果てしなく広がる黄砂が、太陽に照らされている。

目に見えない気の波とともに、汗が噴き出るほどの熱気が押し寄せてくる。

しかし、目の前の男が放つ冷たい殺意に、李素裳は寒気がした。

男は頬ひげを生やしており、年齢は推測できない。彼の頬には痛々しい傷痕が残されている。真っ赤な稲妻のように下顎へと伸び、突然途切れている。……それはまだ、落ち続けようとしているようだった。 よくよく見れば、この男の体には数えきれないほどの傷痕があった。 それらの古傷がなければ、彼はきっと美男子だったに違いない。血のように赤い傷も、彼を凶悪な顔に変えてしまうどころか、格段に勇ましく見せていた。 「素裳、気を付けるんだ。」 羅刹人はゆっくりと馬車から降りると、棺をそっと砂漠の上に置いた。 「あの男は君の剣を手に入れようとしている。」 「え?アタシの軒轅を?」 李素裳は驚いたが、すぐにハッとした。色々と合点がいったのだ。 彼女が見知らぬ男に目をやると、彼は羅刹人を見つめていた。その目は光り輝いているようだった。 突然、男が笑い出す。

上がる口角と共に赤い古傷が動く様子は、やや不自然だった。しかし、彼は楽しそうに屈託のない笑顔を見せている。

男は笑い終えると、表情をやや和らげた。

「娘!お前は霜姉さんの弟子なのか?」 「……教えないよ!」 李素裳は怒りのあまり、目を大きく見開く。 「何がしたいの!お喋りしたいなら挨拶すればよかったじゃない!」 「フッ、どうやら間違いないようだ。」 男は怒るどころか笑みを浮かべると、片手を前に伸ばし、羅刹人に向けた。 「悪いが、色々と話したいことがある。話し終わったら始めよう――ああ、そこの羅刹鬼を、倒すんだ。」 「えっ……ええっ……何するつもり!?」 素裳は慌てて羅刹人の前に立ちはだかった。 「彼はあんたと戦ったりしないよ。彼は……あんた、一体何が狙いなの?どうしていきなり襲いかかってきたの!?」

「お前の馬車を壊してしまってすまない。

詫びとして、夜血で連れて行ってやろう。」

男はそう言いながら関節をバキバキと鳴らした。 「羅刹鬼の言う通りだ。ああ、俺はお前の軒轅剣が気になっている。だが、無理やり奪ったりはしない……少なくとも、今はな。娘、その剣はお前のものか?」 「アタシのに決まってるじゃない!」 「フッ、なら、やはり霜姉さんの弟子だったか。どうりで見覚えがある訳だ。いいだろう、弟子の序列に従うなら、俺のことは師叔とでも呼べばいい。」 「話は、その男を倒してからにしてくれ。ちょうど俺も、お前の師匠に会いに行くところだったからな。」 「この人はあんたと戦ったりしないよ。」 「いや、戦うだろう。戦うしかない。」 男は興味深そうに羅刹人を見つめた。 「何故なら、俺がそう決めたからだ。」 「あんた――」

――突如、異変が起こった。

激しい殺意が急に空を覆ったかと思うと、すぐさま跡形もなく消えてしまったのだ。[\s]

まるで、目の前の人物の形跡が世界から消えてしまったかのようだった。

李素裳は羅刹人に目を向ける。彼は相変わらず落ち着いているように見えた。 そうだ。羅刹人は分かっていないようだったが、李素裳だけは理解していた。これは、敵が剣心の境界に入ったことを意味している。

無意味な感情や価値のない思考を捨て、

欲望、怒り、邪念、憎しみを捨て、明鏡止水のような空虚さを保つ。

それこそが太虚剣心であり、精衛真人が生み出した神業なのだ!

眼前の謎の男は、精衛の直弟子に間違いない。太虚七剣で唯一の男の弟子、

「百里逐駒」こと馬非馬……

素裳は幼い頃、憶剣山荘で何度か彼に会ったことがある。この太虚剣派の副当主は世界を股に掛ける気概を持っており、素裳に深い印象を残した。 [em italic]……六大派の当主級の相手を前にして、己は勝てるのだろうか?[/em] 「羅刹人、あんたは……下がってて。アタシが相手をするから。」 いつの間にか、少女は相手の気迫に圧倒されていた。その声はか細く、ほとんど聞こえぬほどだった。 「ああ。」 羅刹人は頷く。彼は、最初から戦うつもりなどなかったようだ。

数歩ほど後ろに下がった羅刹人は、顔を上げて馬非馬を見つめた。

彼は何も言わず、その目は虚ろだった。

「……軟弱者。」 馬非馬はそう吐き捨てると、素裳の方を向いて言った。 「そいつを殺さないのか?」 「霜姉さんから教えられているだろう。太虚一門の人間は、魔に堕ちた者を殺さねばならない。」 「彼の気は暴走してないよ。」 「ハッ。そんなのものは時間の問題だ。そいつの腕からして、気の暴走よりもはるかに厄介なことになる。全く、何故その男の肩を持つ?その羅刹鬼は実力を隠している……お前には、想像もつかないほどの実力を。」 「……まあいい、俺にはお前を指導する資格などないからな。」 「……」 李素裳は大男をじっと見つめ、一歩も退こうとはしなかった。 「お前がそいつを殺していれば、こんな面倒なことにはならなかったんだが。」 馬非馬は肩を竦めながら言った。

「いいだろう。そこまでその男を庇うなら……お前が代わりに戦うんだな。

まだ準備ができてないだろ?時間をやろう、最高の状態に整えるといい。

忘れるな。必ず俺を殺す覚悟で戦え。分かるか?俺は手加減などしない。」

「……どうして戦わないといけないの!?」 「……」 馬非馬は彼女を見つめたまま、微かな笑みを浮かべた。 そうだ。話すべきことはすべて話した。これ以上言うべきことなど、何もないだろう?何故なら、馬非馬が「決めた」からだ。彼が「決めた」ことは、必ず成し遂げなければならない。 少女は唇を軽く噛みしめ、無理やり怒りを抑え込み、言われた通りにした。

目の前の敵は、決して力を抜ける相手ではない……

全力を出したとしても、必ず勝てるという保証はない。

何しろ――彼は太虚剣派の六番弟子、師匠と同等の腕を持つ最高の使い手なのだから!

[em color=#FAFAD2](もう。人生初の決闘から数日も経っていないのに、また戦わないといけないなんて。)[/em]

しかも相手は武術界最強の七人の中の一人……

[em color=#FAFAD2](まさに本に書いてあった通りだね、武術界ってとこは、海のように深い。)[/em]

李素裳は心の中で意味のない嘆きを呟くと、それを原動力にし、溢れんばかりの闘志に変えていった。

心は穏やかで波風一つなく、透明で、澄んでいた。

これは馬非馬の「止水」よりも高い境界だった。

剣心・明鏡。