夢を見た。ロシアの孤児院にいた頃の夢を。 都市の名前はソチ。気候はあたたかく、山に囲まれた港町。 狭い路地のアスファルトを踏みしめ、新鮮な空気を肺いっぱい吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。胸のうちにあった陰鬱としたものも一緒に吐き出せた気がした。 6月の麗らかな日差し。道端に生えた雑草の中、ノアザミの花が咲いている。 紫色の刺々しい、気高く強い花だ。どんな厳しい環境でも生きられるほどに。 まるで、貧しくも勤勉な人々に似ている。 ミツバチが花の間を行き交う。懐郷的な匂いが鼻をくすぐる。 ここがいつ、どこなのかもわからない。ただの幻なのかもしれない。 だが確かに感じる。今となっては失くしても平気な、だけど失意のような何かを感じさせるものが、この地に眠っていると。 温泉の湯気を越え、深い青を湛える黒海の岸辺に立つ。 アルゴー号の船乗りや、失明したオストロフスキー。無数の著名な、無名の英雄たちが、この地に立ち、波の音を聞いてきたのだろう。

注釈:

ニコライ・アレクセーエヴィチ・オストロフスキー(Николай Алексеевич Островский, 1904 - 1936)、ソビエト連邦の作家。15歳で赤軍に志願。16歳の時、戦闘中に頭部を負傷し、右目が失明。23歳で全身不随、両目が失明するも、口述によって29歳の時、小説『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を完成させた。信念と根気、自己肯定を語った自伝小説である。

海燕が自由に空を翔ける。だが確かに懐かしい匂いがした。 ここがいつ、どこなのかもわからない。ただの幻なのかもしれない。
や、おはよう。 外界と遮断されたこの船倉の中では、早寝早起きは存外難しいものだな。 まあ、10個目の目覚ましでようやく起きた船長には、確かにそうかもしれませんね。 戦乙女たるもの、生活リズムの乱れで仲間に迷惑はかけませんが! なるほど、リタさんから聞いたのと、少々違うようだね? …… ………… ……待って。な、何を聞いたんです? なに大したことじゃない。ただ…… 寝てる間に頭が枕の下に潜り込んでたり—— 布団が5回もベッドの下に落ちたり—— 大人しくなったかと思いきや、ヨダレでシーツまでびしょびしょになってたり—— ストップ!ストーップ!! 何でそこまで教えた——じゃなくて、何でそんな嘘を教えたんですか、あの人は! アハハハ!本人に聞いてみれば? うむむむむ…… ビアンカ様、シェイクスピアさん、お話中失礼致します。 本日の朝食は、鯨の脂を使った揚げパンに、ベーコンエッグ、えびとアスパラの炒め、りんごサラダ、きのこのクリームスープでございます—— ——ごゆっくりどうぞ。 (ぐぬぬ、完璧に話が逸れた!でも……) ……美味しそう! (もぐもぐ) こ、この揚げパン、すごく美味しい!! リタ、有能すぎませんか!? ビアンカ様にお褒め頂き、大変光栄でございます。 ……こ、これで、ゆ、許されたと思わないでくださいね。 た、隊長の私生活をベラベラと他人に話さないこと!いいですね、副官殿? クスッ。はい、肝に銘じておきます。 ……もうっ!従う気ゼロでしょ! 世界のどこかで語り継がれてきた話がある—— 「誰かの心を掴みたくば、まず胃袋を掴め」と。 朝食でお腹いっぱいになりながら、何故かそんな根拠もない話が脳裏に浮かんだ。 皆、朝食は済んだようだな。「カレドニア号」も浮上完了、まもなく入港する。 今日という良き日に、一つワガママな決定事項を伝える。それは—— ——総員、24時間の休暇を言い渡す!! おおーッ! やったぜ!!! ついでにアレクサンドリアに移住したい者は、この船長自ら手続きをしてやろう。 この不夜城で思いっきり羽根を伸ばしてこい!ギャンブル以外はすべて経費で落とす! 船長万歳!! 休み万歳!!! ゴホン。長年、私についてきた古株の者たちはここ「地元」に詳しいだろうが、何名か最近乗船してきた仲間もいる。 ついては、最も重要な命令を下す—— それは、新旧船員がくじでペアを組み、行動をともにしてもらうことだ!三人以上で組むのは許さん。ちゃんと二人一組だぞ!デートみたいに! くすっ。 え? え…… …… ほらほら、くじも用意してやったぞ? 自らの手で運命を引くか——それとも、この船長様が代わりに引いてやるか。 後者は、裏で操作されても文句言わないでくれよ。 ちっ……「劇団長」というのは、大人しくできないものなんですか? ハハハ、いいじゃないか。 遠慮しているなら、このじじいが先に引かせてもらうぞ。 (ガサ、ゴソ——) よし、こいつじゃ!! ほほぅ!「S」とは、船長のことかのう? ハハハッ、そうだ!じいさん、あんたの仲間のペアが全部決まるまで、もう少し待っていてもらわないといけないがね。 そりゃ別に構わん!ずっと世話になっておる身じゃしな。 さて……次は誰じゃ? ……昨日は、迷惑をかけてすまなかった。 (ガサ、ゴソ——) 「I」...? 私たちがペアのようだ。 軍人は好きじゃないが——母国語が同じよしみだ。ガイドぐらいはしてあげよう。 ……よろしく頼む。 …… (ガサ、ゴソ——) 「W」。 あはは……ボクだね。 ……ふう。 まあ、いいでしょう。面倒そうなやつだけど、本当に面倒事を起こすようには見えませんし。 それでは、よろしくおねがいしますね? えっと、ありがとうございます?褒められたんだよね……? はぁ……技師くん、お人よし過ぎ。 ……では、残りは私とリタさんですわね。 そうですね。何かおすすめのお土産はありますか? う~ん……お土産か……困りましたね。 多すぎて選べないと思いますよ? …… どうだい?世界一大きい都市を眺めてみて、何か感想は? ふん。大都市というには、レトロな街並みですね。アデンか、コルカタみたい。 おや、行ったことのない場所ばかりだね——どの世界でも。 それでは……フィレンツェかイスタンブールは? ……どれも行ったことないけど、言いたいことは大体わかった。 ああっ——21世紀の情報社会はきっと素晴らしいのだろう。過去の文明がすべて美しい歴史になっている! 羨ましいものだね!いつか連れて行ってくれないか? えっと、それは…… ハハハッ、真に受けるな!古代人に羨ましがられていればいい! それより——今日はせっかくのフルの休みだぞ? 解散解散ッ!ほら、散った!ハハハハ! カレドニア号の船長は高笑いをして、客人と部下を小舟に押し込んだ。 各ペア、必ず二人組で行動するんだぞ!「強制デート」しないと、船長の「特製お仕置き」を受けてもらうからな!ハハハハッ! やっと陸に着きました。この町の管理はずさんですね、税関も置いてないなんて。 えっと、そ、その……この都市の管理はね—— ——あっ、もう来た。 何が来たって言うんですか?はっきり言ってくださ—— ジェームズ・ワットさんと名も知らぬお嬢様——アレクサンドリアへようこそ。 …… お嬢様、本機はこの都市の警察です。はじめての訪問につき、いくつかの基本情報を入力してください。 へぇ、これがさっき言いかけたこの都市の管理ってやつですね、ジミー。 う、うん!すごいでしょ!! 情報を入力してください。 名前:ビアンカ・アタジナ 性別:女 年齢:12 誕生日:1月1日。……ここの暦はわからないけど。 最後に指紋採取っと——これでいい? はい。ご協力感謝します。それでは良い旅を! 一年が365日しかないとはいえ……ボク、誕生日が元旦の人をはじめて見たよ…… もう、人の個人情報を盗み見るなんて、紳士のすることじゃないですよ! ご、ごごごごごめんなさい!わ、わざとじゃないんだ。 はぁ…… まあ、大したことじゃありません。慌てすぎですよ。 それに、本当の誕生日でもないし……孤児院の先生が勝手に書いたものです。 か、勝手に書いた?誕生日を? はい。何日生まれかわからなかったので——それに元旦のが覚えやすいですし、でしょ? ……い、一理あるね。 それで?これからどこへ、何しに行くんです? うーん。 あ、そうだ! あ、あの、ガイドロボットを借りてみようか?経費は出すって船長も言ってたし。 待ってください。警察だけでなく、ガイドもロボットなんですか? う、うん、そうだよ。すごいでしょ、この都市。 ふむ……そのロボットたちを誰が管理しているのか気になりますね。もしも…… 「都市管理協会」っていう機関が管理してて——所在地から「市政庁」とも呼ばれてるんだ——ロボットを使って、治安維持と課税を行ってる場所だよ。 ……その機関のメンバーは? 市民の中から選出されるんだ。年一回の選挙でね。 実は、システム自体は自己メンテナンスができるから、どんな人間でも務まるんだ。仕事は、イギリス法廷の陪審員みたいなものかな。 そ、そうですか。意外と進んでますね。 そういえば、長い話だとどもらないんですね? そ、そう? じ、自分じゃよくわからなくて…… あ、ほら!あ、あれがガイドロボットだよ! アレクサンドリアへようこそ。 基本的な市政の案内は無料です。ガイドが必要な方はドラクマ3枚を投入し、身分証明のご提示をお願いします。 ドラクマ?何です、それ? お、お金だよ。こ、ここの貨幣は「ドラクマ」って言うんだ。ギリシャ語だよ。 見た目は地味だけど、1ドラクマは10グレーンの金に相当してね——意外と高いでしょ。 で、その「10グレーン」ってなんですか? 「グレーン」とは、平均的な「小麦一粒」の重さじゃ。金は貴重だからの、細かい単位を使うんじゃ。 そして今……その貴重なお金を節約できるチャンスがお主らの前に現れたっ! ……どういう意味です?というか、どちら様? 我か?我はこのロボットどもよりもっと詳しい案内ができる存在じゃ——しかも代金はたったのドラクマ2枚! ……つまり、あなたもガイドですか? ガイド?いやいや、そんな重労働なんてするわけないじゃろ。 我の案内はロボットのとは本質的に違う。何故なら、我の思考パターンとロボットの思考パターンは本質的に違うからの。 要約すると、我は哲学者で、奴らとは違うということじゃ。 えっと……何を仰っているのですか? ふむ、我々の認識には著しい差異が生じているようじゃ—— 我のことを知ってもらわねば、我の価値を示せぬということか! だから……何て呼べばいいかわかりませんが——まず、その難解な言葉遣いを何とかできませんか!? あいわかった!じゃが、無理じゃな! 我はタレス・ホ・ミレトス。職業は大図書館の形而上学研究所、その三軍を統率する所長——つまり、正真正銘の哲学者じゃ。 ほい、これ名刺。 ……うわ、本当にあの「大図書館」の人なんだ!すごい! ……大図書館?歴史上、何回か焼かれたという——

注釈:

大図書館は歴史上、壊滅的な被害に二度遭った。紀元前48年、カエサルがエジプトを征服した際と、西暦3世紀末の内戦時である。エドワード・ギボン(Edward Gibbon) によれば、西暦391年、セラペウム神殿にある分館がキリスト教徒によって破壊され、蔵書と建築物がどちらも残らなかったという。

ううん、全然違うよ!ここの「大図書館」は世界最高の研究機関なんだ!二千年の歴史があるらしいよ! それに、この都市にあるロボットも、皆「大図書館」が設計、製造しているんだ! おやおや、これまた大層な噂が広まっとるの。 「大図書館」の研究機関は200年未満の歴史しかないぞ——坊主。 そ、それでも、だ、大図書館で形而上学を研究してるなんて、す、すごい! ……ところで、その「形而上学」って何?そこまで拝むほどのものなんです? えっと、ボクが研究している工学が「有限の材料を処理する」学問なら…… ……「形而上学」は「無限の何かを論じる」学問なんだ。哲学の中の哲学だよ! ……さっぱりわかりません。 一般的な学問は現実世界にある物事や行為を対象とする研究に対して、「形而上学」は抽象的概念とそれらの関係性を研究する、ということじゃ。 現実は有限だが、抽象的概念は潜在的に無限であるため、そのような表現を使ったんじゃろう。 ちなみに、我は「形而上学」を「哲学の中の哲学」だなどと思っておらん。 学科の程度が低すぎる前時代の人々の偏見じゃ。哲学の中に、哲学でないものを混入させたせいじゃな。 我からすれば、「哲学は形而上学の中の形式論理で論証できない部分」となる。 包含関係では、彼の言っていることと逆になるのう。 科学が発展すればするほど、「哲学」の「陣地」が縮む。それは科学自身の発展であり、人類の進歩でもあると言えるじゃろう。 …… 説明されればされるほど、わけがわかりません! それより、さっき言ってたことで気になったんですが——「三軍を統率する」とはどういう意味でしょう?「哲学者」なのに、軍職についているんですか? あ、それはの。冗談じゃ。 「形而上学研究所」の正式所員は我を入れて三名じゃからな、「三軍を統率している」と言ったんじゃ。 そう言っておけば、偉そうじゃろう!かっかっかっ! …… でも、たった「三人しかいない」なんて——大変ですね。だから、ガイドまがいなことをやってお金を工面しているんですか? …… 坊主、お主の方がこの町に詳しいじゃろう—— ——100ドラクマで何が買えるか教えてやれ。 えっと、ひ、100ドラクマなら…… た、たぶん機関用の潤滑油が1ドラム買えるかな!筋骨隆々な船乗りが二人でやっと運べるぐらいの! わ、わかりにくいですね…… えっと、えっと……じ、じゃあ食料で換算すると…… た、たぶん牛半頭ぐらい……かな?もしくは、豚一頭? (なら、2000ユーロぐらい?もうちょっと少ないかな?) それは確かに「大金」ですね。で、一週間でその「100ドラクマ」を稼げると? 一週間? 大図書館では半日で100ドラクマがもらえるぞ。 ……? 半日で100ドラクマだから、日給200ドラクマ、約4000ユーロ…… 月給は12万ユーロで、年収は…… 144万ユーロ!?ええっ、A級戦乙女よりもらっているじゃないですか!? え、A級戦乙女?「戦乙女」ってランクがあるの? し、失礼、取り乱しました。ランクのことは忘れてください。 こほん。とにかく、タレスさん、お金のために私たちに声をかけたわけではないと主張したいのですね。 無論じゃ!お主たちが面白そうじゃったから、話をしてみたかっただけじゃ! どうじゃ?「哲学者」と一緒に町を歩く機会なんてめったにないぞ? それは確かに悪くありませんけど—— ——そんなにお金持ちなら、サービスしてくれてもいいんじゃないですか? …… かっかっか!お主、思ったより面白いやつじゃのう!
指紋を確認しました。 大図書館特級研究員タレス様、「ライトハウス」ガイドシステムをご利用頂きありがとうございます。 面白き子らよ—— ——お主たちの都市見学は、我が担おう。 えっ……?ロボットの費用を払ってくれたんですか? 「思考のみが自己否定し、自己矛盾するのである」

注釈:

ヘーゲル (G. W. F. Hegel)の『哲学全書』の『論理学』より。著者が同名の本をもう一冊出版しているため、こちらは『小論理学』と呼ばれる。

行き詰まった時は思考を逆転させ、双方が真に求めているものを見極めるべきじゃ。 今の状況に当てはめると——お主たちはガイドがほしいが、騙されたくない。我はお主たちと話がしたいが、お主たちは我をよく知らない。 本質的に見て、お主たちが我を雇っても雇わなくとも関係がないなら、我が自ら矛盾から脱すべきじゃろう。 つまり、「お金をもらう」という思考を逆転し、「お金を払う」という策を取る。そうすれば、お互いの望みが叶うわけじゃ! ……お金を払ってくれる限り、私たちは友達です。 ほう、「頑固」そうに見えて、冗談も言えるんじゃのう。 ……ちょっと!今すごく失礼なこと言いませんでした? とにかく、「形而上学」は思考自体を考察する学問じゃ。思考が「真実」を把握できる能力と限度を考察する。詳しく解説すると一学期分の授業が必要じゃから、割愛するとしよう。 (ロボットに指令を入力する) 指令の入力を確認しました。ガイドをはじめます。 ここは港区の中央広場です。旅行中の皆様には、お土産を選ぶのにうってつけな場所です。 港区では様々な店が開いており、法定の免税エリアでもあります。お手頃な値段で良い品物が手に入るでしょう。 本日のおすすめ商品は「ナイル川果樹園」の米粉シフォンケーキ、「ニコシアの思い出」のうに缶、「コペンハーゲンの人魚」のガラス工芸品です。 その……セールスみたいですね。 まあまあ、商業都市だからの、大目に見てやってくれ。 ちなみに補足すると——食べ物、服飾、建築物の間に、何か審美的な区別があるんじゃが、わかるか? ……わ、わかりません。 ねぇ——私の知っている「主教」といい、あなたといい、「哲学者」というのは語る前に設問したくなる人種なんですか? かかっ、面白い発想の子じゃ。良き良き。 こ、子供扱いしないでください!これでも立派な戦乙女なんですからっ! そ、それに、あなたこそ成人しているようには見えませんけど、ちび所長さん? はいはい、わかったわかった—— ——さて、話を戻すとしよう。食べ物、服飾、建築物の違い、それを教えてやろう。 こほん。核心となるのは簡単なこと、「消費期限」じゃ。 ……し、消費期限? ああ。食べ物の消費期限が一番短い。長期の保存に向かないし、食べたらなくなる。 服飾の消費期限はほかの両者の間にある。数年から十数年に渡り使える。使用頻度の低い礼装は、代々伝わっていくものもあるのう。 建築物の消費期限はもちろん一番長い。コストは高いが、一度建てたら、数世紀は使えるぞ。 言い換えれば、三食違う食べ物を食べることができる。毎日違う服を着ることができる。だが、住む建物が古臭いと「我慢」するしかない。 美食やファッションの流行が短期間で移ろいだり、螺旋状に進化するのと違って、 建築物は、歴史の流れの中で審美眼の変遷を表すだけ。「革命的」な「変化」は過去の歴史を徹底的に破壊することを代償にしてきた。 それを知る人間は、あの手この手で建物の内部機能を更新し、歴史的建築の外観的、構造的価値を保ってきた。 例えばこの中央広場——200年前までは「免税エリア」なんて楽しい場所ではなく、「奴隷市場」だったんじゃ。 ……奴隷市場!? ああ、生きた人間を売買する場所じゃ。 知らぬだろうが、この都市は未だに債務上の関係で、ある程度の奴隷制度を残しておる。 ……なんですって? ほ、本当だよ。アレクサンドリアで破産すると、市政庁の「公共契約奴隷」に登録されるんだ。 まあ、人身自由のある囚人ってところじゃ——破産にあたり、市政庁が代わりに支払った金額を利息も含めて全部返済するまでのな。 ——契約期間中の給料を返済に充てる、または他人が変わりに返済しても構わん。 親が一生かけて払えないなら子が引き継ぐ。それに、7.5%の利息は低くない。 ……横暴すぎやしませんか? 横暴、か。お主からすれば、確かにそうかも知れぬの。 この町は実質上、監獄や死刑といった類のものがない。「財産の没収」と「隔離追放」しかないんじゃ。 だがここの歴史を見ると、奴隷制度には必然性がある。今の「公共契約奴隷」まで制限されるようになったのは、大きな進歩と言えるじゃろう。 ……よくわかりません。奴隷制度も、連帯責任も、受け入れられない野蛮な法律だと教えられてきました。 ああ。先進的な時代からきた人なら、誰も受け入れられぬじゃろう。 だが、今日の目的は観光じゃろ?今は気にしなくともよい! ——この町の全体図を知った後に、判断しても遅くはない。
ここがさっき言った「市政庁」じゃ。ロボットの紹介を聞こう。 アレクサンドリアの市政庁は165年前の共和暦元年に、革命者が没収した僭主の財産を使って設立されました。その後、立法機関である「公決会議」、行政機関「都市管理協会」の執務場所として機能しています。 市政庁はギリシャ風の設計で、アーチの両側には外部世界の偉人の彫像が設置されております。アリストテレス、アレクサンドロス3世、ソロン、ペリクレス、レオニダス1世、スパルタカス、グラックス、カエサル、キケロ、アウグストゥスになります。 より詳しい解説をご希望の方は、彫像の下に記されている番号を本機に入力してください。 偉人よりも「公決会議」っていうのが気になります。変わった名前ですね。 簡単に言うと、全公民に投票してもらい、法律の改定や制定をする機関のことじゃ。 念のため言っておくが、「奴隷」と「よそ者」には市民権がないからの、投票には参加できぬ。 …… 100年前におった「僭主」とは、当時この都市を牛耳っとった海賊の軍閥集団じゃ。 だが、革命を起こした者たちもまた海賊じゃった。「平民海賊」と「貴族海賊」の戦争ってとこかの。 それは…… この都市は北に深い海溝、南にオアシスの湖、東から西へナイル川の支流が流れておる——守りやすい地形であるがゆえに、様々な輩が虎視眈々としていたんじゃ。 な、なら、どうして軍事要塞ではなく、商業都市に? かかっ、それはもちろん、ここの立地が商業拠点にうってつけじゃったからよ。商人は海賊を怖がらん——相手がお金を受け取ってくれるならの! 結局のところ、「政府」といい、「国家」といい、「とある階級がほかの階級を搾取する道具」なんじゃ。 「野蛮な社会」が自発的に「平和化」するのは、社会的自己回帰であり、良い傾向である。しかし風習的に、そういう歴史が都市文化に良くない残滓を残す。 ……奴隷制度のことですね。 そうじゃ。だが皮肉なことに、この都市の発展水準は高くての——たとえ奴隷であっても、外部のどこよりも良い生活ができておる。 公共浴場、水洗トイレ、基本医療保険、良好な治安。それらはよそでは中々得られぬものじゃ。 …… おっ、そういえば、ここの斜め向かいが我の仕事場じゃ!見学してみぬか?大図書館を。 「大図書館」は僭主の個人博物館でした。歴史上、荒廃期の神殿まで遡ることができます。共和暦2年、科学研究と普及のための機関として改築されました。 アレクサンドリア市民は科学をとても重要視しています。「大図書館」は「公決会議」、「都市管理協会」と同等の地位を与えられています。ロボット公務員が普及後、「大図書館」は「法廷」の職能を合併し、都市権力において非常に重要な一角となりました。 大図書館の外観はアジア要素が強いですが、内装は市政庁と同じ、共和暦早期のギリシャ風です。 同じ建物の内外でそれぞれ違う流派の設計を用いていますが、両者が自然とマッチしており、改築においては非常に優秀な事例となりました。 大図書館は本市に籍を置いている者に無料開放されております。外部の方は市民の保証か、預り金の支払いが必要です。 ——ロボットが最後にした説明の意味、わかったか? ほ、「本市に籍を置いている者」と「市民」の違いのこと? そうじゃ。前者は市民権を持たない奴隷も含まれておるが、後者は市民権を持つ市民のみとなる。 だが、知識の殿堂に面倒な社会問題なぞ考えなくともよい!早く中へ入ろうぞ! う、うわぁぁぁぁ…… こ、これすごい……地下十層ぐらいはあるんじゃないですか? 地下の部分は近年できた新館じゃ、地上部分は過去の僭主たちの個人蔵書——当時はただのコレクションでしかなかったがの。 とはいえ、彼らによって、この世から消えなかった作品もある。たとえば『ギリシャ諸邦政制』、『アリストパネスの喜劇全集』などじゃな。 無論、『ホム大冒険』や『ホム三国志』の小説版なんかもあるぞ。 ……なんですって、「ホム」まで所蔵しているんですか!? ——って、「小説版」!? それらは「よそ者」の記憶と口述によって再現されたものじゃ。ここに所蔵されている異世界作品のほとんどは「回顧録」であり、「原本」ではない。 もし、その本の中にお主たちの認識と違った箇所があれば、ぜひ指摘してくれ!運が良ければ、報奨金ももらえるぞ! えーと……うちの船には自称シェイクスピアとセルバンテスという文豪がいましたよね——今度ここへ呼んでみようかな。 あっ、裏口からの景色がすごく綺麗。 かかっ、頭と目をリラックスさせるには良い場所じゃろう。 どうじゃ、「文明」の美しさを少しは感じてくれたか? ……「建築芸術」のですか? ……いんや、それだけではない。 人類が絶え間なく「生活」していなければ、ピラミッドもパルテノン神殿も、ただの無意味な幾何学体にすぎぬ。 更にいうと、審美とは、自由意志が感覚によって自己昇華する過程じゃ。 あらゆる外部情報が触れ合う心の奥深く、時空を越え、特定の「精神波長」とシンクロし、それにより感動を享受する。 「文明」の美しさとは、それら無数の感動がさらに大きく複雑な一枚の絵を織りなすことじゃ。それぞれの自由意志は、その絵の一本の線、一点の色のこと。 一部を切り取ると醜いかもしれぬが、全体なら美しいこともある。 ……はいはい、また小難しい話ですね。ジミー、そろそろ—— ——って、いない!ジミー、どこ行ったの!?