや! 私の命も財産も全部奪えばいいだろう!「許し」なんていらない! 一瞬にして私のすべてが奪われたら、この先どうやって生きればいいんだ!? アントーニオ、彼に慈悲を与えますか? 殿下と裁判官さえ良ければ、彼の半分の財産は没収しないでください。同時に、 私が受け取る半分は、私から彼の娘と、その娘と駆け落ちした男性に渡そう。 条件はただひとつ。死後、彼の財産はすべて娘と婿のものとするように、この場で文書を作ってもらいます。 よろしい。本人が承諾するなら、その通りにしよう。 シャイロックさん、これで満足か?何か言うことは? 私は…… ……好きにしろ。 では書記、文書の作成をお願いします。 き、今日のところは帰らせてもらうよ。気分が優れないんだ。 文書ができたら家まで送ってくれ、サインをするから。 いいだろう。反故する度胸もないだろう。 アントーニオ、裁判はこれにて閉廷とするが、こちらの博士にはちゃんとお礼をするのだよ。すべては彼のおかげなのだから。 はい、殿下。 ふぅ……やっと一息つける。 気を抜いたところ悪いけど、今の幕、まだ終わってないよ? ……あ、この後バサーニオが結婚指輪を博士に渡すんでしたっけ。 はい、デュランダル—— ——あ、いえ、ビアンカ様。 いいです、気にしないでください。 船……いや、劇団長のもう一つの脚本に有名なセリフがあるでしょう? 「名前ってなに?手でもない足でもない、顔でもない、人間の体の中のどの部分でもない」 「名前に意味などない。バラと呼んでいる花を別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま」 ハハハ。そういえば、「聖剣」を作り直したって?君が名前を奪ったって抗議しなかったかい? ……別に。 「聖剣」の言葉を借りれば…… ちょっと…… 「ずっと使っていくべきっしょ!元に戻したところで他の人が慣れるかわからないし、ワタシが元祖を名乗れるのは悪くないことっしょ?」 ハハハハ!あれもこちらに来れたら、もっとにぎやかだっただろう。 ……確かに。 船長、きっといつか、この世界の泡の「反転ライン」を「虚数の樹」に接続させて、安定性問題を根本的に解決してみせます。 その時、「聖剣」が重荷を下ろせる日が来たら、また一緒に来ますから。 ハハハ、じゃあ約束な? 約束です! 約束いたします。 さあ皆、あと五分の一、世界中を驚かせるために、もうひと頑張りするぞ! ああ、親愛なる博士、私も友も、今日はあなたの智慧のおかげで命拾いしました。 この金貨三千枚は私たちのほんの気持ちです。ぜひ受け取ってください。 シャイロックに返済するためのお金ですが、謝礼とさせてください。 お二方、いけません。私が助けたのは、法律がいいように使われたくないだけです。これで十分満足しましたので、これ以上の謝礼は頂けません。 またどこかでお会いしましょう。では、私はこれで。 待って! あなたからの恩は忘れません。私たちから何かもらってください。記念としてでもいいですから。 無理を言ってすみません。これだけは断らないでほしいのです。私たちを安心させるためにも。 ……そこまで言われたら断れませんね。 アントーニオさん、その手袋を記念にください。 バサーニオさん、お言葉に甘えて、その指輪をください。 え、でも…… 手を引っ込めないでください。あなたから「何でも」もらっていいのではなかったのですか? でも、この指輪は……その…… ただの金にならない装飾品で、あなたに渡せるほどのものでは…… いいではありませんか。そこまで言われたら逆にほしくなりました。 他に何もいりません、その指輪がいいです。 ……はぁ。この指輪自体に価値はないが、ある理由で他人にあげるわけにはいかないのです。 博士、この金にならない指輪を見逃してくれるなら、ヴェニス一高い指輪を買って、お宅までお送りします。 ……まさか、あなたが口先だけの人だったなんて。 物をくれると言ってすぐ、手の平を返すように断るのですね。 そ、その…… お願いです。これは妻からもらったものなんです。私は誓ったのだ、誰にも渡さないと。 ……贈り物を渋る時によく使う常套句ですね。 ご夫人に理性があれば、私はその指輪を貰い受けるに値する人間だとわかるはずです。 それを頂いても、家庭が崩壊することなんてありませんよ。 では、さようなら。お元気で! あ、待ってください…… はぁ、バサーニオお坊ちゃん、指輪を渡してやれよ…… 彼の言うように、彼の功績を考えれば、奥さんとの小さな約束なんて大したことないだろう。 …… グラシアーノ、早く追って、指輪を博士に渡してくれ。彼らさえよければ、アントーニオ宅に招待しよう。 わかった。今すぐ追う。 さあ、アントーニオ。今から家に帰って、パーッと祝わなければ。明日一緒にベルモンテの別荘に戻ろう。 ネリッサ、シャイロック家がどこにあるのか聞いてきてくれる?そして、この新しい契約書にサインをもらってきてちょうだい。 今夜出発しましょう。そうすれば夫たちより一日早く家に着くわ。ロレンゾたちがこの契約書を手にしたら、きっと喜ぶはずよ。 は、博士! ん? や、やっと追いついた。 バ、バサーニオさんがさ、再三考慮した結果、わ、私にこの指輪を届けるようにと。ぜ、ぜひアントーニオ宅でご馳走させてほしいとのことです。 食事はいいです。指輪は頂いていきます。ありがとうとお伝えください。 それと、お手数ですがこちらの書記に道案内を。シャイロックの家まで。 わ、わかりました! 博士、ちょっといいですか。 (うちの旦那の指輪も取れないか試してみたい。彼もずっとつけているって誓ったから) (ふふ、いいわ。家に帰ったら、男に指輪を送ったことを必死に弁明するでしょうね、楽しみ) (でも私たちはこの勝負を勝ち取るだけでなく、誓いを大事にしてもらわないといけない) 大丈夫、早く行って。いつものところで待っているから。 では、道案内をお願いします。 ど、どうぞこちらへ、書記さん。 ハハハハ、本物の恋人にこの芝居をさせるのはやっぱり面白い! はぁ……私はジミーに同情します。どう見ても緊張しすぎてますし。 ほう?なら、自分は? 私?私がどうかしました……? ……っ!ど、どういう意味ですか、このゴシップ大好き劇団長! 何かありましたか、ビアンカ様? ……な、何でもありません。 ハハハハ、まあまあ、冗談はここまでにしよう。 衣装替えのある人は急いで、一気に最後の一幕を終わらせよう! はい、劇団長! なんて美しい星空!そよ風が音も立てずに枝をなでている、そんな夜に…… ……しー、足音が聞こえる。 誰だ、こんな静かな夜に走っているのは? 友人です! 友人?ロレンゾも私もあなたと面識はないはずですが。 私の名前はスタンファーノ、報せを持ってきました。奥様が夜明け前に戻ってきて、とても良い報せを持ってきますよ。 どんな報せ? それはわかりません。「良い報せが来る」としか聞いていません。 どけどけ、報せだ。 ……え?おじいさん、家でお父様の面倒を見ずに、なぜこんなところへ伝言を届けに? ああ、ジェシカ。今回は旦那様の敵のために報せを持ってきた。明日ここへ来て、良い報せを持ってくるとのことだ。 良い報せってなに? それはわからない。 ……何だよ、どいつもこいつも秘密ばっかり。 早く部屋の中に入ろう。奥様が戻ってくるのなら、準備をしなければ。 あら、家に明かりが……音楽も流れてるわね? まさか……夫たちが先に帰っているの? 慌てないで、ネリッサ。あの人たちはアントーニオと仲が良いわ。昨夜は城でご馳走を食べていたはずよ。 ……私の聞き間違いでなければ、ドアの外の声は奥様ですね。 ふふ。私の声がきれいじゃないから、すぐわかったんでしょう。 御冗談を。おかえりなさいませ。 昨日は夫の無事を祈るため出かけたけれど、夫たちは帰ってきたのかしら? いいえ、まだです。先ほど使いの者が奥様の使いのすぐ後に来て、どちらも旦那様が良い報せを持ってくると…… ……でも、どういう内容かは教えてくれませんでした。 ……そう、じゃあもうすぐ帰ってくる頃ね。 ネリッサ、私たちは昨日出かけていなかったことにするわ、使用人全員に通達して口裏を合わせるように。ロレンゾも、ジェシカと一緒にこの秘密を守ってちょうだい。 良い報せは、タイミングが来たら教えるわ。 奥様、ご安心ください。ここの人間は口の堅い人ばかりです。 ああ、遠くからバサーニオのラッパの音が聞こえるわ。 あなた、おかえりなさい。 ただいま。おかげさまで万事無事だ。 紹介しよう。こちらがアントーニオ、私を色々助けてくれている。 こんばんは、夫人。 バサーニオ、彼はあなたのことを色々と助けたようね。あなたのために、命まで張ったそうじゃない。 大したことはない、すべて解決した。 ……ま、まって、聞いて、ネリッサ! う、嘘はついていない、本当に裁判官の書記に渡したんだ。 ほ、本当に何もないんだ!た、ただの博士の連れだよ! あら、何を揉めているの? あの……その…… ふん。指輪を贈った時、なんて誓ったか覚えてる? 「死ぬまで身につけて、死んでも墓に持っていく」って言った。 私のためだけでなく、あなたの誓いのためにも、もう少し大事に保管すべきものだったんじゃない? それで?男の子に騙し取られたんだ、男の子に! お、女の子の方がダメでしょ? 何よ?そんな意味のない言い訳をするんだ? あ、その…… 天に誓って、博士も書記も恩人で、どうしてもあの指輪が欲しいと言われて、断れなかったんだ。 ……お言葉だけど。 ネリッサはあなたの奥さんよね。奥さんからもらった最初のプレゼントを簡単に人に渡したの? 妻の前で、男の「面子」なんてどうでもいいの! 指輪を永遠に身につけると誓ったなら、それはあなたの体の一部、指と同等のもの。 私もバサーニオに指輪を贈った時、絶対に手放さないと言っていたわ。 どこかの国の王が全財産をはたいても、私のバサーニオは絶対に手放さない。 グラシアーノ、早く奥さんに謝るべきね。 (……家に帰るまでに左手を切り落としておくべきだった。そうすれば、抵抗した挙句、強盗に手ごと指輪を持って行かれたと言えたのに) で、でも……バ、バサーニオさんも、指輪を博士に渡したよ? 裁判で勝たせてもらえたのに、謝礼を一切受け取らず、要求してきたのは私たちの手にある…… ……待って? あなた、どの指輪をあげたの?私が贈った「あれ」じゃないわよね? ……嘘をついて君が喜ぶなら嘘をついていただろう。でも今の私は、君を喜ばせるものを持っていない。 は?こんな時に誠実になっても意味がないでしょ。私のことなんてこれっぽっちも思っていなかったの。 指輪をつけるまで、同じベッドでは寝かせないから。 …… かわいいポーシャ、誰に指輪をあげたのかわかってもらえたら…… 誰にあげたかの問題じゃない。 バサーニオ、あなたがこの指輪の本当の価値をわかっているのなら、誰にも渡すはずがなかったわ。 それに、この世に金を取らずに、人の指輪を欲しがる人間なんているの? それがどんな意味を持つかわからないバカなの? 女でしょ、指輪をとったのは! 違う! 私の名誉と魂に誓って、本当に法廷で助けてくれた博士に指輪をあげたんだ。 私からの金貨三千枚を断って、どうしても指輪が欲しいと言われた。断ったら、気を悪くし去ってしまったんだ。 私の最高の友人の命を救ってくれたんだよ?蔑ろにすることなんてできない。 仕方なかったんだ。追いかけるように指示して、指輪を渡した。でなければ、私はとんだ恩知らずの人間だろう。 許してくれ。同じ場にいたら、きっと指輪をあげるように君も言っていただろう。 ……なら、その博士とやらと私を会わせないことね。 あなたが永遠に手放さないと誓ったものを、私の大事な宝物を彼は持っていった。 私もあなたと同じように、その人に何でもあげるでしょう。 私の体も、この家のベッドも、拒んだりしない。 落ち着いてくれ。全部私が悪かった。 いえ、これは私たちの問題。あなたは私たちの良き友人よ、歓迎するわ。 ポーシャ、私が悪かった。この友人たちの前で誓うよ。君の美しい双眸にある私の…… 何を言っているの?私の左目にいるあなたと、右目にいるあなた、この二人のあなたにでも誓うつもり? いいや、ポーシャ、聞いてくれ。私が過ちを犯した、許してくれ。魂に誓って、二度と誓いを破らない。 私はこの男の幸せのために、自分の体を担保に、金貨三千枚を借りてきた。今、もうひとつ契約しよう。 私の魂と命で保証するよ、あなたの夫は二度とあなたを裏切ったりしないと。 保証とか契約はいいわ。 その代わりに、証人になって。これを夫に渡し、これまで以上に大事にしてくれるようにと。 バサーニオ、ほら、新しい指輪を大事にすると誓って! ……なんてことだ!これは私がもらった指輪じゃないか!? 「博士」から取り返してきたのよ。 バサーニオ、許して。この指輪のために、その「博士」と寝たわ。 グラシアーノ、許して。私も指輪のために、あの未成年の書記と寝たの。 な、なんだって? そ、そんな…… ふふ、ちょっとショックが大き過ぎたかしら。これ以上遊ばない方がいいわね。 ここにパドヴァからの手紙があるから、ゆっくり読むといいわ。この手紙で、博士がポーシャで、書記がネリッサだったってことがわかるはずよ。 ロレンゾも証明できる。あなたたちが発った後、私たちもすぐパドヴァへ向かった。今も家に着いたばかりで、自分の部屋にもまだ戻っていないの。 そうそう、アントーニオ、もう一つ良い報せがあるわ。 この手紙には、予定の日にちに戻ってこなかったあなたの商船三隻が、積み荷を満載した状態でもうすぐ港に着くと書いてあるわ。私から渡されるとは思いもしなかったでしょうけど。 ……もう驚きすぎて、なんと言えば良いのかわからないよ。 つ、つまり……君があの博士で、私たちはそれを全く見破れなかったということか? ふふ。男に変装する機会なんてめったにないでしょ。いい経験だったわ。 …… じゃあ、すべての問題を忘れようか! 博士、今夜は一緒に寝よう! 私がいない時も、妻のベッドを使っていいぞ。 ……つまり、そういうこと。 おやおや、甘い言葉を覚えたバサーニオ、もしあなたが裁判官になったら、きっとあの博士より饒舌でしょう。 そうだ、ロレンゾ…… 何でしょう、奥様? あなたへの良い報せよ。ここにあなたの高利貸しをしていたお義父さんが署名した文書がある。今すぐ財産の半分をあなたとジェシカに渡し—— ——彼の死後、遺産もすべてあなたたちのものになるわ。 信じられない!奥様、あなたはまるで幸せを伝える天使です! そろそろ夜が明けるけど、事の詳細を聞きたいことでしょう。 とりあえず部屋へ行きましょう。疑問に思った点は、またゆっくり聞くといいわ。 朝まであと2時間しかない。各々一休みして、午後になったらこれまでの冒険を祝おう。 ……は、博士さん、いいよね? ふう……最後の芝居が一番疲れるなんて。 あら?そうですか? ビアンカ様なら楽しんでいるのではないかと思っておりましたが。 そ、そんなこと…… わ、私がこの芝居で何を楽しむって言うんですか? ……ふふっ、本当にそうですか? 「博士、今夜は一緒に寝よう」 「私がいない時も、妻のベッドを使っていいぞ」 …… も、もうっ!