「仙人は世界で唯一、何千年も生きてる不老不死の本物の仙人だって言ってたよ。」
- -「三界を超越する無限の神通力を持っていて、片手で神州を平定し、剣一本で天下を平定するんだって。」
- -「神州の守護者として、彼女は数えきれないほどの妖魔や魔物を倒してきたの。」
-「朝廷は彼女を上仙に任じようとしたらしいんだけど、
-でも、彼女は政治や王朝の交替に興味はなかった。
-それでも新たな皇帝が即位するたびに、彼女に挨拶するために太虚山へ行こうとしたの。」
-「仙人に会えたら、寿命が延び、王朝が栄えると言われていたからね。」
- -「一方、仙人に会えなかった君主は、志半ばにして崩御したり、王朝が変わってしまったり、良い末路を辿れなかったんだって。」
-「――大体こんなところかな。他にも色々聞いたけど、忘れちゃったよ。」
-「ふむ……」
-「実例って……邪教の聖主、閻世羅を倒したこととか?目に見えない剣で璃島の妖獣を倒したこととか?
-どれも巷の言い伝えばかりで本当かどうか分からないよ。
-どんな例を聞きたいの?乳母もあまり話してくれなかったから……」
-「たとえば……」
-「仙人が無限の神通力を持っていて、三界を超越しているのなら、人を蘇らせることもできるのかい?」
-「人を……蘇らせる?」
-男の目は李素裳をじっと見つめているが、彼の目に映っているのは彼女ではなく、彼女の横にある、何か巨大なものであった。その巨大なものは光り、熱を発しており、彼の視線も熱を帯びて明るくなり始める。
-「わ、分からないけど……」
-素裳は熱い視線から逃れ、彼の前に置かれた棺をチラリと見た。
-ある考えがパッと閃く。突然、何かが分かったような気がした。
-「あんた……誰かを蘇らせたいの?」
-「ああ。」
-羅刹人は口を開いたが、出てきたのはまったく意味を持たない言葉だった。
-言葉が消え、彼の目つきも暗く、冷たくなった。光と熱が一瞬の間に空中へと散逸する。
-素裳のそばにいたのは、時折悲しげな表情を見せつつ、冗談も言う、これまで通りの異邦人だった。
-「そうか。だから仙人を探してたんだね!……仙人に誰かを蘇らせてもらいたいんでしょ?」
-「その通り。」
-羅刹人は視線を下に向けた。
-「誰でも、こういった願望を持っているものさ。普通だろう?」
-金髪の男が優しそうな笑みを見せる。
-「彼女を蘇らせてほしい。ただそれだけなんだ。単純な話さ。
-だが、願い事が単純であるほど、叶えるのは難しくなる……」
-「あぁ……」
-李素裳はまだ十五歳だった。これまでの人生で愛された時間は短く、ましてや誰かを愛したこともない。そのため、羅刹人の言葉に込められた気持ちを理解することはできなかった。
-「十九年……」
-「ほんの一瞬さ。僕には時間があるからね。彼女も同じだよ。」
-李素裳は、自分のことを言っているのだと思い、少し呆然とした。
-[em italic](仙人は本当にあの人を蘇らせることができるのかな?)[/em]
-羅刹人が伝説の仙人に対して、これほど大きな希望を抱いているとは思いもしなかったからだ。彼を師匠に引き合わせ、仙人に会う方法を師匠が彼に教えれば済むと考えていたのである。難しいことは何もないはずだった。
-しかし、今の李素裳は、他人の願望の中に勝手に入り込んでしまっていた。
-以前は気にしていなかった言葉も、彼女の琴線に触れ続けている。[\s]
-彼女はただ……いや、彼女自身にも、はっきりとはわからなかった。
-「そうだね。うん、戻ってくるよ!」
-彼女は何度もつかえながら言葉を続けた。彼に元気になってもらいたいと、心の底から思っていた。
-しかし、恥ずかしさが邪魔してしまい、どうしても上手く言えず、声もだんだんと小さくなっていく。
-「願いは……きっと叶うよ。」
-「……」
-羅刹人は口角を上げ、かすかな笑みを浮かべた。
-「ありがとう、素裳。」
-李素裳は呆然とした。そして、自分もおかしな笑い方をしていることに気付く。
-彼女は慌てて口をとがらせ、視線を逸らす。
-偶然にも、その大男も李素裳と羅刹人をチラリと見た。
-それは何気ない一瞥だったが、一瞬、何かに目を止めたかと思いきや、目つきを鋭くした。
-「……まったく。」
-それは、突然襲いかかってきた男が、彼女のよく知っている技を使ったからだった。
-その技は太虚剣気「開剣形」の「岩破」だった!
-――それは太虚五蘊の最高境界ではないか。
-彼女が知る限り、世界でそれを会得しているのは師匠だけだ……
-体つきは長身で細身、整った顔立ちをしているが、見てくれだけで中身は大したことはなさそうだった。呼吸は基礎もできておらず、武術も平凡そうに見える。[\s]
- -しかし、馬非馬はよく分かっていた。この者は見た目とは違い、一筋縄でいく相手ではない。
-剣心を使って見てみると、彼の体内の真気の動きは極めて不自然だった。[\s]
- -普通の人間が内功を流す、奇経八脈の中が空っぽのようなのだ。
-だというのに、手の三陽三陰の真気は暴走しそうなほど勢いがある。
-先ほど彼が剣で馬車を停めた時にも、この羅刹人はとても不思議な反応を見せた。
- -手足を動かしていなかったのに、ひっくり返った馬車の影響を一切受けていなかったのである。まるで、宙を浮遊するかのように。
-馬非馬は信じられなかった。
- -金髪の男は、極めて優れた内功の使い手であることを隠しているのだろうか。それとも、怪しい武術の使い手なのだろうか。どちらかではあるのだろうが、と馬非馬は考える。
-それにこの者の両目は……
- - -とても若い顔立ちをしているが、それにまったく釣り合わない、奥深い目をしている……
-馬非馬の脳内に、注意を促す囁きが聞こえてくる。[\s]この羅刹鬼は俺を殺せる人間だ。
-[em italic](本当か?……この男にできるのか?)[/em]
-胸の中で、重い苦しみと渇望が激しい渦を巻いていた。
-馬非馬は目を閉じる。[\s]
- -死。[\s]
- -夜気の中で咲き誇る花のように、死という刺激が心に広がっていき、あっという間に全身の寒さをかき消した。
-[em italic](いいだろう……お手並み拝見といこうじゃないか!)[/em]
-馬非馬は自分にそう言い聞かせる。[\s]
- -囁きは彼の言葉を受け入れ、ひとまず衝動を抑え込んだ。
-そして、待ち切れないとでもいうように主人の号令を待つ。
-[em italic](こっちの女は……)[/em]
-馬非馬は急に嬉しくなる。
-この中途半端な太虚守剣形から、二十年前に姿を消した上品な女性の姿がぼんやりと見えるようだった。
-その歳月は彼にとって懐かしくもあり、心が痛むものでもあった。
-ちょうどその時、羅刹人が口を開いた。
-とても小さな声だったが、馬非馬のかすかな感慨を台無しにするには十分だった。
-傷だらけの男は思わず満面の笑みを浮かべた。[\s]
-彼の顔にある剣の傷痕が、まるで炎が燃え上がるかのように赤くなる。
-好奇心が再び勢いを増し、抑えきれない衝動に変わった。
-また耳元で囁きが聞こえる。「この男こそ、俺を殺せる人間だ。」
-果てしなく広がる黄砂が、太陽に照らされている。
-目に見えない気の波とともに、汗が噴き出るほどの熱気が押し寄せてくる。
-しかし、目の前の男が放つ冷たい殺意に、李素裳は寒気がした。
-上がる口角と共に赤い古傷が動く様子は、やや不自然だった。しかし、彼は楽しそうに屈託のない笑顔を見せている。
-男は笑い終えると、表情をやや和らげた。
-――突如、異変が起こった。
-激しい殺意が急に空を覆ったかと思うと、すぐさま跡形もなく消えてしまったのだ。[\s]
-まるで、目の前の人物の形跡が世界から消えてしまったかのようだった。
-無意味な感情や価値のない思考を捨て、
-欲望、怒り、邪念、憎しみを捨て、明鏡止水のような空虚さを保つ。
-それこそが太虚剣心であり、精衛真人が生み出した神業なのだ!
-「百里逐駒」こと馬非馬……
-数歩ほど後ろに下がった羅刹人は、顔を上げて馬非馬を見つめた。
-彼は何も言わず、その目は虚ろだった。
-目の前の敵は、決して力を抜ける相手ではない……
-全力を出したとしても、必ず勝てるという保証はない。
-何しろ――彼は太虚剣派の六番弟子、師匠と同等の腕を持つ最高の使い手なのだから!
-[em color=#FAFAD2](もう。人生初の決闘から数日も経っていないのに、また戦わないといけないなんて。)[/em]
-しかも相手は武術界最強の七人の中の一人……
-[em color=#FAFAD2](まさに本に書いてあった通りだね、武術界ってとこは、海のように深い。)[/em]
-李素裳は心の中で意味のない嘆きを呟くと、それを原動力にし、溢れんばかりの闘志に変えていった。
-心は穏やかで波風一つなく、透明で、澄んでいた。
-これは馬非馬の「止水」よりも高い境界だった。
-剣心・明鏡。
-三日前の素裳であれば、この技に対して為す術もなかっただろう。
-心は鏡のように澄んでおり、外界のものを映し出している。
- -馬非馬の動きは彼女の澄み切った心の湖に落ちると、煌めき輝く波のように緩慢な動きになった。
- -虚空に入った瞬間、彼女は男の技を見切るだけでなく、すぐさま最も適した返し技を繰り出した。
-素裳は躊躇うことなく右手を動かす。
-布に包まれていた軒轅が空を舞った。
- -剣身が回転し、刃が寸分の狂いもなく男の手の平に向けられる。
-[em italic]――技を止めて![/em]
-李素裳はそう祈った。
-しかし、男の掌打は躊躇うことなく、真っ直ぐと軒轅に向かってくる。
-鉄をも切り裂く神剣ではなく、脆い竹竿を相手にしているかのように。
-強い箇所を避けて虚を突く。防御力が最も高く、硬いものを逆手にとって弱点へと変える。
- -――太虚開剣形の「震風」は、まさに真気を巡らし、強烈な振動を引き起こす不可思議な技だった。
-無防備な状態で掌打を受けた素裳は、表面はそこまでではなかったものの、内臓に重い傷を負っていた。
-最も衝撃を受けたのは頭部だった。今も、激しい衝撃の余波が残っている。
-捻じ曲がった世界の中で、彼女の目が捉えられたもの。
-それは、羅刹人の翡翠のような目だけであった。
-一撃。[\s]
-馬非馬はたった一撃で勝利した。それでも、顔に喜びの色はなかった。
-掌からは命中した手応えが伝わってくる。
-馬非馬は思わず羅刹人の方を見たが、無反応で失望する。
-無反応……そうだ。
-羅刹人は素裳を注視していた。まるで、石や砂粒を見つめるかのような目で。
-落胆の感情が俄雨のように押し寄せてくる。
-冷雨のような感情が頭から足先まで降り注ぎ、馬非馬をその冷たさで包み込んだ。
-馬非馬はこの金髪の男が気に入らなかった。それは、本質的な拒絶と嫌悪感だった。
-例えるなら、この羅刹人は世界の外で孤立し、浮いている氷のようなものだ。
- -何も必要としておらず、何も気にしていない。たとえ世界が滅んだとしても、いつまでも漂い続ける。
-一方の馬非馬は――炎のような存在だ。
-世界は煙で、馬非馬は燃え盛る炎だった。
- -彼が燃えているからこそ、この世界は存在している。
-強烈な感情、爆発的な衝動、破壊的な戦いこそが彼を存在させている。
-そして、その虚ろでぼんやりとした存在の中から、己のかすかな断片を見つけるのだ。
-それらの断片こそが、人生の意義。
-それは間違いなく、本物の古剣・軒轅だった。
-精衛真人が七人の弟子に授けた宝物だ。
-馬非馬は自分の力をよく分かっていた。彼は内勁をほぼ抑えていた。重傷を負うことはあっても、命に別状はないだろう。
-それでも無視できるほどの傷ではないはずだが。
-十六歳で剣心を「明鏡」の境界にまで鍛え上げた……
-七剣の中でもこの才能を上回るのは、十三歳で「太虚」を会得した凌霜くらいだろう。
-少女の鼻先から血が滴り落ちた。
-李素裳が顔を上げる。その目は焦点が定まっていなかった。
-馬非馬は、このような表情を何度目にしてきたことだろう?
-二十年もの間、大勢の人が彼の命を狙いに来た。
-多数の英雄、豪傑、優れた若者が彼に挑んだ。
- -そのほとんどがこうだった。
-僅かな勝ち目すらなくても、最後まで諦めず、生死を分ける一瞬の可能性に賭けていた。
-しかし、馬非馬はそれが嫌いなわけではなかった。
-それどころか、彼を夢中にさせていた。
-何故なら……この霧に包まれたかのような世界で、馬非馬は孤独であったからだ。
-たった一度だけの縁でも、今後二度と会うことがなくても――[\s]
- -挑戦者が自らの命を燃やし、存在を証明しようとする姿を見ていると、己が世界に認められたように思えるのだ。
-馬非馬は、そうした人の形をした霧が自分を包み込んでくれるような気がしていた。生きているという実感を与えてくれるのだ。
-だから彼は、いつも戦いの相手に機会を与えていた。
-だから、[\s]
- -彼は、いつも自分が殺されることを望んでいた――
-素裳は軒轅剣を拾うと、じっとそれを見つめた。[\s]
-馬非馬の言う通りなら、自分の軒轅剣はどうして変化しないのだろうか?
-少し残念だった……しかし、それも事実なのだろう。
-一口、苦い血を飲み込んだ。喪失感、羞恥心、悔しさ、悲しみも共に呑み込む。
-大丈夫。素裳、二度目の試練の機会でしょ?
-彼女の体はまだ震えていた。止まらなかった。特に、両足が震えていた。[\s]
-しかし、彼女の瞳……彼女の視線は力強かった。それは――
-「生きていくの。」
-その声は、李素裳の心の湖で反響した。
-湖面に波はなく、まさに止水であった。
-「ちゃんと生きていくの。」
-心の湖に声が響き渡る。
-澄んだ風、そして、塵や埃も止まる。
-「約束して……」
-声が……響いている。
-心は鏡のように大地を映し出す。
-何故剣意が成っていなかったのか?もう疑うことはない。[\s]
-何故剣意が成っていなかったのか?もう悔やむことはない。[\s]
-何故剣意が成っていなかったのか?もう執着することはない。
-悩みはすべて捨て去り、剣に集中する。[\s]
-剣という人を殺める武器を使い、[\s]
-剣術という人を殺める術を使う。
-敵を殺し、生き延びる。
-素裳の頭にあったのは、それだけだった。
-何と皮肉なことだろう。目的はかくも単純だったのだ。[\s]
-しかし彼女は回り道をしてしまった。遠い回り道を。
-剣の柄を握りしめると、安心した。
-今、彼女が頼れるのはこの古剣軒轅だけだった。
-目尻の血や口元の汚れを拭う。
-そして少女は剣を手にした。
-いかなる剣の構えもとらなかった。しかし、
-啓、化、守、開。
-飛鶻、玄隼、[\s]雨燕、藤雀、[\s]雲鷹、月鷺。[\s]
-垂柳、幽蘭、勁竹、[\s]墨菊、浄蓮、青松。[\s]
-岩破、乱雷、霹靂、山崩、瞬塵、震風。
-まるで、太虚四形二十一式が手の中で自由に声をあげ、呼べばいつでも出てくるかのようだった。
-応じる?
-馬非馬の言葉が素裳の頭の中を横切ったが、彼女はもう気にしていなかった。
-「赤絶影」――[\s]
- -剣の長さは五尺九寸。古剣・軒轅は、剣意を感じ取り変化する。
- -――それが馬非馬の持つ、世界で二本とない神剣だ。
-「山崩」――[\s]
- -太虚開剣形第四式。左手の五指から人差し指と中指を突き出し、守剣「幽蘭」の構えをとる。
- -右手に持った刃を肩に担ぎ、剣で寸勁を放つ。その威力は山をも砕くほどだ。
-しかし、この技には弱点があった。[\s]
-馬非馬のような達人でも、剣の構えを整えてから技を出すまでの間に、力を溜めるためのほんの僅かな時間が生まれるのだ。
-しかし、同じように太虚剣心を修練する者である李素裳が、その隙を見抜けるかどうかは分からなかった。[\s]
-……しかし、馬非馬は技の使用を避けることも、隠すこともしなかった。
-……化剣にすることもしなかった。[\s]
-守剣にもしなかった。
-生死や勝敗など気にしていない。馬非馬はただ、この瞬間だけを生きていた。
-その心の中に残されているのは「山崩」だけだ。
-技が放たれた![\s]
-巨剣「赤絶影」は山をも崩すような勢いで砂の竜巻を起こす。
-技が放たれた![\s]
-素裳の軒轅が真っ直ぐ伸びた。それは「瞬塵」だった!
-守剣でも化剣でもなく開剣だ!
-開剣対開剣――[\s]
-気が剣から放たれ、躊躇いもなく相手に向かっていく!
-命を懸けて捨て身の攻撃を繰り出したのだ。素裳は、相討ちになる覚悟を決めていたようだ――[\s]
-しかし、実際、そうはならなかった。
-緑の両目は虚ろだったが、自分の方をしっかりと見つめていた。
-その刹那……李素裳は、完全に彼のことを信じていた。
-そして羅刹人が手を貸してくれれば――
-絶対に負けない!
-そんな考えに基づいて作り上げたあらすじだったが、勝敗を決する時が来た。
-全力を剣に投じている二人の後ろで、羅刹人が左手を上げる。
-黄金の十字架がどこからともなく彼の手の中に現れ、燃え上がるように消失した――[\s]
-それは天命派の三大至宝の一つ、「誓約の十字架」だった!!!
-古代の神の遺産である法器が再び姿を現した!
-目に見えぬ鎖が馬非馬に向かって飛んでいき、彼を縛る!
-目標……固定!
-真気……禁戒!
-ちょうど三日ほど前の夜にあった、李素裳と「鷹」の死闘の光景が再現される。[\s]
-突然、馬非馬は動悸がした。真気が消え去ってしまったのだ。
-彼は手を緩めて剣を放した![\s]
-――しかし、山崩の勢いは最高潮に達し、もはや止められない。
-真気を封じられても関係ないのだ![\s]
-大剣「赤絶影」が勢いよく前に飛び出していく!
-内功を失ったとしても、彼は太虚剣派の六番弟子、百戦錬磨の馬彦卿だ!
-シャッ――[\s]
-そして[\s]
-ドーン――
-軒轅は馬非馬の頭頂部をかすめ、彼の髪の毛を何本か切った。[\s]
-赤絶影は素裳の真横を飛んだ。彼女の幼い体は大きな力に吸い込まれて後ろに引きずられ、地面に倒れる。
-馬非馬は、勝った。彼が使った技は確かに「山崩」だけだった。
-しかし、馬非馬は敗れもした。彼が「山崩」を使ったのは一度だけではなかったからだ。
-李素裳の「瞬塵」は最も速く、最も精度の高い開剣の技だった。
-「瞬塵」を使っていなければ、素裳は赤絶影の山崩を前にして、馬非馬の脅威となることはあり得なかっただろう。
-それは運によるものだろうか?いや、そうではない。[\s]
-技を見て分析する能力が卓越していたのだ。[\s]
-つまるところ、実力に大きな開きがあったのである。
-今回もまた、生死を懸けた決闘となった。[\s]
-馬非馬はゆっくりと振り返った。[\s]
-相手は、全力を出すだけの価値がある。
-[em italic]あぁ、よかった!この男は血も涙もない人形ではなかった。
-冷たい氷のようにに見えるが、燃え盛る炎があった![/em]
-内勁のまったく込められていない拳が羅刹人の頬を打った。
-羅刹人はその意図を察してはいても、避けたり防いだりしようとはしなかった。
-羅刹人の体が砂漠に倒れる。
-彼は、よろよろと立ち上がった。
-馬非馬の笑顔が固まった。
-[em italic]何故?[/em]
-このような驚きは、もう何年も味わっていなかった。
-[em italic]どうしてこんなことが?[/em]
-長らく封印されていた感情が蘇ってきた。
-羨望、
-嫉妬、
-自己欺瞞、
-狂喜、
-悔恨……
-……そして、懐かしさ。
-[em italic]どうして……こんなことが?[/em]
-目の前の羅刹人の手の中で炎が集まり、剣となっている。その剣と共に、あらゆる感情が胸に押し寄せ、止水無塵の剣心を打ち砕いた。
-馬非馬は自分の目が信じられなかった。
-目の前にあるのは、「赤絶影」のような目くらましではない。
-火炎の剣だ。
-ほんの数秒前まで、羅刹人の手には間違いなく何もなかったというのに!
-だとすれば……この真気が集まり、できた火炎の剣はどこから来たのだろうか?
-「剣神……」
-馬非馬は呟く。
-このような武術は、馬非馬の知る限り一つだけだった。
-太虚剣気第五蘊「神蘊」。
-神が剣に変わり、自ずと剣気が生まれる。
-精衛真人と凌霜しか会得できなかった最高の技だ。
-今この時、金髪の羅刹人の手中に現れた。
-完全な衝撃が、馬非馬の剣心を粉々にする。
-沸き起こっていた闘志は、剣心の欠片を別の剣心へと変えた。
-止水でも無塵でもない。
-それは
-喜悦
-興奮
-快楽
-満足
-期待
-渇望
-幸福……
-「覚悟はできたかい?」
-羅刹人が尋ねた。
- -金髪の男が真紅の長剣を手にしている。その剣身は炎が燃え盛っている。
-剣を持つ手は火に包まれ、黒く焦げていた。
-「覚悟はできたかい?」
-――この男は、閻魔の使いのようだ。
- -馬非馬は頷いた。もう自分が何を言ったかも覚えていなかった。
-どれくらいの時間が経ったのだろう?師匠の精衛が彼の顔に剣による傷を残してから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか?[\s]
- -これほど恐ろしい脅威に出会ったことはなかったし、閻魔をこれほど近い距離に感じたこともなかった![\s]
- -こんな、燃え尽きる寸前の窮地に立ったこともなかった!
-さあ、来い!
-来るがいい、羅刹鬼!
-全力でお前の剣を受けてやろう!
-周囲の真気が馬非馬の全身の経穴に入り込む。
-体は耐えられるだろうか、肉体にどれほどの損傷があるのだろうか。そんなことはどうでもよかった。
-ただ、目の前の剣を受け止めるだけだった!
-羅刹人が剣を振るった。剣光が空気を横切り、ジャッという音を立てた。[\s]
- -守剣形、化剣形……太虚剣気の最強の防御技が一つずつ馬非馬の脳裏を横切っていく。
- -そして、当然のことながら、
-馬非馬はこの最強の剣の絶対的な破壊力を前にして、
-どのような防御も無意味であることに気が付いていた。
-剣とはこれほどまでに恐ろしいものだったのか。
-まるで赤い死神のようだ。
-命とはこれほどまでに純粋なものだったのか。
-ただの松明のようだ。
-今日が自分の命日だったのか。遅すぎることも早すぎることもない。
-それにしても、剣神に敗れるのなら、死んだとしても何の悔いが残るだろう?
-――――
-彦ちゃん
-――――
-蘇湄の笑顔が馬彦卿の目の前に浮かんだ。
-そして炎が浮かぶ。燃え盛る焔だった。[\s]
-それは、燃えて、燃えて、燃えて。
-――――――――そして
-――――――
-――――
-―――
-消えた。
-炎は消えた。
-一度は空まで昇った炎の光は、一度は金をも焦がした熱は、突然跡形もなく消えてしまった。
-それが痛みに変わった。痛みは胸と腹、肩甲骨、頭頂部からまとめて押し寄せてくる。まるで、洪水によって堤防が決壊したかのようだった。
-彼女に答えたのは激しい痛みだった。それらは頭の中で音を打ち鳴らし、その音と心臓の鼓動が混ざり、うるさくて眠れぬほどだった。
-……安心でき、いつもと同じだと思えるほど見慣れていた。
-あれ?
- -馬非馬?
-……素裳の心の中に、同情のような悲しみが湧き上がってくる。
-熟睡している金髪の男には、神のように澄みきった優雅さがあった。
-しかし、今の彼は、起きている時よりも生身の人間に近いように思えた。
-ごまかすことも、隠れることもなく、過去の悩みも未来への執着もない。
-羅刹人はただ眠っているだけであった。普通の人とまったく変わらず、眠っている。
-もしかしたら……これが彼の本来の姿なのだろうか?
-彼女は太虚剣派の五番弟子であり、この百年間で精衛真人以外で唯一、最高の境界「太虚剣神」を会得した人物なのだから。
-二歳で武術を習い始め、十三歳にして太虚境界に到達した。「我をも忘れる至高の神剣」と呼ばれる絶世の剣客である。
-凌霜はこれまでの三十七年間の人生において、ひたすら剣を持ち続け、本当の意味で世間に足を踏み入れたことはなかった。
-挫折も失敗も味わわず、半端な願望や絆もない。
-常識、規則、論理、理性、世情……凡人を束縛するあらゆるものに対して、凌霜は気にも留めず、注意も向けなかった。
-素裳は羅刹人の黒くなった腕を見つめる。それはもう人の腕には見えなかった。
-しかし、彼女は彼が回復すると信じていた。そして、肉体を治療できる、あの「黒淵白花」を信じていた。
-素裳は身をもって体験したので、その不思議さを理解していたのだ。
-彼に十分な真気さえあれば……
-空には雲と夕焼けしかない。雲はいつもと変わらず、夕焼けも同様だ。
-しかし、馬非馬は真剣に見つめていた。
-何を見つめているかは重要ではない。重要なのは、待つことである。
- -彼は待つのは嫌いだが、得意だった。
- -この数十年、彼はいつも待っていた。
-馬非馬は少し驚いた。凌霜が弟子を取ったことは知っていたが、子弟への情と凌霜を結び付けて考えたことがなかったのだ。
-馬非馬の中では、凌霜は感情をまったく持っていないという印象であった。
-馬非馬は首を振った。それは彼が予想していた答えとは違っていた。
-手合わせは手合わせとして、彼にはもう一つの目的があった。それは少女が持つ、あの軒轅剣がどこから来たのかを知ることだった。
-この二十年、彼と互角の勝負ができる者はほとんどおらず、赤絶影を鞘から抜く機会もほとんどなかったのだ。
-彼は数え切れないほど危険な目に遭ってきたし、何度も死線を彷徨ってきた。しかし、この勝負は命を懸けた戦いではなく、彼がずっと夢見てきた武術の手合わせであった。
-気合いを入れる声を上げた瞬間、急に馬非馬の姿が二つに分かれた。
-これこそが太虚剣派六番弟子の剣意「赤絶影」だった!
-真気を軒轅剣に注入し、さらに太虚剣意で光を屈折させる。
-馬非馬は剣意の鍛錬を20年以上重ねた結果、今では光を利用して自由に鏡像を作り出せるようになっていた。
-夕方の荒涼とした中庭に、無数の「逐駒剣」こと馬非馬が現れた――
-同じような馬非馬が同じような赤絶影を手にしている。
-まるで一枚の鏡から無数の破片が中庭に降り注ぎ、どの破片も馬非馬の姿を映し出しているかのようだった。
-気合を入れる声とともに、剣の鞘『刃不破』は前方へと飛んでいった。
-鞘の先端が落雷のように落ち、空気が轟音とともに爆発し、中庭全体が揺れる――
-武術に関して、師匠の精衛真人を除けば、この世で凌霜と互角に渡り合える者などいない。
-天下の「太虚剣気」には、心、形、意、魂、神の五蘊がある。
-魂蘊を会得することは、剣の道に通暁することでもある。形に囚われず、あらゆる武器を剣のように使いこなし、あらゆる武器を剣のようにできるのだ。
-剣術の研究に専念していた一番弟子の林朝雨を除き、太虚剣派の六人の弟子はいずれも剣魂を会得していた。
-しかし剣神は――精衛真人以外で会得できたのは、千年以上経った今でも凌霜ただ一人なのだ。
-いわゆる神は――
-技を使わずに技に勝ち、剣を持たずとも剣を持っている。
-剣気を意のままに操り、神によって剣を作り出す。まさに自由自在に操れるのが剣神なのだ。
-凌霜は重い足取りでゆっくりと素裳のそばへと歩み寄る。
-彼女の顔にはまったく表情がなかった。あらゆるものに対して興味がないかのようだ。
-少女が小さな声で言う。
-彼女は目の前に現れ、精衛の行く手を塞いだ。彼女の上空では墨の花が静かに回っている。
-彼女の視線はとても誠実で、その笑顔には羞恥が滲んでいた。
-彼女の言葉には熱がこもっており、尊敬と信頼に満ちていた。
- -彼女は……
-彼女のことはよく知っている気がする。
-遥か昔、彼女たちと共に過ごしていた……
-彼女たちとはかつて……とても長い時間を共に過ごしていたのだ。
-少年は大きく深呼吸した。
-彼は手を伸ばして扉を叩こうとしたが、拳が扉に当たる寸前で止める。
-太虚剣派当主――『軽塵剣』こと、林朝雨。
-今年で五十六歳になり、天命を知る年齢も過ぎている。
-精衛仙人が金色の光に包まれて天に昇り、太虚山は炎に包まれた。
-その後、仙人の一番弟子だった彼女と六人の兄弟弟子はこの天穹峰に残り、
-太虚剣派を再建した。
- -十年余りの時を経て、太虚剣派は見事に復活を遂げ、
-神州武術界の六大派に名を連ねている。
-そのため、林朝雨の名声もとても高く、夫の『逐駒剣』こと
-馬非馬と共に、武術界の誰もが羨む武術家夫婦となっていた。
-一門の主である林朝雨は決して偏屈な性格ではない。
-その逆で、彼女は誰に対しても優しく穏やかに、
-平等に接する。
- -幾つかの例外を除いては。[\s]
- -その例外に接すると、林朝雨はいつも
-人が変わったように怒り狂う。
-枕玉は慌てて頷いた。夫婦の問題など、部外者が口を挟むべきではない。
-彼は口数が多いほうではない。なので、そんな失敗はしないだろう。
-無双門――それは二十年近く前、新たな太虚剣派と
-ほぼ同時期に創設されたが、規模はまったく違う。
- -今の太虚剣派は六大派に名を連ねているが、
-無双門はいまだに小さな宗派だ。
-しかし、無双門の門弟に手を出そうとする者はいない。
-その理由は、当主――『才色兼備』の蘇湄にあった。
-絶世の美貌、そして、優れた知性を持つ女性。
- -蘇湄は精衛真人の二番弟子だったが、武術界では
-太虚七剣の中で最も恐ろしい人物とされており、畏敬の念を込めて
-『女諸葛』、『無双仙人』と呼ばれていた。
-当主が答えた。
-その声の中には、非難というよりも自嘲の響きがあった。
-早朝の話である。『無双仙人』こと蘇湄がいきなり天穹峰へやって来て、
-副当主からの言付けを当主に伝える必要があると言ったのだ。
- -姉弟子や兄弟子たちは師匠の逆鱗に触れるのを恐れ、
-誰も、蘇湄を連れて山を登ろうとはしなかった。
- -そうこうしているうちに、無双門の当主はいなくなってしまったのだが……
-……まさか、既に拂雲観にいるだなんて、誰も思わなかっただろう。
-蘇湄は、過去のことにはまったく興味がなかった。
-林朝雨も理解していたが、まったく賛同できなかった。
-林朝雨は、目の前の赤髪の女性をじっと見つめた。[\s]
-彼女はかつて、自分の妹であり、親友であり、仲間であり、恋敵であり、敵でもあった。一度決別した以上、死ぬまで関わることはないと思っていた。
-心臓がバクバクと鼓動し、服には冷や汗が滲んでいた。
-少女は無意識にそばの布袋に手を伸ばし、軒轅剣を握りしめる。こうしていると、少し安心できた。
-彼はずっと、大きくて重そうな棺を持ち歩いている。彼は時折、棺に向かって何かを呟いていて、そのたびに素裳は不快な思いをしていた。
-長い沈黙だった。
-素裳が次の話題を探そうと考えた時、羅刹人が急に口を開いた。
-金の鎖が光る。李素裳は、たちまち体から力が抜けていくのを感じた。内功がなくなってしまったのだ。
-しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐにまた元に戻った。
-李素裳は腕を組んで首を傾げる。無意識のうちに、唇を軽く噛んでいた。[\s]
-羅刹人の話を信じていないわけではない。ただ、様々な用語によって、頭が混乱してしまったのだ。
-遠く離れた、彼女には想像もできないような西域の祖国が恋しいのだろうか?[\s]
-それとも、誰かを懐かしんでいるのだろうか?
-彼女はふと気付いたのだった。この羅刹人を連れて師匠の元に戻ったら、彼とは別れることになる。[\s]
-彼と一緒にいる時間はもう半日ほどしかないだろう。短い、とても短いのだ。
-馬の方は血の色の汗をかき、蹄は黄金だった。細い頭と長い首、赤褐色の体に赤いたてがみが特徴的で、背中は細長い。[\s]
-一日に千里以上を走ることができ、蹄が砂を踏んでも足跡は残らず、平らなままだった。
-男の方は修行を積んだ者のようだった。大きな体に長い髪、短い髭を生やし、引き締まった筋肉をしている。[\s]
-顔には剣による大きな傷があり、整った容姿を台無しにしていたが、豪傑らしさを損ねることはなかった。
-この男と馬は息が合っていた。主従の関係を超えた、長年来の親友のようだった。
-中原でこの奇抜な組み合わせを遠くから見かけると、武術界の者たちは心の中で罵詈雑言を浴びせる。しかし、表面的には拱手の礼を取り、笑顔を浮かべながら「馬副当主!」や「馬さん!」と声をかける。
-それは、彼が精衛真人門下の中で唯一の男の弟子であり、
-七剣の六番弟子、
-広く名を馳せている天穹峰太虚剣派の副当主、[\s]
- -『逐駒剣』――馬非馬だからである。
-表向きには、彼はいくつもの肩書を持っている。名も轟いているため、武術界の者なら誰もが彼と知り合いになりたいと思っていた。
-しかし裏では、人々はこの馬非馬を、『異常者』、『狂人』、『変人』、『殺しても死なない馬非馬』などと呼んでおり、実際に彼に会うと、誰もが頭を痛めながらも友好的な会釈をしていた。
-実のところ、彼と親しい付き合いをしたいと思っている者など、どこにもいない。
-何故なら、馬非馬は武術に優れているだけでなく、その行いが非常に傲慢だからである。
-太虚剣派の副当主という肩書を持ちながらも、馬非馬は一匹狼の豪傑だった。
- -太虚剣派の門弟でも、彼に会える機会は年に数回もない。彼は妻である林朝雨よりも、愛馬『夜血』と過ごす日の方が多いのではないだろうか。
-天穹峰にいる時の馬副当主は穏やかで礼儀正しく、謙虚に振舞う。
-しかし山を下りた途端に別人のようになり、どんな喧嘩や挑発も受けて立つ。
-相手が名家だろうと、王侯貴族だろうと、馬非馬は一切お構いなしだった。
-正義のために戦う?悪を駆逐する?
-逐駒剣にそのような大義名分は必要なかった。
-喧嘩したい時に喧嘩をし、戦いたい時に戦う。
-剣を使いたければ剣を使い、拳を使いたければ拳を使う。
-助けたい人を助け、殺したい人を殺す。
-すべては心の赴くままなのだ。
-そのため、武術界の人々は彼を恐れて避けている。彼の起こした騒動のために、太虚剣派の当主、林朝雨が奔走することもしばしばだ。
- -彼の敵は各地におり、誰も公然と太虚七剣の怒りを買おうとはしないが、裏で彼の首に懸賞金をかけている者は少なくない。
-それらに対する馬非馬の態度は「来るもの拒まず」だった。
-「俺を殺したければ来るがいい。いつでも相手をしてやろう。
-俺が少しでも逃げれば俺が腰抜け、俺を殺せなければ、お前が役立たず。ただ、それだけの話だ。」
-彼を殺しに来る者は本当に後を絶たない。
-待ち伏せ、陰謀、罠、毒、色仕掛け、決闘、試合……
-あらゆる技を使ったが、それでも馬非馬は死んでいない。恐ろしい傷痕が無数に残されてはいたが、彼はピンピンしていた。
-酒が腹に入り、男の涙に変わる。
-涙は簡単には流れず、孤独な夜に大雨となって流れる。
-人々が真実だと思っていることは、世の中で最も大きな嘘であった。
- -馬非馬には自由などなかったし、自由を好んでいたわけでもなかった。
-師匠が生き返ったことを知った馬非馬は、夜を徹して急ぎ、無双門へと向かっていた。
-このことを、真っ先に蘇湄に知らせるために。
-[em italic]しかし、昔とはもう違う……[/em]
-両目が溶けそうなほど熱くなり、彼は、何年も前に口にした言葉を彼女に言いたい衝動に駆られた。
-蘇湄は目の前の男を見た。まず彼の目を見て、次に彼の喉、そして手を見た。[\s]
-彼女の視線は彼に大きな喜びを与え、そして、話す勇気を与えた。
-馬非馬は黙っていた。彼女の言葉が彼を黙らせていた。[\s]
-なぜなら、『無双』こと蘇湄の言ったことは、いつも本当になるからだ。
-馬非馬は俯きながら、蘇湄の言葉の意味を反芻していた。
-蘇湄がそう言った以上、何らかの意図があることは分かっていたが、彼には理解できなかった。
-しかし、蘇湄とは知り合って三十年以上になる。
-賢い女性は、男に説明する行為が好きではないことも分かっていた。
-潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
-潮が満ち、[\s]潮が引く。
-目の前にあるのは、何万年もの時間をかけても見終わることのない知識の宝庫だった。[\s]
-偽りの体がある場所は、普通の肉体では決して入り込めないデータの海だった。
-潮が満ち、潮が引く。
-情報の波が男の意識に押し寄せて来る。何度も、何度も。[\s]
-彼は必死に、意識を保とうとした。
-この大海原には、言葉にできない情報が浮き沈みしている。
-男が掴み取れるのは、百億分の一の断片に過ぎない。
-そして手にした情報のうち、使えるものはほとんどない。[\s]
- -長い時間をかけ、緻密な選別を行わなければ、
-無限の知識を持っていても、愚人と何ら変わらないのではないだろうか?
-だから彼は探し続けている。
-知られざるどこかで、かつて倒した相手――「虚空万象」の本体が彼の肉体を欲しがっている。
-無限の知識は彼をおびき寄せるための餌であり、気前のよい贈り物は彼を倒すための武器だった。
-「それ」は男が気を緩めるのを待っていた。男もそれを知っていた。
-彼はそれでもなお、探し続けていた。
-探すことを止めなかった。
-それはすべて、あの人を救い出すため――
-そのためなら、苦労が何だというのだろう?[\s]
-危険が何だというのだろう?[\s]
-時間が何だというのだろう?
-永遠も……何だというのだろう?
-潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
-潮が満ち、[\s]潮が引く。
-男の意志が揺らぐことはなかった。
-潮が満ち――
-彼はなおも探し続けている。
-突如、押し寄せてきた感情が少女の心を押さえつける。
-一瞬の驚き、後悔、苦痛の下に、絶望的なほど強烈な殺意が隠れていた。
-魔に堕ちた者は死すべし――
-それは、幼い頃から母や師匠がしつこいほど彼女に教え込んだ掟である。太虚一門の使命であり、特に禁忌のない『自在門』で、唯一の鉄の掟だ。
-そうだ。彼女は彼のことをそう呼んでいた……[\s]
-記憶の中の少女は手を後ろに回して立っている。銀色の髪がそよ風に吹かれて、なびく。
-その声はいまだに耳に残っている。まるでその瞬間で時が止まり、二度と進まなくなっているかのようだった。[\s]
-しかし、それは三十年以上も前のことなのだ。
-虚空万象との戦いよりも、過去の思い出から離れることのほうが遥かに大変だ。だが、それを理解できる者はいないだろう。
-かつて天命と神州が戦った際に、羅刹人は気付いていた……[\s]
- -奥深く、理解し難いエネルギーである『真気』だが、同じものである筈なのに、東洋と西洋とで使い方に多くの違いがあった。
-彼はそれをとても不思議に思っていた。
-西洋では真気を疫病と見なし、その汚染から逃れようと必死になっている。
-しかも、それに対抗するために、様々な技術を発展させてきた。[\s]
- -しかし、東洋人はそれを受け入れ、利用している。
-自らを強化するための力にしているのだ。
-天命と比べ、神州の科学技術は確かに遅れている。
- -しかし、真気に対する理解は東洋の方が全体的に優れていた。
-……どうしてこのような違いが生まれたのだろうか?
-彼はそう言ったものの、実は考えがあった。彼の異常を引き起こしたのは天命の秘宝「黒淵白花」の本体だ。[\s]
- -模造品を使って逆行させるやり方など、自分の力では絶対に不可能である。最終的には、やはり東洋人の不思議な武術に頼るしかない。
-窓の外は、まだ暗い。だが、凌霜はすでに目を覚ましていた。
-彼女はいつも、この時間に目を覚ます。早過ぎることも、遅過ぎることもない。
-桶に水を汲み、髪をとかして着替えると、彼女は寝台の上で座禅を組んだ。
-剣心訣の黙読を始める。一度始めると二時間は続き、雷が鳴っても止めることはない。
-そして立ち上がり、ほうきで床を掃く。部屋を綺麗に掃除すると、
-近くの市場で小麦粉を焼いた生地と羊肉を買う。[\s]
-水を使い切った場合は、隣の井戸で水を汲む。
-朝食を終えると、凌霜は古い織機の前に座り、機織りをする。
-以前は、満足のいく織物を一日で織ることができた。
-弟子として素裳を迎えてからは、その速度は大幅に遅くなった。[\s]
-遅ければ一週間、早くても四日はかかるようになったのだ。
-李素裳は自分が出ていった後、
-師匠が空いた時間に何をするのか、どのような修行をするのか気になっていた。
-十年近く一緒にいたが、素裳は、
-師匠が空いた時間のほとんどを古い織機の前で過ごすとは思ってもいなかっただろう。
-はじめ、機織りは修行とまったく関係がなく、
-ただ生計を立てるための手段でしかなかった。
-しかし、凌霜にとっては全てが繋がっていた。機織りと武術に共通点があるのだろうか?
-いつの間にか、凌霜にとっては機織りも、剣心を鍛え、武術を磨くための手段となっていた。
-剣の道にはあらゆるものが含まれており、剣自体も拠り所に過ぎない。
- -立つ、座る、寝る、着る、食べる、暮らす、動く……生活のあらゆるところに、武術の道が隠されている。
- -一挙手一投足のすべてが武術の修行であり、不動の静寂もまた剣の鍛錬だった。これこそが、『渾然天成』。
-そして素裳の師匠、精衛の五番弟子、『自在剣』こと凌霜は――[\s]
-まさに渾然天成の人、天下無上の剣と言えるだろう。
-凌霜はというと、ただひたすら剣心訣を黙読し、機織りをする毎日を繰り返していた。[\s]
-彼女がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、誰も知らなかった。
-……こうして、李素裳が試練のため外に出てから八日目。[\s]
-凌霜が織機の前に腰かけていると、突然遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
-金砂会の最も上等な二頭引きの馬車が、飛ぶような速さで走っていた。
- -李素裳は馬車の荷台に肘をかけ、鼻歌を口ずさんでいる。機嫌はすこぶる良い。
-「羅刹人、神通力を使うのはやめたら?ほら、風に吹かれるのって気持ちいいでしょ。」
-疾走する馬車が強い風を起こす。素裳の編んだ髪の毛が二本の黒い小川のように流れていた。
-一方、羅刹人は目に見えない空気の障壁で自分の周りを何重にも囲んでいた。[\s]
-法器「虚空万象」が作り出した領域の中で、男の長い髪は静止している。その顔も穏やかで落ち着いていた。
-「暑いよ。でも、砂漠ってこういうものじゃない。」
-「……ふむ。」
-「嫌なの?もう、ごめんね。あんたが馬車を……あんな風にするから。」
-一日目に羅刹人が使った変幻の奇術は、簡素なものだった。
-しかし、二日目に彼が使った奇術は、素裳の許容範囲を超えていた。
-その馬車は丸く、デコボコしており、鮮やかな橙色がとても目を引いた。
-羅刹人は「カボチャ」というのだと口にしながら、さらにそれを見つめ、頷きながら微笑んでいた。
-「それに、あんたは傷を負っているんだから。危険を冒して奇術を使わないでよ……
-……こうやって乗るのも悪くないでしょ!」
-素裳は、羅刹人が残りわずかな内功を使い果たしてしまうのではないかと本気で心配していた。
-しかし、羅刹人は風に対して、深い恨みでもあるかのようだった。
- -彼はオンボロの馬車に乗ることは承諾したが、身だしなみをきちんと整え、上品さを保つよう気を配っていた。無造作に垂れているように見える金髪だったが、一本たりとも風に吹かれないようにしている。
-「……あんた、そんな能力があるのに、どうして捕まって地下牢に入れられていたの?
-いくら考えても納得がいかないんだけど。」
-「捕まった?僕は『鷹』の招待を受けて、彼らの集落に客人として滞在していただけさ。」
-「……客人?」
-「……場所は少し変だったけどね。」
-「……あんた、神州語を誤解していたんじゃないの?」
-李素裳は困ったように頭をかいた。
-「そんな話し方をする人なんていないよ。『鷹』はどういう風に言ったの?」
-「ここは俺のものだ。
-そしてお前も俺のものだ。
-出てこい。
-ついて来い。
-小細工はするな。」
-「……羅刹人、あんたの解釈はお人好し過ぎるよ……」
-「仕方ないさ。君たちの言語は複雑すぎるんだ。」
-「もう、あんたと話すのは危険すぎるよ。
-どの言葉も落とし穴みたいで、アタシが穴に落ちる姿を見て笑うのを待ち構えているみたい。」
-「そうだ、天命派のことをもっと話してよ。」
-「えっ?」
-「いや、やめよう。本当に頭が疲れるんだ……」
-「えー――」
-「それは何日か後にしよう。もう少し整理させてくれないか……
-日を改めて聞かせてあげよう。」
-「だけど、家までまだかなりあるよ。お喋りしなかったら退屈だよ。」
-「それじゃあ、君が話してくれないか?あの仙人のことについて話してみてはどうだろうか?
-確か、君は精衛と関係が深いと言っていたが。」
-「関係が深いのは師匠やアタシの母さんだよ。アタシは……仙人に会ったことがないの。」
-素裳は頑張って思い出そうとした。
-「本当だよ。アタシは会ったことがないの。父さんも母さんも、仙人について話したことはなかったから。
-精衛真人のことは、乳母から話してもらっていただけなの。」
-素裳は大騒ぎした。いざ大漠に着いた後は、泣き真似もしてみたが、すぐに好奇心が勝り、師匠に質問し始めた。
-子供は隠し事ができない。そんなに話してもいないうちに、軒轅剣のことを口にした。
-そして母親の予想通り、師匠はあの軒轅剣を渡すように言ってきた。[\s]
-正直者の素裳はしばらく考えて、最後は両手で古剣を差し出した。
-さすがに師匠は5歳の女の子をいじめて、ものを奪ったりしないでしょう?[\s]
-軒轅を渡した瞬間、少女はなぜか新しい服を見せびらかすような気分になった。
-七番弟子……素裳は呆気にとられたが、すぐに母親が師匠と同じ門派の出身で、七番弟子であることを思い出した。[\s]
-『墨染香』は母親が使っていた軒轅剣の名前である。
-しかし素裳にとっては、無限のように長い一秒だった。[\s]
-幼い頃から剣と共に生きてきた彼女であったが、今まで、剣がこれほど美しいものだと知らなかった。
-その減速されたかのような時間の中で、軒轅は輝きを纏い、ゆっくりと落ちていく。[\s]
-そして彼女の目の前に落下し、剣身は、音一つなく地面に刺さった。
-思い出の中の素裳が、プッと吹き出した。[\s]
-今の彼女には、この軒轅を使う資格がある。
-理性が邪魔するよりも先に、本能が率先して行動に移す。[\s]
-少女は宝剣を撫で、それからあの時の師匠のように、切先を指で弾いた。
-『侵入者』がまさかの小娘だと聞いた時、驚きを覚えた。
-なんという侮辱だ!!!
-この漠北で、金砂会を恐れぬ者はいない。
-官兵の精鋭でも、遠くて頑丈な金砂会を恐れ、衝突を避けている。
-一体誰が、身の程知らずにも自らやってきて、この「鷹」を敵に回すというのだ?
-しかし予想外にも、先に口を開いたのは彼ではなかった。
-彼の縄張りでは、彼が先に口を開き、彼が先に質問するのが鉄則である。
-「鷹」は手を拭い、少女の前にしゃがむ。
-少女もまた彼を見ていた。その視線に恐れの色はなく、あるのは強情と怒りのみだ。
-少女は鼻をすすり、大人しく頷き、一言も口にしなかった。
-様々な反応の中で、こういう態度が一番彼の逆鱗に触れる。
-男は気が動転して、慌てて跪く。
-首領の口調が穏やかであればあるほど、怒り心頭の状態にあるということを、知っているからだ。
-先程跪いた男は、まだその場にいる。
-頭を伏せ、顔を上げていないが、体の震えは彼の緊張を物語っている。
-しばらくして、「鷹」はふと笑い出した。包みを取って帯を解き、宝剣の本当の姿を見る。[\s]
-目の前の男には隠し事も嘘もないということを確認できた。それで十分だ。
-ガタッ。[\s]
-鉄格子の鍵がかかった。
-素裳は体を動かしながら、座ろうと試みる。[\s]
-彼女の目はまだ暗闇に慣れておらず、何も見えない。両足を動かす時に、何かにぶつけた。
-李素裳は、驚く。[\s]
-彼女を驚かせたのは突如現れた火の光ではなく、ため息をついた相手だった。
-[em italic]羅刹人……[/em][\s]
-李素裳は強盗たちのひそひそ話を思い出した。[\s]
-[em italic]羅刹人は、こんな感じなんだ。[/em]
-その横を見ると、女性の横には大きな棺が置いてあった。
-危うく蹴ってしまいそうになったものである。
-素裳は本能的に視線を逸らし、また羅刹の女性に戻す。
-最初はチラッと見ただけだったが、相手の反応がないと分かった後は、開き直ってじっと見つめ始める。
-口の中に布が入っていることを忘れていた彼女は、意味不明な音しか出せない。[\s]
-李素裳は気まずそうな表情をしたが、周りは暗く、相手に悟られずに済んだ。
-だが、羅刹人は視線を戻し、素知らぬ顔をした。
-何度か目配せをしてみたが、全部相手に無視される。少しの反応もない。
-そして、再び火が灯る。李素裳は壁際にいる羅刹人をチラリと見たが、彼女は先ほどの姿勢のままだった。[\s]
-ただ、彼女がこちらに向ける視線には、かすかな苛立ちが混ざっていた。
-羅刹人は口を閉ざし、黙って李素裳の言葉を肯定した。
-しかし李素裳の口からは、立て続けに言葉が出る。
-猿轡をされ、手足に枷をはめられていた李素裳とは異なり、
-この羅刹人の体は一切拘束されていなかった。
-少女は怖いもの知らずだが、霊的なものには弱かったのだ。[\s]
-彼女は羅刹人の妖術に腰を抜かした。女傑としてのメンツなどお構いなしである。
-少女は、興奮した口調で目を輝かせながら言った。[\s]
-彼女の話がどれだけ飛躍し、論理が支離滅裂であっても、羅刹人は興味深そうに耳を傾けている。
-精衛真人のこの奇術は、武術界の一般的な内功とはまったく違う。
-通常の内功は丹田を鍛え、その中に真気を溜める。
-しかし、『太虚剣気』はそうではない。
-『剣心』を習得した者は、
-天地を丹田とし、肉体を経絡とすることができるのだ。
-ましてや『武』道の本質とされる『気』は、隠す必要すらない。
-彼がそう言った瞬間、素裳は手足が軽くなったのを感じた。手足にはめられていた硬い鉄枷は粉々に砕け、地面に散らばっていた。[\s]
-彼女の両手両足には傷一つなく、服も同様だった。
-彼が妖術で椅子やグラスを消せるのであれば、鉄枷を粉々にできてもおかしくはないが……[\s]
-……そんなバカな!!!!
-彼女は思わず自分の学んだ知識を総動員して、目の前の棺を持った不思議な男を見つめ直した。[\s]
-まさか、『彼』はただならぬ腕前を隠した達人なのだろうか?
-彼女が思い描く武術界の達人とは、師匠、母親、または未来の自分のような姿だった。
-目の前の羅刹人は、彼女が思い描く武術の達人像とはかけ離れていた。
-羅刹人が微笑むと、空中の火が突如として消えた。[\s]
-……違う。火は残っている。
-その火は瞬間移動したかのごとく、突如として羅刹人の手のそばに現れると、ますます勢いよく燃えていく。[\s]
-火の勢いが……まるで……
-素裳は唖然としながら、羅刹人の『妖術』を見ていた。[\s]
-彼女が我に返った時、火はすでに消え、地下牢の扉が破られていた。焦げた臭いが鼻をつく。
-はじめ、この暗い牢の見張りは二人しかいなかった。
-そのうちの一人は羅刹人を丁重に牢に入れると、病気だと偽って持ち場を放棄した。もう一人は食事を届けに行ったが、腰を抜かしてしまい、それ以後は二度と地下牢に入ろうとしなかった。
-「あれは人間なのか?ありゃ妖怪だ!言葉を話す灯籠なんて、見たことあるか?俺は行かねぇ、死んでも行かねぇぞ。」
-彼の口ぶりは、「鷹」よりも牢屋の中の異邦人を怖がっているようだった。
-最も不思議だったのは、そのことを聞いた「鷹」がまったく怒らなかったことだ。これまでの彼からは想像もできない。
-「数日もしないうちにバイホイ人が来る。人手を増やせ。」
- -彼が『人手を増やす』と、すぐに十数人と十数の武器が追加で配置された。
-新たに来た者たちは戦々恐々としながら牢の配置につく。しかし、特に変わった点はなく、一同の恐怖は消え、前の二人の見張りを存分に嘲笑ったのだった。
- -金砂会の盗賊たちは、笑いながらも油断することはなかった。誰に言われるでもなく昼と夜で交代するようにし、常に五人が地下牢の扉を見張るようにしていた。
- -この時、五人の不運な男たちは、中で何が起こっているのかをまだ知らなかった。
-その夜は控えめに言っても奇妙な夜だった。首領を怒らせたあの少女が牢に入れられてからは、中から何の音も聞こえてこなくなったのだ。
- -完全な静けさ——静寂が訪れた。
-人の声も雑音も一切聞こえなかった。
-見張りたちは異様な音には気付かなかったが、不思議な臭いには気付いた。それは、焦げた臭いだった。
- -何かが焦げているような臭いが強まっていく。五人はそれぞれの刀を抜き、入口の前に集まった。
-「下りるか?」
-見張りの一人が、小さな声で他の者たちに意見を求めた。
-他の者が返事をするよりも早く、扉は轟音と共に爆発した。
-五人が最後に目にしたのは真紅の火柱だった。
-剣と刀は似ているように見えるが、まったくの別物だ。
-「剣は軽やかに、刀は力強く」と言うように、剣が変幻自在の素早い動きをするのに対し、刀は直線的な動きで力を使って相手を倒す。
-剣術を習得した者が刀を扱うと、剣術のような動きになる。その逆もまた然りだ。
-そのため、「鷹」は剣舞を披露しているが、実のところは刀舞だった。
-彼はこれほど見事な武器を見たことがなかった。
-これは剣筋の美しさを示している。まさに完璧そのものだ。
-これは剣身のしなやかさを示している。剛と柔を兼ね備えているのだ。
-これは剣の光の強さを示している。骨に突き刺さるほど冷たい光だ。
-「鷹」は決して、剣を愛でたり集めたりするような人間ではない。
-彼が剣のことを褒めたとしても、それは山賊が戦利品を評価するようなものでしかなかった。
-彼の目の前には信じられない光景が広がっていた。[\s]
-8人の手下がいつの間にか地面に倒れ、気を失っていたのだ。
-そして、彼が自ら牢屋に閉じ込めるように命令したはずの少女が、目を瞬かせながら彼を見ていた。[\s]
-[em italic]どういうことだ!?!?[/em]
-「鷹」は心の中で自分をひどく罵った。[\s]
-『災い』だと気付いた時、すぐに始末しておけばよかったのだ。
-皆が災いを恐れるからこそ、災いは問題を生じさせる。[\s]
-「鷹」はあの羅刹の変人を軽んじたことを後悔した。しかし、今となっては後悔しても後の祭りだ。
-彼は静かに後ずさりし、安全な会話の距離を保とうとした。しかし、剣を手にしているのは彼の方だ。本来なら必要のないことである。[\s]
-……しかし、「鷹」が最も心配しているのは少女ではなかった。
-彼は最初から例の羅刹人のことを、今宵の最も危険な人物と見なしていた。
-そして、その人物の動きをつかめないことによって、彼は自信を大きく失ってしまった。
-その掌打は内功を使っておらず、重くはあったが、内臓を傷つけるほどではなかった。
-しかし、少女の軽功の妙技は、「鷹」も見たことがないほどだった。
-驚きと怒りのあまり、羅刹人の存在を忘れる。
-「鷹」は、この十幾つかの相手を改めて見定めることにした。
-その技は太虚剣気ではなく、李家に伝わる軽功だった。
-「飛燕功」。
-彼女の右手が「鷹」の前腕に命中し、彼は「軒轅」を落とす。
-そして返す手で稲妻のような掌打を男のみぞおちに叩き込み、吹き飛ばした。
-慣れ親しんだ安心感が素裳の胸に満ち溢れた。
-再び剣を握り締める。しっくりくる感じだ。
-長年、漠北を旅してきたが、これほどまでに打ち負かされたことはない。
-たちまち「鷹」に殺意が芽生え、それとともに復讐心が満ち溢れていった。
-ただ李素裳を殺すだけでは飽き足らない。彼女にはこれ以上ないほど悲惨な死を与えなくてはならない。
-彼は敵を迎え撃つ姿勢を保った。
- -金砂会の首領は気力を振り絞り、
-目の前の少女を紛うことなく『強敵』と見なした。
-これは戦争だ。
-武術の手合わせでも、決闘でもない。戦争なのだ。
-規模は極めて小さく、目的も単純だが、戦争に他ならない。
-ならば、
- -この場所は「鷹」が最も得意とする戦場だ。
-この時間は「鷹」が最も戦い慣れている時間だ。
- -わずか数秒のうちに、彼は頭を高速回転させ、弱み、強み、変数を全て計算した。
-「鷹」はそのことをよく分かっており、恥じることなく認めていた。
-目の前のこの少女の内功と外功は、いずれも自分のそれをはるかに上回っている。
-もしかすると、自分が知っている武術界のどの人間よりも強いかもしれない。
-天と地のような大きな実力差は、最初からこの戦いの結末を決定づけている。
-——もし、これがただの手合わせであればの話だが。
-先ほど2回繰り出した掌打は、いずれも内功を使っていない。「截気散」がまだ効いているのだろうか?
-この二人は地下牢から逃げ出した。「羅刹人」はまだ近くにいるのか?
-この二つの不明の事実も、結末を左右する可能性がある。
-これらを悪い方向で考えれば、「鷹」に勝ち目はないと言ってもよいだろう。
-——もし、不幸にも予想通りになればの話だが。
-……形勢は非常に悪く、勝ち目はないに等しい。
-それでも「鷹」は絶対に勝つ自信があった。
- -なぜなら、彼は「強み」も計算していたからだ。
-これが一つ目の強み、「経験」だ。
- -武術界に長年身を置いている彼に比べれば、李素裳は外の世界の経験がないに等しかった。
-彼女は「鷹」が言葉の中に隠した糸口に気が付かず、
-知らず知らずのうちに罠の中へと足を踏み入れていった。
-二つ目の強みは「個性」だ。
- -「鷹」は敗北の味を知っている。だからこそ、勝つためなら何でもできる。
-一方の李素裳は、融通が利かないほど正直でお人好しだ。
-彼女の心の中では、いまだに公正さと正義が最優先となっている。
-この二つの強みを活かしつつ、
-三つ目の強みに頼るのだ。
-そして、変数に賭ける。
- -「鷹」は、「勝利」の天秤が必ず自分の方に傾くと確信していた。
-揺らめくロウソクの光が夜の闇の中で幼い少女を照らし、彼女の姿を実際よりもはるかに大きく見せていた。
-一方、正面の男はかすかに前かがみになり、背中、両足、両腕を曲げていた。[\s]
-この構えは河東駱氏に伝わる奥義「虎吼震九霄」だ。
-男と少女は向かい合って立ち、微動だにしないまま互いに探り合っている。
- -今夜の月明かりのような沈黙が小さな中庭を包み込んでいた。
-東洋人が決闘する前は、いつもこのような静寂が訪れるのだろうか?
-……
- -二人とも、相手の隙を窺っている。
- -しかし、三人目の人物はやや痺れを切らしていた。
-その一瞬、真気の動きが滞り、虎吼の構えも消えたのだった。
-パンッ![\s]
-平手打ちの音が鳴り響いた。
-「鷹」は怒りが収まらなかった。
-気の動かし方を誤り、ほんの一瞬だけ真気を失ってしまったところに、少女の平手打ちを食らってしまったのだ。
- -大した被害を受けてはいないものの、この失態によって彼は面目を失ったと感じていた。
-ただし、李素裳はまだ本気を出していないようである。
- -このことで、「変数」に対する自信が増した。それと同時に、屈辱感も倍増した。
-彼は長いこと「虎吼功」を使っていなかった。久しぶりに使ってみたが、やはり錆びついているようだ。[\s]
- -敵は気を抜いて勝てる相手ではない。同じ過ちは絶対に繰り返せなかった。
-二人は空中で三つの技を繰り出した。
-力は拮抗しており、どちらも優位に立てなかった。
-虎の咆哮が空を飛ぶ燕を驚かせる。[\s]
- -河東駱家の虎吼震九霄はかねてから勇ましいことで有名であり、
-垂燕十三式は軽快かつ変幻自在で、どちらにもそれぞれの強みがあった。[\s]
- -しかし、実力では勝っているはずの少女は「鷹」を相手に互角がやっとだった。
-このこと自体が、信じられないような躓きだった。
-「鷹」は賭けに勝った。
-戦いが始まった時から、李素裳は真気を使うことができなかった。
-彼女が家伝の垂燕十三式の後に太虚啓剣形を続けたのは、
-まさにそのことを確かめるためだったのだ。
-(あの薬はアタシに効いていないはずなのに……)
-内功の強さで言えば、自在門の「太虚剣気」は天下一だろう。
-神州の各派にはそれぞれ独自の心法がある。しかし、形式は変われど本質は変わらず、結局は鍛錬次第なのだ。
- -真気を水に例えると、通常の内功は水を入れる器を鍛え、容量を増やしていくようなものだ。[\s]
-過酷な鍛錬を繰り返さなくてはならないばかりか、上達も非常に遅い。そして何より、人体に大きな負担をかける恐れがある。
-一方の「太虚剣気」は、他の功法とは本質的に異なっている。[\s]
- -「剣心」は「容器」ではなく、「桟道」を鍛える。
- -天地万物から真気を吸い取り、内功を体の中で小川の水のように自由自在に流れさせるのだ。
-この新しい方法は、太虚一脈の祖師である精衛真人が作り出した。
-奥深く不思議なものだったが、非常に大きな制約もあった。
-例えば、男性が太虚剣気を鍛錬した場合、大多数が途中で挫折し、上達できなくなる。類まれな才能を持つ少年でもない限り、この奇功を習得するのは不可能なのだ。
-一方、女性が太虚剣気を鍛錬した場合、わずかな労力で大きな成果が得られる。
-平凡な才能の持ち主でも、男性の手練れに勝てるほどの強さを手にすることができるのだ。
-素裳の師匠は、歴代最強の剣心と言われ、内功だけに限れば、世界の誰にも負けないほどだった。
- -その彼女が教えた少女も、並外れた腕前を持っている。
-しかし、真気を使えなくても、少女にはまだ絶対的な強みがあった。
-剣心を鍛錬した肉体の強度は、常人をはるかに凌駕しているのだ。
-そして剣形は、世界で最も奥の深い武術である。
-大男は雨のように重い拳を繰り出すが、李素裳は一式の守剣形だけでほとんど防ぎ切った。
-金砂会の首領はまったく疲れていないかのようだった。
-柳のように伸びやかな少女の柔勁に尽く拳を阻まれながらも、
-一瞬たりとも攻撃の手を緩めなかった。
-こんな簡単な理屈を「鷹」が分かっていないはずはない。[\s]
-しかし、彼はどうして変わらず猛攻を続けるのだろうか?
-同様に、「鷹」も機会を窺っていた。
-そのために、彼は自分から隙を見せようとしていた。
-「鷹」は既に少女の性格を理解している。
-「平手打ち」の仕返しをするまで、少女の攻撃目標は決して他に向かないはずだ。
-敵の意図さえ分かってしまえば、
-その目標は急所ではなくなり、命を救う護符に変わる。
-「鷹」は全力で猛攻を仕掛けると同時に、肩の上の部分だけを守っていればよかったのだ。
-同じく命を賭けて戦っている李素裳に比べ、彼の負担は圧倒的に軽い。
-もちろん、彼は「賭け」に応じるつもりなどなかった。
-宝剣を手元に残し、李素裳の命も取るつもりだ。[\s]
-そのために平手打ちを食らったとしても、どうということはない。
-「鷹」はあらゆる技や秘技を惜しみなく繰り出す。その目的は敵を傷つけることではなく、
-あの「軒轅」古剣がある場所に近付くためだった。
-双方が互いに技を繰り出した瞬間、「鷹」はすぐさまこの少女が幼いながらも恐るべき腕前を持つことに気付いた。
-勁力の強さや敏捷さは言わずもがな、虎吼九霄の中で自由自在に技を変えて繰り出せている点だけを見ても、武術界でも一流の腕の持ち主と言えるだろう。
-その点だけは、彼は足下にも及ばなかった。
-戦いが長引けば、敗北は必至だった。
-——戦いの規則を守ればの話だが。
-しかし、「鷹」は規則を守る人間ではない。[\s]
-彼の望みは試合に勝つことではなく、戦いに勝つことだ。
-これこそが三つ目の強み、「目的」である。
- -同じ「勝利」でも、「鷹」の「勝利」と李素裳の「勝利」はまったく異なっていた。
-少女が追い求めているのは「試合」に勝つことだ。
-「鷹」が望んでいるのは「戦い」に勝つこと。
-「戦いに勝つ」……これは欲しいものを手に入れ、壊したいものを壊すことを意味している。
- -だから、李素裳は約束を守っている。
-一方、「鷹」は約束を利用するのだ。
- -相手の「標的」を利用して自分を守り、
-自分の「隙」を利用して敵をおびき寄せ、
-さらにあの鋭利な「宝剣」を利用して相手を殺す。
-これこそが「鷹」の仕掛けた罠だった。[\s]
-これまでのところ、全てが彼の思い通りに運んでいる。
-宝剣は彼のそばの石畳に突き刺さっている。[\s]
-手を伸ばせば届く……
-「鷹」が左手を緩める。[\s]
-仕掛けは完成した。片を付ける時が来たのだ。
-必殺技、技の駆け引き、一進一退の攻防など、期待していたものは一切ない。
-あったのは怒涛のように押し寄せ、せわしなく単調な攻撃と、徐々に罠を形作っていく防御だけだった。
-彼女の目は既に「鷹」の拳術に慣れている。
-「剣心」で観察を続け、虎吼震九霄にも
-対抗する術があることを見つけた。
-新たな「隙」はその時に訪れた。
-「鷹」の右拳はまったく威力がなく、明らかに陽動だった。[\s]
-しかし、その陽動は敵を誘い込むためでも、防御のためでもなく、彼女に態勢を整える十分な時間を与えるだけの、実に中途半端な動きだった。
-素裳はそのわずかな隙をずっと待っていた。
-一式「化剣・雲鷹」で防御から攻撃に転じ、
-瞬時に「開剣・瞬塵」を繰り出して「鷹」の喉元に突き刺した。
-太虚剣気の剣は実体を伴って伸びる。[\s]
-剣を手にしている場合、この技は真気を注入して敵の喉の急所を真っ直ぐに狙う無慈悲な剣術となる。
-李素裳の神速をもってすれば、相手は無理矢理この剣を受ける以外になす術はないだろう。
-彼女は剣の代わりに指を使い、「鷹」の返し技に備えていた。
-しかし、「鷹」は防御も回避もしなかった。[\s]
-それどころか、彼の上半身ががら空きになり、隙だらけになる。
-勝利に近付いた時ほど、危険が増す。
-生きるか死ぬかの状況になると、人は往々にして思いもよらぬ行動を起こせるものだ。
-「瞬塵」の速度は極めて速く、彼女に考える時間を与えてはくれなかった。
-剣が実体を伴って伸びる。「鷹」が応じなければ、たちどころに絶命するだろう。
-間一髪のところで、李素裳は唐突に気が付いた。
-実のところ、自分はこれまで覚悟ができていなかったのだと。
-彼女には剣を扱う覚悟、戦う覚悟、勝利の覚悟、人を殺める覚悟がなかった……
-彼女は15歳の少女に過ぎず、武術界に足を踏み入れたつもりになっているが、実際には人の命を大切にする情、命に対する畏敬の念を捨て切れていなかった。
-間もなく自分の手にかかって死のうとしている極悪人を前にして……
-首を賭けた約束、平手打ちの仕返し、一瞬で全てが頭から消え去った。
-李素裳は歯を食いしばり、技を引っ込めることにした——
-繰り出した太虚剣気を無理矢理押し戻す。
-反動の指の力が体に戻り、腕に大きな痛みが走った。
-技の勁力を分散させるため、彼女はつま先を軽く叩き、
-「飛燕帰巣」を繰り出し、回転を利用して力を削ぐしかなかった。
-ちょうどその時、足下にザザッという音が響いた。
-一筋の白い光が目の前で煌めき、先ほどまでいた空間を寸断していた。
-素裳が技を引っ込めるのと同時に、
-「鷹」の左手が急に「軒轅」を引き抜き、上向きに斬撃を繰り出した。
-少女が後ろにさがっていなければ、体は一刀両断されていただろう。
-李素裳の優しさが正しかったのかどうかは分からないが、
-彼女自身の命を救ったのは間違いない。
-(あれはロウソクの光?それとも月明りかな?)
-死が訪れる直前、李素裳はふと思った。
-十年の修行で極めた剣心はとても穏やかだった。[\s]
-これまで死に直面したことがなかった少女だが、死の間際、これほどまでに虚しくなった。
-それは女性の声だった。
-遠い場所から、はるか遠くの場所から聞こえる……
-彼女は体からほんのわずかな距離で剣の刃を受け止めた。[\s]
-続いて指で弾いた。
-この指の動きは、かつての師匠の指さばきに匹敵するほど完璧だった。
-両者の目的は古剣「軒轅」だ。[\s]
-手にした者が勝ち、手にできなかった者は死ぬ。
-(……アタシを助けてくれるよね?)
-体の動きを、完全に本能に任せる。
-「少女」の、李素裳の意識が呟いた。
-「あんたはアタシの剣でしょ……」
-軒轅は最高の位置に達して一瞬停止すると、すぐに落下してきた。
-突如、李素裳の中に、とても懐かしい感覚がこみ上げてきた。
-この光景、どこかで見たことがあるような?[\s]
- -目の前に落ちてくる剣は、どうしてこれほど親しみがあるんだろう?[\s]
- -…………
-何年も前のこと
-…………
-指が剣の柄に近付いていく。
-剣のぶつかり合う音が、少女の頭の中で鳴り響いているかのようだった。
-まさにその時、李素裳は、自分が「剣意」を会得したのだと確信した。
-この時の絶望と失望は今まで以上に大きかった。[\s]
- -少女は死ぬことを恐れてはいない。[\s]
- -しかし、希望を手に入れては失い、頂上まで登りつめては落ちていく苦しみを味わったのだ。
-体に沁みこむような大きな後悔とともに。
-悲鳴や震えは絶えることがなかった。
-「——いや!」
-次の瞬間には一刀両断されようとしていても、
-本能は負けを認めようとはしなかった。
-極めてぼんやりとした意識が素裳の掌剣を押し出し、
-相打ちするつもりで必死に敵に攻撃を繰り出す。
-この瞬間、「死」を理解して受け入れた少女は、
-ついに一足遅れて、手にしたのだ……
-「鷹」は剣客ではなく兵士である。
- -彼が使うのも剣術ではなく、刀術だ。
-そのため、逆手で柄を握った彼は、習慣的に手首をひねり、
-刃側を前にして敵に向ける。
-しかし、今夜は——[\s]
- -今夜、勝敗と生死を決める一瞬、
-「鷹」の脳裏にある奇妙な考えが浮かんだ。[\s]
- -その考えは、彼が剣舞をしていた時に知らず知らずのうちに根を張り、芽を出していた。
-(剣術と刀術は違うはずだ……)
-ただの思いつきにすぎなかったが、拭い去れなくなってしまった。[\s]
-ただの思いつきにすぎなかったが、「鷹」の生死を分ける場面で、手首をひねる習慣を止めさせてしまった。
-そのおかげで、彼は一瞬の時間を無駄にせずに済んだ。[\s]
-その一瞬を無駄にしていれば、剣の刃が少女の体を切り裂く前に彼は死んでいただろう。
-少女の掌剣が稲妻のごとき速さで真っ直ぐ頭に向かってくる。
-「鷹」は剣の柄を握りしめ、逆手のまま振り上げる。[\s]
- -剣と刀は違う。剣は両刃で前後は関係ない。
-このように、ほんの一瞬の違いが、結果を全く異なるものにすることがある。
-非常に鋭利な宝剣が月の光を切り裂いた。[\s]
-剣先は柔らかく貫通し、少女の体に別れを告げ、両断する。
- -薄い紙を切り裂くかのごとく、容易く。
-彼女の視線は空中の一点を見つめたまま固まり、もう動くことはない。[\s]
-恐るべき手刀も力を失い、動きを止める。
-「鷹」は少女を殺し、彼女の剣を奪った。
- -辛く残酷ではあるが、勝利に変わりはない。
-——そうなるはずだった。
-しかし、剣の切っ先が前を向き、李素裳の腹部に突き刺さろうとした時、「鷹」の真気が急に消えた。
-長年鍛錬してきた強力な内勁が、まるで存在していなかったかのように跡形もなく消え去った。[\s]
-彼が何をしようと、空虚な経脈は何の反応もなかった。
-[em italic]バカな——[/em]
-恐怖という名の寒気が瞬時に「鷹」の血管を駆け巡った。
-[em italic]バカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカな——[/em]
-彼の内息や気の動きには何の問題もなかった。
-彼も、このような時に自分の気が暴走することはないと確信していた。[\s]
- -しかし、それは実際に起こった。彼の勝利が目前に迫った時に。
-今夜、彼が内功を完全に失ったのはこれが2度目だった。
- -「鷹」はどういうことなのかを急に理解できた。しかし、時すでに遅しだった……
-力が入らない手は、剣の柄を握っていられなかった。
- -「軒轅」は空中の少女を切り裂き、骨が見えるほどの深い傷を負わせたところで彼の手から離れた。
-少女の掌剣が彼の頬を打つ。[\s]
- -平手打ちと骨が砕けるような音とともに、強烈な痛みと無念の感情が襲ってきた。
-[em italic]何故だ?[/em]
-砕けた側の頭から暗闇が押し寄せ、彼を呑み込もうとするが、彼は必死に抵抗した……彼の両目は狂ったように動きながら、何かを探している……
-[em italic]何故だ————!?[/em]
-あるものが彼の目に入った。[\s]
- -遠くの、古い宿場の広間、彼が気に入っていた椅子の前に一人の男が立っていた。
-[em italic]羅刹人……[/em]
-その男の横には、棺が静かに立っている。
-[em italic]貴様か……[/em]
-男は遠くから彼を見ていた。ロウソクの炎が揺らめく。彼は目を凝らして、その男の表情を見ようとした——
-[em italic]貴様か!!!!!![/em]
-彼の思考はそこで止まる。
-怒りがこみ上げてきたところで、暗闇が彼を呑み込み、連れ去ってしまったのだ。
-疲労と痛みが怒涛のように押し寄せる。まるで、再び体の支配権を取り戻したことを少女に知らせているかのようだった。[\s]
-……ただ、その知らせ方はあまりにも残酷だった。
-少女の口の中に、しょっぱい血の味が広がる。人生を疑うほどの苦みを伴っていた。[\s]
- -内臓が破裂したとかじゃないよね?
-……剣に斬られた腹部から急に痛みを感じるようになった。
-武術の修行には怪我や病気がつきものだが、
-これほどの重傷は少女にとって初めてのことだった。
-[em italic color=#FAFAD2]これが勝利の味だとしたら……
-本当にほろ苦いんだね。[/em][\s]
- -李素裳はあれこれ考えているうちに、思わず吹き出して笑った。
-そしてまたもや痛みで顔をしかめた。
-返事はなく、ただ足音がコツ、コツと聞こえるだけだった。[\s]
-コツ、コツ。[\s]
-遠くから近くへ、誰かが歩いてきた。
-李素裳が問う。
-その声はとても小さく、耳元のガサガサという音のせいで、自分でもよく聞こえぬほどだった。
-[em italic color=#FAFAD2]これでも酷くないっていうの?[/em]
-李素裳は聞こうとしたが、あえて心の中に留めておいた。
-素裳の目には、その物体は不思議な花模様が描かれた真っ白な紙の傘のように見えた。
-傘はとても長く、先端は尖っており、とても鋭利だった。
-[em italic color=#FAFAD2]金髪の人って、汗も金色なのかな?[/em]
-李素裳は考えながら、心の中の3割が後悔、3割が喜び、3割が恥ずかしさで埋まる。残りの1割は彼に対する申し訳なさだった。
-夜の風が優しく吹き抜け、羅刹人の長い金髪をなびかせる。
-髪の毛が顔をかすめ、微かにくすぐったく感じた。
-李素裳はそのことを口に出そうと思ったが、言いたくないとも考えた。
-彼女は思い切って目を閉じる。[\s]
- -羅刹人の言ったように、体のあちこちが痺れたり、痛くなったりしていくのを感じた。不思議な感覚だが、我慢できるものだった。
-生と死の境を経験した少女は、天の裂け目を飛び越えたかのような気分だった。
-今朝の自分のことを思い返すと、一昔前のような気がした。
-満足感と虚しさ、楽しさと悲しさ。
-李素裳の心の中では、何とも言えない感情が交錯していた。
-いつの間にか、痛みは徐々に消えていった。[\s]
-素裳の心の中に、成長したという小さな誇りが満ち溢れていく。
-天穹峰、入雲階。
-不思議な形の峰が天に向かって伸び、山の階段が延々と続いている。
- -見上げても、石段の先は見えず、山の中腹にかかっている雲や霧しか見えなかった。
-山は高く、その山の頂にいる人物も達人だった。
-数千段の石段を登ると、峰の頂に「拂雲」という名の小さな道観が見えた。
-名前、構造、屋内の調度品、
-拂雲観のどれもが、かつての太虚山、精衛真人の旧居とまったく同じであった。
-この道観の主こそ、
-まさに現在の神州六大派の一つ「太虚剣派」の当主だった。
-精衛の一番弟子、「軽塵剣」の林朝雨。
-……当主の寡黙な性格に加え、困難で長い道のりが待ち受けている。
-そのため、太虚門の門弟はよほど重要な用事でもない限り、この入雲階を登ってくることはない。
- -そのため、この日もいつもと変わらず、穏やかで平凡な一日になるはずだった。
-武術界に現れることは滅多になく、その門弟たちも目立たないように行動している。[\s]
-しかし、この者の名前は、六大派の当主や長老に劣らないほど有名だった。
-彼女こそ精衛の二番弟子、現在の「無双門」の主、[\s]
-「無双仙人」——蘇湄だった。
-門を叩く者がずっと待っていたことに気付いていないかのようだった。
-「軽塵剣」こと林朝雨は、ゆっくりと中から出てくると、かつての二番目の妹弟子を冷たい目で見た。
-その声が林朝雨の耳の中へと入り、細い尖った針のように彼女の心を刺した。
-彼女は思わず目の前の女性を一瞥する。
-美しい顔には潤いとハリがあり、触れれば破けてしまいそうだ。
-彼女の目は……相変わらず大きく、人を魅了する……
-彼女の唇は朱く、色っぽいと思えるほどだった……この女狐は、一体どれだけの紅を使ったのだろう?
-蘇湄の言った彦ちゃんとは、二人の弟弟子「百里逐駒」こと、馬彦卿のことだ。[\s]
- -この太虚剣派の六番弟子は傲慢な性格で、常に世間に縛られずに生きている。
- -馬彦卿と「無双」蘇湄は親密な関係で、武術界の誰もが羨む武術家の男女だった。
-しかし彼は突然、二十歳以上も年の離れた一番上の姉弟子と結婚すると宣言し、武術界に衝撃を与えた。
- -婚礼の当日、今度は酒に酔った勢いでくだらない話をし、自分の昔の名前を恥じて捨てたと言い、居合わせた招待客たちに気まずい思いをさせた。
-結婚後も、この太虚剣派の副当主が腰を落ち着けることはほとんどなかった。
- -1年のほとんどを、自分の愛馬「夜血」と共に各地を旅して過ごしている。彼の行いは良く言えば「義侠心がある」、悪く言えば「悪事を働いている」ということになるだろう。
-上は権力者や金持ち、下は悪党や盗賊に至るまで……馬非馬は相手が誰であろうと構うことなく手を出し、喧嘩を売っていた。この「狂人」は十年ほどの間、確かに各地の武術界で名を馳せていた。
-[em color=#FAFAD2 italic]いえ……[/em]
-林朝雨は心の中で思った。
-[em color=#FAFAD2 italic]彼が嫌っているのは過去、まさに、あなたが作り出した過去よ。[/em]
-その思いは胸にしまい、それきりにした。
-それを言葉にすることもしなかった。
-林朝雨は再び聞いた。[\s]
-蘇湄は彼女に向けていた視線をすぐに逸らし、ため息をつきながら言う。
-突如、怒りの炎が硬い氷を融かした。
-林朝雨は大きく前に一歩進むと、銀色の長剣を音もなく左手に握る。
-長年溜め込んでいた言葉を痛烈に吐き出したが、決して気分は良くなかった。
-林朝雨は相手の沈黙に満足したが、その沈黙を訝しんでもいた。
-風が吹き荒び、天穹峰の頂には骨に突き刺さるような寒さが漂っている。
-このような天気は怒りをかき立てるが、怒りの炎をかき消して意気消沈させることもある。
-二十年前のあの日の話題になり、林朝雨は無意識に一歩後ずさりした。[\s]
-冷たい空気が背筋で凝結して水滴となり、氷のような汗となって服の背中を滑り落ちていく。
-何年もの間、あの時の光景は骨の髄にまで入り込み、彼女を苦しめ続けていた。
-彼女は過去を振り払ったつもりでいた。
-しかし今日、蘇湄が訪れたことで、古傷に再び触れることとなった。
-再び顔を上げて蘇湄を見た時、林朝雨の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。
-それは、怒りと疲労が限界を超えたことによる笑みだった。
-林朝雨はドキッとした。[\s]
-それは彼女がよく知っている蘇湄の目だった。
-果てしなく広がる暗闇の中で、[\s]死んだ仙人の意識が蘇った。
-『その力』は限られている。感官から情報を受け取ることも、神経に指令を出すこともできなかった。
-混沌の中、弱い意識は古の本能に従い、盲目的でありながら揺るぎなく存在し、伸びていく。
-意識はまだ自分自身の死に気付いていない。[\s]
-彼女は自分自身の死を認めようとしない——
-常識で判断すれば、仙人は確かに死んだ。
-一番重傷を負った胸部は、十数ヶ所も損傷していた。
-しかし、最も致命的な傷は頭部にある。
-剣が彼女の額に刺さり、
-しかし「仙人」は普通ではない。
-その体は千年経っても死なず、[\s]
-その魂は万年経っても消滅することはない。[\s]
- -命の法則を徹底的に覆した、
-神州唯一無二の仙人。
-今、静かに石室に横たわる体は、まさにそういう存在であった。
-一つ一つの神経細胞から、
-仙人の脳と肉体は長い修復と再構築を始めた。
-裂けた皮膚を修復し、
-折れた骨を治し、
-ボロボロになった筋肉を繋ぎ、
-損傷した器官を再生する……
-やがて、仙人の『意識』が辺りを知覚する。
-それから、痛み、痺れ、腫れ、痒み……体の様々な部位が悲鳴を上げる。
-終わりのない苦痛が襲ってくる。
-……終わりのない修復、終わりのない痛み。
-仙人は沈黙したままだ。
-「 私 誰 ? 」
-頭の中は混乱したまま。覚えていることもあるが、忘れたことのほうが多い。
-「 此処 何処 ? 」
-記憶の中には断片的な言葉しかなく、彼女が求めている答えを繋ぎ合わせることができない。
-「 …… 何 ? 」
-そう思った瞬間、長いこと摩耗してきた感情が突如として胸に湧いた。
-七……
-彼女と最も親しい七人。
-七人が共謀し、彼女を嵌めた。[\s]
-七本の剣が罠を仕掛け、彼女を殺した。
-「 …… 何 故 ? 」
-湧き上がる感情が消えることはない。[\s]
-怒り、[\s]
-困惑、[\s]
-憤怨、[\s]
-腹立ち、[\s]
-そして悲しみ。
-「……どうして?」
-答えはない、あるのは答えを求める渇望だけ。
-……仙人は待つことにした。
-かつての彼女は長い間、この地を守ってきた。時の流れは彼女にとってさほど重要ではない。
-彼女は待ち続ける、体が完治する日がやってくるまで。[\s]
- -そしてあの七人を探し出す、自分を殺した理由を訊ねるため。
-強い衝動がぼんやりした意識の中で焼印を押し、
- -彼女を促し、鞭撻し、変えていく。
- -待つことが習慣に、苦痛が自然になるように。
-それから……
-痛い
-痛い
-痛い
-痛い
-終わりのない修復、終わりのない痛み。
-仙人は沈黙したままだ。
-彼女は長い間我慢してきた、
-ここは砂漠の中の小さな宿場。
-1400年前、流浪のテュイク人がここでオアシスを発見した。
-彼らは神様の加護に感謝し、思う存分水を飲んだが、止まることはなかった。
-そこから300年、顔国の隊商がここを通った。
-宝石と絹織物を満載した隊商に、一人の外交の使者がいた。
-その使者の価値は荷物を遥かに超えている。なぜなら彼は西域に出向き、同盟を結ぶ責任を背負っているからだ。
-商人たちはここで足を休め、翌日に出発した。
-彼らは漠北を出ておらず、誰もその行方を知らない。
-740年前、ハンユー族の遊牧民がオアシスの横に拠点を作った。
- -この水源がある限り、私たちはもう漂泊しないで済むと、首領は民たちにそう告げた。
-100年後、匈人は北からやってきた。彼らはハンユーの村を一掃し、老人と男を殺し、女と子供を連れて遠い西域に向かった。
- -……オアシスは匈人たちによって残され、再び世界に忘れ去られた。
-そして時が流れる。[\s]
- -文明は生まれ、滅亡する。人々は行ったり来たり、やがて歴史という川に消えてなくなる。
-オアシスの来訪者は今、古い壁の陰に隠れながらため息をつく。[\s]
-この重苦しい烈日と砂の海を、彼は3ヶ月間も見ているのだ。
-男はもう一度ため息をつく。
-砂漠の物寂しさと暑さのせいで気が晴れない。
-見渡す限り、景色は変わらない——
-太陽、空、黄砂……何もかもが停滞していて、微動だにしない。
-空気まで固まっているような気がして、少しの風も感じられないのだ。
-相手は知っているのだ、男は単に退屈を紛らわすためだけに話しかけてきたのだと。
-しかしこの黄砂に囲まれた蒸籠のような場所では、話すこと自体が贅沢だ。
-口を開くというのは、精神の緩み、水分の流失を意味する。
-『金砂会』の番人にとってそれはもったいないことだ。
-ㅤ
-注:
-ㅤ
-『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
-ㅤ
-物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
-ㅤ
-注:
-ㅤ
-『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
-ㅤ
-物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
-男は鬱憤を晴らすために悪態をつく。
-声は大きくない。たとえ仲間に聞かれても、内容を聞き取ることはできないだろう。
-……しかし、男はちゃんと分かっている。首領は新入りの彼を馬鹿になどしていないと。
-見張りの仕事は当番制、あいにく今日は彼の番になっただけだ。
-だが、彼は亡命者だ。その手は血に汚れ、足は無数の死体を踏みつけてきた。
-略奪、強盗、蹂躙、殺戮こそが彼のすべきこと。
-刀を振り回し、血に染まる刺激こそが彼が得るべき報酬だ。
-男は自分の価値を信じている。ㅤ[em bold color=#ff0000]戦闘[/em]ㅤとㅤ[em bold color=#ff0000]殺戮[/em]ㅤ。[\s]
-もし『悪』に真偽があるのなら、男は本物の残酷非道な極悪人だろう。[\s]
-彼は暴力を恥じることなく、むしろ暴力を自分の強さの証明だと考えている。
-そのため、長く計画されてきた『大商売』から外されたことに、
-彼は屈辱に近い怒りを感じていた。[\s]
-怒りのせいで焦燥感に駆られ、口が渇き、煩わしく感じる。
-目がかすんでいる訳でも、漠北でよくある「蜃気楼」を見た訳でもない。[\s]
-あの少女……砂漠の向こうからゆっくりと歩いてくる少女は、本当に存在している。
-思わず叫んでしまった言葉は、すぐに熱気の中に消えた。
-気付かぬうちに、男は金砂会の禁忌を犯していた。
-一つ目、狼狽えること。
-二つ目、軽率な行動を取ってしまったこと。
-金砂会の古参なら、彼のように慌てることは決してないのだろう。
-しかし、男の心には疑問があった。
-漠北で横行する金砂会を相手に、自らやってくる女は今までいなかった。
-彼女は川中『憶剣山荘』の若荘主、精衛真人の七番弟子『染香剣』こと、秦素衣の一人娘である。
-精衛真人、染香剣、憶剣山荘。[\s]
-神州の武術界では、どれも知らない人はいないほど名高いものだ。
-砂漠とは、声望も虚名も関係なく、弱肉強食で生きるか死ぬかの荒原だ。[\s]
-強い者は生き残り、弱い者は砂に埋もれるという世界。
-母親は彼女を可愛がっていて、つらい思いをさせたことがないほどだった。
-しかし剣の稽古になると、母親は誰よりも厳しくなる。
-その後、素裳は今まで以上に稽古に集中し、伝家の『憶心剣法』の十二の型を自由に使いこなせるようになった。
-それでも母親は頭を横に振る。
-素裳は、一体何が駄目であったのか理解できなかった。もっと勤勉になるべきだったのだろうか?
-どうして自分はいつも母親の期待を満たすことができない?
-母親はそれを実行した。
-李素裳の5歳の誕生日に、両親は彼女にある贈り物を用意した。
-憶剣山荘、川中、そして生まれてから離れたことのない『家』と別れを告げ、
-李素裳はそのまま漠北に来て、十年間『最高の剣法』を学んでいた。
-10年の時は瞬く間に過ぎ去っていった。
-家に対する思いは紙のように薄くなり、別れた時に母親が言った言葉だけが彼女の心に残っている。
-剣法で何かを手にすることができただろうか?
-武芸で何かを成し遂げることができただろうか?
-今の自分は、母親の期待に応えられているのだろうか?
-李素裳は意味深長な微笑みを見せた。
-少女の初の『力試し』は、今日にあると!
-二人の男が左側から近付いてくる。
-そのうち一人は、最も早く少女に気付き、声を出した男だ。
-彼は剣を手に、嬉しそうな顔をしている。
-まるで罠にかかった獲物を見つめる狩人のように、その笑顔は死を語っている。
-右後ろの男は少女の視界にはいなかったが、
-先程の男の声を聞いて走ってきたのだ。
-——賊と彼女の距離はたったの五歩。
-少女は包みを開き、逆手で古剣『軒轅』を握る。
-剣が手にある感覚は、彼女を安心させる。
-その後の出来事は、
- -きっとこういう展開になる筈だ。
-少女は飛び立つ鳥のように軽い動作で飛び上がる。
-着地した瞬間、剣の切っ先はすでに男の胸元に刺さっていた。
-剣を戻し、振り返る——噴き出す血より、ずっと速い。
-次の瞬間すぐさま剣で刺し、男の凶悪そうな笑顔を固まらせる。
-こうして、四人の敵は二人だけになる——なんの抵抗もなく。
-彼女の武術の造詣と、古剣軒轅があれば——
-その幻想を現実にすることは、難しいことではない。
-——賊と彼女の距離はあと四歩。
-目の前の四人は、宝剣を拝む価値すらないのだ。
-この剣は遠い昔、仙人たちの時代から受け継がれ、幾千万年の時を見届けてきた。
-その持ち主は武術界の伝説、唯一の真仙、神州の守護者『精衛真人』である。
-精衛真人が天に昇って仙人になった後、秦素衣はしばらく隠居したが、3年後に彼女は再び武術界に名を馳せた。
-彼女と『川公子』李紳の恋物語は当時、美談として語られていた。
-10年前、引退した母親は『墨染香』を幼い素裳に渡し、[\s]
-同時に素裳の肩には、「太虚五蘊を悟り、『天下一』になる」という母親の期待がかかり始めた。
-目の前にいる平凡な人間たちの血で、この剣の威名を汚すわけにはいけない。
-——賊と彼女の距離はあと三歩。
-——あと二歩。
-一歩!
-彼は本能的に下を見る。
- -その瞬間、足が痛み出した。
-男は地面を見ようとしたが、なぜか目に映ったのは太陽だった。
-(どういう……)
-彼はまだ自分が蹴飛ばされたことに気付いておらず、何か冷たいものがこめかみに触れたと感じただけだった。
-——太陽は暗闇に呑み込まれた。
-体を屈めて攻撃を回避し、その勢いのまま男を蹴り、そして指一つで彼を気絶させる——少女はあっという間にそれをこなしてみせた。
-彼女の精神は今までにないほど集中している。[\s]
- -目の前の敵を倒す以外、少女は何も考えていない。
-それこそが、太虚剣気五蘊の「心蘊」。
- -入門の一蘊でありながら、最も難しい一蘊でもある。
-『剣心 - 止水』!
-しかし、金砂会の古参たちは少しも気にしていない。
-なぜなら少女は彼らにとって、既に死人に見えていたからだ。
-砂埃を利用し敵の視線を遮ることで、時間の優勢を手に入れる。
-環境を最大限利用できれば、勝利の可能性を最大限に引き上げられる。
- -それが少女の考えだ。
-しかし、それも敵たちに読まれている。
-広い砂漠で何年も生きてきた盗賊たちは、そういう戦い方をとっくに身につけていたからだ。
-少女よりも、彼らのほうが詳しいとも言える。
-少女が砂を蹴り上げることは別に変わったことではない。過去に対峙した敵もそうしたからだ。
-しかしそれで慌てると思ったら、それこそ金砂会を甘く見過ぎている。
-——漠北強盗団「金砂会」はここ6年間、神州とインユウの辺境で活躍している組織だ。
-彼らのすることはまさに流賊——諸国の隊商を相手に貴重な品物を奪い、男と老人を殺し、女と子供を奴隷に売る。
-しかし普通の流賊と比べ、金砂会は規律を重んじる。
-話によると、金砂会の首領「鷹」はもともと軍隊出身だった。[\s]
-冤罪に遭い、左遷され、一族はその影響を受けた。
-構成員が「鷹」を恐れているのは、彼が悪辣非道だからだ。[\s]
-構成員が「鷹」を敬服しているのは、彼が常に無敗だからだ。
-この男の出現は、金砂会に激しい変化をもたらした。[\s]
-かつての流賊は規律を守る小さな勢力になり、漠北一帯の支配者となった。
-構成員たちは朝晩、武術の稽古をしなければならない。[\s]
-稽古が終わった後は、軍隊のような訓練が始まる。
-「鷹」は飽きもせず、彼らに陣形、変化、団結、それから様々な合図や命令を教えた。[\s]
-彼が欲していたのはまとまりのない盗賊団ではなく、軍隊そのものであった。
-それは「鷹」の保証。
-彼らは「鷹」の言葉を信じて疑わない。
-三人は素早く目を閉じた。
-視覚を失うより、砂が目に入った時の痛みや条件反射による動きのほうがより危険なものになる。
-目を閉じた瞬間、三人はすでに互いの場所と敵の位置を記憶した。
-彼らがこれから取る行動や攻撃する方位は、「雁人陣」の陣形を完璧に再現したものになる。
-真ん中にいる男は真っ先に刀で攻撃する。上から下へ、勢いよく振り下ろす。
-左側の男は一歩踏み出し、標的の下半身を狙った横斬りを仕掛ける。
-この二つの攻撃の心は攻撃ではなく、敵を誘導することにある。
-「鷹」が考えた陣形と刀術は、決まった道筋に従って敵を回避させるもの。
-標的がもしこの二つの攻撃を回避できたら、次の瞬間はきっと決められた位置にいるはずだ。
-その時は右側の男が致命的な一撃を与える番となる。
-敵が見えなくても、彼らはこの陣形で敵を確実に仕留める自信を持っているのだ。
-陣形に間違いはないが、少女は金砂会の男達の想像を超えていた。
-砂を蹴り上げたと同時に、少女はもう前に出た。
-金砂会が「鷹」の陣形を信じて疑わないように、少女も自分の武芸に絶対的な自信を持っている。
-剣心を極めた彼女には、男たちの攻撃を回避する必要はなかった。
-真ん中の男が刀を上げた瞬間、少女はすでに彼の懐まで飛び入った。
-反応するより先に、男の顎は思い切り殴られた。
- -衝撃は頭骨を通して直接脳に響き、激しい揺れに襲われた彼は意識朦朧となる。
-次にやってくる少女の跳び蹴りが膝に命中することを察する暇もなく、彼は地面に倒れた。
-少女は跳び蹴りの勢いのまま、「飛燕帰巣」を決め、瞬く間に左側の男の後ろに着地した。
-片手で男の首を叩き、
-まさに電光石火、彼女は力と速度をうまい具合に計算し、正確に行動してみせた。
-太虚五蘊の『剣心』、
-それは脳の潜在能力を最大限に発揮する奥深い心法だ。
-ㅤ
-『剣腊』:
-ㅤ
-剣を構成する部分のひとつ。
-ㅤ
-剣の中央の芯は剣脊、剣脊の両側にある面は剣背。
-ㅤ
-剣脊と剣背を合わせて剣腊という。
-同時に、百里先では……
-男は金色の砂に伏せたまま、動かない。
-汗の粒が額、鼻、首、脇、足から湧き出し、体の所々が痒くて仕方がない。
-それでも彼は動こうとしない。
-服があっても、皮膚が熱い砂に焼かれているようだ。
-気絶しないように、男は必死に精神を集中させようとする。
-こういう時、彼はいつも「鷹」の言葉を思い出す——
-彼らのような者が朝廷の兵に捕まると、胸元に烙印を押される。
-烙印は砂よりも硬く、太陽よりも熱い。皮膚に触れるとすぐにくっつき、剥がす時は皮膚も一緒に剥がされる。
-あの感覚は、「鷹」曰く、まるで地獄のようだ。
-金砂会の構成員たちはよく地獄を口にする、[\s]なにせ彼らはそこで再会する運命なのだ。
-地獄の中は不気味で恐ろしく、そして退屈だ。金も酒もなく、美人もいない。
-良いものなど、地獄に存在しないのだ。
-しかしここで、今日の「商売」が成功すれば、欲しいものは何でも手に入れられる。
-今回の「商売」は今までよりも大きいと、「鷹」が信頼できる情報を掴んだのだ。
- -遠方から来た隊商は貴族の家族を連れており、金銀財宝をたくさん持っているらしい。
-その情報に間違いがなければ、あと30分で全部手に入れられる筈だ。
-彼の実年齢はもう少し若いが、それでも不惑の年に近い。そして顔全体を見れば、目だけが際立っていることが分かる。あれは猛禽類の目だ。
-彼は遠方を眺めている。まるで獲物を見つめているかのようだ。
-質問も承諾もいらない、
-「鷹」の命令に従えば、返ってくるのは——
-突如、男の顔に笑みが浮かび、
-同時にその目つきも変わった。
-砂に伏せた男は視線を戻し、息を吸う。熱い空気が肺に充満したが、まだ我慢できる。
-遠い先、塵が舞い上がる。
-「来る。」
-誰かが呟く。
-長く待ち伏せしていた男たちはほっとする。苦しい時間が、やっと終わるのだ。[\s]
- -あとは、勝利のみ。そして、この勝利を……
-彼らはすでに長い間待ちわびていた。
-よく見れば、この棺はほぼ密封されていて、その周りに少しの隙も見当たらない。
-数本の黒い本革の帯が棺をしっかりと縛っている。
-金髪緑目の男は棺の横に膝をつき、長い指で棺の表面に触れる。
-その動きは撫でるみたいに優しいが、まるで、全身の力を使っているかのようでもある。
-男は自分の手でこの棺を作り、その中身を外の世界と隔離した。[\s]
-そして男はあらゆる法則に抗い、愛する者を連れ戻そうとした。[\s]
-宿願が叶うまで、彼はまだこの世界から離れられない。
-遠い先から聞こえる咆哮、叫び声、泣き声の中で、
-ラクダの悲鳴、馬車の転覆、刀のぶつかり合う音の中で——
-——男は微動だにせず、少しも気付いていないようだ。
-まるで目の前にある棺以外のものとは、何の関係もないように。
-ラクダの足音が再び鳴り出し、馬車はゆっくりと進み出す。
-その横には刀を持つ男たちが居て、隊商の人間と馬、それから財宝を守っている。
-何もかもが同じように見えて、何もかもが徹底的に変わった。
-商人たちは奴隷となり、強盗たちはその主になったのだ。
-ㅤ
-注:
-ㅤ
-羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
-ㅤ
-羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
-ㅤ
-当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
-そして最も喜ばしいのは、部下たちの出来だった。
- -彼が金砂会の頂点に立った時の、沈んだ様子とは大違いなのである。
-今回の隊商は待ち伏せの罠にかかってしまったが、護衛の用心棒たちは責任を果たそうとした。
- -一瞬取り乱したとは言え、彼らはすぐに態勢を立て直し、手強い抵抗を始めた。
-——しかし、それは「鷹」の思う壺だった。
-彼は挑戦の中で快感を得て、存在意義を探すような人間なのであった。
-敵の抵抗が激しければ激しいほど、兵士を訓練した価値が高くなるだろう。
-勝利の意味は、上がり続ける価値の中で最高の満足を得ることにある——
-——冤罪で投獄された後、新たな『戦友』は彼を見捨てた。何度も彼を夢から目覚めさせたのは、痛みでも悔しさでもない。羅刹鬼と殺し合った時間だった。
-ㅤ
-注:
-ㅤ
-羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
-ㅤ
-羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
-ㅤ
-当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
-羅刹国を出た時から、彼の人生は止まっていた。
-その後の時間は、何の価値もない行動を繰り返す屍に過ぎなかった。
-だから、彼は漠北に逃げた。金砂会を奪い、忠実な兵士たちを手に入れた。[\s]
-だから、彼は彼らを鍛錬した。鞭撻し、苦しめ、
-彼らを死の狭間へと送った。彼らと共に生きたのだ。
-過去を繰り返し、
-過去に仕返しを行い、
-過去を渇望する。
-故に、あの『羅刹人』に出会った時、
-「鷹」は思わず、時間が繰り返され、過去の光景が再び目の前に現れたのではないかと錯覚した。
-その人間を初めて見た時、背筋が凍った。
-そいつは『災い』だと、脳が警鐘を鳴らす。
-『災い』は隊商の馬車の中にいて、その空間を独り占めしていた。[\s]
-数十人の隊商の中で、彼だけがその待遇を有している。
-男は片膝をつく。[\s]その口調は穏やかで、まるで親しい相手に囁いているかのようだった。[\s]しかし周りを見渡してみても、馬車の中に他の人間はいない。[\s]
-あるのは、棺だけ。
-相手が話しているのは羅刹語ではない。だから、「鷹」にはその意味がよく分からなかった。
-しかし、その奇異な光景を見た彼は、既に冷や汗が止まらない状態にある。
-羅刹人の見た目は大体、20歳くらいだろうか。背は高いが、逞しくはない。
-武術はできるが、達人ではない。
-筋肉が肥大している人間は、外家拳を主とする武術者。
-そういう人間たちの肩と腕は力が強く、金属や石を簡単に破壊でき、普通の鈍器を防御することも容易である。
-優れた外家拳は平衡、つまり、力が全身に渡ることを重んじる。力量のみを求めてしまうと、却って臨機応変に動けなくなるのだ。
-速度と力量を兼ね備えた者こそ、腕のある人物。
-内家拳は内なる力を、即ち、経脈と『真気』を鍛える。
-そういう者の形神は控え目でありながらも、存在感がある。眼差しと呼吸を観察すれば、その奥深さが分かる。
-彼は何人もの命を奪っている。いまさら、一人増えたって構わない。[\s]
-しかし……刀は抜かれなかった。
-ようやく視線を強盗たちの首領に向けた。
-[em italic]羅刹鬼め、勿体振りやがって。[/em][\s]
-「鷹」は思わず心の中で罵る。[\s]
-[em italic]バイホイ人にお前を売ったら、どんな表情を見せるか楽しみだ。[/em]
-死んだ羅刹人は金にならないが、生きている羅刹人は高値で売れる。
-バイホイの奴隷商人はこういうものが好みで、いい値で買ってくれるのだ。
-彼は何故、あの棺に話しかけていたのだろうか?[\s]
-馬車を貸切にしていることも、疑わしい……[\s]
-そうだ、棺の中身を人に知られたくないからだ。
-……何だ??
-「鷹」はたくさんの人間を見てきた。
-彼が見てきた眼差しも、数え切れぬほどだった。
-恐怖、憎しみ、怒り、悔しさ、苦しみ……
-いや、彼は見ていただけではない。彼自身こそが、そういう感情の原因であったのだ。
-首に当てられる刀は、この世で最も有効的な自白剤だ。
-人一人の心の奥底を徹底的に暴くことができる。
-「鷹」は死ぬ寸前の眼差しに麻痺していて、
-瀕死の際の感情に動くことはない。
-そういうものを、彼はたくさん見てきているからだ。
-しかし、この羅刹人と同じ眼差しは今までなかった。
-あれは揺るぎない、狂気、残酷、愉悦、憐れみ、そして……
-[em italic]そうだ。[/em]
-「鷹」はハッとして、唾を呑む。
-この羅刹人は終始、彼のことなど眼中にないのだ。[\s]
-相手にとって、金砂会首領たる「鷹」ですら、大漠の砂と何の違いもない。[\s]
-価値はなく、意味もない。
-次の瞬間、羅刹人に踏み潰されるような錯覚すらあった。
-きっと、散歩するかのように簡単なのだろう。
-恐怖を感じたからではない。「鷹」は、自身に言い聞かせたのだ。[\s]
-彼は決して、羅刹鬼を怖がらない。
-遠い先に、一縷の煙がゆっくりと昇る。
-金砂会の帰路を示す合図である。
-彼は目の前の二人を観察し、
-少し離れた砂場に視線を向け、[\s]
-また宿場の中へと意味深長な視線を向ける。
-男は、少女の話をデタラメだと思っているようだ。
-李素裳は相手とは意思疎通できないと判断し、無視することにした。
-師匠の、[em color=#FAFAD2]「金砂会を知っている?彼らの頭を倒してきて。」[/em]という言葉は、
-簡単そうに聞こえるが、そのせいで正直者の弟子はかなり困っていた。
-武術界で有名な名前が次から次へと現れ、また次から次へと少女に否定されていく。
-それらは名の知れた達人だ。自分のような境遇に陥ることなどある筈がない。
-[em italic]閻世羅……[/em][\s]
-不思議な力に導かれたかのように、40年前に存在した武術の怪傑の名が少女の頭に浮かんだ。
-しかし自らやってきて、「品物」の振りをしてこっそり地下牢に入ってきた人間は、
-金砂会が占領して以来、おそらく李素裳が初めてかもしれない。
-素裳は枯草を整え、その上に大人しく座り、
-『剣心訣』の黙読で時間を潰そうとした。
-剣心訣は『太虚剣気』の入門となる内功、
-武術界の誰もが求める奇術である。[\s]
- -しかし剣心訣の正体が、奇妙で不可解な音節であることを、ほとんどのものが知らない。
-その音節には形式がなく、文字で表現することもできない。
-気の流れを教えるわけではなく、体の鍛え方を教えるわけでもない。
-『口訣』とはいうものの、実際何の意味もない。
-何も知らない状況で剣心訣を聞いたとしても、うわ言としか思えず、
-それが神州の武術界の頂点に立つ、無双の神業だとは誰も考えないだろう。[\s]
- -実は、その奥深さはここにあるのだ。
-暗唱、黙読、そして、聞くこと。それが心の鍛錬となる。
-言葉には力がある。[\s]
-素裳にはその中身を理解できないが、確実に『心』の変化を感じ取れた。
-体はますます軽くなり、頭の中も澄んでいく。
-五感が一箇所に集い、心の湖に溶ける。
-それが、剣心四境の一つ。
-——『止水』。
-素裳は雑念を捨て、剣心に集中する。
-次の境界へと入る——
-心の湖が氷となり、
-些細な考えを払い、少しの痕跡をも残さない。
-硬い氷のひびは消えてなくなる。
-心の湖は限りなく透明に近く、万物を照らす。
-しかしその上には剣心の最高境界……
-この世で師匠だけが到達した第四境がある……それは……
-氷面が急に割れ、心の湖が流れ、剣心訣も頭の中から消散する。[\s]
-李素裳はその場に座ったまま、激しい頭痛に襲われた。知らぬ間に、背中は冷や汗で濡れている。
-しかし自分は、生まれた時から母親が暗唱した剣心訣を聞いて育っている。
-師匠よりも早く進展するはずなのでは?
-師匠は13歳の時に『太虚』に到達し、
-15歳の若さで無上『剣神』となった。
-自分はどうだろう?同じ15歳になったというのに……[\s]
-『剣心』が円満になっていないだけではなく、
-『剣意』もままならない。
-この二つの難題を克服したとしても、
-その先には「神」蘊が立ちはだかっている。まるで雲霧の中にいるかのように、よく見えないのだ。
-『情』は『心』蘊の敵である。
-もし心の海に現れた感情を放っておいた場合、剣心が破損する恐れがあるのだ。
-明鏡の心を有する素裳はよく知っている。
-素裳は横に置いていた包みを手にする。
-計画通りにいけば、今夜こそ、剣が鞘から抜かれる時なのだ。
-秦素衣の最初の記憶は、一片の青だった。
-青い海が音を立て、波が彼女の足元を撫でる。幼い秦素衣は海辺に立っていた。
- -何故か分からないが、その光景を思い出す度に、彼女は嬉しくなる。
-顔を伏せると、柔らかい砂と白い波。顔を上げると、青い空と白い雲。
-近くで誰かが話しているようで、声が聞こえる。しかし、秦素衣は振り向かなかった。
-シャ——
- -ヤ——カ—カ——
-奇妙な音がカモメたちを驚かせ、その羽根がゆっくりと落ちていく。
-師匠は後ろからやって来て、彼女を抱き起こし、連れ帰った。
-師匠の袖は赤く染まっていたが、その腕はとても温かかった。
-この人の腕の中にいると、穏やかな気持ちになる。
-それより前のことを、秦素衣はもう覚えていない。
-その年、精衛仙人は東海で璃島の妖獣を退治した。
-その年、八歳だった秦素衣は太虚山、精衛真人に弟子入りし、七番弟子となる。
-一番弟子の林朝雨は、知らない場所に来て不安であった素衣の傍にいて、彼女の代わりに部屋を片付け、生活用品を揃えた。
-最初、秦素衣は言葉も忘れていたが、林朝雨は、一言一言付き合ってくれた。
-それは彼女にとって、物心がついた時から最も楽しかった時間である。数年後、彼女の人生で最も苦しく、絶望した時にも、彼女はよく当時のことを思い出した。
-林朝雨は彼女と三日間一緒にいた後、六番弟子の馬彦卿の世話に戻ると言い出した。
-太虚剣派の弟子は入門した日時で順番が決まる。秦素衣は一番遅く弟子入りしたが、一番幼い訳ではないのだ。
-彼女は五番弟子と同い年で、六番弟子よりも三つ年上である。
-六番弟子のことは彼女も知っている。師匠が彼女を山に連れてきた時、六人の弟子——女五人に男一人が出迎えに来た。一番上の一番弟子の年齢は、師匠とそう変わらない。彼女の腕には迷った表情をした子供がいる。
-秦素衣は好奇心からその子を何度も見たが、男か女か分からなかった。
-その横には同じ顔をした女の子二人が並んでいる。片方は素衣を観察していたが、もう片方は目を横に向け、何かから隠れているようだった。
-その左には、赤髪の少女がいる。彼女は砂糖に漬けた果物を口に入れ、素衣に向かって片目をつぶった。綺麗な笑顔だった。
-右側を見ると、みんなの後ろに立つ少女が見える。彼女は金色の剣を持ち、無表情だった。
-三日は瞬く間に過ぎていったが、一番弟子は戻らなかった。
-体が弱いからか、それとも環境が合わなかったためか、秦素衣は病気になってしまった。最初は全身から寒気がする程度だったが、その後、火傷をしてしまうぐらいの熱を出したのである。林朝雨は秦素衣を着替えさせ、薬を飲ませ、徹夜で看病してくれた。
-秦素衣も一晩中眠らなかった。高熱のせいでぼんやりしていて、記憶が曖昧だった。
-彼女はなんとなく、赤髪の少女が綺麗な男の子を連れてお見舞いに来たことを覚えている。邪気を祓うと言って、二人が彼女の枕の下に丸い何かを置いたような気がするが、起きた後は何もなかった。
-あの双子の姉妹も来てくれたような気がする。一人は一番弟子の傍にいて、手ぬぐいを替えてくれた。もう一人は彼女の手を掴んで、悲しそうに泣いていた。
-金剣を持った、無表情な女の子のことも気になったが、彼女が来たかどうかは分からなかった。
-翌日の正午。強い日差しが降り注いでいた。秦素衣の熱は下がり、まるで生まれ変わったようだった。
-素衣が体を起こして周りを見ると、一番弟子ではなく、赤髪の少女の姿があった。彼女は穏やかな一番弟子とは違う、軽快な足取りで部屋に入り、素衣の周りを一周して、懐から飴を取り出す。
-赤髪の少女が彼女の肩を抱く。何かが服に落ちたような感覚がした。
-秦素衣にとって、誰かに抱きしめられたのはそれが二回目だった。師匠の温かいぬくもりと違い、少女の腕は冷たい。まるで彼女が、虚無の点になるまで押し潰しているかのようだ。
-李素裳が生まれた時の体重は、わずか二斤三両。一本の剣とほぼ同じ重さである。
-山荘の者たちは頭を振り、父親の李紳は母親の秦素衣に向かってこう言い放った。
- -「この子は生きられないだろう。」
-当時、産後の静養中だった秦素衣はこう答える。
-「素裳が生きることができなかったとしても、それが彼女の運命。
-私は運命を憎まないけど、二人目の子供を作るつもりはないわ。
-これで李家の血が絶えたとしても、それが運命なのよ。」
-それを聞いた李紳は真っ青になり、その場を立ち去ったという。
-乳母と母親が世話したおかげで、李素裳は生き残った。しかも、とても元気に生きている。
-素裳の生後百日の日に、李紳は有名な占い師「小半仙」を山荘に招いた。
- -小半仙は印を結び呪文を唱え、素裳の周りでしばらく観察した後、声を上げてこう叫んだ——
- -「若荘主は生まれつき、剣の才能を持つ天才。非凡な運命の持ち主。まさに、大事を成す人相ですぞ!」
-その言葉の解釈は様々である。期待していた以上のことに大喜びした李紳は、己の代わりに娘が武術界の頂点に立つという夢を叶えてくれると思い、宴を開き、盛大に祝った。
-しかし、宴の主役は席にいなかった。
- -本物の「仙人」の弟子である秦素衣は、冷たい目でその茶番を見ると、娘を抱いてその場を去った。
- -彼女は寝室に戻り、娘を柔らかい敷物に下ろして、その横に小さい木剣をいくつか置いた。
- -幼い素裳は剣に触れようと手を伸ばしたが、握ることはできなかった。秦素衣は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
-物心がついた頃から、李素裳の傍には剣があった。だから、彼女が剣を知ったのは、物心がつく前だったかもしれない。
- -母親は彼女に変わった口訣を教え、父親は憶心剣法の十二の型を一つ一つ彼女に教えた。
- -こうして、李素裳は幼年期を剣の稽古の中で過ごし、瞬く間に四年の月日が経った。
-幼い素裳は真面目に稽古し、伝家の憶心剣法の出来も悪くはなかったが、それでも母親は彼女を大漠に送り、「弟子入り」させると言って聞かなかった。
- -そのことに対して、素裳は泣いて喚いたが、多くは抵抗しなかった。
-幼い彼女は漠北、南疆などの場所に対して何の概念もなく、家から離れる感覚もよく分かっていなかったのである。
-大漠に行くことが決まった数日後、人望のある陝中の石硯道人が憶剣山荘を訪れた。貴賓を迎えるため、父親は乳母に、素裳を裏庭に連れていき、稽古させるように命令した。
- -歳を取った乳母は思うように足を動かせない。素裳は乳母に気付かれないようにこっそりと裏庭を出ると、いつもの位置に隠れて、興味津々に居間を覗いた。
-「李荘主、久しぶりだな。」
-李紳は笑顔で拱手して挨拶を交わした後、座って茶を飲み、会話の続きを妻に任せる。
-——彼の妻、太虚山の仙人「精衛真人」の七番弟子、「染香剣」こと秦素衣にあるのだと。
-当時、精衛真人がまだ世にいた頃、神州の武術界を牛耳る者と言えば、精衛真人以外はありえなかった。
-伝説によると、精衛は下界に降りた仙人。不老不死だけでなく、武術の造詣に関しても比類なき才能の持ち主だという。
- -しかし十年前、太虚山に突如、金色の光が現れた。仙人は鶴に乗り天へと昇り、業火により太虚山は焦土と化した。
-その件は、武術界で大騒ぎになった。神州を千年以上も守ってきた仙人が、突如天界に戻った理由を、誰もが知りたがっている。
-仙人がすでにこの世にいない今、その答えは自ずと、仙人の七人の弟子である「太虚七剣」に期待することになる。
-キーン——
-年寄りの道士は茶を飲み、蓋を茶器に添え、武術界の近況を話した後、最後はやはり仙人の話題を口にした。
- -「正直に言うと、若い頃のわしは真人様に助けられたのじゃが、今でも礼を言いそびれたことを後悔しておる。はぁ、精衛真人様はまた戻ってくるんじゃろうか。」
-秦素衣も茶器に手を添え、笑いながらこう答える。
- -「神仙のことは、我々凡人が勝手に憶測するものではないのです。道士様に仙人との縁があれば、きっと再会できると思います。」
- -道士は大笑いしながら相槌を打ち、その後、精衛真人に関する話を二度と口にしなかった。
-茶を飲み終えた後、道士は暇を告げた。
- -父親は客を見送り、戻った時は暗い顔をしていた。
-母親の言葉にあった軽蔑の色に、李素裳は思わず驚く。
- -彼女の記憶の中では、両親は常に仲睦まじかった。そう……他の夫婦と同じように。
- -あんな話し方をする父親と母親を、彼女は知らなかった。
-母親はそう言い放ち、居間を出た。
- -李紳はその場に立ち尽くし、長らく動かなかった。握りしめた拳から音がする。
- -素裳は、ぼんやりしたままその場に座っていた。驚きがあり、喜びもあった。
-母親は微笑んでいるが、その目には悲しさと申し訳なさがある。
-彼女はまだ母親の言葉の全てを理解できず、一部の感情しか読み取れない。
-それでも、その歳では存在するはずのない重荷が、自身の肩にかかっていることに気付いた。
-少年は大きく深呼吸した。
+彼は手を伸ばして扉を叩こうとしたが、拳が扉に当たる寸前で止める。
+太虚剣派当主――『軽塵剣』こと、林朝雨。
+今年で五十六歳になり、天命を知る年齢も過ぎている。
+精衛仙人が金色の光に包まれて天に昇り、太虚山は炎に包まれた。
+その後、仙人の一番弟子だった彼女と六人の兄弟弟子はこの天穹峰に残り、
+太虚剣派を再建した。
+ +十年余りの時を経て、太虚剣派は見事に復活を遂げ、
+神州武術界の六大派に名を連ねている。
+そのため、林朝雨の名声もとても高く、夫の『逐駒剣』こと
+馬非馬と共に、武術界の誰もが羨む武術家夫婦となっていた。
+一門の主である林朝雨は決して偏屈な性格ではない。
+その逆で、彼女は誰に対しても優しく穏やかに、
+平等に接する。
+ +幾つかの例外を除いては。[\s]
+ +その例外に接すると、林朝雨はいつも
+人が変わったように怒り狂う。
+枕玉は慌てて頷いた。夫婦の問題など、部外者が口を挟むべきではない。
+彼は口数が多いほうではない。なので、そんな失敗はしないだろう。
+無双門――それは二十年近く前、新たな太虚剣派と
+ほぼ同時期に創設されたが、規模はまったく違う。
+ +今の太虚剣派は六大派に名を連ねているが、
+無双門はいまだに小さな宗派だ。
+しかし、無双門の門弟に手を出そうとする者はいない。
+その理由は、当主――『才色兼備』の蘇湄にあった。
+絶世の美貌、そして、優れた知性を持つ女性。
+ +蘇湄は精衛真人の二番弟子だったが、武術界では
+太虚七剣の中で最も恐ろしい人物とされており、畏敬の念を込めて
+『女諸葛』、『無双仙人』と呼ばれていた。
+当主が答えた。
+その声の中には、非難というよりも自嘲の響きがあった。
+早朝の話である。『無双仙人』こと蘇湄がいきなり天穹峰へやって来て、
+副当主からの言付けを当主に伝える必要があると言ったのだ。
+ +姉弟子や兄弟子たちは師匠の逆鱗に触れるのを恐れ、
+誰も、蘇湄を連れて山を登ろうとはしなかった。
+ +そうこうしているうちに、無双門の当主はいなくなってしまったのだが……
+……まさか、既に拂雲観にいるだなんて、誰も思わなかっただろう。
+蘇湄は、過去のことにはまったく興味がなかった。
+林朝雨も理解していたが、まったく賛同できなかった。
+林朝雨は、目の前の赤髪の女性をじっと見つめた。[\s]
+彼女はかつて、自分の妹であり、親友であり、仲間であり、恋敵であり、敵でもあった。一度決別した以上、死ぬまで関わることはないと思っていた。
+心臓がバクバクと鼓動し、服には冷や汗が滲んでいた。
+少女は無意識にそばの布袋に手を伸ばし、軒轅剣を握りしめる。こうしていると、少し安心できた。
+彼はずっと、大きくて重そうな棺を持ち歩いている。彼は時折、棺に向かって何かを呟いていて、そのたびに素裳は不快な思いをしていた。
+長い沈黙だった。
+素裳が次の話題を探そうと考えた時、羅刹人が急に口を開いた。
+金の鎖が光る。李素裳は、たちまち体から力が抜けていくのを感じた。内功がなくなってしまったのだ。
+しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐにまた元に戻った。
+李素裳は腕を組んで首を傾げる。無意識のうちに、唇を軽く噛んでいた。[\s]
+羅刹人の話を信じていないわけではない。ただ、様々な用語によって、頭が混乱してしまったのだ。
+遠く離れた、彼女には想像もできないような西域の祖国が恋しいのだろうか?[\s]
+それとも、誰かを懐かしんでいるのだろうか?
+彼女はふと気付いたのだった。この羅刹人を連れて師匠の元に戻ったら、彼とは別れることになる。[\s]
+彼と一緒にいる時間はもう半日ほどしかないだろう。短い、とても短いのだ。
+馬の方は血の色の汗をかき、蹄は黄金だった。細い頭と長い首、赤褐色の体に赤いたてがみが特徴的で、背中は細長い。[\s]
+一日に千里以上を走ることができ、蹄が砂を踏んでも足跡は残らず、平らなままだった。
+男の方は修行を積んだ者のようだった。大きな体に長い髪、短い髭を生やし、引き締まった筋肉をしている。[\s]
+顔には剣による大きな傷があり、整った容姿を台無しにしていたが、豪傑らしさを損ねることはなかった。
+この男と馬は息が合っていた。主従の関係を超えた、長年来の親友のようだった。
+中原でこの奇抜な組み合わせを遠くから見かけると、武術界の者たちは心の中で罵詈雑言を浴びせる。しかし、表面的には拱手の礼を取り、笑顔を浮かべながら「馬副当主!」や「馬さん!」と声をかける。
+それは、彼が精衛真人門下の中で唯一の男の弟子であり、
+七剣の六番弟子、
+広く名を馳せている天穹峰太虚剣派の副当主、[\s]
+ +『逐駒剣』――馬非馬だからである。
+表向きには、彼はいくつもの肩書を持っている。名も轟いているため、武術界の者なら誰もが彼と知り合いになりたいと思っていた。
+しかし裏では、人々はこの馬非馬を、『異常者』、『狂人』、『変人』、『殺しても死なない馬非馬』などと呼んでおり、実際に彼に会うと、誰もが頭を痛めながらも友好的な会釈をしていた。
+実のところ、彼と親しい付き合いをしたいと思っている者など、どこにもいない。
+何故なら、馬非馬は武術に優れているだけでなく、その行いが非常に傲慢だからである。
+太虚剣派の副当主という肩書を持ちながらも、馬非馬は一匹狼の豪傑だった。
+ +太虚剣派の門弟でも、彼に会える機会は年に数回もない。彼は妻である林朝雨よりも、愛馬『夜血』と過ごす日の方が多いのではないだろうか。
+天穹峰にいる時の馬副当主は穏やかで礼儀正しく、謙虚に振舞う。
+しかし山を下りた途端に別人のようになり、どんな喧嘩や挑発も受けて立つ。
+相手が名家だろうと、王侯貴族だろうと、馬非馬は一切お構いなしだった。
+正義のために戦う?悪を駆逐する?
+逐駒剣にそのような大義名分は必要なかった。
+喧嘩したい時に喧嘩をし、戦いたい時に戦う。
+剣を使いたければ剣を使い、拳を使いたければ拳を使う。
+助けたい人を助け、殺したい人を殺す。
+すべては心の赴くままなのだ。
+そのため、武術界の人々は彼を恐れて避けている。彼の起こした騒動のために、太虚剣派の当主、林朝雨が奔走することもしばしばだ。
+ +彼の敵は各地におり、誰も公然と太虚七剣の怒りを買おうとはしないが、裏で彼の首に懸賞金をかけている者は少なくない。
+それらに対する馬非馬の態度は「来るもの拒まず」だった。
+「俺を殺したければ来るがいい。いつでも相手をしてやろう。
+俺が少しでも逃げれば俺が腰抜け、俺を殺せなければ、お前が役立たず。ただ、それだけの話だ。」
+彼を殺しに来る者は本当に後を絶たない。
+待ち伏せ、陰謀、罠、毒、色仕掛け、決闘、試合……
+あらゆる技を使ったが、それでも馬非馬は死んでいない。恐ろしい傷痕が無数に残されてはいたが、彼はピンピンしていた。
+酒が腹に入り、男の涙に変わる。
+涙は簡単には流れず、孤独な夜に大雨となって流れる。
+人々が真実だと思っていることは、世の中で最も大きな嘘であった。
+ +馬非馬には自由などなかったし、自由を好んでいたわけでもなかった。
+師匠が生き返ったことを知った馬非馬は、夜を徹して急ぎ、無双門へと向かっていた。
+このことを、真っ先に蘇湄に知らせるために。
+[em italic]しかし、昔とはもう違う……[/em]
+両目が溶けそうなほど熱くなり、彼は、何年も前に口にした言葉を彼女に言いたい衝動に駆られた。
+蘇湄は目の前の男を見た。まず彼の目を見て、次に彼の喉、そして手を見た。[\s]
+彼女の視線は彼に大きな喜びを与え、そして、話す勇気を与えた。
+馬非馬は黙っていた。彼女の言葉が彼を黙らせていた。[\s]
+なぜなら、『無双』こと蘇湄の言ったことは、いつも本当になるからだ。
+馬非馬は俯きながら、蘇湄の言葉の意味を反芻していた。
+蘇湄がそう言った以上、何らかの意図があることは分かっていたが、彼には理解できなかった。
+しかし、蘇湄とは知り合って三十年以上になる。
+賢い女性は、男に説明する行為が好きではないことも分かっていた。
+潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
+潮が満ち、[\s]潮が引く。
+目の前にあるのは、何万年もの時間をかけても見終わることのない知識の宝庫だった。[\s]
+偽りの体がある場所は、普通の肉体では決して入り込めないデータの海だった。
+潮が満ち、潮が引く。
+情報の波が男の意識に押し寄せて来る。何度も、何度も。[\s]
+彼は必死に、意識を保とうとした。
+この大海原には、言葉にできない情報が浮き沈みしている。
+男が掴み取れるのは、百億分の一の断片に過ぎない。
+そして手にした情報のうち、使えるものはほとんどない。[\s]
+ +長い時間をかけ、緻密な選別を行わなければ、
+無限の知識を持っていても、愚人と何ら変わらないのではないだろうか?
+だから彼は探し続けている。
+知られざるどこかで、かつて倒した相手――「虚空万象」の本体が彼の肉体を欲しがっている。
+無限の知識は彼をおびき寄せるための餌であり、気前のよい贈り物は彼を倒すための武器だった。
+「それ」は男が気を緩めるのを待っていた。男もそれを知っていた。
+彼はそれでもなお、探し続けていた。
+探すことを止めなかった。
+それはすべて、あの人を救い出すため――
+そのためなら、苦労が何だというのだろう?[\s]
+危険が何だというのだろう?[\s]
+時間が何だというのだろう?
+永遠も……何だというのだろう?
+潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
+潮が満ち、[\s]潮が引く。
+男の意志が揺らぐことはなかった。
+潮が満ち――
+彼はなおも探し続けている。
+突如、押し寄せてきた感情が少女の心を押さえつける。
+一瞬の驚き、後悔、苦痛の下に、絶望的なほど強烈な殺意が隠れていた。
+魔に堕ちた者は死すべし――
+それは、幼い頃から母や師匠がしつこいほど彼女に教え込んだ掟である。太虚一門の使命であり、特に禁忌のない『自在門』で、唯一の鉄の掟だ。
+そうだ。彼女は彼のことをそう呼んでいた……[\s]
+記憶の中の少女は手を後ろに回して立っている。銀色の髪がそよ風に吹かれて、なびく。
+その声はいまだに耳に残っている。まるでその瞬間で時が止まり、二度と進まなくなっているかのようだった。[\s]
+しかし、それは三十年以上も前のことなのだ。
+虚空万象との戦いよりも、過去の思い出から離れることのほうが遥かに大変だ。だが、それを理解できる者はいないだろう。
+かつて天命と神州が戦った際に、羅刹人は気付いていた……[\s]
+ +奥深く、理解し難いエネルギーである『真気』だが、同じものである筈なのに、東洋と西洋とで使い方に多くの違いがあった。
+彼はそれをとても不思議に思っていた。
+西洋では真気を疫病と見なし、その汚染から逃れようと必死になっている。
+しかも、それに対抗するために、様々な技術を発展させてきた。[\s]
+ +しかし、東洋人はそれを受け入れ、利用している。
+自らを強化するための力にしているのだ。
+天命と比べ、神州の科学技術は確かに遅れている。
+ +しかし、真気に対する理解は東洋の方が全体的に優れていた。
+……どうしてこのような違いが生まれたのだろうか?
+彼はそう言ったものの、実は考えがあった。彼の異常を引き起こしたのは天命の秘宝「黒淵白花」の本体だ。[\s]
+ +模造品を使って逆行させるやり方など、自分の力では絶対に不可能である。最終的には、やはり東洋人の不思議な武術に頼るしかない。
+窓の外は、まだ暗い。だが、凌霜はすでに目を覚ましていた。
+彼女はいつも、この時間に目を覚ます。早過ぎることも、遅過ぎることもない。
+桶に水を汲み、髪をとかして着替えると、彼女は寝台の上で座禅を組んだ。
+剣心訣の黙読を始める。一度始めると二時間は続き、雷が鳴っても止めることはない。
+そして立ち上がり、ほうきで床を掃く。部屋を綺麗に掃除すると、
+近くの市場で小麦粉を焼いた生地と羊肉を買う。[\s]
+水を使い切った場合は、隣の井戸で水を汲む。
+朝食を終えると、凌霜は古い織機の前に座り、機織りをする。
+以前は、満足のいく織物を一日で織ることができた。
+弟子として素裳を迎えてからは、その速度は大幅に遅くなった。[\s]
+遅ければ一週間、早くても四日はかかるようになったのだ。
+李素裳は自分が出ていった後、
+師匠が空いた時間に何をするのか、どのような修行をするのか気になっていた。
+十年近く一緒にいたが、素裳は、
+師匠が空いた時間のほとんどを古い織機の前で過ごすとは思ってもいなかっただろう。
+はじめ、機織りは修行とまったく関係がなく、
+ただ生計を立てるための手段でしかなかった。
+しかし、凌霜にとっては全てが繋がっていた。機織りと武術に共通点があるのだろうか?
+いつの間にか、凌霜にとっては機織りも、剣心を鍛え、武術を磨くための手段となっていた。
+剣の道にはあらゆるものが含まれており、剣自体も拠り所に過ぎない。
+ +立つ、座る、寝る、着る、食べる、暮らす、動く……生活のあらゆるところに、武術の道が隠されている。
+ +一挙手一投足のすべてが武術の修行であり、不動の静寂もまた剣の鍛錬だった。これこそが、『渾然天成』。
+そして素裳の師匠、精衛の五番弟子、『自在剣』こと凌霜は――[\s]
+まさに渾然天成の人、天下無上の剣と言えるだろう。
+凌霜はというと、ただひたすら剣心訣を黙読し、機織りをする毎日を繰り返していた。[\s]
+彼女がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、誰も知らなかった。
+……こうして、李素裳が試練のため外に出てから八日目。[\s]
+凌霜が織機の前に腰かけていると、突然遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
+金砂会の最も上等な二頭引きの馬車が、飛ぶような速さで走っていた。
+ +李素裳は馬車の荷台に肘をかけ、鼻歌を口ずさんでいる。機嫌はすこぶる良い。
+「羅刹人、神通力を使うのはやめたら?ほら、風に吹かれるのって気持ちいいでしょ。」
+疾走する馬車が強い風を起こす。素裳の編んだ髪の毛が二本の黒い小川のように流れていた。
+一方、羅刹人は目に見えない空気の障壁で自分の周りを何重にも囲んでいた。[\s]
+法器「虚空万象」が作り出した領域の中で、男の長い髪は静止している。その顔も穏やかで落ち着いていた。
+「暑いよ。でも、砂漠ってこういうものじゃない。」
+「……ふむ。」
+「嫌なの?もう、ごめんね。あんたが馬車を……あんな風にするから。」
+一日目に羅刹人が使った変幻の奇術は、簡素なものだった。
+しかし、二日目に彼が使った奇術は、素裳の許容範囲を超えていた。
+その馬車は丸く、デコボコしており、鮮やかな橙色がとても目を引いた。
+羅刹人は「カボチャ」というのだと口にしながら、さらにそれを見つめ、頷きながら微笑んでいた。
+「それに、あんたは傷を負っているんだから。危険を冒して奇術を使わないでよ……
+……こうやって乗るのも悪くないでしょ!」
+素裳は、羅刹人が残りわずかな内功を使い果たしてしまうのではないかと本気で心配していた。
+しかし、羅刹人は風に対して、深い恨みでもあるかのようだった。
+ +彼はオンボロの馬車に乗ることは承諾したが、身だしなみをきちんと整え、上品さを保つよう気を配っていた。無造作に垂れているように見える金髪だったが、一本たりとも風に吹かれないようにしている。
+「……あんた、そんな能力があるのに、どうして捕まって地下牢に入れられていたの?
+いくら考えても納得がいかないんだけど。」
+「捕まった?僕は『鷹』の招待を受けて、彼らの集落に客人として滞在していただけさ。」
+「……客人?」
+「……場所は少し変だったけどね。」
+「……あんた、神州語を誤解していたんじゃないの?」
+李素裳は困ったように頭をかいた。
+「そんな話し方をする人なんていないよ。『鷹』はどういう風に言ったの?」
+「ここは俺のものだ。
+そしてお前も俺のものだ。
+出てこい。
+ついて来い。
+小細工はするな。」
+「……羅刹人、あんたの解釈はお人好し過ぎるよ……」
+「仕方ないさ。君たちの言語は複雑すぎるんだ。」
+「もう、あんたと話すのは危険すぎるよ。
+どの言葉も落とし穴みたいで、アタシが穴に落ちる姿を見て笑うのを待ち構えているみたい。」
+「そうだ、天命派のことをもっと話してよ。」
+「えっ?」
+「いや、やめよう。本当に頭が疲れるんだ……」
+「えー――」
+「それは何日か後にしよう。もう少し整理させてくれないか……
+日を改めて聞かせてあげよう。」
+「だけど、家までまだかなりあるよ。お喋りしなかったら退屈だよ。」
+「それじゃあ、君が話してくれないか?あの仙人のことについて話してみてはどうだろうか?
+確か、君は精衛と関係が深いと言っていたが。」
+「関係が深いのは師匠やアタシの母さんだよ。アタシは……仙人に会ったことがないの。」
+素裳は頑張って思い出そうとした。
+「本当だよ。アタシは会ったことがないの。父さんも母さんも、仙人について話したことはなかったから。
+精衛真人のことは、乳母から話してもらっていただけなの。」
+「仙人は世界で唯一、何千年も生きてる不老不死の本物の仙人だって言ってたよ。」
+ +「三界を超越する無限の神通力を持っていて、片手で神州を平定し、剣一本で天下を平定するんだって。」
+ +「神州の守護者として、彼女は数えきれないほどの妖魔や魔物を倒してきたの。」
+「朝廷は彼女を上仙に任じようとしたらしいんだけど、
+でも、彼女は政治や王朝の交替に興味はなかった。
+それでも新たな皇帝が即位するたびに、彼女に挨拶するために太虚山へ行こうとしたの。」
+「仙人に会えたら、寿命が延び、王朝が栄えると言われていたからね。」
+ +「一方、仙人に会えなかった君主は、志半ばにして崩御したり、王朝が変わってしまったり、良い末路を辿れなかったんだって。」
+「――大体こんなところかな。他にも色々聞いたけど、忘れちゃったよ。」
+「ふむ……」
+「実例って……邪教の聖主、閻世羅を倒したこととか?目に見えない剣で璃島の妖獣を倒したこととか?
+どれも巷の言い伝えばかりで本当かどうか分からないよ。
+どんな例を聞きたいの?乳母もあまり話してくれなかったから……」
+「たとえば……」
+「仙人が無限の神通力を持っていて、三界を超越しているのなら、人を蘇らせることもできるのかい?」
+「人を……蘇らせる?」
+男の目は李素裳をじっと見つめているが、彼の目に映っているのは彼女ではなく、彼女の横にある、何か巨大なものであった。その巨大なものは光り、熱を発しており、彼の視線も熱を帯びて明るくなり始める。
+「わ、分からないけど……」
+素裳は熱い視線から逃れ、彼の前に置かれた棺をチラリと見た。
+ある考えがパッと閃く。突然、何かが分かったような気がした。
+「あんた……誰かを蘇らせたいの?」
+「ああ。」
+羅刹人は口を開いたが、出てきたのはまったく意味を持たない言葉だった。
+言葉が消え、彼の目つきも暗く、冷たくなった。光と熱が一瞬の間に空中へと散逸する。
+素裳のそばにいたのは、時折悲しげな表情を見せつつ、冗談も言う、これまで通りの異邦人だった。
+「そうか。だから仙人を探してたんだね!……仙人に誰かを蘇らせてもらいたいんでしょ?」
+「その通り。」
+羅刹人は視線を下に向けた。
+「誰でも、こういった願望を持っているものさ。普通だろう?」
+金髪の男が優しそうな笑みを見せる。
+「彼女を蘇らせてほしい。ただそれだけなんだ。単純な話さ。
+だが、願い事が単純であるほど、叶えるのは難しくなる……」
+「あぁ……」
+李素裳はまだ十五歳だった。これまでの人生で愛された時間は短く、ましてや誰かを愛したこともない。そのため、羅刹人の言葉に込められた気持ちを理解することはできなかった。
+「十九年……」
+「ほんの一瞬さ。僕には時間があるからね。彼女も同じだよ。」
+李素裳は、自分のことを言っているのだと思い、少し呆然とした。
+[em italic](仙人は本当にあの人を蘇らせることができるのかな?)[/em]
+羅刹人が伝説の仙人に対して、これほど大きな希望を抱いているとは思いもしなかったからだ。彼を師匠に引き合わせ、仙人に会う方法を師匠が彼に教えれば済むと考えていたのである。難しいことは何もないはずだった。
+しかし、今の李素裳は、他人の願望の中に勝手に入り込んでしまっていた。
+以前は気にしていなかった言葉も、彼女の琴線に触れ続けている。[\s]
+彼女はただ……いや、彼女自身にも、はっきりとはわからなかった。
+「そうだね。うん、戻ってくるよ!」
+彼女は何度もつかえながら言葉を続けた。彼に元気になってもらいたいと、心の底から思っていた。
+しかし、恥ずかしさが邪魔してしまい、どうしても上手く言えず、声もだんだんと小さくなっていく。
+「願いは……きっと叶うよ。」
+「……」
+羅刹人は口角を上げ、かすかな笑みを浮かべた。
+「ありがとう、素裳。」
+李素裳は呆然とした。そして、自分もおかしな笑い方をしていることに気付く。
+彼女は慌てて口をとがらせ、視線を逸らす。
+偶然にも、その大男も李素裳と羅刹人をチラリと見た。
+それは何気ない一瞥だったが、一瞬、何かに目を止めたかと思いきや、目つきを鋭くした。
+「……まったく。」
+それは、突然襲いかかってきた男が、彼女のよく知っている技を使ったからだった。
+その技は太虚剣気「開剣形」の「岩破」だった!
+――それは太虚五蘊の最高境界ではないか。
+彼女が知る限り、世界でそれを会得しているのは師匠だけだ……
+体つきは長身で細身、整った顔立ちをしているが、見てくれだけで中身は大したことはなさそうだった。呼吸は基礎もできておらず、武術も平凡そうに見える。[\s]
+ +しかし、馬非馬はよく分かっていた。この者は見た目とは違い、一筋縄でいく相手ではない。
+剣心を使って見てみると、彼の体内の真気の動きは極めて不自然だった。[\s]
+ +普通の人間が内功を流す、奇経八脈の中が空っぽのようなのだ。
+だというのに、手の三陽三陰の真気は暴走しそうなほど勢いがある。
+先ほど彼が剣で馬車を停めた時にも、この羅刹人はとても不思議な反応を見せた。
+ +手足を動かしていなかったのに、ひっくり返った馬車の影響を一切受けていなかったのである。まるで、宙を浮遊するかのように。
+馬非馬は信じられなかった。
+ +金髪の男は、極めて優れた内功の使い手であることを隠しているのだろうか。それとも、怪しい武術の使い手なのだろうか。どちらかではあるのだろうが、と馬非馬は考える。
+それにこの者の両目は……
+ + +とても若い顔立ちをしているが、それにまったく釣り合わない、奥深い目をしている……
+馬非馬の脳内に、注意を促す囁きが聞こえてくる。[\s]この羅刹鬼は俺を殺せる人間だ。
+[em italic](本当か?……この男にできるのか?)[/em]
+胸の中で、重い苦しみと渇望が激しい渦を巻いていた。
+馬非馬は目を閉じる。[\s]
+ +死。[\s]
+ +夜気の中で咲き誇る花のように、死という刺激が心に広がっていき、あっという間に全身の寒さをかき消した。
+[em italic](いいだろう……お手並み拝見といこうじゃないか!)[/em]
+馬非馬は自分にそう言い聞かせる。[\s]
+ +囁きは彼の言葉を受け入れ、ひとまず衝動を抑え込んだ。
+そして、待ち切れないとでもいうように主人の号令を待つ。
+[em italic](こっちの女は……)[/em]
+馬非馬は急に嬉しくなる。
+この中途半端な太虚守剣形から、二十年前に姿を消した上品な女性の姿がぼんやりと見えるようだった。
+その歳月は彼にとって懐かしくもあり、心が痛むものでもあった。
+ちょうどその時、羅刹人が口を開いた。
+とても小さな声だったが、馬非馬のかすかな感慨を台無しにするには十分だった。
+傷だらけの男は思わず満面の笑みを浮かべた。[\s]
+彼の顔にある剣の傷痕が、まるで炎が燃え上がるかのように赤くなる。
+好奇心が再び勢いを増し、抑えきれない衝動に変わった。
+また耳元で囁きが聞こえる。「この男こそ、俺を殺せる人間だ。」
+果てしなく広がる黄砂が、太陽に照らされている。
+目に見えない気の波とともに、汗が噴き出るほどの熱気が押し寄せてくる。
+しかし、目の前の男が放つ冷たい殺意に、李素裳は寒気がした。
+上がる口角と共に赤い古傷が動く様子は、やや不自然だった。しかし、彼は楽しそうに屈託のない笑顔を見せている。
+男は笑い終えると、表情をやや和らげた。
+――突如、異変が起こった。
+激しい殺意が急に空を覆ったかと思うと、すぐさま跡形もなく消えてしまったのだ。[\s]
+まるで、目の前の人物の形跡が世界から消えてしまったかのようだった。
+無意味な感情や価値のない思考を捨て、
+欲望、怒り、邪念、憎しみを捨て、明鏡止水のような空虚さを保つ。
+それこそが太虚剣心であり、精衛真人が生み出した神業なのだ!
+「百里逐駒」こと馬非馬……
+数歩ほど後ろに下がった羅刹人は、顔を上げて馬非馬を見つめた。
+彼は何も言わず、その目は虚ろだった。
+目の前の敵は、決して力を抜ける相手ではない……
+全力を出したとしても、必ず勝てるという保証はない。
+何しろ――彼は太虚剣派の六番弟子、師匠と同等の腕を持つ最高の使い手なのだから!
+[em color=#FAFAD2](もう。人生初の決闘から数日も経っていないのに、また戦わないといけないなんて。)[/em]
+しかも相手は武術界最強の七人の中の一人……
+[em color=#FAFAD2](まさに本に書いてあった通りだね、武術界ってとこは、海のように深い。)[/em]
+李素裳は心の中で意味のない嘆きを呟くと、それを原動力にし、溢れんばかりの闘志に変えていった。
+心は穏やかで波風一つなく、透明で、澄んでいた。
+これは馬非馬の「止水」よりも高い境界だった。
+剣心・明鏡。
+三日前の素裳であれば、この技に対して為す術もなかっただろう。
+心は鏡のように澄んでおり、外界のものを映し出している。
+ +馬非馬の動きは彼女の澄み切った心の湖に落ちると、煌めき輝く波のように緩慢な動きになった。
+ +虚空に入った瞬間、彼女は男の技を見切るだけでなく、すぐさま最も適した返し技を繰り出した。
+素裳は躊躇うことなく右手を動かす。
+布に包まれていた軒轅が空を舞った。
+ +剣身が回転し、刃が寸分の狂いもなく男の手の平に向けられる。
+[em italic]――技を止めて![/em]
+李素裳はそう祈った。
+しかし、男の掌打は躊躇うことなく、真っ直ぐと軒轅に向かってくる。
+鉄をも切り裂く神剣ではなく、脆い竹竿を相手にしているかのように。
+強い箇所を避けて虚を突く。防御力が最も高く、硬いものを逆手にとって弱点へと変える。
+ +――太虚開剣形の「震風」は、まさに真気を巡らし、強烈な振動を引き起こす不可思議な技だった。
+無防備な状態で掌打を受けた素裳は、表面はそこまでではなかったものの、内臓に重い傷を負っていた。
+最も衝撃を受けたのは頭部だった。今も、激しい衝撃の余波が残っている。
+捻じ曲がった世界の中で、彼女の目が捉えられたもの。
+それは、羅刹人の翡翠のような目だけであった。
+一撃。[\s]
+馬非馬はたった一撃で勝利した。それでも、顔に喜びの色はなかった。
+掌からは命中した手応えが伝わってくる。
+馬非馬は思わず羅刹人の方を見たが、無反応で失望する。
+無反応……そうだ。
+羅刹人は素裳を注視していた。まるで、石や砂粒を見つめるかのような目で。
+落胆の感情が俄雨のように押し寄せてくる。
+冷雨のような感情が頭から足先まで降り注ぎ、馬非馬をその冷たさで包み込んだ。
+馬非馬はこの金髪の男が気に入らなかった。それは、本質的な拒絶と嫌悪感だった。
+例えるなら、この羅刹人は世界の外で孤立し、浮いている氷のようなものだ。
+ +何も必要としておらず、何も気にしていない。たとえ世界が滅んだとしても、いつまでも漂い続ける。
+一方の馬非馬は――炎のような存在だ。
+世界は煙で、馬非馬は燃え盛る炎だった。
+ +彼が燃えているからこそ、この世界は存在している。
+強烈な感情、爆発的な衝動、破壊的な戦いこそが彼を存在させている。
+そして、その虚ろでぼんやりとした存在の中から、己のかすかな断片を見つけるのだ。
+それらの断片こそが、人生の意義。
+それは間違いなく、本物の古剣・軒轅だった。
+精衛真人が七人の弟子に授けた宝物だ。
+馬非馬は自分の力をよく分かっていた。彼は内勁をほぼ抑えていた。重傷を負うことはあっても、命に別状はないだろう。
+それでも無視できるほどの傷ではないはずだが。
+十六歳で剣心を「明鏡」の境界にまで鍛え上げた……
+七剣の中でもこの才能を上回るのは、十三歳で「太虚」を会得した凌霜くらいだろう。
+少女の鼻先から血が滴り落ちた。
+李素裳が顔を上げる。その目は焦点が定まっていなかった。
+馬非馬は、このような表情を何度目にしてきたことだろう?
+二十年もの間、大勢の人が彼の命を狙いに来た。
+多数の英雄、豪傑、優れた若者が彼に挑んだ。
+ +そのほとんどがこうだった。
+僅かな勝ち目すらなくても、最後まで諦めず、生死を分ける一瞬の可能性に賭けていた。
+しかし、馬非馬はそれが嫌いなわけではなかった。
+それどころか、彼を夢中にさせていた。
+何故なら……この霧に包まれたかのような世界で、馬非馬は孤独であったからだ。
+たった一度だけの縁でも、今後二度と会うことがなくても――[\s]
+ +挑戦者が自らの命を燃やし、存在を証明しようとする姿を見ていると、己が世界に認められたように思えるのだ。
+馬非馬は、そうした人の形をした霧が自分を包み込んでくれるような気がしていた。生きているという実感を与えてくれるのだ。
+だから彼は、いつも戦いの相手に機会を与えていた。
+だから、[\s]
+ +彼は、いつも自分が殺されることを望んでいた――
+素裳は軒轅剣を拾うと、じっとそれを見つめた。[\s]
+馬非馬の言う通りなら、自分の軒轅剣はどうして変化しないのだろうか?
+少し残念だった……しかし、それも事実なのだろう。
+一口、苦い血を飲み込んだ。喪失感、羞恥心、悔しさ、悲しみも共に呑み込む。
+大丈夫。素裳、二度目の試練の機会でしょ?
+彼女の体はまだ震えていた。止まらなかった。特に、両足が震えていた。[\s]
+しかし、彼女の瞳……彼女の視線は力強かった。それは――
+「生きていくの。」
+その声は、李素裳の心の湖で反響した。
+湖面に波はなく、まさに止水であった。
+「ちゃんと生きていくの。」
+心の湖に声が響き渡る。
+澄んだ風、そして、塵や埃も止まる。
+「約束して……」
+声が……響いている。
+心は鏡のように大地を映し出す。
+何故剣意が成っていなかったのか?もう疑うことはない。[\s]
+何故剣意が成っていなかったのか?もう悔やむことはない。[\s]
+何故剣意が成っていなかったのか?もう執着することはない。
+悩みはすべて捨て去り、剣に集中する。[\s]
+剣という人を殺める武器を使い、[\s]
+剣術という人を殺める術を使う。
+敵を殺し、生き延びる。
+素裳の頭にあったのは、それだけだった。
+何と皮肉なことだろう。目的はかくも単純だったのだ。[\s]
+しかし彼女は回り道をしてしまった。遠い回り道を。
+剣の柄を握りしめると、安心した。
+今、彼女が頼れるのはこの古剣軒轅だけだった。
+目尻の血や口元の汚れを拭う。
+そして少女は剣を手にした。
+いかなる剣の構えもとらなかった。しかし、
+啓、化、守、開。
+飛鶻、玄隼、[\s]雨燕、藤雀、[\s]雲鷹、月鷺。[\s]
+垂柳、幽蘭、勁竹、[\s]墨菊、浄蓮、青松。[\s]
+岩破、乱雷、霹靂、山崩、瞬塵、震風。
+まるで、太虚四形二十一式が手の中で自由に声をあげ、呼べばいつでも出てくるかのようだった。
+応じる?
+馬非馬の言葉が素裳の頭の中を横切ったが、彼女はもう気にしていなかった。
+「赤絶影」――[\s]
+ +剣の長さは五尺九寸。古剣・軒轅は、剣意を感じ取り変化する。
+ +――それが馬非馬の持つ、世界で二本とない神剣だ。
+「山崩」――[\s]
+ +太虚開剣形第四式。左手の五指から人差し指と中指を突き出し、守剣「幽蘭」の構えをとる。
+ +右手に持った刃を肩に担ぎ、剣で寸勁を放つ。その威力は山をも砕くほどだ。
+しかし、この技には弱点があった。[\s]
+馬非馬のような達人でも、剣の構えを整えてから技を出すまでの間に、力を溜めるためのほんの僅かな時間が生まれるのだ。
+しかし、同じように太虚剣心を修練する者である李素裳が、その隙を見抜けるかどうかは分からなかった。[\s]
+……しかし、馬非馬は技の使用を避けることも、隠すこともしなかった。
+……化剣にすることもしなかった。[\s]
+守剣にもしなかった。
+生死や勝敗など気にしていない。馬非馬はただ、この瞬間だけを生きていた。
+その心の中に残されているのは「山崩」だけだ。
+技が放たれた![\s]
+巨剣「赤絶影」は山をも崩すような勢いで砂の竜巻を起こす。
+技が放たれた![\s]
+素裳の軒轅が真っ直ぐ伸びた。それは「瞬塵」だった!
+守剣でも化剣でもなく開剣だ!
+開剣対開剣――[\s]
+気が剣から放たれ、躊躇いもなく相手に向かっていく!
+命を懸けて捨て身の攻撃を繰り出したのだ。素裳は、相討ちになる覚悟を決めていたようだ――[\s]
+しかし、実際、そうはならなかった。
+緑の両目は虚ろだったが、自分の方をしっかりと見つめていた。
+その刹那……李素裳は、完全に彼のことを信じていた。
+そして羅刹人が手を貸してくれれば――
+絶対に負けない!
+そんな考えに基づいて作り上げたあらすじだったが、勝敗を決する時が来た。
+全力を剣に投じている二人の後ろで、羅刹人が左手を上げる。
+黄金の十字架がどこからともなく彼の手の中に現れ、燃え上がるように消失した――[\s]
+それは天命派の三大至宝の一つ、「誓約の十字架」だった!!!
+古代の神の遺産である法器が再び姿を現した!
+目に見えぬ鎖が馬非馬に向かって飛んでいき、彼を縛る!
+目標……固定!
+真気……禁戒!
+ちょうど三日ほど前の夜にあった、李素裳と「鷹」の死闘の光景が再現される。[\s]
+突然、馬非馬は動悸がした。真気が消え去ってしまったのだ。
+彼は手を緩めて剣を放した![\s]
+――しかし、山崩の勢いは最高潮に達し、もはや止められない。
+真気を封じられても関係ないのだ![\s]
+大剣「赤絶影」が勢いよく前に飛び出していく!
+内功を失ったとしても、彼は太虚剣派の六番弟子、百戦錬磨の馬彦卿だ!
+シャッ――[\s]
+そして[\s]
+ドーン――
+軒轅は馬非馬の頭頂部をかすめ、彼の髪の毛を何本か切った。[\s]
+赤絶影は素裳の真横を飛んだ。彼女の幼い体は大きな力に吸い込まれて後ろに引きずられ、地面に倒れる。
+馬非馬は、勝った。彼が使った技は確かに「山崩」だけだった。
+しかし、馬非馬は敗れもした。彼が「山崩」を使ったのは一度だけではなかったからだ。
+李素裳の「瞬塵」は最も速く、最も精度の高い開剣の技だった。
+「瞬塵」を使っていなければ、素裳は赤絶影の山崩を前にして、馬非馬の脅威となることはあり得なかっただろう。
+それは運によるものだろうか?いや、そうではない。[\s]
+技を見て分析する能力が卓越していたのだ。[\s]
+つまるところ、実力に大きな開きがあったのである。
+今回もまた、生死を懸けた決闘となった。[\s]
+馬非馬はゆっくりと振り返った。[\s]
+相手は、全力を出すだけの価値がある。
+[em italic]あぁ、よかった!この男は血も涙もない人形ではなかった。
+冷たい氷のようにに見えるが、燃え盛る炎があった![/em]
+内勁のまったく込められていない拳が羅刹人の頬を打った。
+羅刹人はその意図を察してはいても、避けたり防いだりしようとはしなかった。
+羅刹人の体が砂漠に倒れる。
+彼は、よろよろと立ち上がった。
+馬非馬の笑顔が固まった。
+[em italic]何故?[/em]
+このような驚きは、もう何年も味わっていなかった。
+[em italic]どうしてこんなことが?[/em]
+長らく封印されていた感情が蘇ってきた。
+羨望、
+嫉妬、
+自己欺瞞、
+狂喜、
+悔恨……
+……そして、懐かしさ。
+[em italic]どうして……こんなことが?[/em]
+目の前の羅刹人の手の中で炎が集まり、剣となっている。その剣と共に、あらゆる感情が胸に押し寄せ、止水無塵の剣心を打ち砕いた。
+馬非馬は自分の目が信じられなかった。
+目の前にあるのは、「赤絶影」のような目くらましではない。
+火炎の剣だ。
+ほんの数秒前まで、羅刹人の手には間違いなく何もなかったというのに!
+だとすれば……この真気が集まり、できた火炎の剣はどこから来たのだろうか?
+「剣神……」
+馬非馬は呟く。
+このような武術は、馬非馬の知る限り一つだけだった。
+太虚剣気第五蘊「神蘊」。
+神が剣に変わり、自ずと剣気が生まれる。
+精衛真人と凌霜しか会得できなかった最高の技だ。
+今この時、金髪の羅刹人の手中に現れた。
+完全な衝撃が、馬非馬の剣心を粉々にする。
+沸き起こっていた闘志は、剣心の欠片を別の剣心へと変えた。
+止水でも無塵でもない。
+それは
+喜悦
+興奮
+快楽
+満足
+期待
+渇望
+幸福……
+「覚悟はできたかい?」
+羅刹人が尋ねた。
+ +金髪の男が真紅の長剣を手にしている。その剣身は炎が燃え盛っている。
+剣を持つ手は火に包まれ、黒く焦げていた。
+「覚悟はできたかい?」
+――この男は、閻魔の使いのようだ。
+ +馬非馬は頷いた。もう自分が何を言ったかも覚えていなかった。
+どれくらいの時間が経ったのだろう?師匠の精衛が彼の顔に剣による傷を残してから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか?[\s]
+ +これほど恐ろしい脅威に出会ったことはなかったし、閻魔をこれほど近い距離に感じたこともなかった![\s]
+ +こんな、燃え尽きる寸前の窮地に立ったこともなかった!
+さあ、来い!
+来るがいい、羅刹鬼!
+全力でお前の剣を受けてやろう!
+周囲の真気が馬非馬の全身の経穴に入り込む。
+体は耐えられるだろうか、肉体にどれほどの損傷があるのだろうか。そんなことはどうでもよかった。
+ただ、目の前の剣を受け止めるだけだった!
+羅刹人が剣を振るった。剣光が空気を横切り、ジャッという音を立てた。[\s]
+ +守剣形、化剣形……太虚剣気の最強の防御技が一つずつ馬非馬の脳裏を横切っていく。
+ +そして、当然のことながら、
+馬非馬はこの最強の剣の絶対的な破壊力を前にして、
+どのような防御も無意味であることに気が付いていた。
+剣とはこれほどまでに恐ろしいものだったのか。
+まるで赤い死神のようだ。
+命とはこれほどまでに純粋なものだったのか。
+ただの松明のようだ。
+今日が自分の命日だったのか。遅すぎることも早すぎることもない。
+それにしても、剣神に敗れるのなら、死んだとしても何の悔いが残るだろう?
+――――
+彦ちゃん
+――――
+蘇湄の笑顔が馬彦卿の目の前に浮かんだ。
+そして炎が浮かぶ。燃え盛る焔だった。[\s]
+それは、燃えて、燃えて、燃えて。
+――――――――そして
+――――――
+――――
+―――
+消えた。
+炎は消えた。
+一度は空まで昇った炎の光は、一度は金をも焦がした熱は、突然跡形もなく消えてしまった。
+それが痛みに変わった。痛みは胸と腹、肩甲骨、頭頂部からまとめて押し寄せてくる。まるで、洪水によって堤防が決壊したかのようだった。
+彼女に答えたのは激しい痛みだった。それらは頭の中で音を打ち鳴らし、その音と心臓の鼓動が混ざり、うるさくて眠れぬほどだった。
+……安心でき、いつもと同じだと思えるほど見慣れていた。
+あれ?
+ +馬非馬?
+……素裳の心の中に、同情のような悲しみが湧き上がってくる。
+熟睡している金髪の男には、神のように澄みきった優雅さがあった。
+しかし、今の彼は、起きている時よりも生身の人間に近いように思えた。
+ごまかすことも、隠れることもなく、過去の悩みも未来への執着もない。
+羅刹人はただ眠っているだけであった。普通の人とまったく変わらず、眠っている。
+もしかしたら……これが彼の本来の姿なのだろうか?
+彼女は太虚剣派の五番弟子であり、この百年間で精衛真人以外で唯一、最高の境界「太虚剣神」を会得した人物なのだから。
+二歳で武術を習い始め、十三歳にして太虚境界に到達した。「我をも忘れる至高の神剣」と呼ばれる絶世の剣客である。
+凌霜はこれまでの三十七年間の人生において、ひたすら剣を持ち続け、本当の意味で世間に足を踏み入れたことはなかった。
+挫折も失敗も味わわず、半端な願望や絆もない。
+常識、規則、論理、理性、世情……凡人を束縛するあらゆるものに対して、凌霜は気にも留めず、注意も向けなかった。
+素裳は羅刹人の黒くなった腕を見つめる。それはもう人の腕には見えなかった。
+しかし、彼女は彼が回復すると信じていた。そして、肉体を治療できる、あの「黒淵白花」を信じていた。
+素裳は身をもって体験したので、その不思議さを理解していたのだ。
+彼に十分な真気さえあれば……
+空には雲と夕焼けしかない。雲はいつもと変わらず、夕焼けも同様だ。
+しかし、馬非馬は真剣に見つめていた。
+何を見つめているかは重要ではない。重要なのは、待つことである。
+ +彼は待つのは嫌いだが、得意だった。
+ +この数十年、彼はいつも待っていた。
+馬非馬は少し驚いた。凌霜が弟子を取ったことは知っていたが、子弟への情と凌霜を結び付けて考えたことがなかったのだ。
+馬非馬の中では、凌霜は感情をまったく持っていないという印象であった。
+馬非馬は首を振った。それは彼が予想していた答えとは違っていた。
+手合わせは手合わせとして、彼にはもう一つの目的があった。それは少女が持つ、あの軒轅剣がどこから来たのかを知ることだった。
+この二十年、彼と互角の勝負ができる者はほとんどおらず、赤絶影を鞘から抜く機会もほとんどなかったのだ。
+彼は数え切れないほど危険な目に遭ってきたし、何度も死線を彷徨ってきた。しかし、この勝負は命を懸けた戦いではなく、彼がずっと夢見てきた武術の手合わせであった。
+気合いを入れる声を上げた瞬間、急に馬非馬の姿が二つに分かれた。
+これこそが太虚剣派六番弟子の剣意「赤絶影」だった!
+真気を軒轅剣に注入し、さらに太虚剣意で光を屈折させる。
+馬非馬は剣意の鍛錬を20年以上重ねた結果、今では光を利用して自由に鏡像を作り出せるようになっていた。
+夕方の荒涼とした中庭に、無数の「逐駒剣」こと馬非馬が現れた――
+同じような馬非馬が同じような赤絶影を手にしている。
+まるで一枚の鏡から無数の破片が中庭に降り注ぎ、どの破片も馬非馬の姿を映し出しているかのようだった。
+気合を入れる声とともに、剣の鞘『刃不破』は前方へと飛んでいった。
+鞘の先端が落雷のように落ち、空気が轟音とともに爆発し、中庭全体が揺れる――
+武術に関して、師匠の精衛真人を除けば、この世で凌霜と互角に渡り合える者などいない。
+天下の「太虚剣気」には、心、形、意、魂、神の五蘊がある。
+魂蘊を会得することは、剣の道に通暁することでもある。形に囚われず、あらゆる武器を剣のように使いこなし、あらゆる武器を剣のようにできるのだ。
+剣術の研究に専念していた一番弟子の林朝雨を除き、太虚剣派の六人の弟子はいずれも剣魂を会得していた。
+しかし剣神は――精衛真人以外で会得できたのは、千年以上経った今でも凌霜ただ一人なのだ。
+いわゆる神は――
+技を使わずに技に勝ち、剣を持たずとも剣を持っている。
+剣気を意のままに操り、神によって剣を作り出す。まさに自由自在に操れるのが剣神なのだ。
+凌霜は重い足取りでゆっくりと素裳のそばへと歩み寄る。
+彼女の顔にはまったく表情がなかった。あらゆるものに対して興味がないかのようだ。
+少女が小さな声で言う。
+彼女は目の前に現れ、精衛の行く手を塞いだ。彼女の上空では墨の花が静かに回っている。
+彼女の視線はとても誠実で、その笑顔には羞恥が滲んでいた。
+彼女の言葉には熱がこもっており、尊敬と信頼に満ちていた。
+ +彼女は……
+彼女のことはよく知っている気がする。
+遥か昔、彼女たちと共に過ごしていた……
+彼女たちとはかつて……とても長い時間を共に過ごしていたのだ。
+果てしなく広がる暗闇の中で、[\s]死んだ仙人の意識が蘇った。
+『その力』は限られている。感官から情報を受け取ることも、神経に指令を出すこともできなかった。
+混沌の中、弱い意識は古の本能に従い、盲目的でありながら揺るぎなく存在し、伸びていく。
+意識はまだ自分自身の死に気付いていない。[\s]
+彼女は自分自身の死を認めようとしない——
+常識で判断すれば、仙人は確かに死んだ。
+一番重傷を負った胸部は、十数ヶ所も損傷していた。
+しかし、最も致命的な傷は頭部にある。
+剣が彼女の額に刺さり、
+しかし「仙人」は普通ではない。
+その体は千年経っても死なず、[\s]
+その魂は万年経っても消滅することはない。[\s]
+ +命の法則を徹底的に覆した、
+神州唯一無二の仙人。
+今、静かに石室に横たわる体は、まさにそういう存在であった。
+一つ一つの神経細胞から、
+仙人の脳と肉体は長い修復と再構築を始めた。
+裂けた皮膚を修復し、
+折れた骨を治し、
+ボロボロになった筋肉を繋ぎ、
+損傷した器官を再生する……
+やがて、仙人の『意識』が辺りを知覚する。
+それから、痛み、痺れ、腫れ、痒み……体の様々な部位が悲鳴を上げる。
+終わりのない苦痛が襲ってくる。
+……終わりのない修復、終わりのない痛み。
+仙人は沈黙したままだ。
+「 私 誰 ? 」
+頭の中は混乱したまま。覚えていることもあるが、忘れたことのほうが多い。
+「 此処 何処 ? 」
+記憶の中には断片的な言葉しかなく、彼女が求めている答えを繋ぎ合わせることができない。
+「 …… 何 ? 」
+そう思った瞬間、長いこと摩耗してきた感情が突如として胸に湧いた。
+七……
+彼女と最も親しい七人。
+七人が共謀し、彼女を嵌めた。[\s]
+七本の剣が罠を仕掛け、彼女を殺した。
+「 …… 何 故 ? 」
+湧き上がる感情が消えることはない。[\s]
+怒り、[\s]
+困惑、[\s]
+憤怨、[\s]
+腹立ち、[\s]
+そして悲しみ。
+「……どうして?」
+答えはない、あるのは答えを求める渇望だけ。
+……仙人は待つことにした。
+かつての彼女は長い間、この地を守ってきた。時の流れは彼女にとってさほど重要ではない。
+彼女は待ち続ける、体が完治する日がやってくるまで。[\s]
+ +そしてあの七人を探し出す、自分を殺した理由を訊ねるため。
+強い衝動がぼんやりした意識の中で焼印を押し、
+ +彼女を促し、鞭撻し、変えていく。
+ +待つことが習慣に、苦痛が自然になるように。
+それから……
+痛い
+痛い
+痛い
+痛い
+終わりのない修復、終わりのない痛み。
+仙人は沈黙したままだ。
+彼女は長い間我慢してきた、
+ここは砂漠の中の小さな宿場。
+1400年前、流浪のテュイク人がここでオアシスを発見した。
+彼らは神様の加護に感謝し、思う存分水を飲んだが、止まることはなかった。
+そこから300年、顔国の隊商がここを通った。
+宝石と絹織物を満載した隊商に、一人の外交の使者がいた。
+その使者の価値は荷物を遥かに超えている。なぜなら彼は西域に出向き、同盟を結ぶ責任を背負っているからだ。
+商人たちはここで足を休め、翌日に出発した。
+彼らは漠北を出ておらず、誰もその行方を知らない。
+740年前、ハンユー族の遊牧民がオアシスの横に拠点を作った。
+ +この水源がある限り、私たちはもう漂泊しないで済むと、首領は民たちにそう告げた。
+100年後、匈人は北からやってきた。彼らはハンユーの村を一掃し、老人と男を殺し、女と子供を連れて遠い西域に向かった。
+ +……オアシスは匈人たちによって残され、再び世界に忘れ去られた。
+そして時が流れる。[\s]
+ +文明は生まれ、滅亡する。人々は行ったり来たり、やがて歴史という川に消えてなくなる。
+オアシスの来訪者は今、古い壁の陰に隠れながらため息をつく。[\s]
+この重苦しい烈日と砂の海を、彼は3ヶ月間も見ているのだ。
+男はもう一度ため息をつく。
+砂漠の物寂しさと暑さのせいで気が晴れない。
+見渡す限り、景色は変わらない——
+太陽、空、黄砂……何もかもが停滞していて、微動だにしない。
+空気まで固まっているような気がして、少しの風も感じられないのだ。
+相手は知っているのだ、男は単に退屈を紛らわすためだけに話しかけてきたのだと。
+しかしこの黄砂に囲まれた蒸籠のような場所では、話すこと自体が贅沢だ。
+口を開くというのは、精神の緩み、水分の流失を意味する。
+『金砂会』の番人にとってそれはもったいないことだ。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
+ㅤ
+物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
+ㅤ
+物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
+男は鬱憤を晴らすために悪態をつく。
+声は大きくない。たとえ仲間に聞かれても、内容を聞き取ることはできないだろう。
+……しかし、男はちゃんと分かっている。首領は新入りの彼を馬鹿になどしていないと。
+見張りの仕事は当番制、あいにく今日は彼の番になっただけだ。
+だが、彼は亡命者だ。その手は血に汚れ、足は無数の死体を踏みつけてきた。
+略奪、強盗、蹂躙、殺戮こそが彼のすべきこと。
+刀を振り回し、血に染まる刺激こそが彼が得るべき報酬だ。
+男は自分の価値を信じている。ㅤ[em bold color=#ff0000]戦闘[/em]ㅤとㅤ[em bold color=#ff0000]殺戮[/em]ㅤ。[\s]
+もし『悪』に真偽があるのなら、男は本物の残酷非道な極悪人だろう。[\s]
+彼は暴力を恥じることなく、むしろ暴力を自分の強さの証明だと考えている。
+そのため、長く計画されてきた『大商売』から外されたことに、
+彼は屈辱に近い怒りを感じていた。[\s]
+怒りのせいで焦燥感に駆られ、口が渇き、煩わしく感じる。
+目がかすんでいる訳でも、漠北でよくある「蜃気楼」を見た訳でもない。[\s]
+あの少女……砂漠の向こうからゆっくりと歩いてくる少女は、本当に存在している。
+思わず叫んでしまった言葉は、すぐに熱気の中に消えた。
+気付かぬうちに、男は金砂会の禁忌を犯していた。
+一つ目、狼狽えること。
+二つ目、軽率な行動を取ってしまったこと。
+金砂会の古参なら、彼のように慌てることは決してないのだろう。
+しかし、男の心には疑問があった。
+漠北で横行する金砂会を相手に、自らやってくる女は今までいなかった。
+彼女は川中『憶剣山荘』の若荘主、精衛真人の七番弟子『染香剣』こと、秦素衣の一人娘である。
+精衛真人、染香剣、憶剣山荘。[\s]
+神州の武術界では、どれも知らない人はいないほど名高いものだ。
+砂漠とは、声望も虚名も関係なく、弱肉強食で生きるか死ぬかの荒原だ。[\s]
+強い者は生き残り、弱い者は砂に埋もれるという世界。
+母親は彼女を可愛がっていて、つらい思いをさせたことがないほどだった。
+しかし剣の稽古になると、母親は誰よりも厳しくなる。
+その後、素裳は今まで以上に稽古に集中し、伝家の『憶心剣法』の十二の型を自由に使いこなせるようになった。
+それでも母親は頭を横に振る。
+素裳は、一体何が駄目であったのか理解できなかった。もっと勤勉になるべきだったのだろうか?
+どうして自分はいつも母親の期待を満たすことができない?
+母親はそれを実行した。
+李素裳の5歳の誕生日に、両親は彼女にある贈り物を用意した。
+憶剣山荘、川中、そして生まれてから離れたことのない『家』と別れを告げ、
+李素裳はそのまま漠北に来て、十年間『最高の剣法』を学んでいた。
+10年の時は瞬く間に過ぎ去っていった。
+家に対する思いは紙のように薄くなり、別れた時に母親が言った言葉だけが彼女の心に残っている。
+剣法で何かを手にすることができただろうか?
+武芸で何かを成し遂げることができただろうか?
+今の自分は、母親の期待に応えられているのだろうか?
+李素裳は意味深長な微笑みを見せた。
+少女の初の『力試し』は、今日にあると!
+二人の男が左側から近付いてくる。
+そのうち一人は、最も早く少女に気付き、声を出した男だ。
+彼は剣を手に、嬉しそうな顔をしている。
+まるで罠にかかった獲物を見つめる狩人のように、その笑顔は死を語っている。
+右後ろの男は少女の視界にはいなかったが、
+先程の男の声を聞いて走ってきたのだ。
+——賊と彼女の距離はたったの五歩。
+少女は包みを開き、逆手で古剣『軒轅』を握る。
+剣が手にある感覚は、彼女を安心させる。
+その後の出来事は、
+ +きっとこういう展開になる筈だ。
+少女は飛び立つ鳥のように軽い動作で飛び上がる。
+着地した瞬間、剣の切っ先はすでに男の胸元に刺さっていた。
+剣を戻し、振り返る——噴き出す血より、ずっと速い。
+次の瞬間すぐさま剣で刺し、男の凶悪そうな笑顔を固まらせる。
+こうして、四人の敵は二人だけになる——なんの抵抗もなく。
+彼女の武術の造詣と、古剣軒轅があれば——
+その幻想を現実にすることは、難しいことではない。
+——賊と彼女の距離はあと四歩。
+目の前の四人は、宝剣を拝む価値すらないのだ。
+この剣は遠い昔、仙人たちの時代から受け継がれ、幾千万年の時を見届けてきた。
+その持ち主は武術界の伝説、唯一の真仙、神州の守護者『精衛真人』である。
+精衛真人が天に昇って仙人になった後、秦素衣はしばらく隠居したが、3年後に彼女は再び武術界に名を馳せた。
+彼女と『川公子』李紳の恋物語は当時、美談として語られていた。
+10年前、引退した母親は『墨染香』を幼い素裳に渡し、[\s]
+同時に素裳の肩には、「太虚五蘊を悟り、『天下一』になる」という母親の期待がかかり始めた。
+目の前にいる平凡な人間たちの血で、この剣の威名を汚すわけにはいけない。
+——賊と彼女の距離はあと三歩。
+——あと二歩。
+一歩!
+彼は本能的に下を見る。
+ +その瞬間、足が痛み出した。
+男は地面を見ようとしたが、なぜか目に映ったのは太陽だった。
+(どういう……)
+彼はまだ自分が蹴飛ばされたことに気付いておらず、何か冷たいものがこめかみに触れたと感じただけだった。
+——太陽は暗闇に呑み込まれた。
+体を屈めて攻撃を回避し、その勢いのまま男を蹴り、そして指一つで彼を気絶させる——少女はあっという間にそれをこなしてみせた。
+彼女の精神は今までにないほど集中している。[\s]
+ +目の前の敵を倒す以外、少女は何も考えていない。
+それこそが、太虚剣気五蘊の「心蘊」。
+ +入門の一蘊でありながら、最も難しい一蘊でもある。
+『剣心 - 止水』!
+しかし、金砂会の古参たちは少しも気にしていない。
+なぜなら少女は彼らにとって、既に死人に見えていたからだ。
+砂埃を利用し敵の視線を遮ることで、時間の優勢を手に入れる。
+環境を最大限利用できれば、勝利の可能性を最大限に引き上げられる。
+ +それが少女の考えだ。
+しかし、それも敵たちに読まれている。
+広い砂漠で何年も生きてきた盗賊たちは、そういう戦い方をとっくに身につけていたからだ。
+少女よりも、彼らのほうが詳しいとも言える。
+少女が砂を蹴り上げることは別に変わったことではない。過去に対峙した敵もそうしたからだ。
+しかしそれで慌てると思ったら、それこそ金砂会を甘く見過ぎている。
+——漠北強盗団「金砂会」はここ6年間、神州とインユウの辺境で活躍している組織だ。
+彼らのすることはまさに流賊——諸国の隊商を相手に貴重な品物を奪い、男と老人を殺し、女と子供を奴隷に売る。
+しかし普通の流賊と比べ、金砂会は規律を重んじる。
+話によると、金砂会の首領「鷹」はもともと軍隊出身だった。[\s]
+冤罪に遭い、左遷され、一族はその影響を受けた。
+構成員が「鷹」を恐れているのは、彼が悪辣非道だからだ。[\s]
+構成員が「鷹」を敬服しているのは、彼が常に無敗だからだ。
+この男の出現は、金砂会に激しい変化をもたらした。[\s]
+かつての流賊は規律を守る小さな勢力になり、漠北一帯の支配者となった。
+構成員たちは朝晩、武術の稽古をしなければならない。[\s]
+稽古が終わった後は、軍隊のような訓練が始まる。
+「鷹」は飽きもせず、彼らに陣形、変化、団結、それから様々な合図や命令を教えた。[\s]
+彼が欲していたのはまとまりのない盗賊団ではなく、軍隊そのものであった。
+それは「鷹」の保証。
+彼らは「鷹」の言葉を信じて疑わない。
+三人は素早く目を閉じた。
+視覚を失うより、砂が目に入った時の痛みや条件反射による動きのほうがより危険なものになる。
+目を閉じた瞬間、三人はすでに互いの場所と敵の位置を記憶した。
+彼らがこれから取る行動や攻撃する方位は、「雁人陣」の陣形を完璧に再現したものになる。
+真ん中にいる男は真っ先に刀で攻撃する。上から下へ、勢いよく振り下ろす。
+左側の男は一歩踏み出し、標的の下半身を狙った横斬りを仕掛ける。
+この二つの攻撃の心は攻撃ではなく、敵を誘導することにある。
+「鷹」が考えた陣形と刀術は、決まった道筋に従って敵を回避させるもの。
+標的がもしこの二つの攻撃を回避できたら、次の瞬間はきっと決められた位置にいるはずだ。
+その時は右側の男が致命的な一撃を与える番となる。
+敵が見えなくても、彼らはこの陣形で敵を確実に仕留める自信を持っているのだ。
+陣形に間違いはないが、少女は金砂会の男達の想像を超えていた。
+砂を蹴り上げたと同時に、少女はもう前に出た。
+金砂会が「鷹」の陣形を信じて疑わないように、少女も自分の武芸に絶対的な自信を持っている。
+剣心を極めた彼女には、男たちの攻撃を回避する必要はなかった。
+真ん中の男が刀を上げた瞬間、少女はすでに彼の懐まで飛び入った。
+反応するより先に、男の顎は思い切り殴られた。
+ +衝撃は頭骨を通して直接脳に響き、激しい揺れに襲われた彼は意識朦朧となる。
+次にやってくる少女の跳び蹴りが膝に命中することを察する暇もなく、彼は地面に倒れた。
+少女は跳び蹴りの勢いのまま、「飛燕帰巣」を決め、瞬く間に左側の男の後ろに着地した。
+片手で男の首を叩き、
+まさに電光石火、彼女は力と速度をうまい具合に計算し、正確に行動してみせた。
+太虚五蘊の『剣心』、
+それは脳の潜在能力を最大限に発揮する奥深い心法だ。
+ㅤ
+『剣腊』:
+ㅤ
+剣を構成する部分のひとつ。
+ㅤ
+剣の中央の芯は剣脊、剣脊の両側にある面は剣背。
+ㅤ
+剣脊と剣背を合わせて剣腊という。
+同時に、百里先では……
+男は金色の砂に伏せたまま、動かない。
+汗の粒が額、鼻、首、脇、足から湧き出し、体の所々が痒くて仕方がない。
+それでも彼は動こうとしない。
+服があっても、皮膚が熱い砂に焼かれているようだ。
+気絶しないように、男は必死に精神を集中させようとする。
+こういう時、彼はいつも「鷹」の言葉を思い出す——
+彼らのような者が朝廷の兵に捕まると、胸元に烙印を押される。
+烙印は砂よりも硬く、太陽よりも熱い。皮膚に触れるとすぐにくっつき、剥がす時は皮膚も一緒に剥がされる。
+あの感覚は、「鷹」曰く、まるで地獄のようだ。
+金砂会の構成員たちはよく地獄を口にする、[\s]なにせ彼らはそこで再会する運命なのだ。
+地獄の中は不気味で恐ろしく、そして退屈だ。金も酒もなく、美人もいない。
+良いものなど、地獄に存在しないのだ。
+しかしここで、今日の「商売」が成功すれば、欲しいものは何でも手に入れられる。
+今回の「商売」は今までよりも大きいと、「鷹」が信頼できる情報を掴んだのだ。
+ +遠方から来た隊商は貴族の家族を連れており、金銀財宝をたくさん持っているらしい。
+その情報に間違いがなければ、あと30分で全部手に入れられる筈だ。
+彼の実年齢はもう少し若いが、それでも不惑の年に近い。そして顔全体を見れば、目だけが際立っていることが分かる。あれは猛禽類の目だ。
+彼は遠方を眺めている。まるで獲物を見つめているかのようだ。
+質問も承諾もいらない、
+「鷹」の命令に従えば、返ってくるのは——
+突如、男の顔に笑みが浮かび、
+同時にその目つきも変わった。
+砂に伏せた男は視線を戻し、息を吸う。熱い空気が肺に充満したが、まだ我慢できる。
+遠い先、塵が舞い上がる。
+「来る。」
+誰かが呟く。
+長く待ち伏せしていた男たちはほっとする。苦しい時間が、やっと終わるのだ。[\s]
+ +あとは、勝利のみ。そして、この勝利を……
+彼らはすでに長い間待ちわびていた。
+よく見れば、この棺はほぼ密封されていて、その周りに少しの隙も見当たらない。
+数本の黒い本革の帯が棺をしっかりと縛っている。
+金髪緑目の男は棺の横に膝をつき、長い指で棺の表面に触れる。
+その動きは撫でるみたいに優しいが、まるで、全身の力を使っているかのようでもある。
+男は自分の手でこの棺を作り、その中身を外の世界と隔離した。[\s]
+そして男はあらゆる法則に抗い、愛する者を連れ戻そうとした。[\s]
+宿願が叶うまで、彼はまだこの世界から離れられない。
+遠い先から聞こえる咆哮、叫び声、泣き声の中で、
+ラクダの悲鳴、馬車の転覆、刀のぶつかり合う音の中で——
+——男は微動だにせず、少しも気付いていないようだ。
+まるで目の前にある棺以外のものとは、何の関係もないように。
+ラクダの足音が再び鳴り出し、馬車はゆっくりと進み出す。
+その横には刀を持つ男たちが居て、隊商の人間と馬、それから財宝を守っている。
+何もかもが同じように見えて、何もかもが徹底的に変わった。
+商人たちは奴隷となり、強盗たちはその主になったのだ。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
+ㅤ
+羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
+ㅤ
+当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
+そして最も喜ばしいのは、部下たちの出来だった。
+ +彼が金砂会の頂点に立った時の、沈んだ様子とは大違いなのである。
+今回の隊商は待ち伏せの罠にかかってしまったが、護衛の用心棒たちは責任を果たそうとした。
+ +一瞬取り乱したとは言え、彼らはすぐに態勢を立て直し、手強い抵抗を始めた。
+——しかし、それは「鷹」の思う壺だった。
+彼は挑戦の中で快感を得て、存在意義を探すような人間なのであった。
+敵の抵抗が激しければ激しいほど、兵士を訓練した価値が高くなるだろう。
+勝利の意味は、上がり続ける価値の中で最高の満足を得ることにある——
+——冤罪で投獄された後、新たな『戦友』は彼を見捨てた。何度も彼を夢から目覚めさせたのは、痛みでも悔しさでもない。羅刹鬼と殺し合った時間だった。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
+ㅤ
+羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
+ㅤ
+当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
+羅刹国を出た時から、彼の人生は止まっていた。
+その後の時間は、何の価値もない行動を繰り返す屍に過ぎなかった。
+だから、彼は漠北に逃げた。金砂会を奪い、忠実な兵士たちを手に入れた。[\s]
+だから、彼は彼らを鍛錬した。鞭撻し、苦しめ、
+彼らを死の狭間へと送った。彼らと共に生きたのだ。
+過去を繰り返し、
+過去に仕返しを行い、
+過去を渇望する。
+故に、あの『羅刹人』に出会った時、
+「鷹」は思わず、時間が繰り返され、過去の光景が再び目の前に現れたのではないかと錯覚した。
+その人間を初めて見た時、背筋が凍った。
+そいつは『災い』だと、脳が警鐘を鳴らす。
+『災い』は隊商の馬車の中にいて、その空間を独り占めしていた。[\s]
+数十人の隊商の中で、彼だけがその待遇を有している。
+男は片膝をつく。[\s]その口調は穏やかで、まるで親しい相手に囁いているかのようだった。[\s]しかし周りを見渡してみても、馬車の中に他の人間はいない。[\s]
+あるのは、棺だけ。
+相手が話しているのは羅刹語ではない。だから、「鷹」にはその意味がよく分からなかった。
+しかし、その奇異な光景を見た彼は、既に冷や汗が止まらない状態にある。
+羅刹人の見た目は大体、20歳くらいだろうか。背は高いが、逞しくはない。
+武術はできるが、達人ではない。
+筋肉が肥大している人間は、外家拳を主とする武術者。
+そういう人間たちの肩と腕は力が強く、金属や石を簡単に破壊でき、普通の鈍器を防御することも容易である。
+優れた外家拳は平衡、つまり、力が全身に渡ることを重んじる。力量のみを求めてしまうと、却って臨機応変に動けなくなるのだ。
+速度と力量を兼ね備えた者こそ、腕のある人物。
+内家拳は内なる力を、即ち、経脈と『真気』を鍛える。
+そういう者の形神は控え目でありながらも、存在感がある。眼差しと呼吸を観察すれば、その奥深さが分かる。
+彼は何人もの命を奪っている。いまさら、一人増えたって構わない。[\s]
+しかし……刀は抜かれなかった。
+ようやく視線を強盗たちの首領に向けた。
+[em italic]羅刹鬼め、勿体振りやがって。[/em][\s]
+「鷹」は思わず心の中で罵る。[\s]
+[em italic]バイホイ人にお前を売ったら、どんな表情を見せるか楽しみだ。[/em]
+死んだ羅刹人は金にならないが、生きている羅刹人は高値で売れる。
+バイホイの奴隷商人はこういうものが好みで、いい値で買ってくれるのだ。
+彼は何故、あの棺に話しかけていたのだろうか?[\s]
+馬車を貸切にしていることも、疑わしい……[\s]
+そうだ、棺の中身を人に知られたくないからだ。
+……何だ??
+「鷹」はたくさんの人間を見てきた。
+彼が見てきた眼差しも、数え切れぬほどだった。
+恐怖、憎しみ、怒り、悔しさ、苦しみ……
+いや、彼は見ていただけではない。彼自身こそが、そういう感情の原因であったのだ。
+首に当てられる刀は、この世で最も有効的な自白剤だ。
+人一人の心の奥底を徹底的に暴くことができる。
+「鷹」は死ぬ寸前の眼差しに麻痺していて、
+瀕死の際の感情に動くことはない。
+そういうものを、彼はたくさん見てきているからだ。
+しかし、この羅刹人と同じ眼差しは今までなかった。
+あれは揺るぎない、狂気、残酷、愉悦、憐れみ、そして……
+[em italic]そうだ。[/em]
+「鷹」はハッとして、唾を呑む。
+この羅刹人は終始、彼のことなど眼中にないのだ。[\s]
+相手にとって、金砂会首領たる「鷹」ですら、大漠の砂と何の違いもない。[\s]
+価値はなく、意味もない。
+次の瞬間、羅刹人に踏み潰されるような錯覚すらあった。
+きっと、散歩するかのように簡単なのだろう。
+恐怖を感じたからではない。「鷹」は、自身に言い聞かせたのだ。[\s]
+彼は決して、羅刹鬼を怖がらない。
+遠い先に、一縷の煙がゆっくりと昇る。
+金砂会の帰路を示す合図である。
+彼は目の前の二人を観察し、
+少し離れた砂場に視線を向け、[\s]
+また宿場の中へと意味深長な視線を向ける。
+男は、少女の話をデタラメだと思っているようだ。
+李素裳は相手とは意思疎通できないと判断し、無視することにした。
+師匠の、[em color=#FAFAD2]「金砂会を知っている?彼らの頭を倒してきて。」[/em]という言葉は、
+簡単そうに聞こえるが、そのせいで正直者の弟子はかなり困っていた。
+武術界で有名な名前が次から次へと現れ、また次から次へと少女に否定されていく。
+それらは名の知れた達人だ。自分のような境遇に陥ることなどある筈がない。
+[em italic]閻世羅……[/em][\s]
+不思議な力に導かれたかのように、40年前に存在した武術の怪傑の名が少女の頭に浮かんだ。
+しかし自らやってきて、「品物」の振りをしてこっそり地下牢に入ってきた人間は、
+金砂会が占領して以来、おそらく李素裳が初めてかもしれない。
+素裳は枯草を整え、その上に大人しく座り、
+『剣心訣』の黙読で時間を潰そうとした。
+剣心訣は『太虚剣気』の入門となる内功、
+武術界の誰もが求める奇術である。[\s]
+ +しかし剣心訣の正体が、奇妙で不可解な音節であることを、ほとんどのものが知らない。
+その音節には形式がなく、文字で表現することもできない。
+気の流れを教えるわけではなく、体の鍛え方を教えるわけでもない。
+『口訣』とはいうものの、実際何の意味もない。
+何も知らない状況で剣心訣を聞いたとしても、うわ言としか思えず、
+それが神州の武術界の頂点に立つ、無双の神業だとは誰も考えないだろう。[\s]
+ +実は、その奥深さはここにあるのだ。
+暗唱、黙読、そして、聞くこと。それが心の鍛錬となる。
+言葉には力がある。[\s]
+素裳にはその中身を理解できないが、確実に『心』の変化を感じ取れた。
+体はますます軽くなり、頭の中も澄んでいく。
+五感が一箇所に集い、心の湖に溶ける。
+それが、剣心四境の一つ。
+——『止水』。
+素裳は雑念を捨て、剣心に集中する。
+次の境界へと入る——
+心の湖が氷となり、
+些細な考えを払い、少しの痕跡をも残さない。
+硬い氷のひびは消えてなくなる。
+心の湖は限りなく透明に近く、万物を照らす。
+しかしその上には剣心の最高境界……
+この世で師匠だけが到達した第四境がある……それは……
+氷面が急に割れ、心の湖が流れ、剣心訣も頭の中から消散する。[\s]
+李素裳はその場に座ったまま、激しい頭痛に襲われた。知らぬ間に、背中は冷や汗で濡れている。
+しかし自分は、生まれた時から母親が暗唱した剣心訣を聞いて育っている。
+師匠よりも早く進展するはずなのでは?
+師匠は13歳の時に『太虚』に到達し、
+15歳の若さで無上『剣神』となった。
+自分はどうだろう?同じ15歳になったというのに……[\s]
+『剣心』が円満になっていないだけではなく、
+『剣意』もままならない。
+この二つの難題を克服したとしても、
+その先には「神」蘊が立ちはだかっている。まるで雲霧の中にいるかのように、よく見えないのだ。
+『情』は『心』蘊の敵である。
+もし心の海に現れた感情を放っておいた場合、剣心が破損する恐れがあるのだ。
+明鏡の心を有する素裳はよく知っている。
+素裳は横に置いていた包みを手にする。
+計画通りにいけば、今夜こそ、剣が鞘から抜かれる時なのだ。
+素裳は大騒ぎした。いざ大漠に着いた後は、泣き真似もしてみたが、すぐに好奇心が勝り、師匠に質問し始めた。
+子供は隠し事ができない。そんなに話してもいないうちに、軒轅剣のことを口にした。
+そして母親の予想通り、師匠はあの軒轅剣を渡すように言ってきた。[\s]
+正直者の素裳はしばらく考えて、最後は両手で古剣を差し出した。
+さすがに師匠は5歳の女の子をいじめて、ものを奪ったりしないでしょう?[\s]
+軒轅を渡した瞬間、少女はなぜか新しい服を見せびらかすような気分になった。
+七番弟子……素裳は呆気にとられたが、すぐに母親が師匠と同じ門派の出身で、七番弟子であることを思い出した。[\s]
+『墨染香』は母親が使っていた軒轅剣の名前である。
+しかし素裳にとっては、無限のように長い一秒だった。[\s]
+幼い頃から剣と共に生きてきた彼女であったが、今まで、剣がこれほど美しいものだと知らなかった。
+その減速されたかのような時間の中で、軒轅は輝きを纏い、ゆっくりと落ちていく。[\s]
+そして彼女の目の前に落下し、剣身は、音一つなく地面に刺さった。
+思い出の中の素裳が、プッと吹き出した。[\s]
+今の彼女には、この軒轅を使う資格がある。
+理性が邪魔するよりも先に、本能が率先して行動に移す。[\s]
+少女は宝剣を撫で、それからあの時の師匠のように、切先を指で弾いた。
+『侵入者』がまさかの小娘だと聞いた時、驚きを覚えた。
+なんという侮辱だ!!!
+この漠北で、金砂会を恐れぬ者はいない。
+官兵の精鋭でも、遠くて頑丈な金砂会を恐れ、衝突を避けている。
+一体誰が、身の程知らずにも自らやってきて、この「鷹」を敵に回すというのだ?
+しかし予想外にも、先に口を開いたのは彼ではなかった。
+彼の縄張りでは、彼が先に口を開き、彼が先に質問するのが鉄則である。
+「鷹」は手を拭い、少女の前にしゃがむ。
+少女もまた彼を見ていた。その視線に恐れの色はなく、あるのは強情と怒りのみだ。
+少女は鼻をすすり、大人しく頷き、一言も口にしなかった。
+様々な反応の中で、こういう態度が一番彼の逆鱗に触れる。
+男は気が動転して、慌てて跪く。
+首領の口調が穏やかであればあるほど、怒り心頭の状態にあるということを、知っているからだ。
+先程跪いた男は、まだその場にいる。
+頭を伏せ、顔を上げていないが、体の震えは彼の緊張を物語っている。
+しばらくして、「鷹」はふと笑い出した。包みを取って帯を解き、宝剣の本当の姿を見る。[\s]
+目の前の男には隠し事も嘘もないということを確認できた。それで十分だ。
+ガタッ。[\s]
+鉄格子の鍵がかかった。
+素裳は体を動かしながら、座ろうと試みる。[\s]
+彼女の目はまだ暗闇に慣れておらず、何も見えない。両足を動かす時に、何かにぶつけた。
+李素裳は、驚く。[\s]
+彼女を驚かせたのは突如現れた火の光ではなく、ため息をついた相手だった。
+[em italic]羅刹人……[/em][\s]
+李素裳は強盗たちのひそひそ話を思い出した。[\s]
+[em italic]羅刹人は、こんな感じなんだ。[/em]
+その横を見ると、女性の横には大きな棺が置いてあった。
+危うく蹴ってしまいそうになったものである。
+素裳は本能的に視線を逸らし、また羅刹の女性に戻す。
+最初はチラッと見ただけだったが、相手の反応がないと分かった後は、開き直ってじっと見つめ始める。
+口の中に布が入っていることを忘れていた彼女は、意味不明な音しか出せない。[\s]
+李素裳は気まずそうな表情をしたが、周りは暗く、相手に悟られずに済んだ。
+だが、羅刹人は視線を戻し、素知らぬ顔をした。
+何度か目配せをしてみたが、全部相手に無視される。少しの反応もない。
+そして、再び火が灯る。李素裳は壁際にいる羅刹人をチラリと見たが、彼女は先ほどの姿勢のままだった。[\s]
+ただ、彼女がこちらに向ける視線には、かすかな苛立ちが混ざっていた。
+羅刹人は口を閉ざし、黙って李素裳の言葉を肯定した。
+しかし李素裳の口からは、立て続けに言葉が出る。
+猿轡をされ、手足に枷をはめられていた李素裳とは異なり、
+この羅刹人の体は一切拘束されていなかった。
+少女は怖いもの知らずだが、霊的なものには弱かったのだ。[\s]
+彼女は羅刹人の妖術に腰を抜かした。女傑としてのメンツなどお構いなしである。
+少女は、興奮した口調で目を輝かせながら言った。[\s]
+彼女の話がどれだけ飛躍し、論理が支離滅裂であっても、羅刹人は興味深そうに耳を傾けている。
+精衛真人のこの奇術は、武術界の一般的な内功とはまったく違う。
+通常の内功は丹田を鍛え、その中に真気を溜める。
+しかし、『太虚剣気』はそうではない。
+『剣心』を習得した者は、
+天地を丹田とし、肉体を経絡とすることができるのだ。
+ましてや『武』道の本質とされる『気』は、隠す必要すらない。
+彼がそう言った瞬間、素裳は手足が軽くなったのを感じた。手足にはめられていた硬い鉄枷は粉々に砕け、地面に散らばっていた。[\s]
+彼女の両手両足には傷一つなく、服も同様だった。
+彼が妖術で椅子やグラスを消せるのであれば、鉄枷を粉々にできてもおかしくはないが……[\s]
+……そんなバカな!!!!
+彼女は思わず自分の学んだ知識を総動員して、目の前の棺を持った不思議な男を見つめ直した。[\s]
+まさか、『彼』はただならぬ腕前を隠した達人なのだろうか?
+彼女が思い描く武術界の達人とは、師匠、母親、または未来の自分のような姿だった。
+目の前の羅刹人は、彼女が思い描く武術の達人像とはかけ離れていた。
+羅刹人が微笑むと、空中の火が突如として消えた。[\s]
+……違う。火は残っている。
+その火は瞬間移動したかのごとく、突如として羅刹人の手のそばに現れると、ますます勢いよく燃えていく。[\s]
+火の勢いが……まるで……
+素裳は唖然としながら、羅刹人の『妖術』を見ていた。[\s]
+彼女が我に返った時、火はすでに消え、地下牢の扉が破られていた。焦げた臭いが鼻をつく。
+はじめ、この暗い牢の見張りは二人しかいなかった。
+そのうちの一人は羅刹人を丁重に牢に入れると、病気だと偽って持ち場を放棄した。もう一人は食事を届けに行ったが、腰を抜かしてしまい、それ以後は二度と地下牢に入ろうとしなかった。
+「あれは人間なのか?ありゃ妖怪だ!言葉を話す灯籠なんて、見たことあるか?俺は行かねぇ、死んでも行かねぇぞ。」
+彼の口ぶりは、「鷹」よりも牢屋の中の異邦人を怖がっているようだった。
+最も不思議だったのは、そのことを聞いた「鷹」がまったく怒らなかったことだ。これまでの彼からは想像もできない。
+「数日もしないうちにバイホイ人が来る。人手を増やせ。」
+ +彼が『人手を増やす』と、すぐに十数人と十数の武器が追加で配置された。
+新たに来た者たちは戦々恐々としながら牢の配置につく。しかし、特に変わった点はなく、一同の恐怖は消え、前の二人の見張りを存分に嘲笑ったのだった。
+ +金砂会の盗賊たちは、笑いながらも油断することはなかった。誰に言われるでもなく昼と夜で交代するようにし、常に五人が地下牢の扉を見張るようにしていた。
+ +この時、五人の不運な男たちは、中で何が起こっているのかをまだ知らなかった。
+その夜は控えめに言っても奇妙な夜だった。首領を怒らせたあの少女が牢に入れられてからは、中から何の音も聞こえてこなくなったのだ。
+ +完全な静けさ——静寂が訪れた。
+人の声も雑音も一切聞こえなかった。
+見張りたちは異様な音には気付かなかったが、不思議な臭いには気付いた。それは、焦げた臭いだった。
+ +何かが焦げているような臭いが強まっていく。五人はそれぞれの刀を抜き、入口の前に集まった。
+「下りるか?」
+見張りの一人が、小さな声で他の者たちに意見を求めた。
+他の者が返事をするよりも早く、扉は轟音と共に爆発した。
+五人が最後に目にしたのは真紅の火柱だった。
+剣と刀は似ているように見えるが、まったくの別物だ。
+「剣は軽やかに、刀は力強く」と言うように、剣が変幻自在の素早い動きをするのに対し、刀は直線的な動きで力を使って相手を倒す。
+剣術を習得した者が刀を扱うと、剣術のような動きになる。その逆もまた然りだ。
+そのため、「鷹」は剣舞を披露しているが、実のところは刀舞だった。
+彼はこれほど見事な武器を見たことがなかった。
+これは剣筋の美しさを示している。まさに完璧そのものだ。
+これは剣身のしなやかさを示している。剛と柔を兼ね備えているのだ。
+これは剣の光の強さを示している。骨に突き刺さるほど冷たい光だ。
+「鷹」は決して、剣を愛でたり集めたりするような人間ではない。
+彼が剣のことを褒めたとしても、それは山賊が戦利品を評価するようなものでしかなかった。
+彼の目の前には信じられない光景が広がっていた。[\s]
+8人の手下がいつの間にか地面に倒れ、気を失っていたのだ。
+そして、彼が自ら牢屋に閉じ込めるように命令したはずの少女が、目を瞬かせながら彼を見ていた。[\s]
+[em italic]どういうことだ!?!?[/em]
+「鷹」は心の中で自分をひどく罵った。[\s]
+『災い』だと気付いた時、すぐに始末しておけばよかったのだ。
+皆が災いを恐れるからこそ、災いは問題を生じさせる。[\s]
+「鷹」はあの羅刹の変人を軽んじたことを後悔した。しかし、今となっては後悔しても後の祭りだ。
+彼は静かに後ずさりし、安全な会話の距離を保とうとした。しかし、剣を手にしているのは彼の方だ。本来なら必要のないことである。[\s]
+……しかし、「鷹」が最も心配しているのは少女ではなかった。
+彼は最初から例の羅刹人のことを、今宵の最も危険な人物と見なしていた。
+そして、その人物の動きをつかめないことによって、彼は自信を大きく失ってしまった。
+その掌打は内功を使っておらず、重くはあったが、内臓を傷つけるほどではなかった。
+しかし、少女の軽功の妙技は、「鷹」も見たことがないほどだった。
+驚きと怒りのあまり、羅刹人の存在を忘れる。
+「鷹」は、この十幾つかの相手を改めて見定めることにした。
+その技は太虚剣気ではなく、李家に伝わる軽功だった。
+「飛燕功」。
+彼女の右手が「鷹」の前腕に命中し、彼は「軒轅」を落とす。
+そして返す手で稲妻のような掌打を男のみぞおちに叩き込み、吹き飛ばした。
+慣れ親しんだ安心感が素裳の胸に満ち溢れた。
+再び剣を握り締める。しっくりくる感じだ。
+長年、漠北を旅してきたが、これほどまでに打ち負かされたことはない。
+たちまち「鷹」に殺意が芽生え、それとともに復讐心が満ち溢れていった。
+ただ李素裳を殺すだけでは飽き足らない。彼女にはこれ以上ないほど悲惨な死を与えなくてはならない。
+彼は敵を迎え撃つ姿勢を保った。
+ +金砂会の首領は気力を振り絞り、
+目の前の少女を紛うことなく『強敵』と見なした。
+これは戦争だ。
+武術の手合わせでも、決闘でもない。戦争なのだ。
+規模は極めて小さく、目的も単純だが、戦争に他ならない。
+ならば、
+ +この場所は「鷹」が最も得意とする戦場だ。
+この時間は「鷹」が最も戦い慣れている時間だ。
+ +わずか数秒のうちに、彼は頭を高速回転させ、弱み、強み、変数を全て計算した。
+「鷹」はそのことをよく分かっており、恥じることなく認めていた。
+目の前のこの少女の内功と外功は、いずれも自分のそれをはるかに上回っている。
+もしかすると、自分が知っている武術界のどの人間よりも強いかもしれない。
+天と地のような大きな実力差は、最初からこの戦いの結末を決定づけている。
+——もし、これがただの手合わせであればの話だが。
+先ほど2回繰り出した掌打は、いずれも内功を使っていない。「截気散」がまだ効いているのだろうか?
+この二人は地下牢から逃げ出した。「羅刹人」はまだ近くにいるのか?
+この二つの不明の事実も、結末を左右する可能性がある。
+これらを悪い方向で考えれば、「鷹」に勝ち目はないと言ってもよいだろう。
+——もし、不幸にも予想通りになればの話だが。
+……形勢は非常に悪く、勝ち目はないに等しい。
+それでも「鷹」は絶対に勝つ自信があった。
+ +なぜなら、彼は「強み」も計算していたからだ。
+これが一つ目の強み、「経験」だ。
+ +武術界に長年身を置いている彼に比べれば、李素裳は外の世界の経験がないに等しかった。
+彼女は「鷹」が言葉の中に隠した糸口に気が付かず、
+知らず知らずのうちに罠の中へと足を踏み入れていった。
+二つ目の強みは「個性」だ。
+ +「鷹」は敗北の味を知っている。だからこそ、勝つためなら何でもできる。
+一方の李素裳は、融通が利かないほど正直でお人好しだ。
+彼女の心の中では、いまだに公正さと正義が最優先となっている。
+この二つの強みを活かしつつ、
+三つ目の強みに頼るのだ。
+そして、変数に賭ける。
+ +「鷹」は、「勝利」の天秤が必ず自分の方に傾くと確信していた。
+揺らめくロウソクの光が夜の闇の中で幼い少女を照らし、彼女の姿を実際よりもはるかに大きく見せていた。
+一方、正面の男はかすかに前かがみになり、背中、両足、両腕を曲げていた。[\s]
+この構えは河東駱氏に伝わる奥義「虎吼震九霄」だ。
+男と少女は向かい合って立ち、微動だにしないまま互いに探り合っている。
+ +今夜の月明かりのような沈黙が小さな中庭を包み込んでいた。
+東洋人が決闘する前は、いつもこのような静寂が訪れるのだろうか?
+……
+ +二人とも、相手の隙を窺っている。
+ +しかし、三人目の人物はやや痺れを切らしていた。
+その一瞬、真気の動きが滞り、虎吼の構えも消えたのだった。
+パンッ![\s]
+平手打ちの音が鳴り響いた。
+「鷹」は怒りが収まらなかった。
+気の動かし方を誤り、ほんの一瞬だけ真気を失ってしまったところに、少女の平手打ちを食らってしまったのだ。
+ +大した被害を受けてはいないものの、この失態によって彼は面目を失ったと感じていた。
+ただし、李素裳はまだ本気を出していないようである。
+ +このことで、「変数」に対する自信が増した。それと同時に、屈辱感も倍増した。
+彼は長いこと「虎吼功」を使っていなかった。久しぶりに使ってみたが、やはり錆びついているようだ。[\s]
+ +敵は気を抜いて勝てる相手ではない。同じ過ちは絶対に繰り返せなかった。
+二人は空中で三つの技を繰り出した。
+力は拮抗しており、どちらも優位に立てなかった。
+虎の咆哮が空を飛ぶ燕を驚かせる。[\s]
+ +河東駱家の虎吼震九霄はかねてから勇ましいことで有名であり、
+垂燕十三式は軽快かつ変幻自在で、どちらにもそれぞれの強みがあった。[\s]
+ +しかし、実力では勝っているはずの少女は「鷹」を相手に互角がやっとだった。
+このこと自体が、信じられないような躓きだった。
+「鷹」は賭けに勝った。
+戦いが始まった時から、李素裳は真気を使うことができなかった。
+彼女が家伝の垂燕十三式の後に太虚啓剣形を続けたのは、
+まさにそのことを確かめるためだったのだ。
+(あの薬はアタシに効いていないはずなのに……)
+内功の強さで言えば、自在門の「太虚剣気」は天下一だろう。
+神州の各派にはそれぞれ独自の心法がある。しかし、形式は変われど本質は変わらず、結局は鍛錬次第なのだ。
+ +真気を水に例えると、通常の内功は水を入れる器を鍛え、容量を増やしていくようなものだ。[\s]
+過酷な鍛錬を繰り返さなくてはならないばかりか、上達も非常に遅い。そして何より、人体に大きな負担をかける恐れがある。
+一方の「太虚剣気」は、他の功法とは本質的に異なっている。[\s]
+ +「剣心」は「容器」ではなく、「桟道」を鍛える。
+ +天地万物から真気を吸い取り、内功を体の中で小川の水のように自由自在に流れさせるのだ。
+この新しい方法は、太虚一脈の祖師である精衛真人が作り出した。
+奥深く不思議なものだったが、非常に大きな制約もあった。
+例えば、男性が太虚剣気を鍛錬した場合、大多数が途中で挫折し、上達できなくなる。類まれな才能を持つ少年でもない限り、この奇功を習得するのは不可能なのだ。
+一方、女性が太虚剣気を鍛錬した場合、わずかな労力で大きな成果が得られる。
+平凡な才能の持ち主でも、男性の手練れに勝てるほどの強さを手にすることができるのだ。
+素裳の師匠は、歴代最強の剣心と言われ、内功だけに限れば、世界の誰にも負けないほどだった。
+ +その彼女が教えた少女も、並外れた腕前を持っている。
+しかし、真気を使えなくても、少女にはまだ絶対的な強みがあった。
+剣心を鍛錬した肉体の強度は、常人をはるかに凌駕しているのだ。
+そして剣形は、世界で最も奥の深い武術である。
+大男は雨のように重い拳を繰り出すが、李素裳は一式の守剣形だけでほとんど防ぎ切った。
+金砂会の首領はまったく疲れていないかのようだった。
+柳のように伸びやかな少女の柔勁に尽く拳を阻まれながらも、
+一瞬たりとも攻撃の手を緩めなかった。
+こんな簡単な理屈を「鷹」が分かっていないはずはない。[\s]
+しかし、彼はどうして変わらず猛攻を続けるのだろうか?
+同様に、「鷹」も機会を窺っていた。
+そのために、彼は自分から隙を見せようとしていた。
+「鷹」は既に少女の性格を理解している。
+「平手打ち」の仕返しをするまで、少女の攻撃目標は決して他に向かないはずだ。
+敵の意図さえ分かってしまえば、
+その目標は急所ではなくなり、命を救う護符に変わる。
+「鷹」は全力で猛攻を仕掛けると同時に、肩の上の部分だけを守っていればよかったのだ。
+同じく命を賭けて戦っている李素裳に比べ、彼の負担は圧倒的に軽い。
+もちろん、彼は「賭け」に応じるつもりなどなかった。
+宝剣を手元に残し、李素裳の命も取るつもりだ。[\s]
+そのために平手打ちを食らったとしても、どうということはない。
+「鷹」はあらゆる技や秘技を惜しみなく繰り出す。その目的は敵を傷つけることではなく、
+あの「軒轅」古剣がある場所に近付くためだった。
+双方が互いに技を繰り出した瞬間、「鷹」はすぐさまこの少女が幼いながらも恐るべき腕前を持つことに気付いた。
+勁力の強さや敏捷さは言わずもがな、虎吼九霄の中で自由自在に技を変えて繰り出せている点だけを見ても、武術界でも一流の腕の持ち主と言えるだろう。
+その点だけは、彼は足下にも及ばなかった。
+戦いが長引けば、敗北は必至だった。
+——戦いの規則を守ればの話だが。
+しかし、「鷹」は規則を守る人間ではない。[\s]
+彼の望みは試合に勝つことではなく、戦いに勝つことだ。
+これこそが三つ目の強み、「目的」である。
+ +同じ「勝利」でも、「鷹」の「勝利」と李素裳の「勝利」はまったく異なっていた。
+少女が追い求めているのは「試合」に勝つことだ。
+「鷹」が望んでいるのは「戦い」に勝つこと。
+「戦いに勝つ」……これは欲しいものを手に入れ、壊したいものを壊すことを意味している。
+ +だから、李素裳は約束を守っている。
+一方、「鷹」は約束を利用するのだ。
+ +相手の「標的」を利用して自分を守り、
+自分の「隙」を利用して敵をおびき寄せ、
+さらにあの鋭利な「宝剣」を利用して相手を殺す。
+これこそが「鷹」の仕掛けた罠だった。[\s]
+これまでのところ、全てが彼の思い通りに運んでいる。
+宝剣は彼のそばの石畳に突き刺さっている。[\s]
+手を伸ばせば届く……
+「鷹」が左手を緩める。[\s]
+仕掛けは完成した。片を付ける時が来たのだ。
+必殺技、技の駆け引き、一進一退の攻防など、期待していたものは一切ない。
+あったのは怒涛のように押し寄せ、せわしなく単調な攻撃と、徐々に罠を形作っていく防御だけだった。
+彼女の目は既に「鷹」の拳術に慣れている。
+「剣心」で観察を続け、虎吼震九霄にも
+対抗する術があることを見つけた。
+新たな「隙」はその時に訪れた。
+「鷹」の右拳はまったく威力がなく、明らかに陽動だった。[\s]
+しかし、その陽動は敵を誘い込むためでも、防御のためでもなく、彼女に態勢を整える十分な時間を与えるだけの、実に中途半端な動きだった。
+素裳はそのわずかな隙をずっと待っていた。
+一式「化剣・雲鷹」で防御から攻撃に転じ、
+瞬時に「開剣・瞬塵」を繰り出して「鷹」の喉元に突き刺した。
+太虚剣気の剣は実体を伴って伸びる。[\s]
+剣を手にしている場合、この技は真気を注入して敵の喉の急所を真っ直ぐに狙う無慈悲な剣術となる。
+李素裳の神速をもってすれば、相手は無理矢理この剣を受ける以外になす術はないだろう。
+彼女は剣の代わりに指を使い、「鷹」の返し技に備えていた。
+しかし、「鷹」は防御も回避もしなかった。[\s]
+それどころか、彼の上半身ががら空きになり、隙だらけになる。
+勝利に近付いた時ほど、危険が増す。
+生きるか死ぬかの状況になると、人は往々にして思いもよらぬ行動を起こせるものだ。
+「瞬塵」の速度は極めて速く、彼女に考える時間を与えてはくれなかった。
+剣が実体を伴って伸びる。「鷹」が応じなければ、たちどころに絶命するだろう。
+間一髪のところで、李素裳は唐突に気が付いた。
+実のところ、自分はこれまで覚悟ができていなかったのだと。
+彼女には剣を扱う覚悟、戦う覚悟、勝利の覚悟、人を殺める覚悟がなかった……
+彼女は15歳の少女に過ぎず、武術界に足を踏み入れたつもりになっているが、実際には人の命を大切にする情、命に対する畏敬の念を捨て切れていなかった。
+間もなく自分の手にかかって死のうとしている極悪人を前にして……
+首を賭けた約束、平手打ちの仕返し、一瞬で全てが頭から消え去った。
+李素裳は歯を食いしばり、技を引っ込めることにした——
+繰り出した太虚剣気を無理矢理押し戻す。
+反動の指の力が体に戻り、腕に大きな痛みが走った。
+技の勁力を分散させるため、彼女はつま先を軽く叩き、
+「飛燕帰巣」を繰り出し、回転を利用して力を削ぐしかなかった。
+ちょうどその時、足下にザザッという音が響いた。
+一筋の白い光が目の前で煌めき、先ほどまでいた空間を寸断していた。
+素裳が技を引っ込めるのと同時に、
+「鷹」の左手が急に「軒轅」を引き抜き、上向きに斬撃を繰り出した。
+少女が後ろにさがっていなければ、体は一刀両断されていただろう。
+李素裳の優しさが正しかったのかどうかは分からないが、
+彼女自身の命を救ったのは間違いない。
+(あれはロウソクの光?それとも月明りかな?)
+死が訪れる直前、李素裳はふと思った。
+十年の修行で極めた剣心はとても穏やかだった。[\s]
+これまで死に直面したことがなかった少女だが、死の間際、これほどまでに虚しくなった。
+それは女性の声だった。
+遠い場所から、はるか遠くの場所から聞こえる……
+彼女は体からほんのわずかな距離で剣の刃を受け止めた。[\s]
+続いて指で弾いた。
+この指の動きは、かつての師匠の指さばきに匹敵するほど完璧だった。
+両者の目的は古剣「軒轅」だ。[\s]
+手にした者が勝ち、手にできなかった者は死ぬ。
+(……アタシを助けてくれるよね?)
+体の動きを、完全に本能に任せる。
+「少女」の、李素裳の意識が呟いた。
+「あんたはアタシの剣でしょ……」
+軒轅は最高の位置に達して一瞬停止すると、すぐに落下してきた。
+突如、李素裳の中に、とても懐かしい感覚がこみ上げてきた。
+この光景、どこかで見たことがあるような?[\s]
+ +目の前に落ちてくる剣は、どうしてこれほど親しみがあるんだろう?[\s]
+ +…………
+何年も前のこと
+…………
+指が剣の柄に近付いていく。
+剣のぶつかり合う音が、少女の頭の中で鳴り響いているかのようだった。
+まさにその時、李素裳は、自分が「剣意」を会得したのだと確信した。
+この時の絶望と失望は今まで以上に大きかった。[\s]
+ +少女は死ぬことを恐れてはいない。[\s]
+ +しかし、希望を手に入れては失い、頂上まで登りつめては落ちていく苦しみを味わったのだ。
+体に沁みこむような大きな後悔とともに。
+悲鳴や震えは絶えることがなかった。
+「——いや!」
+次の瞬間には一刀両断されようとしていても、
+本能は負けを認めようとはしなかった。
+極めてぼんやりとした意識が素裳の掌剣を押し出し、
+相打ちするつもりで必死に敵に攻撃を繰り出す。
+この瞬間、「死」を理解して受け入れた少女は、
+ついに一足遅れて、手にしたのだ……
+「鷹」は剣客ではなく兵士である。
+ +彼が使うのも剣術ではなく、刀術だ。
+そのため、逆手で柄を握った彼は、習慣的に手首をひねり、
+刃側を前にして敵に向ける。
+しかし、今夜は——[\s]
+ +今夜、勝敗と生死を決める一瞬、
+「鷹」の脳裏にある奇妙な考えが浮かんだ。[\s]
+ +その考えは、彼が剣舞をしていた時に知らず知らずのうちに根を張り、芽を出していた。
+(剣術と刀術は違うはずだ……)
+ただの思いつきにすぎなかったが、拭い去れなくなってしまった。[\s]
+ただの思いつきにすぎなかったが、「鷹」の生死を分ける場面で、手首をひねる習慣を止めさせてしまった。
+そのおかげで、彼は一瞬の時間を無駄にせずに済んだ。[\s]
+その一瞬を無駄にしていれば、剣の刃が少女の体を切り裂く前に彼は死んでいただろう。
+少女の掌剣が稲妻のごとき速さで真っ直ぐ頭に向かってくる。
+「鷹」は剣の柄を握りしめ、逆手のまま振り上げる。[\s]
+ +剣と刀は違う。剣は両刃で前後は関係ない。
+このように、ほんの一瞬の違いが、結果を全く異なるものにすることがある。
+非常に鋭利な宝剣が月の光を切り裂いた。[\s]
+剣先は柔らかく貫通し、少女の体に別れを告げ、両断する。
+ +薄い紙を切り裂くかのごとく、容易く。
+彼女の視線は空中の一点を見つめたまま固まり、もう動くことはない。[\s]
+恐るべき手刀も力を失い、動きを止める。
+「鷹」は少女を殺し、彼女の剣を奪った。
+ +辛く残酷ではあるが、勝利に変わりはない。
+——そうなるはずだった。
+しかし、剣の切っ先が前を向き、李素裳の腹部に突き刺さろうとした時、「鷹」の真気が急に消えた。
+長年鍛錬してきた強力な内勁が、まるで存在していなかったかのように跡形もなく消え去った。[\s]
+彼が何をしようと、空虚な経脈は何の反応もなかった。
+[em italic]バカな——[/em]
+恐怖という名の寒気が瞬時に「鷹」の血管を駆け巡った。
+[em italic]バカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカな——[/em]
+彼の内息や気の動きには何の問題もなかった。
+彼も、このような時に自分の気が暴走することはないと確信していた。[\s]
+ +しかし、それは実際に起こった。彼の勝利が目前に迫った時に。
+今夜、彼が内功を完全に失ったのはこれが2度目だった。
+ +「鷹」はどういうことなのかを急に理解できた。しかし、時すでに遅しだった……
+力が入らない手は、剣の柄を握っていられなかった。
+ +「軒轅」は空中の少女を切り裂き、骨が見えるほどの深い傷を負わせたところで彼の手から離れた。
+少女の掌剣が彼の頬を打つ。[\s]
+ +平手打ちと骨が砕けるような音とともに、強烈な痛みと無念の感情が襲ってきた。
+[em italic]何故だ?[/em]
+砕けた側の頭から暗闇が押し寄せ、彼を呑み込もうとするが、彼は必死に抵抗した……彼の両目は狂ったように動きながら、何かを探している……
+[em italic]何故だ————!?[/em]
+あるものが彼の目に入った。[\s]
+ +遠くの、古い宿場の広間、彼が気に入っていた椅子の前に一人の男が立っていた。
+[em italic]羅刹人……[/em]
+その男の横には、棺が静かに立っている。
+[em italic]貴様か……[/em]
+男は遠くから彼を見ていた。ロウソクの炎が揺らめく。彼は目を凝らして、その男の表情を見ようとした——
+[em italic]貴様か!!!!!![/em]
+彼の思考はそこで止まる。
+怒りがこみ上げてきたところで、暗闇が彼を呑み込み、連れ去ってしまったのだ。
+疲労と痛みが怒涛のように押し寄せる。まるで、再び体の支配権を取り戻したことを少女に知らせているかのようだった。[\s]
+……ただ、その知らせ方はあまりにも残酷だった。
+少女の口の中に、しょっぱい血の味が広がる。人生を疑うほどの苦みを伴っていた。[\s]
+ +内臓が破裂したとかじゃないよね?
+……剣に斬られた腹部から急に痛みを感じるようになった。
+武術の修行には怪我や病気がつきものだが、
+これほどの重傷は少女にとって初めてのことだった。
+[em italic color=#FAFAD2]これが勝利の味だとしたら……
+本当にほろ苦いんだね。[/em][\s]
+ +李素裳はあれこれ考えているうちに、思わず吹き出して笑った。
+そしてまたもや痛みで顔をしかめた。
+返事はなく、ただ足音がコツ、コツと聞こえるだけだった。[\s]
+コツ、コツ。[\s]
+遠くから近くへ、誰かが歩いてきた。
+李素裳が問う。
+その声はとても小さく、耳元のガサガサという音のせいで、自分でもよく聞こえぬほどだった。
+[em italic color=#FAFAD2]これでも酷くないっていうの?[/em]
+李素裳は聞こうとしたが、あえて心の中に留めておいた。
+素裳の目には、その物体は不思議な花模様が描かれた真っ白な紙の傘のように見えた。
+傘はとても長く、先端は尖っており、とても鋭利だった。
+[em italic color=#FAFAD2]金髪の人って、汗も金色なのかな?[/em]
+李素裳は考えながら、心の中の3割が後悔、3割が喜び、3割が恥ずかしさで埋まる。残りの1割は彼に対する申し訳なさだった。
+夜の風が優しく吹き抜け、羅刹人の長い金髪をなびかせる。
+髪の毛が顔をかすめ、微かにくすぐったく感じた。
+李素裳はそのことを口に出そうと思ったが、言いたくないとも考えた。
+彼女は思い切って目を閉じる。[\s]
+ +羅刹人の言ったように、体のあちこちが痺れたり、痛くなったりしていくのを感じた。不思議な感覚だが、我慢できるものだった。
+生と死の境を経験した少女は、天の裂け目を飛び越えたかのような気分だった。
+今朝の自分のことを思い返すと、一昔前のような気がした。
+満足感と虚しさ、楽しさと悲しさ。
+李素裳の心の中では、何とも言えない感情が交錯していた。
+いつの間にか、痛みは徐々に消えていった。[\s]
+素裳の心の中に、成長したという小さな誇りが満ち溢れていく。
+天穹峰、入雲階。
+不思議な形の峰が天に向かって伸び、山の階段が延々と続いている。
+ +見上げても、石段の先は見えず、山の中腹にかかっている雲や霧しか見えなかった。
+山は高く、その山の頂にいる人物も達人だった。
+数千段の石段を登ると、峰の頂に「拂雲」という名の小さな道観が見えた。
+名前、構造、屋内の調度品、
+拂雲観のどれもが、かつての太虚山、精衛真人の旧居とまったく同じであった。
+この道観の主こそ、
+まさに現在の神州六大派の一つ「太虚剣派」の当主だった。
+精衛の一番弟子、「軽塵剣」の林朝雨。
+……当主の寡黙な性格に加え、困難で長い道のりが待ち受けている。
+そのため、太虚門の門弟はよほど重要な用事でもない限り、この入雲階を登ってくることはない。
+ +そのため、この日もいつもと変わらず、穏やかで平凡な一日になるはずだった。
+武術界に現れることは滅多になく、その門弟たちも目立たないように行動している。[\s]
+しかし、この者の名前は、六大派の当主や長老に劣らないほど有名だった。
+彼女こそ精衛の二番弟子、現在の「無双門」の主、[\s]
+「無双仙人」——蘇湄だった。
+門を叩く者がずっと待っていたことに気付いていないかのようだった。
+「軽塵剣」こと林朝雨は、ゆっくりと中から出てくると、かつての二番目の妹弟子を冷たい目で見た。
+その声が林朝雨の耳の中へと入り、細い尖った針のように彼女の心を刺した。
+彼女は思わず目の前の女性を一瞥する。
+美しい顔には潤いとハリがあり、触れれば破けてしまいそうだ。
+彼女の目は……相変わらず大きく、人を魅了する……
+彼女の唇は朱く、色っぽいと思えるほどだった……この女狐は、一体どれだけの紅を使ったのだろう?
+蘇湄の言った彦ちゃんとは、二人の弟弟子「百里逐駒」こと、馬彦卿のことだ。[\s]
+ +この太虚剣派の六番弟子は傲慢な性格で、常に世間に縛られずに生きている。
+ +馬彦卿と「無双」蘇湄は親密な関係で、武術界の誰もが羨む武術家の男女だった。
+しかし彼は突然、二十歳以上も年の離れた一番上の姉弟子と結婚すると宣言し、武術界に衝撃を与えた。
+ +婚礼の当日、今度は酒に酔った勢いでくだらない話をし、自分の昔の名前を恥じて捨てたと言い、居合わせた招待客たちに気まずい思いをさせた。
+結婚後も、この太虚剣派の副当主が腰を落ち着けることはほとんどなかった。
+ +1年のほとんどを、自分の愛馬「夜血」と共に各地を旅して過ごしている。彼の行いは良く言えば「義侠心がある」、悪く言えば「悪事を働いている」ということになるだろう。
+上は権力者や金持ち、下は悪党や盗賊に至るまで……馬非馬は相手が誰であろうと構うことなく手を出し、喧嘩を売っていた。この「狂人」は十年ほどの間、確かに各地の武術界で名を馳せていた。
+[em color=#FAFAD2 italic]いえ……[/em]
+林朝雨は心の中で思った。
+[em color=#FAFAD2 italic]彼が嫌っているのは過去、まさに、あなたが作り出した過去よ。[/em]
+その思いは胸にしまい、それきりにした。
+それを言葉にすることもしなかった。
+林朝雨は再び聞いた。[\s]
+蘇湄は彼女に向けていた視線をすぐに逸らし、ため息をつきながら言う。
+突如、怒りの炎が硬い氷を融かした。
+林朝雨は大きく前に一歩進むと、銀色の長剣を音もなく左手に握る。
+長年溜め込んでいた言葉を痛烈に吐き出したが、決して気分は良くなかった。
+林朝雨は相手の沈黙に満足したが、その沈黙を訝しんでもいた。
+風が吹き荒び、天穹峰の頂には骨に突き刺さるような寒さが漂っている。
+このような天気は怒りをかき立てるが、怒りの炎をかき消して意気消沈させることもある。
+二十年前のあの日の話題になり、林朝雨は無意識に一歩後ずさりした。[\s]
+冷たい空気が背筋で凝結して水滴となり、氷のような汗となって服の背中を滑り落ちていく。
+何年もの間、あの時の光景は骨の髄にまで入り込み、彼女を苦しめ続けていた。
+彼女は過去を振り払ったつもりでいた。
+しかし今日、蘇湄が訪れたことで、古傷に再び触れることとなった。
+再び顔を上げて蘇湄を見た時、林朝雨の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。
+それは、怒りと疲労が限界を超えたことによる笑みだった。
+林朝雨はドキッとした。[\s]
+それは彼女がよく知っている蘇湄の目だった。
+秦素衣の最初の記憶は、一片の青だった。
+青い海が音を立て、波が彼女の足元を撫でる。幼い秦素衣は海辺に立っていた。
+ +何故か分からないが、その光景を思い出す度に、彼女は嬉しくなる。
+顔を伏せると、柔らかい砂と白い波。顔を上げると、青い空と白い雲。
+近くで誰かが話しているようで、声が聞こえる。しかし、秦素衣は振り向かなかった。
+シャ——
+ +ヤ——カ—カ——
+奇妙な音がカモメたちを驚かせ、その羽根がゆっくりと落ちていく。
+師匠は後ろからやって来て、彼女を抱き起こし、連れ帰った。
+師匠の袖は赤く染まっていたが、その腕はとても温かかった。
+この人の腕の中にいると、穏やかな気持ちになる。
+それより前のことを、秦素衣はもう覚えていない。
+その年、精衛仙人は東海で璃島の妖獣を退治した。
+その年、八歳だった秦素衣は太虚山、精衛真人に弟子入りし、七番弟子となる。
+一番弟子の林朝雨は、知らない場所に来て不安であった素衣の傍にいて、彼女の代わりに部屋を片付け、生活用品を揃えた。
+最初、秦素衣は言葉も忘れていたが、林朝雨は、一言一言付き合ってくれた。
+それは彼女にとって、物心がついた時から最も楽しかった時間である。数年後、彼女の人生で最も苦しく、絶望した時にも、彼女はよく当時のことを思い出した。
+林朝雨は彼女と三日間一緒にいた後、六番弟子の馬彦卿の世話に戻ると言い出した。
+太虚剣派の弟子は入門した日時で順番が決まる。秦素衣は一番遅く弟子入りしたが、一番幼い訳ではないのだ。
+彼女は五番弟子と同い年で、六番弟子よりも三つ年上である。
+六番弟子のことは彼女も知っている。師匠が彼女を山に連れてきた時、六人の弟子——女五人に男一人が出迎えに来た。一番上の一番弟子の年齢は、師匠とそう変わらない。彼女の腕には迷った表情をした子供がいる。
+秦素衣は好奇心からその子を何度も見たが、男か女か分からなかった。
+その横には同じ顔をした女の子二人が並んでいる。片方は素衣を観察していたが、もう片方は目を横に向け、何かから隠れているようだった。
+その左には、赤髪の少女がいる。彼女は砂糖に漬けた果物を口に入れ、素衣に向かって片目をつぶった。綺麗な笑顔だった。
+右側を見ると、みんなの後ろに立つ少女が見える。彼女は金色の剣を持ち、無表情だった。
+三日は瞬く間に過ぎていったが、一番弟子は戻らなかった。
+体が弱いからか、それとも環境が合わなかったためか、秦素衣は病気になってしまった。最初は全身から寒気がする程度だったが、その後、火傷をしてしまうぐらいの熱を出したのである。林朝雨は秦素衣を着替えさせ、薬を飲ませ、徹夜で看病してくれた。
+秦素衣も一晩中眠らなかった。高熱のせいでぼんやりしていて、記憶が曖昧だった。
+彼女はなんとなく、赤髪の少女が綺麗な男の子を連れてお見舞いに来たことを覚えている。邪気を祓うと言って、二人が彼女の枕の下に丸い何かを置いたような気がするが、起きた後は何もなかった。
+あの双子の姉妹も来てくれたような気がする。一人は一番弟子の傍にいて、手ぬぐいを替えてくれた。もう一人は彼女の手を掴んで、悲しそうに泣いていた。
+金剣を持った、無表情な女の子のことも気になったが、彼女が来たかどうかは分からなかった。
+翌日の正午。強い日差しが降り注いでいた。秦素衣の熱は下がり、まるで生まれ変わったようだった。
+素衣が体を起こして周りを見ると、一番弟子ではなく、赤髪の少女の姿があった。彼女は穏やかな一番弟子とは違う、軽快な足取りで部屋に入り、素衣の周りを一周して、懐から飴を取り出す。
+赤髪の少女が彼女の肩を抱く。何かが服に落ちたような感覚がした。
+秦素衣にとって、誰かに抱きしめられたのはそれが二回目だった。師匠の温かいぬくもりと違い、少女の腕は冷たい。まるで彼女が、虚無の点になるまで押し潰しているかのようだ。
+李素裳が生まれた時の体重は、わずか二斤三両。一本の剣とほぼ同じ重さである。
+山荘の者たちは頭を振り、父親の李紳は母親の秦素衣に向かってこう言い放った。
+ +「この子は生きられないだろう。」
+当時、産後の静養中だった秦素衣はこう答える。
+「素裳が生きることができなかったとしても、それが彼女の運命。
+私は運命を憎まないけど、二人目の子供を作るつもりはないわ。
+これで李家の血が絶えたとしても、それが運命なのよ。」
+それを聞いた李紳は真っ青になり、その場を立ち去ったという。
+乳母と母親が世話したおかげで、李素裳は生き残った。しかも、とても元気に生きている。
+素裳の生後百日の日に、李紳は有名な占い師「小半仙」を山荘に招いた。
+ +小半仙は印を結び呪文を唱え、素裳の周りでしばらく観察した後、声を上げてこう叫んだ——
+ +「若荘主は生まれつき、剣の才能を持つ天才。非凡な運命の持ち主。まさに、大事を成す人相ですぞ!」
+その言葉の解釈は様々である。期待していた以上のことに大喜びした李紳は、己の代わりに娘が武術界の頂点に立つという夢を叶えてくれると思い、宴を開き、盛大に祝った。
+しかし、宴の主役は席にいなかった。
+ +本物の「仙人」の弟子である秦素衣は、冷たい目でその茶番を見ると、娘を抱いてその場を去った。
+ +彼女は寝室に戻り、娘を柔らかい敷物に下ろして、その横に小さい木剣をいくつか置いた。
+ +幼い素裳は剣に触れようと手を伸ばしたが、握ることはできなかった。秦素衣は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
+物心がついた頃から、李素裳の傍には剣があった。だから、彼女が剣を知ったのは、物心がつく前だったかもしれない。
+ +母親は彼女に変わった口訣を教え、父親は憶心剣法の十二の型を一つ一つ彼女に教えた。
+ +こうして、李素裳は幼年期を剣の稽古の中で過ごし、瞬く間に四年の月日が経った。
+幼い素裳は真面目に稽古し、伝家の憶心剣法の出来も悪くはなかったが、それでも母親は彼女を大漠に送り、「弟子入り」させると言って聞かなかった。
+ +そのことに対して、素裳は泣いて喚いたが、多くは抵抗しなかった。
+幼い彼女は漠北、南疆などの場所に対して何の概念もなく、家から離れる感覚もよく分かっていなかったのである。
+大漠に行くことが決まった数日後、人望のある陝中の石硯道人が憶剣山荘を訪れた。貴賓を迎えるため、父親は乳母に、素裳を裏庭に連れていき、稽古させるように命令した。
+ +歳を取った乳母は思うように足を動かせない。素裳は乳母に気付かれないようにこっそりと裏庭を出ると、いつもの位置に隠れて、興味津々に居間を覗いた。
+「李荘主、久しぶりだな。」
+李紳は笑顔で拱手して挨拶を交わした後、座って茶を飲み、会話の続きを妻に任せる。
+——彼の妻、太虚山の仙人「精衛真人」の七番弟子、「染香剣」こと秦素衣にあるのだと。
+当時、精衛真人がまだ世にいた頃、神州の武術界を牛耳る者と言えば、精衛真人以外はありえなかった。
+伝説によると、精衛は下界に降りた仙人。不老不死だけでなく、武術の造詣に関しても比類なき才能の持ち主だという。
+ +しかし十年前、太虚山に突如、金色の光が現れた。仙人は鶴に乗り天へと昇り、業火により太虚山は焦土と化した。
+その件は、武術界で大騒ぎになった。神州を千年以上も守ってきた仙人が、突如天界に戻った理由を、誰もが知りたがっている。
+仙人がすでにこの世にいない今、その答えは自ずと、仙人の七人の弟子である「太虚七剣」に期待することになる。
+キーン——
+年寄りの道士は茶を飲み、蓋を茶器に添え、武術界の近況を話した後、最後はやはり仙人の話題を口にした。
+ +「正直に言うと、若い頃のわしは真人様に助けられたのじゃが、今でも礼を言いそびれたことを後悔しておる。はぁ、精衛真人様はまた戻ってくるんじゃろうか。」
+秦素衣も茶器に手を添え、笑いながらこう答える。
+ +「神仙のことは、我々凡人が勝手に憶測するものではないのです。道士様に仙人との縁があれば、きっと再会できると思います。」
+ +道士は大笑いしながら相槌を打ち、その後、精衛真人に関する話を二度と口にしなかった。
+茶を飲み終えた後、道士は暇を告げた。
+ +父親は客を見送り、戻った時は暗い顔をしていた。
+母親の言葉にあった軽蔑の色に、李素裳は思わず驚く。
+ +彼女の記憶の中では、両親は常に仲睦まじかった。そう……他の夫婦と同じように。
+ +あんな話し方をする父親と母親を、彼女は知らなかった。
+母親はそう言い放ち、居間を出た。
+ +李紳はその場に立ち尽くし、長らく動かなかった。握りしめた拳から音がする。
+ +素裳は、ぼんやりしたままその場に座っていた。驚きがあり、喜びもあった。
+母親は微笑んでいるが、その目には悲しさと申し訳なさがある。
+彼女はまだ母親の言葉の全てを理解できず、一部の感情しか読み取れない。
+それでも、その歳では存在するはずのない重荷が、自身の肩にかかっていることに気付いた。
+「仙人は世界で唯一、何千年も生きてる不老不死の本物の仙人だって言ってたよ。」
- -「三界を超越する無限の神通力を持っていて、片手で神州を平定し、剣一本で天下を平定するんだって。」
- -「神州の守護者として、彼女は数えきれないほどの妖魔や魔物を倒してきたの。」
-「朝廷は彼女を上仙に任じようとしたらしいんだけど、
-でも、彼女は政治や王朝の交替に興味はなかった。
-それでも新たな皇帝が即位するたびに、彼女に挨拶するために太虚山へ行こうとしたの。」
-「仙人に会えたら、寿命が延び、王朝が栄えると言われていたからね。」
- -「一方、仙人に会えなかった君主は、志半ばにして崩御したり、王朝が変わってしまったり、良い末路を辿れなかったんだって。」
-「――大体こんなところかな。他にも色々聞いたけど、忘れちゃったよ。」
-「ふむ……」
-「実例って……邪教の聖主、閻世羅を倒したこととか?目に見えない剣で璃島の妖獣を倒したこととか?
-どれも巷の言い伝えばかりで本当かどうか分からないよ。
-どんな例を聞きたいの?乳母もあまり話してくれなかったから……」
-「たとえば……」
-「仙人が無限の神通力を持っていて、三界を超越しているのなら、人を蘇らせることもできるのかい?」
-「人を……蘇らせる?」
-男の目は李素裳をじっと見つめているが、彼の目に映っているのは彼女ではなく、彼女の横にある、何か巨大なものであった。その巨大なものは光り、熱を発しており、彼の視線も熱を帯びて明るくなり始める。
-「わ、分からないけど……」
-素裳は熱い視線から逃れ、彼の前に置かれた棺をチラリと見た。
-ある考えがパッと閃く。突然、何かが分かったような気がした。
-「あんた……誰かを蘇らせたいの?」
-「ああ。」
-羅刹人は口を開いたが、出てきたのはまったく意味を持たない言葉だった。
-言葉が消え、彼の目つきも暗く、冷たくなった。光と熱が一瞬の間に空中へと散逸する。
-素裳のそばにいたのは、時折悲しげな表情を見せつつ、冗談も言う、これまで通りの異邦人だった。
-「そうか。だから仙人を探してたんだね!……仙人に誰かを蘇らせてもらいたいんでしょ?」
-「その通り。」
-羅刹人は視線を下に向けた。
-「誰でも、こういった願望を持っているものさ。普通だろう?」
-金髪の男が優しそうな笑みを見せる。
-「彼女を蘇らせてほしい。ただそれだけなんだ。単純な話さ。
-だが、願い事が単純であるほど、叶えるのは難しくなる……」
-「あぁ……」
-李素裳はまだ十五歳だった。これまでの人生で愛された時間は短く、ましてや誰かを愛したこともない。そのため、羅刹人の言葉に込められた気持ちを理解することはできなかった。
-「十九年……」
-「ほんの一瞬さ。僕には時間があるからね。彼女も同じだよ。」
-李素裳は、自分のことを言っているのだと思い、少し呆然とした。
-[em italic](仙人は本当にあの人を蘇らせることができるのかな?)[/em]
-羅刹人が伝説の仙人に対して、これほど大きな希望を抱いているとは思いもしなかったからだ。彼を師匠に引き合わせ、仙人に会う方法を師匠が彼に教えれば済むと考えていたのである。難しいことは何もないはずだった。
-しかし、今の李素裳は、他人の願望の中に勝手に入り込んでしまっていた。
-以前は気にしていなかった言葉も、彼女の琴線に触れ続けている。[\s]
-彼女はただ……いや、彼女自身にも、はっきりとはわからなかった。
-「そうだね。うん、戻ってくるよ!」
-彼女は何度もつかえながら言葉を続けた。彼に元気になってもらいたいと、心の底から思っていた。
-しかし、恥ずかしさが邪魔してしまい、どうしても上手く言えず、声もだんだんと小さくなっていく。
-「願いは……きっと叶うよ。」
-「……」
-羅刹人は口角を上げ、かすかな笑みを浮かべた。
-「ありがとう、素裳。」
-李素裳は呆然とした。そして、自分もおかしな笑い方をしていることに気付く。
-彼女は慌てて口をとがらせ、視線を逸らす。
-偶然にも、その大男も李素裳と羅刹人をチラリと見た。
-それは何気ない一瞥だったが、一瞬、何かに目を止めたかと思いきや、目つきを鋭くした。
-「……まったく。」
-それは、突然襲いかかってきた男が、彼女のよく知っている技を使ったからだった。
-その技は太虚剣気「開剣形」の「岩破」だった!
-――それは太虚五蘊の最高境界ではないか。
-彼女が知る限り、世界でそれを会得しているのは師匠だけだ……
-体つきは長身で細身、整った顔立ちをしているが、見てくれだけで中身は大したことはなさそうだった。呼吸は基礎もできておらず、武術も平凡そうに見える。[\s]
- -しかし、馬非馬はよく分かっていた。この者は見た目とは違い、一筋縄でいく相手ではない。
-剣心を使って見てみると、彼の体内の真気の動きは極めて不自然だった。[\s]
- -普通の人間が内功を流す、奇経八脈の中が空っぽのようなのだ。
-だというのに、手の三陽三陰の真気は暴走しそうなほど勢いがある。
-先ほど彼が剣で馬車を停めた時にも、この羅刹人はとても不思議な反応を見せた。
- -手足を動かしていなかったのに、ひっくり返った馬車の影響を一切受けていなかったのである。まるで、宙を浮遊するかのように。
-馬非馬は信じられなかった。
- -金髪の男は、極めて優れた内功の使い手であることを隠しているのだろうか。それとも、怪しい武術の使い手なのだろうか。どちらかではあるのだろうが、と馬非馬は考える。
-それにこの者の両目は……
- - -とても若い顔立ちをしているが、それにまったく釣り合わない、奥深い目をしている……
-馬非馬の脳内に、注意を促す囁きが聞こえてくる。[\s]この羅刹鬼は俺を殺せる人間だ。
-[em italic](本当か?……この男にできるのか?)[/em]
-胸の中で、重い苦しみと渇望が激しい渦を巻いていた。
-馬非馬は目を閉じる。[\s]
- -死。[\s]
- -夜気の中で咲き誇る花のように、死という刺激が心に広がっていき、あっという間に全身の寒さをかき消した。
-[em italic](いいだろう……お手並み拝見といこうじゃないか!)[/em]
-馬非馬は自分にそう言い聞かせる。[\s]
- -囁きは彼の言葉を受け入れ、ひとまず衝動を抑え込んだ。
-そして、待ち切れないとでもいうように主人の号令を待つ。
-[em italic](こっちの女は……)[/em]
-馬非馬は急に嬉しくなる。
-この中途半端な太虚守剣形から、二十年前に姿を消した上品な女性の姿がぼんやりと見えるようだった。
-その歳月は彼にとって懐かしくもあり、心が痛むものでもあった。
-ちょうどその時、羅刹人が口を開いた。
-とても小さな声だったが、馬非馬のかすかな感慨を台無しにするには十分だった。
-傷だらけの男は思わず満面の笑みを浮かべた。[\s]
-彼の顔にある剣の傷痕が、まるで炎が燃え上がるかのように赤くなる。
-好奇心が再び勢いを増し、抑えきれない衝動に変わった。
-また耳元で囁きが聞こえる。「この男こそ、俺を殺せる人間だ。」
-果てしなく広がる黄砂が、太陽に照らされている。
-目に見えない気の波とともに、汗が噴き出るほどの熱気が押し寄せてくる。
-しかし、目の前の男が放つ冷たい殺意に、李素裳は寒気がした。
-上がる口角と共に赤い古傷が動く様子は、やや不自然だった。しかし、彼は楽しそうに屈託のない笑顔を見せている。
-男は笑い終えると、表情をやや和らげた。
-――突如、異変が起こった。
-激しい殺意が急に空を覆ったかと思うと、すぐさま跡形もなく消えてしまったのだ。[\s]
-まるで、目の前の人物の形跡が世界から消えてしまったかのようだった。
-無意味な感情や価値のない思考を捨て、
-欲望、怒り、邪念、憎しみを捨て、明鏡止水のような空虚さを保つ。
-それこそが太虚剣心であり、精衛真人が生み出した神業なのだ!
-「百里逐駒」こと馬非馬……
-数歩ほど後ろに下がった羅刹人は、顔を上げて馬非馬を見つめた。
-彼は何も言わず、その目は虚ろだった。
-目の前の敵は、決して力を抜ける相手ではない……
-全力を出したとしても、必ず勝てるという保証はない。
-何しろ――彼は太虚剣派の六番弟子、師匠と同等の腕を持つ最高の使い手なのだから!
-[em color=#FAFAD2](もう。人生初の決闘から数日も経っていないのに、また戦わないといけないなんて。)[/em]
-しかも相手は武術界最強の七人の中の一人……
-[em color=#FAFAD2](まさに本に書いてあった通りだね、武術界ってとこは、海のように深い。)[/em]
-李素裳は心の中で意味のない嘆きを呟くと、それを原動力にし、溢れんばかりの闘志に変えていった。
-心は穏やかで波風一つなく、透明で、澄んでいた。
-これは馬非馬の「止水」よりも高い境界だった。
-剣心・明鏡。
-三日前の素裳であれば、この技に対して為す術もなかっただろう。
-心は鏡のように澄んでおり、外界のものを映し出している。
- -馬非馬の動きは彼女の澄み切った心の湖に落ちると、煌めき輝く波のように緩慢な動きになった。
- -虚空に入った瞬間、彼女は男の技を見切るだけでなく、すぐさま最も適した返し技を繰り出した。
-素裳は躊躇うことなく右手を動かす。
-布に包まれていた軒轅が空を舞った。
- -剣身が回転し、刃が寸分の狂いもなく男の手の平に向けられる。
-[em italic]――技を止めて![/em]
-李素裳はそう祈った。
-しかし、男の掌打は躊躇うことなく、真っ直ぐと軒轅に向かってくる。
-鉄をも切り裂く神剣ではなく、脆い竹竿を相手にしているかのように。
-強い箇所を避けて虚を突く。防御力が最も高く、硬いものを逆手にとって弱点へと変える。
- -――太虚開剣形の「震風」は、まさに真気を巡らし、強烈な振動を引き起こす不可思議な技だった。
-無防備な状態で掌打を受けた素裳は、表面はそこまでではなかったものの、内臓に重い傷を負っていた。
-最も衝撃を受けたのは頭部だった。今も、激しい衝撃の余波が残っている。
-捻じ曲がった世界の中で、彼女の目が捉えられたもの。
-それは、羅刹人の翡翠のような目だけであった。
-一撃。[\s]
-馬非馬はたった一撃で勝利した。それでも、顔に喜びの色はなかった。
-掌からは命中した手応えが伝わってくる。
-馬非馬は思わず羅刹人の方を見たが、無反応で失望する。
-無反応……そうだ。
-羅刹人は素裳を注視していた。まるで、石や砂粒を見つめるかのような目で。
-落胆の感情が俄雨のように押し寄せてくる。
-冷雨のような感情が頭から足先まで降り注ぎ、馬非馬をその冷たさで包み込んだ。
-馬非馬はこの金髪の男が気に入らなかった。それは、本質的な拒絶と嫌悪感だった。
-例えるなら、この羅刹人は世界の外で孤立し、浮いている氷のようなものだ。
- -何も必要としておらず、何も気にしていない。たとえ世界が滅んだとしても、いつまでも漂い続ける。
-一方の馬非馬は――炎のような存在だ。
-世界は煙で、馬非馬は燃え盛る炎だった。
- -彼が燃えているからこそ、この世界は存在している。
-強烈な感情、爆発的な衝動、破壊的な戦いこそが彼を存在させている。
-そして、その虚ろでぼんやりとした存在の中から、己のかすかな断片を見つけるのだ。
-それらの断片こそが、人生の意義。
-それは間違いなく、本物の古剣・軒轅だった。
-精衛真人が七人の弟子に授けた宝物だ。
-馬非馬は自分の力をよく分かっていた。彼は内勁をほぼ抑えていた。重傷を負うことはあっても、命に別状はないだろう。
-それでも無視できるほどの傷ではないはずだが。
-十六歳で剣心を「明鏡」の境界にまで鍛え上げた……
-七剣の中でもこの才能を上回るのは、十三歳で「太虚」を会得した凌霜くらいだろう。
-少女の鼻先から血が滴り落ちた。
-李素裳が顔を上げる。その目は焦点が定まっていなかった。
-馬非馬は、このような表情を何度目にしてきたことだろう?
-二十年もの間、大勢の人が彼の命を狙いに来た。
-多数の英雄、豪傑、優れた若者が彼に挑んだ。
- -そのほとんどがこうだった。
-僅かな勝ち目すらなくても、最後まで諦めず、生死を分ける一瞬の可能性に賭けていた。
-しかし、馬非馬はそれが嫌いなわけではなかった。
-それどころか、彼を夢中にさせていた。
-何故なら……この霧に包まれたかのような世界で、馬非馬は孤独であったからだ。
-たった一度だけの縁でも、今後二度と会うことがなくても――[\s]
- -挑戦者が自らの命を燃やし、存在を証明しようとする姿を見ていると、己が世界に認められたように思えるのだ。
-馬非馬は、そうした人の形をした霧が自分を包み込んでくれるような気がしていた。生きているという実感を与えてくれるのだ。
-だから彼は、いつも戦いの相手に機会を与えていた。
-だから、[\s]
- -彼は、いつも自分が殺されることを望んでいた――
-素裳は軒轅剣を拾うと、じっとそれを見つめた。[\s]
-馬非馬の言う通りなら、自分の軒轅剣はどうして変化しないのだろうか?
-少し残念だった……しかし、それも事実なのだろう。
-一口、苦い血を飲み込んだ。喪失感、羞恥心、悔しさ、悲しみも共に呑み込む。
-大丈夫。素裳、二度目の試練の機会でしょ?
-彼女の体はまだ震えていた。止まらなかった。特に、両足が震えていた。[\s]
-しかし、彼女の瞳……彼女の視線は力強かった。それは――
-「生きていくの。」
-その声は、李素裳の心の湖で反響した。
-湖面に波はなく、まさに止水であった。
-「ちゃんと生きていくの。」
-心の湖に声が響き渡る。
-澄んだ風、そして、塵や埃も止まる。
-「約束して……」
-声が……響いている。
-心は鏡のように大地を映し出す。
-何故剣意が成っていなかったのか?もう疑うことはない。[\s]
-何故剣意が成っていなかったのか?もう悔やむことはない。[\s]
-何故剣意が成っていなかったのか?もう執着することはない。
-悩みはすべて捨て去り、剣に集中する。[\s]
-剣という人を殺める武器を使い、[\s]
-剣術という人を殺める術を使う。
-敵を殺し、生き延びる。
-素裳の頭にあったのは、それだけだった。
-何と皮肉なことだろう。目的はかくも単純だったのだ。[\s]
-しかし彼女は回り道をしてしまった。遠い回り道を。
-剣の柄を握りしめると、安心した。
-今、彼女が頼れるのはこの古剣軒轅だけだった。
-目尻の血や口元の汚れを拭う。
-そして少女は剣を手にした。
-いかなる剣の構えもとらなかった。しかし、
-啓、化、守、開。
-飛鶻、玄隼、[\s]雨燕、藤雀、[\s]雲鷹、月鷺。[\s]
-垂柳、幽蘭、勁竹、[\s]墨菊、浄蓮、青松。[\s]
-岩破、乱雷、霹靂、山崩、瞬塵、震風。
-まるで、太虚四形二十一式が手の中で自由に声をあげ、呼べばいつでも出てくるかのようだった。
-応じる?
-馬非馬の言葉が素裳の頭の中を横切ったが、彼女はもう気にしていなかった。
-「赤絶影」――[\s]
- -剣の長さは五尺九寸。古剣・軒轅は、剣意を感じ取り変化する。
- -――それが馬非馬の持つ、世界で二本とない神剣だ。
-「山崩」――[\s]
- -太虚開剣形第四式。左手の五指から人差し指と中指を突き出し、守剣「幽蘭」の構えをとる。
- -右手に持った刃を肩に担ぎ、剣で寸勁を放つ。その威力は山をも砕くほどだ。
-しかし、この技には弱点があった。[\s]
-馬非馬のような達人でも、剣の構えを整えてから技を出すまでの間に、力を溜めるためのほんの僅かな時間が生まれるのだ。
-しかし、同じように太虚剣心を修練する者である李素裳が、その隙を見抜けるかどうかは分からなかった。[\s]
-……しかし、馬非馬は技の使用を避けることも、隠すこともしなかった。
-……化剣にすることもしなかった。[\s]
-守剣にもしなかった。
-生死や勝敗など気にしていない。馬非馬はただ、この瞬間だけを生きていた。
-その心の中に残されているのは「山崩」だけだ。
-技が放たれた![\s]
-巨剣「赤絶影」は山をも崩すような勢いで砂の竜巻を起こす。
-技が放たれた![\s]
-素裳の軒轅が真っ直ぐ伸びた。それは「瞬塵」だった!
-守剣でも化剣でもなく開剣だ!
-開剣対開剣――[\s]
-気が剣から放たれ、躊躇いもなく相手に向かっていく!
-命を懸けて捨て身の攻撃を繰り出したのだ。素裳は、相討ちになる覚悟を決めていたようだ――[\s]
-しかし、実際、そうはならなかった。
-緑の両目は虚ろだったが、自分の方をしっかりと見つめていた。
-その刹那……李素裳は、完全に彼のことを信じていた。
-そして羅刹人が手を貸してくれれば――
-絶対に負けない!
-そんな考えに基づいて作り上げたあらすじだったが、勝敗を決する時が来た。
-全力を剣に投じている二人の後ろで、羅刹人が左手を上げる。
-黄金の十字架がどこからともなく彼の手の中に現れ、燃え上がるように消失した――[\s]
-それは天命派の三大至宝の一つ、「誓約の十字架」だった!!!
-古代の神の遺産である法器が再び姿を現した!
-目に見えぬ鎖が馬非馬に向かって飛んでいき、彼を縛る!
-目標……固定!
-真気……禁戒!
-ちょうど三日ほど前の夜にあった、李素裳と「鷹」の死闘の光景が再現される。[\s]
-突然、馬非馬は動悸がした。真気が消え去ってしまったのだ。
-彼は手を緩めて剣を放した![\s]
-――しかし、山崩の勢いは最高潮に達し、もはや止められない。
-真気を封じられても関係ないのだ![\s]
-大剣「赤絶影」が勢いよく前に飛び出していく!
-内功を失ったとしても、彼は太虚剣派の六番弟子、百戦錬磨の馬彦卿だ!
-シャッ――[\s]
-そして[\s]
-ドーン――
-軒轅は馬非馬の頭頂部をかすめ、彼の髪の毛を何本か切った。[\s]
-赤絶影は素裳の真横を飛んだ。彼女の幼い体は大きな力に吸い込まれて後ろに引きずられ、地面に倒れる。
-馬非馬は、勝った。彼が使った技は確かに「山崩」だけだった。
-しかし、馬非馬は敗れもした。彼が「山崩」を使ったのは一度だけではなかったからだ。
-李素裳の「瞬塵」は最も速く、最も精度の高い開剣の技だった。
-「瞬塵」を使っていなければ、素裳は赤絶影の山崩を前にして、馬非馬の脅威となることはあり得なかっただろう。
-それは運によるものだろうか?いや、そうではない。[\s]
-技を見て分析する能力が卓越していたのだ。[\s]
-つまるところ、実力に大きな開きがあったのである。
-今回もまた、生死を懸けた決闘となった。[\s]
-馬非馬はゆっくりと振り返った。[\s]
-相手は、全力を出すだけの価値がある。
-[em italic]あぁ、よかった!この男は血も涙もない人形ではなかった。
-冷たい氷のようにに見えるが、燃え盛る炎があった![/em]
-内勁のまったく込められていない拳が羅刹人の頬を打った。
-羅刹人はその意図を察してはいても、避けたり防いだりしようとはしなかった。
-羅刹人の体が砂漠に倒れる。
-彼は、よろよろと立ち上がった。
-馬非馬の笑顔が固まった。
-[em italic]何故?[/em]
-このような驚きは、もう何年も味わっていなかった。
-[em italic]どうしてこんなことが?[/em]
-長らく封印されていた感情が蘇ってきた。
-羨望、
-嫉妬、
-自己欺瞞、
-狂喜、
-悔恨……
-……そして、懐かしさ。
-[em italic]どうして……こんなことが?[/em]
-目の前の羅刹人の手の中で炎が集まり、剣となっている。その剣と共に、あらゆる感情が胸に押し寄せ、止水無塵の剣心を打ち砕いた。
-馬非馬は自分の目が信じられなかった。
-目の前にあるのは、「赤絶影」のような目くらましではない。
-火炎の剣だ。
-ほんの数秒前まで、羅刹人の手には間違いなく何もなかったというのに!
-だとすれば……この真気が集まり、できた火炎の剣はどこから来たのだろうか?
-「剣神……」
-馬非馬は呟く。
-このような武術は、馬非馬の知る限り一つだけだった。
-太虚剣気第五蘊「神蘊」。
-神が剣に変わり、自ずと剣気が生まれる。
-精衛真人と凌霜しか会得できなかった最高の技だ。
-今この時、金髪の羅刹人の手中に現れた。
-完全な衝撃が、馬非馬の剣心を粉々にする。
-沸き起こっていた闘志は、剣心の欠片を別の剣心へと変えた。
-止水でも無塵でもない。
-それは
-喜悦
-興奮
-快楽
-満足
-期待
-渇望
-幸福……
-「覚悟はできたかい?」
-羅刹人が尋ねた。
- -金髪の男が真紅の長剣を手にしている。その剣身は炎が燃え盛っている。
-剣を持つ手は火に包まれ、黒く焦げていた。
-「覚悟はできたかい?」
-――この男は、閻魔の使いのようだ。
- -馬非馬は頷いた。もう自分が何を言ったかも覚えていなかった。
-どれくらいの時間が経ったのだろう?師匠の精衛が彼の顔に剣による傷を残してから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか?[\s]
- -これほど恐ろしい脅威に出会ったことはなかったし、閻魔をこれほど近い距離に感じたこともなかった![\s]
- -こんな、燃え尽きる寸前の窮地に立ったこともなかった!
-さあ、来い!
-来るがいい、羅刹鬼!
-全力でお前の剣を受けてやろう!
-周囲の真気が馬非馬の全身の経穴に入り込む。
-体は耐えられるだろうか、肉体にどれほどの損傷があるのだろうか。そんなことはどうでもよかった。
-ただ、目の前の剣を受け止めるだけだった!
-羅刹人が剣を振るった。剣光が空気を横切り、ジャッという音を立てた。[\s]
- -守剣形、化剣形……太虚剣気の最強の防御技が一つずつ馬非馬の脳裏を横切っていく。
- -そして、当然のことながら、
-馬非馬はこの最強の剣の絶対的な破壊力を前にして、
-どのような防御も無意味であることに気が付いていた。
-剣とはこれほどまでに恐ろしいものだったのか。
-まるで赤い死神のようだ。
-命とはこれほどまでに純粋なものだったのか。
-ただの松明のようだ。
-今日が自分の命日だったのか。遅すぎることも早すぎることもない。
-それにしても、剣神に敗れるのなら、死んだとしても何の悔いが残るだろう?
-――――
-彦ちゃん
-――――
-蘇湄の笑顔が馬彦卿の目の前に浮かんだ。
-そして炎が浮かぶ。燃え盛る焔だった。[\s]
-それは、燃えて、燃えて、燃えて。
-――――――――そして
-――――――
-――――
-―――
-消えた。
-炎は消えた。
-一度は空まで昇った炎の光は、一度は金をも焦がした熱は、突然跡形もなく消えてしまった。
-それが痛みに変わった。痛みは胸と腹、肩甲骨、頭頂部からまとめて押し寄せてくる。まるで、洪水によって堤防が決壊したかのようだった。
-彼女に答えたのは激しい痛みだった。それらは頭の中で音を打ち鳴らし、その音と心臓の鼓動が混ざり、うるさくて眠れぬほどだった。
-……安心でき、いつもと同じだと思えるほど見慣れていた。
-あれ?
- -馬非馬?
-……素裳の心の中に、同情のような悲しみが湧き上がってくる。
-熟睡している金髪の男には、神のように澄みきった優雅さがあった。
-しかし、今の彼は、起きている時よりも生身の人間に近いように思えた。
-ごまかすことも、隠れることもなく、過去の悩みも未来への執着もない。
-羅刹人はただ眠っているだけであった。普通の人とまったく変わらず、眠っている。
-もしかしたら……これが彼の本来の姿なのだろうか?
-彼女は太虚剣派の五番弟子であり、この百年間で精衛真人以外で唯一、最高の境界「太虚剣神」を会得した人物なのだから。
-二歳で武術を習い始め、十三歳にして太虚境界に到達した。「我をも忘れる至高の神剣」と呼ばれる絶世の剣客である。
-凌霜はこれまでの三十七年間の人生において、ひたすら剣を持ち続け、本当の意味で世間に足を踏み入れたことはなかった。
-挫折も失敗も味わわず、半端な願望や絆もない。
-常識、規則、論理、理性、世情……凡人を束縛するあらゆるものに対して、凌霜は気にも留めず、注意も向けなかった。
-素裳は羅刹人の黒くなった腕を見つめる。それはもう人の腕には見えなかった。
-しかし、彼女は彼が回復すると信じていた。そして、肉体を治療できる、あの「黒淵白花」を信じていた。
-素裳は身をもって体験したので、その不思議さを理解していたのだ。
-彼に十分な真気さえあれば……
-空には雲と夕焼けしかない。雲はいつもと変わらず、夕焼けも同様だ。
-しかし、馬非馬は真剣に見つめていた。
-何を見つめているかは重要ではない。重要なのは、待つことである。
- -彼は待つのは嫌いだが、得意だった。
- -この数十年、彼はいつも待っていた。
-馬非馬は少し驚いた。凌霜が弟子を取ったことは知っていたが、子弟への情と凌霜を結び付けて考えたことがなかったのだ。
-馬非馬の中では、凌霜は感情をまったく持っていないという印象であった。
-馬非馬は首を振った。それは彼が予想していた答えとは違っていた。
-手合わせは手合わせとして、彼にはもう一つの目的があった。それは少女が持つ、あの軒轅剣がどこから来たのかを知ることだった。
-この二十年、彼と互角の勝負ができる者はほとんどおらず、赤絶影を鞘から抜く機会もほとんどなかったのだ。
-彼は数え切れないほど危険な目に遭ってきたし、何度も死線を彷徨ってきた。しかし、この勝負は命を懸けた戦いではなく、彼がずっと夢見てきた武術の手合わせであった。
-気合いを入れる声を上げた瞬間、急に馬非馬の姿が二つに分かれた。
-これこそが太虚剣派六番弟子の剣意「赤絶影」だった!
-真気を軒轅剣に注入し、さらに太虚剣意で光を屈折させる。
-馬非馬は剣意の鍛錬を20年以上重ねた結果、今では光を利用して自由に鏡像を作り出せるようになっていた。
-夕方の荒涼とした中庭に、無数の「逐駒剣」こと馬非馬が現れた――
-同じような馬非馬が同じような赤絶影を手にしている。
-まるで一枚の鏡から無数の破片が中庭に降り注ぎ、どの破片も馬非馬の姿を映し出しているかのようだった。
-気合を入れる声とともに、剣の鞘『刃不破』は前方へと飛んでいった。
-鞘の先端が落雷のように落ち、空気が轟音とともに爆発し、中庭全体が揺れる――
-武術に関して、師匠の精衛真人を除けば、この世で凌霜と互角に渡り合える者などいない。
-天下の「太虚剣気」には、心、形、意、魂、神の五蘊がある。
-魂蘊を会得することは、剣の道に通暁することでもある。形に囚われず、あらゆる武器を剣のように使いこなし、あらゆる武器を剣のようにできるのだ。
-剣術の研究に専念していた一番弟子の林朝雨を除き、太虚剣派の六人の弟子はいずれも剣魂を会得していた。
-しかし剣神は――精衛真人以外で会得できたのは、千年以上経った今でも凌霜ただ一人なのだ。
-いわゆる神は――
-技を使わずに技に勝ち、剣を持たずとも剣を持っている。
-剣気を意のままに操り、神によって剣を作り出す。まさに自由自在に操れるのが剣神なのだ。
-凌霜は重い足取りでゆっくりと素裳のそばへと歩み寄る。
-彼女の顔にはまったく表情がなかった。あらゆるものに対して興味がないかのようだ。
-少女が小さな声で言う。
-彼女は目の前に現れ、精衛の行く手を塞いだ。彼女の上空では墨の花が静かに回っている。
-彼女の視線はとても誠実で、その笑顔には羞恥が滲んでいた。
-彼女の言葉には熱がこもっており、尊敬と信頼に満ちていた。
- -彼女は……
-彼女のことはよく知っている気がする。
-遥か昔、彼女たちと共に過ごしていた……
-彼女たちとはかつて……とても長い時間を共に過ごしていたのだ。
-少年は大きく深呼吸した。
-彼は手を伸ばして扉を叩こうとしたが、拳が扉に当たる寸前で止める。
-太虚剣派当主――『軽塵剣』こと、林朝雨。
-今年で五十六歳になり、天命を知る年齢も過ぎている。
-精衛仙人が金色の光に包まれて天に昇り、太虚山は炎に包まれた。
-その後、仙人の一番弟子だった彼女と六人の兄弟弟子はこの天穹峰に残り、
-太虚剣派を再建した。
- -十年余りの時を経て、太虚剣派は見事に復活を遂げ、
-神州武術界の六大派に名を連ねている。
-そのため、林朝雨の名声もとても高く、夫の『逐駒剣』こと
-馬非馬と共に、武術界の誰もが羨む武術家夫婦となっていた。
-一門の主である林朝雨は決して偏屈な性格ではない。
-その逆で、彼女は誰に対しても優しく穏やかに、
-平等に接する。
- -幾つかの例外を除いては。[\s]
- -その例外に接すると、林朝雨はいつも
-人が変わったように怒り狂う。
-枕玉は慌てて頷いた。夫婦の問題など、部外者が口を挟むべきではない。
-彼は口数が多いほうではない。なので、そんな失敗はしないだろう。
-無双門――それは二十年近く前、新たな太虚剣派と
-ほぼ同時期に創設されたが、規模はまったく違う。
- -今の太虚剣派は六大派に名を連ねているが、
-無双門はいまだに小さな宗派だ。
-しかし、無双門の門弟に手を出そうとする者はいない。
-その理由は、当主――『才色兼備』の蘇湄にあった。
-絶世の美貌、そして、優れた知性を持つ女性。
- -蘇湄は精衛真人の二番弟子だったが、武術界では
-太虚七剣の中で最も恐ろしい人物とされており、畏敬の念を込めて
-『女諸葛』、『無双仙人』と呼ばれていた。
-当主が答えた。
-その声の中には、非難というよりも自嘲の響きがあった。
-早朝の話である。『無双仙人』こと蘇湄がいきなり天穹峰へやって来て、
-副当主からの言付けを当主に伝える必要があると言ったのだ。
- -姉弟子や兄弟子たちは師匠の逆鱗に触れるのを恐れ、
-誰も、蘇湄を連れて山を登ろうとはしなかった。
- -そうこうしているうちに、無双門の当主はいなくなってしまったのだが……
-……まさか、既に拂雲観にいるだなんて、誰も思わなかっただろう。
-蘇湄は、過去のことにはまったく興味がなかった。
-林朝雨も理解していたが、まったく賛同できなかった。
-林朝雨は、目の前の赤髪の女性をじっと見つめた。[\s]
-彼女はかつて、自分の妹であり、親友であり、仲間であり、恋敵であり、敵でもあった。一度決別した以上、死ぬまで関わることはないと思っていた。
-心臓がバクバクと鼓動し、服には冷や汗が滲んでいた。
-少女は無意識にそばの布袋に手を伸ばし、軒轅剣を握りしめる。こうしていると、少し安心できた。
-彼はずっと、大きくて重そうな棺を持ち歩いている。彼は時折、棺に向かって何かを呟いていて、そのたびに素裳は不快な思いをしていた。
-長い沈黙だった。
-素裳が次の話題を探そうと考えた時、羅刹人が急に口を開いた。
-金の鎖が光る。李素裳は、たちまち体から力が抜けていくのを感じた。内功がなくなってしまったのだ。
-しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐにまた元に戻った。
-李素裳は腕を組んで首を傾げる。無意識のうちに、唇を軽く噛んでいた。[\s]
-羅刹人の話を信じていないわけではない。ただ、様々な用語によって、頭が混乱してしまったのだ。
-遠く離れた、彼女には想像もできないような西域の祖国が恋しいのだろうか?[\s]
-それとも、誰かを懐かしんでいるのだろうか?
-彼女はふと気付いたのだった。この羅刹人を連れて師匠の元に戻ったら、彼とは別れることになる。[\s]
-彼と一緒にいる時間はもう半日ほどしかないだろう。短い、とても短いのだ。
-馬の方は血の色の汗をかき、蹄は黄金だった。細い頭と長い首、赤褐色の体に赤いたてがみが特徴的で、背中は細長い。[\s]
-一日に千里以上を走ることができ、蹄が砂を踏んでも足跡は残らず、平らなままだった。
-男の方は修行を積んだ者のようだった。大きな体に長い髪、短い髭を生やし、引き締まった筋肉をしている。[\s]
-顔には剣による大きな傷があり、整った容姿を台無しにしていたが、豪傑らしさを損ねることはなかった。
-この男と馬は息が合っていた。主従の関係を超えた、長年来の親友のようだった。
-中原でこの奇抜な組み合わせを遠くから見かけると、武術界の者たちは心の中で罵詈雑言を浴びせる。しかし、表面的には拱手の礼を取り、笑顔を浮かべながら「馬副当主!」や「馬さん!」と声をかける。
-それは、彼が精衛真人門下の中で唯一の男の弟子であり、
-七剣の六番弟子、
-広く名を馳せている天穹峰太虚剣派の副当主、[\s]
- -『逐駒剣』――馬非馬だからである。
-表向きには、彼はいくつもの肩書を持っている。名も轟いているため、武術界の者なら誰もが彼と知り合いになりたいと思っていた。
-しかし裏では、人々はこの馬非馬を、『異常者』、『狂人』、『変人』、『殺しても死なない馬非馬』などと呼んでおり、実際に彼に会うと、誰もが頭を痛めながらも友好的な会釈をしていた。
-実のところ、彼と親しい付き合いをしたいと思っている者など、どこにもいない。
-何故なら、馬非馬は武術に優れているだけでなく、その行いが非常に傲慢だからである。
-太虚剣派の副当主という肩書を持ちながらも、馬非馬は一匹狼の豪傑だった。
- -太虚剣派の門弟でも、彼に会える機会は年に数回もない。彼は妻である林朝雨よりも、愛馬『夜血』と過ごす日の方が多いのではないだろうか。
-天穹峰にいる時の馬副当主は穏やかで礼儀正しく、謙虚に振舞う。
-しかし山を下りた途端に別人のようになり、どんな喧嘩や挑発も受けて立つ。
-相手が名家だろうと、王侯貴族だろうと、馬非馬は一切お構いなしだった。
-正義のために戦う?悪を駆逐する?
-逐駒剣にそのような大義名分は必要なかった。
-喧嘩したい時に喧嘩をし、戦いたい時に戦う。
-剣を使いたければ剣を使い、拳を使いたければ拳を使う。
-助けたい人を助け、殺したい人を殺す。
-すべては心の赴くままなのだ。
-そのため、武術界の人々は彼を恐れて避けている。彼の起こした騒動のために、太虚剣派の当主、林朝雨が奔走することもしばしばだ。
- -彼の敵は各地におり、誰も公然と太虚七剣の怒りを買おうとはしないが、裏で彼の首に懸賞金をかけている者は少なくない。
-それらに対する馬非馬の態度は「来るもの拒まず」だった。
-「俺を殺したければ来るがいい。いつでも相手をしてやろう。
-俺が少しでも逃げれば俺が腰抜け、俺を殺せなければ、お前が役立たず。ただ、それだけの話だ。」
-彼を殺しに来る者は本当に後を絶たない。
-待ち伏せ、陰謀、罠、毒、色仕掛け、決闘、試合……
-あらゆる技を使ったが、それでも馬非馬は死んでいない。恐ろしい傷痕が無数に残されてはいたが、彼はピンピンしていた。
-酒が腹に入り、男の涙に変わる。
-涙は簡単には流れず、孤独な夜に大雨となって流れる。
-人々が真実だと思っていることは、世の中で最も大きな嘘であった。
- -馬非馬には自由などなかったし、自由を好んでいたわけでもなかった。
-師匠が生き返ったことを知った馬非馬は、夜を徹して急ぎ、無双門へと向かっていた。
-このことを、真っ先に蘇湄に知らせるために。
-[em italic]しかし、昔とはもう違う……[/em]
-両目が溶けそうなほど熱くなり、彼は、何年も前に口にした言葉を彼女に言いたい衝動に駆られた。
-蘇湄は目の前の男を見た。まず彼の目を見て、次に彼の喉、そして手を見た。[\s]
-彼女の視線は彼に大きな喜びを与え、そして、話す勇気を与えた。
-馬非馬は黙っていた。彼女の言葉が彼を黙らせていた。[\s]
-なぜなら、『無双』こと蘇湄の言ったことは、いつも本当になるからだ。
-馬非馬は俯きながら、蘇湄の言葉の意味を反芻していた。
-蘇湄がそう言った以上、何らかの意図があることは分かっていたが、彼には理解できなかった。
-しかし、蘇湄とは知り合って三十年以上になる。
-賢い女性は、男に説明する行為が好きではないことも分かっていた。
-潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
-潮が満ち、[\s]潮が引く。
-目の前にあるのは、何万年もの時間をかけても見終わることのない知識の宝庫だった。[\s]
-偽りの体がある場所は、普通の肉体では決して入り込めないデータの海だった。
-潮が満ち、潮が引く。
-情報の波が男の意識に押し寄せて来る。何度も、何度も。[\s]
-彼は必死に、意識を保とうとした。
-この大海原には、言葉にできない情報が浮き沈みしている。
-男が掴み取れるのは、百億分の一の断片に過ぎない。
-そして手にした情報のうち、使えるものはほとんどない。[\s]
- -長い時間をかけ、緻密な選別を行わなければ、
-無限の知識を持っていても、愚人と何ら変わらないのではないだろうか?
-だから彼は探し続けている。
-知られざるどこかで、かつて倒した相手――「虚空万象」の本体が彼の肉体を欲しがっている。
-無限の知識は彼をおびき寄せるための餌であり、気前のよい贈り物は彼を倒すための武器だった。
-「それ」は男が気を緩めるのを待っていた。男もそれを知っていた。
-彼はそれでもなお、探し続けていた。
-探すことを止めなかった。
-それはすべて、あの人を救い出すため――
-そのためなら、苦労が何だというのだろう?[\s]
-危険が何だというのだろう?[\s]
-時間が何だというのだろう?
-永遠も……何だというのだろう?
-潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
-潮が満ち、[\s]潮が引く。
-男の意志が揺らぐことはなかった。
-潮が満ち――
-彼はなおも探し続けている。
-突如、押し寄せてきた感情が少女の心を押さえつける。
-一瞬の驚き、後悔、苦痛の下に、絶望的なほど強烈な殺意が隠れていた。
-魔に堕ちた者は死すべし――
-それは、幼い頃から母や師匠がしつこいほど彼女に教え込んだ掟である。太虚一門の使命であり、特に禁忌のない『自在門』で、唯一の鉄の掟だ。
-そうだ。彼女は彼のことをそう呼んでいた……[\s]
-記憶の中の少女は手を後ろに回して立っている。銀色の髪がそよ風に吹かれて、なびく。
-その声はいまだに耳に残っている。まるでその瞬間で時が止まり、二度と進まなくなっているかのようだった。[\s]
-しかし、それは三十年以上も前のことなのだ。
-虚空万象との戦いよりも、過去の思い出から離れることのほうが遥かに大変だ。だが、それを理解できる者はいないだろう。
-かつて天命と神州が戦った際に、羅刹人は気付いていた……[\s]
- -奥深く、理解し難いエネルギーである『真気』だが、同じものである筈なのに、東洋と西洋とで使い方に多くの違いがあった。
-彼はそれをとても不思議に思っていた。
-西洋では真気を疫病と見なし、その汚染から逃れようと必死になっている。
-しかも、それに対抗するために、様々な技術を発展させてきた。[\s]
- -しかし、東洋人はそれを受け入れ、利用している。
-自らを強化するための力にしているのだ。
-天命と比べ、神州の科学技術は確かに遅れている。
- -しかし、真気に対する理解は東洋の方が全体的に優れていた。
-……どうしてこのような違いが生まれたのだろうか?
-彼はそう言ったものの、実は考えがあった。彼の異常を引き起こしたのは天命の秘宝「黒淵白花」の本体だ。[\s]
- -模造品を使って逆行させるやり方など、自分の力では絶対に不可能である。最終的には、やはり東洋人の不思議な武術に頼るしかない。
-窓の外は、まだ暗い。だが、凌霜はすでに目を覚ましていた。
-彼女はいつも、この時間に目を覚ます。早過ぎることも、遅過ぎることもない。
-桶に水を汲み、髪をとかして着替えると、彼女は寝台の上で座禅を組んだ。
-剣心訣の黙読を始める。一度始めると二時間は続き、雷が鳴っても止めることはない。
-そして立ち上がり、ほうきで床を掃く。部屋を綺麗に掃除すると、
-近くの市場で小麦粉を焼いた生地と羊肉を買う。[\s]
-水を使い切った場合は、隣の井戸で水を汲む。
-朝食を終えると、凌霜は古い織機の前に座り、機織りをする。
-以前は、満足のいく織物を一日で織ることができた。
-弟子として素裳を迎えてからは、その速度は大幅に遅くなった。[\s]
-遅ければ一週間、早くても四日はかかるようになったのだ。
-李素裳は自分が出ていった後、
-師匠が空いた時間に何をするのか、どのような修行をするのか気になっていた。
-十年近く一緒にいたが、素裳は、
-師匠が空いた時間のほとんどを古い織機の前で過ごすとは思ってもいなかっただろう。
-はじめ、機織りは修行とまったく関係がなく、
-ただ生計を立てるための手段でしかなかった。
-しかし、凌霜にとっては全てが繋がっていた。機織りと武術に共通点があるのだろうか?
-いつの間にか、凌霜にとっては機織りも、剣心を鍛え、武術を磨くための手段となっていた。
-剣の道にはあらゆるものが含まれており、剣自体も拠り所に過ぎない。
- -立つ、座る、寝る、着る、食べる、暮らす、動く……生活のあらゆるところに、武術の道が隠されている。
- -一挙手一投足のすべてが武術の修行であり、不動の静寂もまた剣の鍛錬だった。これこそが、『渾然天成』。
-そして素裳の師匠、精衛の五番弟子、『自在剣』こと凌霜は――[\s]
-まさに渾然天成の人、天下無上の剣と言えるだろう。
-凌霜はというと、ただひたすら剣心訣を黙読し、機織りをする毎日を繰り返していた。[\s]
-彼女がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、誰も知らなかった。
-……こうして、李素裳が試練のため外に出てから八日目。[\s]
-凌霜が織機の前に腰かけていると、突然遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
-金砂会の最も上等な二頭引きの馬車が、飛ぶような速さで走っていた。
- -李素裳は馬車の荷台に肘をかけ、鼻歌を口ずさんでいる。機嫌はすこぶる良い。
-「羅刹人、神通力を使うのはやめたら?ほら、風に吹かれるのって気持ちいいでしょ。」
-疾走する馬車が強い風を起こす。素裳の編んだ髪の毛が二本の黒い小川のように流れていた。
-一方、羅刹人は目に見えない空気の障壁で自分の周りを何重にも囲んでいた。[\s]
-法器「虚空万象」が作り出した領域の中で、男の長い髪は静止している。その顔も穏やかで落ち着いていた。
-「暑いよ。でも、砂漠ってこういうものじゃない。」
-「……ふむ。」
-「嫌なの?もう、ごめんね。あんたが馬車を……あんな風にするから。」
-一日目に羅刹人が使った変幻の奇術は、簡素なものだった。
-しかし、二日目に彼が使った奇術は、素裳の許容範囲を超えていた。
-その馬車は丸く、デコボコしており、鮮やかな橙色がとても目を引いた。
-羅刹人は「カボチャ」というのだと口にしながら、さらにそれを見つめ、頷きながら微笑んでいた。
-「それに、あんたは傷を負っているんだから。危険を冒して奇術を使わないでよ……
-……こうやって乗るのも悪くないでしょ!」
-素裳は、羅刹人が残りわずかな内功を使い果たしてしまうのではないかと本気で心配していた。
-しかし、羅刹人は風に対して、深い恨みでもあるかのようだった。
- -彼はオンボロの馬車に乗ることは承諾したが、身だしなみをきちんと整え、上品さを保つよう気を配っていた。無造作に垂れているように見える金髪だったが、一本たりとも風に吹かれないようにしている。
-「……あんた、そんな能力があるのに、どうして捕まって地下牢に入れられていたの?
-いくら考えても納得がいかないんだけど。」
-「捕まった?僕は『鷹』の招待を受けて、彼らの集落に客人として滞在していただけさ。」
-「……客人?」
-「……場所は少し変だったけどね。」
-「……あんた、神州語を誤解していたんじゃないの?」
-李素裳は困ったように頭をかいた。
-「そんな話し方をする人なんていないよ。『鷹』はどういう風に言ったの?」
-「ここは俺のものだ。
-そしてお前も俺のものだ。
-出てこい。
-ついて来い。
-小細工はするな。」
-「……羅刹人、あんたの解釈はお人好し過ぎるよ……」
-「仕方ないさ。君たちの言語は複雑すぎるんだ。」
-「もう、あんたと話すのは危険すぎるよ。
-どの言葉も落とし穴みたいで、アタシが穴に落ちる姿を見て笑うのを待ち構えているみたい。」
-「そうだ、天命派のことをもっと話してよ。」
-「えっ?」
-「いや、やめよう。本当に頭が疲れるんだ……」
-「えー――」
-「それは何日か後にしよう。もう少し整理させてくれないか……
-日を改めて聞かせてあげよう。」
-「だけど、家までまだかなりあるよ。お喋りしなかったら退屈だよ。」
-「それじゃあ、君が話してくれないか?あの仙人のことについて話してみてはどうだろうか?
-確か、君は精衛と関係が深いと言っていたが。」
-「関係が深いのは師匠やアタシの母さんだよ。アタシは……仙人に会ったことがないの。」
-素裳は頑張って思い出そうとした。
-「本当だよ。アタシは会ったことがないの。父さんも母さんも、仙人について話したことはなかったから。
-精衛真人のことは、乳母から話してもらっていただけなの。」
-素裳は大騒ぎした。いざ大漠に着いた後は、泣き真似もしてみたが、すぐに好奇心が勝り、師匠に質問し始めた。
-子供は隠し事ができない。そんなに話してもいないうちに、軒轅剣のことを口にした。
-そして母親の予想通り、師匠はあの軒轅剣を渡すように言ってきた。[\s]
-正直者の素裳はしばらく考えて、最後は両手で古剣を差し出した。
-さすがに師匠は5歳の女の子をいじめて、ものを奪ったりしないでしょう?[\s]
-軒轅を渡した瞬間、少女はなぜか新しい服を見せびらかすような気分になった。
-七番弟子……素裳は呆気にとられたが、すぐに母親が師匠と同じ門派の出身で、七番弟子であることを思い出した。[\s]
-『墨染香』は母親が使っていた軒轅剣の名前である。
-しかし素裳にとっては、無限のように長い一秒だった。[\s]
-幼い頃から剣と共に生きてきた彼女であったが、今まで、剣がこれほど美しいものだと知らなかった。
-その減速されたかのような時間の中で、軒轅は輝きを纏い、ゆっくりと落ちていく。[\s]
-そして彼女の目の前に落下し、剣身は、音一つなく地面に刺さった。
-思い出の中の素裳が、プッと吹き出した。[\s]
-今の彼女には、この軒轅を使う資格がある。
-理性が邪魔するよりも先に、本能が率先して行動に移す。[\s]
-少女は宝剣を撫で、それからあの時の師匠のように、切先を指で弾いた。
-『侵入者』がまさかの小娘だと聞いた時、驚きを覚えた。
-なんという侮辱だ!!!
-この漠北で、金砂会を恐れぬ者はいない。
-官兵の精鋭でも、遠くて頑丈な金砂会を恐れ、衝突を避けている。
-一体誰が、身の程知らずにも自らやってきて、この「鷹」を敵に回すというのだ?
-しかし予想外にも、先に口を開いたのは彼ではなかった。
-彼の縄張りでは、彼が先に口を開き、彼が先に質問するのが鉄則である。
-「鷹」は手を拭い、少女の前にしゃがむ。
-少女もまた彼を見ていた。その視線に恐れの色はなく、あるのは強情と怒りのみだ。
-少女は鼻をすすり、大人しく頷き、一言も口にしなかった。
-様々な反応の中で、こういう態度が一番彼の逆鱗に触れる。
-男は気が動転して、慌てて跪く。
-首領の口調が穏やかであればあるほど、怒り心頭の状態にあるということを、知っているからだ。
-先程跪いた男は、まだその場にいる。
-頭を伏せ、顔を上げていないが、体の震えは彼の緊張を物語っている。
-しばらくして、「鷹」はふと笑い出した。包みを取って帯を解き、宝剣の本当の姿を見る。[\s]
-目の前の男には隠し事も嘘もないということを確認できた。それで十分だ。
-ガタッ。[\s]
-鉄格子の鍵がかかった。
-素裳は体を動かしながら、座ろうと試みる。[\s]
-彼女の目はまだ暗闇に慣れておらず、何も見えない。両足を動かす時に、何かにぶつけた。
-李素裳は、驚く。[\s]
-彼女を驚かせたのは突如現れた火の光ではなく、ため息をついた相手だった。
-[em italic]羅刹人……[/em][\s]
-李素裳は強盗たちのひそひそ話を思い出した。[\s]
-[em italic]羅刹人は、こんな感じなんだ。[/em]
-その横を見ると、女性の横には大きな棺が置いてあった。
-危うく蹴ってしまいそうになったものである。
-素裳は本能的に視線を逸らし、また羅刹の女性に戻す。
-最初はチラッと見ただけだったが、相手の反応がないと分かった後は、開き直ってじっと見つめ始める。
-口の中に布が入っていることを忘れていた彼女は、意味不明な音しか出せない。[\s]
-李素裳は気まずそうな表情をしたが、周りは暗く、相手に悟られずに済んだ。
-だが、羅刹人は視線を戻し、素知らぬ顔をした。
-何度か目配せをしてみたが、全部相手に無視される。少しの反応もない。
-そして、再び火が灯る。李素裳は壁際にいる羅刹人をチラリと見たが、彼女は先ほどの姿勢のままだった。[\s]
-ただ、彼女がこちらに向ける視線には、かすかな苛立ちが混ざっていた。
-羅刹人は口を閉ざし、黙って李素裳の言葉を肯定した。
-しかし李素裳の口からは、立て続けに言葉が出る。
-猿轡をされ、手足に枷をはめられていた李素裳とは異なり、
-この羅刹人の体は一切拘束されていなかった。
-少女は怖いもの知らずだが、霊的なものには弱かったのだ。[\s]
-彼女は羅刹人の妖術に腰を抜かした。女傑としてのメンツなどお構いなしである。
-少女は、興奮した口調で目を輝かせながら言った。[\s]
-彼女の話がどれだけ飛躍し、論理が支離滅裂であっても、羅刹人は興味深そうに耳を傾けている。
-精衛真人のこの奇術は、武術界の一般的な内功とはまったく違う。
-通常の内功は丹田を鍛え、その中に真気を溜める。
-しかし、『太虚剣気』はそうではない。
-『剣心』を習得した者は、
-天地を丹田とし、肉体を経絡とすることができるのだ。
-ましてや『武』道の本質とされる『気』は、隠す必要すらない。
-彼がそう言った瞬間、素裳は手足が軽くなったのを感じた。手足にはめられていた硬い鉄枷は粉々に砕け、地面に散らばっていた。[\s]
-彼女の両手両足には傷一つなく、服も同様だった。
-彼が妖術で椅子やグラスを消せるのであれば、鉄枷を粉々にできてもおかしくはないが……[\s]
-……そんなバカな!!!!
-彼女は思わず自分の学んだ知識を総動員して、目の前の棺を持った不思議な男を見つめ直した。[\s]
-まさか、『彼』はただならぬ腕前を隠した達人なのだろうか?
-彼女が思い描く武術界の達人とは、師匠、母親、または未来の自分のような姿だった。
-目の前の羅刹人は、彼女が思い描く武術の達人像とはかけ離れていた。
-羅刹人が微笑むと、空中の火が突如として消えた。[\s]
-……違う。火は残っている。
-その火は瞬間移動したかのごとく、突如として羅刹人の手のそばに現れると、ますます勢いよく燃えていく。[\s]
-火の勢いが……まるで……
-素裳は唖然としながら、羅刹人の『妖術』を見ていた。[\s]
-彼女が我に返った時、火はすでに消え、地下牢の扉が破られていた。焦げた臭いが鼻をつく。
-はじめ、この暗い牢の見張りは二人しかいなかった。
-そのうちの一人は羅刹人を丁重に牢に入れると、病気だと偽って持ち場を放棄した。もう一人は食事を届けに行ったが、腰を抜かしてしまい、それ以後は二度と地下牢に入ろうとしなかった。
-「あれは人間なのか?ありゃ妖怪だ!言葉を話す灯籠なんて、見たことあるか?俺は行かねぇ、死んでも行かねぇぞ。」
-彼の口ぶりは、「鷹」よりも牢屋の中の異邦人を怖がっているようだった。
-最も不思議だったのは、そのことを聞いた「鷹」がまったく怒らなかったことだ。これまでの彼からは想像もできない。
-「数日もしないうちにバイホイ人が来る。人手を増やせ。」
- -彼が『人手を増やす』と、すぐに十数人と十数の武器が追加で配置された。
-新たに来た者たちは戦々恐々としながら牢の配置につく。しかし、特に変わった点はなく、一同の恐怖は消え、前の二人の見張りを存分に嘲笑ったのだった。
- -金砂会の盗賊たちは、笑いながらも油断することはなかった。誰に言われるでもなく昼と夜で交代するようにし、常に五人が地下牢の扉を見張るようにしていた。
- -この時、五人の不運な男たちは、中で何が起こっているのかをまだ知らなかった。
-その夜は控えめに言っても奇妙な夜だった。首領を怒らせたあの少女が牢に入れられてからは、中から何の音も聞こえてこなくなったのだ。
- -完全な静けさ——静寂が訪れた。
-人の声も雑音も一切聞こえなかった。
-見張りたちは異様な音には気付かなかったが、不思議な臭いには気付いた。それは、焦げた臭いだった。
- -何かが焦げているような臭いが強まっていく。五人はそれぞれの刀を抜き、入口の前に集まった。
-「下りるか?」
-見張りの一人が、小さな声で他の者たちに意見を求めた。
-他の者が返事をするよりも早く、扉は轟音と共に爆発した。
-五人が最後に目にしたのは真紅の火柱だった。
-剣と刀は似ているように見えるが、まったくの別物だ。
-「剣は軽やかに、刀は力強く」と言うように、剣が変幻自在の素早い動きをするのに対し、刀は直線的な動きで力を使って相手を倒す。
-剣術を習得した者が刀を扱うと、剣術のような動きになる。その逆もまた然りだ。
-そのため、「鷹」は剣舞を披露しているが、実のところは刀舞だった。
-彼はこれほど見事な武器を見たことがなかった。
-これは剣筋の美しさを示している。まさに完璧そのものだ。
-これは剣身のしなやかさを示している。剛と柔を兼ね備えているのだ。
-これは剣の光の強さを示している。骨に突き刺さるほど冷たい光だ。
-「鷹」は決して、剣を愛でたり集めたりするような人間ではない。
-彼が剣のことを褒めたとしても、それは山賊が戦利品を評価するようなものでしかなかった。
-彼の目の前には信じられない光景が広がっていた。[\s]
-8人の手下がいつの間にか地面に倒れ、気を失っていたのだ。
-そして、彼が自ら牢屋に閉じ込めるように命令したはずの少女が、目を瞬かせながら彼を見ていた。[\s]
-[em italic]どういうことだ!?!?[/em]
-「鷹」は心の中で自分をひどく罵った。[\s]
-『災い』だと気付いた時、すぐに始末しておけばよかったのだ。
-皆が災いを恐れるからこそ、災いは問題を生じさせる。[\s]
-「鷹」はあの羅刹の変人を軽んじたことを後悔した。しかし、今となっては後悔しても後の祭りだ。
-彼は静かに後ずさりし、安全な会話の距離を保とうとした。しかし、剣を手にしているのは彼の方だ。本来なら必要のないことである。[\s]
-……しかし、「鷹」が最も心配しているのは少女ではなかった。
-彼は最初から例の羅刹人のことを、今宵の最も危険な人物と見なしていた。
-そして、その人物の動きをつかめないことによって、彼は自信を大きく失ってしまった。
-その掌打は内功を使っておらず、重くはあったが、内臓を傷つけるほどではなかった。
-しかし、少女の軽功の妙技は、「鷹」も見たことがないほどだった。
-驚きと怒りのあまり、羅刹人の存在を忘れる。
-「鷹」は、この十幾つかの相手を改めて見定めることにした。
-その技は太虚剣気ではなく、李家に伝わる軽功だった。
-「飛燕功」。
-彼女の右手が「鷹」の前腕に命中し、彼は「軒轅」を落とす。
-そして返す手で稲妻のような掌打を男のみぞおちに叩き込み、吹き飛ばした。
-慣れ親しんだ安心感が素裳の胸に満ち溢れた。
-再び剣を握り締める。しっくりくる感じだ。
-長年、漠北を旅してきたが、これほどまでに打ち負かされたことはない。
-たちまち「鷹」に殺意が芽生え、それとともに復讐心が満ち溢れていった。
-ただ李素裳を殺すだけでは飽き足らない。彼女にはこれ以上ないほど悲惨な死を与えなくてはならない。
-彼は敵を迎え撃つ姿勢を保った。
- -金砂会の首領は気力を振り絞り、
-目の前の少女を紛うことなく『強敵』と見なした。
-これは戦争だ。
-武術の手合わせでも、決闘でもない。戦争なのだ。
-規模は極めて小さく、目的も単純だが、戦争に他ならない。
-ならば、
- -この場所は「鷹」が最も得意とする戦場だ。
-この時間は「鷹」が最も戦い慣れている時間だ。
- -わずか数秒のうちに、彼は頭を高速回転させ、弱み、強み、変数を全て計算した。
-「鷹」はそのことをよく分かっており、恥じることなく認めていた。
-目の前のこの少女の内功と外功は、いずれも自分のそれをはるかに上回っている。
-もしかすると、自分が知っている武術界のどの人間よりも強いかもしれない。
-天と地のような大きな実力差は、最初からこの戦いの結末を決定づけている。
-——もし、これがただの手合わせであればの話だが。
-先ほど2回繰り出した掌打は、いずれも内功を使っていない。「截気散」がまだ効いているのだろうか?
-この二人は地下牢から逃げ出した。「羅刹人」はまだ近くにいるのか?
-この二つの不明の事実も、結末を左右する可能性がある。
-これらを悪い方向で考えれば、「鷹」に勝ち目はないと言ってもよいだろう。
-——もし、不幸にも予想通りになればの話だが。
-……形勢は非常に悪く、勝ち目はないに等しい。
-それでも「鷹」は絶対に勝つ自信があった。
- -なぜなら、彼は「強み」も計算していたからだ。
-これが一つ目の強み、「経験」だ。
- -武術界に長年身を置いている彼に比べれば、李素裳は外の世界の経験がないに等しかった。
-彼女は「鷹」が言葉の中に隠した糸口に気が付かず、
-知らず知らずのうちに罠の中へと足を踏み入れていった。
-二つ目の強みは「個性」だ。
- -「鷹」は敗北の味を知っている。だからこそ、勝つためなら何でもできる。
-一方の李素裳は、融通が利かないほど正直でお人好しだ。
-彼女の心の中では、いまだに公正さと正義が最優先となっている。
-この二つの強みを活かしつつ、
-三つ目の強みに頼るのだ。
-そして、変数に賭ける。
- -「鷹」は、「勝利」の天秤が必ず自分の方に傾くと確信していた。
-揺らめくロウソクの光が夜の闇の中で幼い少女を照らし、彼女の姿を実際よりもはるかに大きく見せていた。
-一方、正面の男はかすかに前かがみになり、背中、両足、両腕を曲げていた。[\s]
-この構えは河東駱氏に伝わる奥義「虎吼震九霄」だ。
-男と少女は向かい合って立ち、微動だにしないまま互いに探り合っている。
- -今夜の月明かりのような沈黙が小さな中庭を包み込んでいた。
-東洋人が決闘する前は、いつもこのような静寂が訪れるのだろうか?
-……
- -二人とも、相手の隙を窺っている。
- -しかし、三人目の人物はやや痺れを切らしていた。
-その一瞬、真気の動きが滞り、虎吼の構えも消えたのだった。
-パンッ![\s]
-平手打ちの音が鳴り響いた。
-「鷹」は怒りが収まらなかった。
-気の動かし方を誤り、ほんの一瞬だけ真気を失ってしまったところに、少女の平手打ちを食らってしまったのだ。
- -大した被害を受けてはいないものの、この失態によって彼は面目を失ったと感じていた。
-ただし、李素裳はまだ本気を出していないようである。
- -このことで、「変数」に対する自信が増した。それと同時に、屈辱感も倍増した。
-彼は長いこと「虎吼功」を使っていなかった。久しぶりに使ってみたが、やはり錆びついているようだ。[\s]
- -敵は気を抜いて勝てる相手ではない。同じ過ちは絶対に繰り返せなかった。
-二人は空中で三つの技を繰り出した。
-力は拮抗しており、どちらも優位に立てなかった。
-虎の咆哮が空を飛ぶ燕を驚かせる。[\s]
- -河東駱家の虎吼震九霄はかねてから勇ましいことで有名であり、
-垂燕十三式は軽快かつ変幻自在で、どちらにもそれぞれの強みがあった。[\s]
- -しかし、実力では勝っているはずの少女は「鷹」を相手に互角がやっとだった。
-このこと自体が、信じられないような躓きだった。
-「鷹」は賭けに勝った。
-戦いが始まった時から、李素裳は真気を使うことができなかった。
-彼女が家伝の垂燕十三式の後に太虚啓剣形を続けたのは、
-まさにそのことを確かめるためだったのだ。
-(あの薬はアタシに効いていないはずなのに……)
-内功の強さで言えば、自在門の「太虚剣気」は天下一だろう。
-神州の各派にはそれぞれ独自の心法がある。しかし、形式は変われど本質は変わらず、結局は鍛錬次第なのだ。
- -真気を水に例えると、通常の内功は水を入れる器を鍛え、容量を増やしていくようなものだ。[\s]
-過酷な鍛錬を繰り返さなくてはならないばかりか、上達も非常に遅い。そして何より、人体に大きな負担をかける恐れがある。
-一方の「太虚剣気」は、他の功法とは本質的に異なっている。[\s]
- -「剣心」は「容器」ではなく、「桟道」を鍛える。
- -天地万物から真気を吸い取り、内功を体の中で小川の水のように自由自在に流れさせるのだ。
-この新しい方法は、太虚一脈の祖師である精衛真人が作り出した。
-奥深く不思議なものだったが、非常に大きな制約もあった。
-例えば、男性が太虚剣気を鍛錬した場合、大多数が途中で挫折し、上達できなくなる。類まれな才能を持つ少年でもない限り、この奇功を習得するのは不可能なのだ。
-一方、女性が太虚剣気を鍛錬した場合、わずかな労力で大きな成果が得られる。
-平凡な才能の持ち主でも、男性の手練れに勝てるほどの強さを手にすることができるのだ。
-素裳の師匠は、歴代最強の剣心と言われ、内功だけに限れば、世界の誰にも負けないほどだった。
- -その彼女が教えた少女も、並外れた腕前を持っている。
-しかし、真気を使えなくても、少女にはまだ絶対的な強みがあった。
-剣心を鍛錬した肉体の強度は、常人をはるかに凌駕しているのだ。
-そして剣形は、世界で最も奥の深い武術である。
-大男は雨のように重い拳を繰り出すが、李素裳は一式の守剣形だけでほとんど防ぎ切った。
-金砂会の首領はまったく疲れていないかのようだった。
-柳のように伸びやかな少女の柔勁に尽く拳を阻まれながらも、
-一瞬たりとも攻撃の手を緩めなかった。
-こんな簡単な理屈を「鷹」が分かっていないはずはない。[\s]
-しかし、彼はどうして変わらず猛攻を続けるのだろうか?
-同様に、「鷹」も機会を窺っていた。
-そのために、彼は自分から隙を見せようとしていた。
-「鷹」は既に少女の性格を理解している。
-「平手打ち」の仕返しをするまで、少女の攻撃目標は決して他に向かないはずだ。
-敵の意図さえ分かってしまえば、
-その目標は急所ではなくなり、命を救う護符に変わる。
-「鷹」は全力で猛攻を仕掛けると同時に、肩の上の部分だけを守っていればよかったのだ。
-同じく命を賭けて戦っている李素裳に比べ、彼の負担は圧倒的に軽い。
-もちろん、彼は「賭け」に応じるつもりなどなかった。
-宝剣を手元に残し、李素裳の命も取るつもりだ。[\s]
-そのために平手打ちを食らったとしても、どうということはない。
-「鷹」はあらゆる技や秘技を惜しみなく繰り出す。その目的は敵を傷つけることではなく、
-あの「軒轅」古剣がある場所に近付くためだった。
-双方が互いに技を繰り出した瞬間、「鷹」はすぐさまこの少女が幼いながらも恐るべき腕前を持つことに気付いた。
-勁力の強さや敏捷さは言わずもがな、虎吼九霄の中で自由自在に技を変えて繰り出せている点だけを見ても、武術界でも一流の腕の持ち主と言えるだろう。
-その点だけは、彼は足下にも及ばなかった。
-戦いが長引けば、敗北は必至だった。
-——戦いの規則を守ればの話だが。
-しかし、「鷹」は規則を守る人間ではない。[\s]
-彼の望みは試合に勝つことではなく、戦いに勝つことだ。
-これこそが三つ目の強み、「目的」である。
- -同じ「勝利」でも、「鷹」の「勝利」と李素裳の「勝利」はまったく異なっていた。
-少女が追い求めているのは「試合」に勝つことだ。
-「鷹」が望んでいるのは「戦い」に勝つこと。
-「戦いに勝つ」……これは欲しいものを手に入れ、壊したいものを壊すことを意味している。
- -だから、李素裳は約束を守っている。
-一方、「鷹」は約束を利用するのだ。
- -相手の「標的」を利用して自分を守り、
-自分の「隙」を利用して敵をおびき寄せ、
-さらにあの鋭利な「宝剣」を利用して相手を殺す。
-これこそが「鷹」の仕掛けた罠だった。[\s]
-これまでのところ、全てが彼の思い通りに運んでいる。
-宝剣は彼のそばの石畳に突き刺さっている。[\s]
-手を伸ばせば届く……
-「鷹」が左手を緩める。[\s]
-仕掛けは完成した。片を付ける時が来たのだ。
-必殺技、技の駆け引き、一進一退の攻防など、期待していたものは一切ない。
-あったのは怒涛のように押し寄せ、せわしなく単調な攻撃と、徐々に罠を形作っていく防御だけだった。
-彼女の目は既に「鷹」の拳術に慣れている。
-「剣心」で観察を続け、虎吼震九霄にも
-対抗する術があることを見つけた。
-新たな「隙」はその時に訪れた。
-「鷹」の右拳はまったく威力がなく、明らかに陽動だった。[\s]
-しかし、その陽動は敵を誘い込むためでも、防御のためでもなく、彼女に態勢を整える十分な時間を与えるだけの、実に中途半端な動きだった。
-素裳はそのわずかな隙をずっと待っていた。
-一式「化剣・雲鷹」で防御から攻撃に転じ、
-瞬時に「開剣・瞬塵」を繰り出して「鷹」の喉元に突き刺した。
-太虚剣気の剣は実体を伴って伸びる。[\s]
-剣を手にしている場合、この技は真気を注入して敵の喉の急所を真っ直ぐに狙う無慈悲な剣術となる。
-李素裳の神速をもってすれば、相手は無理矢理この剣を受ける以外になす術はないだろう。
-彼女は剣の代わりに指を使い、「鷹」の返し技に備えていた。
-しかし、「鷹」は防御も回避もしなかった。[\s]
-それどころか、彼の上半身ががら空きになり、隙だらけになる。
-勝利に近付いた時ほど、危険が増す。
-生きるか死ぬかの状況になると、人は往々にして思いもよらぬ行動を起こせるものだ。
-「瞬塵」の速度は極めて速く、彼女に考える時間を与えてはくれなかった。
-剣が実体を伴って伸びる。「鷹」が応じなければ、たちどころに絶命するだろう。
-間一髪のところで、李素裳は唐突に気が付いた。
-実のところ、自分はこれまで覚悟ができていなかったのだと。
-彼女には剣を扱う覚悟、戦う覚悟、勝利の覚悟、人を殺める覚悟がなかった……
-彼女は15歳の少女に過ぎず、武術界に足を踏み入れたつもりになっているが、実際には人の命を大切にする情、命に対する畏敬の念を捨て切れていなかった。
-間もなく自分の手にかかって死のうとしている極悪人を前にして……
-首を賭けた約束、平手打ちの仕返し、一瞬で全てが頭から消え去った。
-李素裳は歯を食いしばり、技を引っ込めることにした——
-繰り出した太虚剣気を無理矢理押し戻す。
-反動の指の力が体に戻り、腕に大きな痛みが走った。
-技の勁力を分散させるため、彼女はつま先を軽く叩き、
-「飛燕帰巣」を繰り出し、回転を利用して力を削ぐしかなかった。
-ちょうどその時、足下にザザッという音が響いた。
-一筋の白い光が目の前で煌めき、先ほどまでいた空間を寸断していた。
-素裳が技を引っ込めるのと同時に、
-「鷹」の左手が急に「軒轅」を引き抜き、上向きに斬撃を繰り出した。
-少女が後ろにさがっていなければ、体は一刀両断されていただろう。
-李素裳の優しさが正しかったのかどうかは分からないが、
-彼女自身の命を救ったのは間違いない。
-(あれはロウソクの光?それとも月明りかな?)
-死が訪れる直前、李素裳はふと思った。
-十年の修行で極めた剣心はとても穏やかだった。[\s]
-これまで死に直面したことがなかった少女だが、死の間際、これほどまでに虚しくなった。
-それは女性の声だった。
-遠い場所から、はるか遠くの場所から聞こえる……
-彼女は体からほんのわずかな距離で剣の刃を受け止めた。[\s]
-続いて指で弾いた。
-この指の動きは、かつての師匠の指さばきに匹敵するほど完璧だった。
-両者の目的は古剣「軒轅」だ。[\s]
-手にした者が勝ち、手にできなかった者は死ぬ。
-(……アタシを助けてくれるよね?)
-体の動きを、完全に本能に任せる。
-「少女」の、李素裳の意識が呟いた。
-「あんたはアタシの剣でしょ……」
-軒轅は最高の位置に達して一瞬停止すると、すぐに落下してきた。
-突如、李素裳の中に、とても懐かしい感覚がこみ上げてきた。
-この光景、どこかで見たことがあるような?[\s]
- -目の前に落ちてくる剣は、どうしてこれほど親しみがあるんだろう?[\s]
- -…………
-何年も前のこと
-…………
-指が剣の柄に近付いていく。
-剣のぶつかり合う音が、少女の頭の中で鳴り響いているかのようだった。
-まさにその時、李素裳は、自分が「剣意」を会得したのだと確信した。
-この時の絶望と失望は今まで以上に大きかった。[\s]
- -少女は死ぬことを恐れてはいない。[\s]
- -しかし、希望を手に入れては失い、頂上まで登りつめては落ちていく苦しみを味わったのだ。
-体に沁みこむような大きな後悔とともに。
-悲鳴や震えは絶えることがなかった。
-「——いや!」
-次の瞬間には一刀両断されようとしていても、
-本能は負けを認めようとはしなかった。
-極めてぼんやりとした意識が素裳の掌剣を押し出し、
-相打ちするつもりで必死に敵に攻撃を繰り出す。
-この瞬間、「死」を理解して受け入れた少女は、
-ついに一足遅れて、手にしたのだ……
-「鷹」は剣客ではなく兵士である。
- -彼が使うのも剣術ではなく、刀術だ。
-そのため、逆手で柄を握った彼は、習慣的に手首をひねり、
-刃側を前にして敵に向ける。
-しかし、今夜は——[\s]
- -今夜、勝敗と生死を決める一瞬、
-「鷹」の脳裏にある奇妙な考えが浮かんだ。[\s]
- -その考えは、彼が剣舞をしていた時に知らず知らずのうちに根を張り、芽を出していた。
-(剣術と刀術は違うはずだ……)
-ただの思いつきにすぎなかったが、拭い去れなくなってしまった。[\s]
-ただの思いつきにすぎなかったが、「鷹」の生死を分ける場面で、手首をひねる習慣を止めさせてしまった。
-そのおかげで、彼は一瞬の時間を無駄にせずに済んだ。[\s]
-その一瞬を無駄にしていれば、剣の刃が少女の体を切り裂く前に彼は死んでいただろう。
-少女の掌剣が稲妻のごとき速さで真っ直ぐ頭に向かってくる。
-「鷹」は剣の柄を握りしめ、逆手のまま振り上げる。[\s]
- -剣と刀は違う。剣は両刃で前後は関係ない。
-このように、ほんの一瞬の違いが、結果を全く異なるものにすることがある。
-非常に鋭利な宝剣が月の光を切り裂いた。[\s]
-剣先は柔らかく貫通し、少女の体に別れを告げ、両断する。
- -薄い紙を切り裂くかのごとく、容易く。
-彼女の視線は空中の一点を見つめたまま固まり、もう動くことはない。[\s]
-恐るべき手刀も力を失い、動きを止める。
-「鷹」は少女を殺し、彼女の剣を奪った。
- -辛く残酷ではあるが、勝利に変わりはない。
-——そうなるはずだった。
-しかし、剣の切っ先が前を向き、李素裳の腹部に突き刺さろうとした時、「鷹」の真気が急に消えた。
-長年鍛錬してきた強力な内勁が、まるで存在していなかったかのように跡形もなく消え去った。[\s]
-彼が何をしようと、空虚な経脈は何の反応もなかった。
-[em italic]バカな——[/em]
-恐怖という名の寒気が瞬時に「鷹」の血管を駆け巡った。
-[em italic]バカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカな——[/em]
-彼の内息や気の動きには何の問題もなかった。
-彼も、このような時に自分の気が暴走することはないと確信していた。[\s]
- -しかし、それは実際に起こった。彼の勝利が目前に迫った時に。
-今夜、彼が内功を完全に失ったのはこれが2度目だった。
- -「鷹」はどういうことなのかを急に理解できた。しかし、時すでに遅しだった……
-力が入らない手は、剣の柄を握っていられなかった。
- -「軒轅」は空中の少女を切り裂き、骨が見えるほどの深い傷を負わせたところで彼の手から離れた。
-少女の掌剣が彼の頬を打つ。[\s]
- -平手打ちと骨が砕けるような音とともに、強烈な痛みと無念の感情が襲ってきた。
-[em italic]何故だ?[/em]
-砕けた側の頭から暗闇が押し寄せ、彼を呑み込もうとするが、彼は必死に抵抗した……彼の両目は狂ったように動きながら、何かを探している……
-[em italic]何故だ————!?[/em]
-あるものが彼の目に入った。[\s]
- -遠くの、古い宿場の広間、彼が気に入っていた椅子の前に一人の男が立っていた。
-[em italic]羅刹人……[/em]
-その男の横には、棺が静かに立っている。
-[em italic]貴様か……[/em]
-男は遠くから彼を見ていた。ロウソクの炎が揺らめく。彼は目を凝らして、その男の表情を見ようとした——
-[em italic]貴様か!!!!!![/em]
-彼の思考はそこで止まる。
-怒りがこみ上げてきたところで、暗闇が彼を呑み込み、連れ去ってしまったのだ。
-疲労と痛みが怒涛のように押し寄せる。まるで、再び体の支配権を取り戻したことを少女に知らせているかのようだった。[\s]
-……ただ、その知らせ方はあまりにも残酷だった。
-少女の口の中に、しょっぱい血の味が広がる。人生を疑うほどの苦みを伴っていた。[\s]
- -内臓が破裂したとかじゃないよね?
-……剣に斬られた腹部から急に痛みを感じるようになった。
-武術の修行には怪我や病気がつきものだが、
-これほどの重傷は少女にとって初めてのことだった。
-[em italic color=#FAFAD2]これが勝利の味だとしたら……
-本当にほろ苦いんだね。[/em][\s]
- -李素裳はあれこれ考えているうちに、思わず吹き出して笑った。
-そしてまたもや痛みで顔をしかめた。
-返事はなく、ただ足音がコツ、コツと聞こえるだけだった。[\s]
-コツ、コツ。[\s]
-遠くから近くへ、誰かが歩いてきた。
-李素裳が問う。
-その声はとても小さく、耳元のガサガサという音のせいで、自分でもよく聞こえぬほどだった。
-[em italic color=#FAFAD2]これでも酷くないっていうの?[/em]
-李素裳は聞こうとしたが、あえて心の中に留めておいた。
-素裳の目には、その物体は不思議な花模様が描かれた真っ白な紙の傘のように見えた。
-傘はとても長く、先端は尖っており、とても鋭利だった。
-[em italic color=#FAFAD2]金髪の人って、汗も金色なのかな?[/em]
-李素裳は考えながら、心の中の3割が後悔、3割が喜び、3割が恥ずかしさで埋まる。残りの1割は彼に対する申し訳なさだった。
-夜の風が優しく吹き抜け、羅刹人の長い金髪をなびかせる。
-髪の毛が顔をかすめ、微かにくすぐったく感じた。
-李素裳はそのことを口に出そうと思ったが、言いたくないとも考えた。
-彼女は思い切って目を閉じる。[\s]
- -羅刹人の言ったように、体のあちこちが痺れたり、痛くなったりしていくのを感じた。不思議な感覚だが、我慢できるものだった。
-生と死の境を経験した少女は、天の裂け目を飛び越えたかのような気分だった。
-今朝の自分のことを思い返すと、一昔前のような気がした。
-満足感と虚しさ、楽しさと悲しさ。
-李素裳の心の中では、何とも言えない感情が交錯していた。
-いつの間にか、痛みは徐々に消えていった。[\s]
-素裳の心の中に、成長したという小さな誇りが満ち溢れていく。
-天穹峰、入雲階。
-不思議な形の峰が天に向かって伸び、山の階段が延々と続いている。
- -見上げても、石段の先は見えず、山の中腹にかかっている雲や霧しか見えなかった。
-山は高く、その山の頂にいる人物も達人だった。
-数千段の石段を登ると、峰の頂に「拂雲」という名の小さな道観が見えた。
-名前、構造、屋内の調度品、
-拂雲観のどれもが、かつての太虚山、精衛真人の旧居とまったく同じであった。
-この道観の主こそ、
-まさに現在の神州六大派の一つ「太虚剣派」の当主だった。
-精衛の一番弟子、「軽塵剣」の林朝雨。
-……当主の寡黙な性格に加え、困難で長い道のりが待ち受けている。
-そのため、太虚門の門弟はよほど重要な用事でもない限り、この入雲階を登ってくることはない。
- -そのため、この日もいつもと変わらず、穏やかで平凡な一日になるはずだった。
-武術界に現れることは滅多になく、その門弟たちも目立たないように行動している。[\s]
-しかし、この者の名前は、六大派の当主や長老に劣らないほど有名だった。
-彼女こそ精衛の二番弟子、現在の「無双門」の主、[\s]
-「無双仙人」——蘇湄だった。
-門を叩く者がずっと待っていたことに気付いていないかのようだった。
-「軽塵剣」こと林朝雨は、ゆっくりと中から出てくると、かつての二番目の妹弟子を冷たい目で見た。
-その声が林朝雨の耳の中へと入り、細い尖った針のように彼女の心を刺した。
-彼女は思わず目の前の女性を一瞥する。
-美しい顔には潤いとハリがあり、触れれば破けてしまいそうだ。
-彼女の目は……相変わらず大きく、人を魅了する……
-彼女の唇は朱く、色っぽいと思えるほどだった……この女狐は、一体どれだけの紅を使ったのだろう?
-蘇湄の言った彦ちゃんとは、二人の弟弟子「百里逐駒」こと、馬彦卿のことだ。[\s]
- -この太虚剣派の六番弟子は傲慢な性格で、常に世間に縛られずに生きている。
- -馬彦卿と「無双」蘇湄は親密な関係で、武術界の誰もが羨む武術家の男女だった。
-しかし彼は突然、二十歳以上も年の離れた一番上の姉弟子と結婚すると宣言し、武術界に衝撃を与えた。
- -婚礼の当日、今度は酒に酔った勢いでくだらない話をし、自分の昔の名前を恥じて捨てたと言い、居合わせた招待客たちに気まずい思いをさせた。
-結婚後も、この太虚剣派の副当主が腰を落ち着けることはほとんどなかった。
- -1年のほとんどを、自分の愛馬「夜血」と共に各地を旅して過ごしている。彼の行いは良く言えば「義侠心がある」、悪く言えば「悪事を働いている」ということになるだろう。
-上は権力者や金持ち、下は悪党や盗賊に至るまで……馬非馬は相手が誰であろうと構うことなく手を出し、喧嘩を売っていた。この「狂人」は十年ほどの間、確かに各地の武術界で名を馳せていた。
-[em color=#FAFAD2 italic]いえ……[/em]
-林朝雨は心の中で思った。
-[em color=#FAFAD2 italic]彼が嫌っているのは過去、まさに、あなたが作り出した過去よ。[/em]
-その思いは胸にしまい、それきりにした。
-それを言葉にすることもしなかった。
-林朝雨は再び聞いた。[\s]
-蘇湄は彼女に向けていた視線をすぐに逸らし、ため息をつきながら言う。
-突如、怒りの炎が硬い氷を融かした。
-林朝雨は大きく前に一歩進むと、銀色の長剣を音もなく左手に握る。
-長年溜め込んでいた言葉を痛烈に吐き出したが、決して気分は良くなかった。
-林朝雨は相手の沈黙に満足したが、その沈黙を訝しんでもいた。
-風が吹き荒び、天穹峰の頂には骨に突き刺さるような寒さが漂っている。
-このような天気は怒りをかき立てるが、怒りの炎をかき消して意気消沈させることもある。
-二十年前のあの日の話題になり、林朝雨は無意識に一歩後ずさりした。[\s]
-冷たい空気が背筋で凝結して水滴となり、氷のような汗となって服の背中を滑り落ちていく。
-何年もの間、あの時の光景は骨の髄にまで入り込み、彼女を苦しめ続けていた。
-彼女は過去を振り払ったつもりでいた。
-しかし今日、蘇湄が訪れたことで、古傷に再び触れることとなった。
-再び顔を上げて蘇湄を見た時、林朝雨の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。
-それは、怒りと疲労が限界を超えたことによる笑みだった。
-林朝雨はドキッとした。[\s]
-それは彼女がよく知っている蘇湄の目だった。
-果てしなく広がる暗闇の中で、[\s]死んだ仙人の意識が蘇った。
-『その力』は限られている。感官から情報を受け取ることも、神経に指令を出すこともできなかった。
-混沌の中、弱い意識は古の本能に従い、盲目的でありながら揺るぎなく存在し、伸びていく。
-意識はまだ自分自身の死に気付いていない。[\s]
-彼女は自分自身の死を認めようとしない——
-常識で判断すれば、仙人は確かに死んだ。
-一番重傷を負った胸部は、十数ヶ所も損傷していた。
-しかし、最も致命的な傷は頭部にある。
-剣が彼女の額に刺さり、
-しかし「仙人」は普通ではない。
-その体は千年経っても死なず、[\s]
-その魂は万年経っても消滅することはない。[\s]
- -命の法則を徹底的に覆した、
-神州唯一無二の仙人。
-今、静かに石室に横たわる体は、まさにそういう存在であった。
-一つ一つの神経細胞から、
-仙人の脳と肉体は長い修復と再構築を始めた。
-裂けた皮膚を修復し、
-折れた骨を治し、
-ボロボロになった筋肉を繋ぎ、
-損傷した器官を再生する……
-やがて、仙人の『意識』が辺りを知覚する。
-それから、痛み、痺れ、腫れ、痒み……体の様々な部位が悲鳴を上げる。
-終わりのない苦痛が襲ってくる。
-……終わりのない修復、終わりのない痛み。
-仙人は沈黙したままだ。
-「 私 誰 ? 」
-頭の中は混乱したまま。覚えていることもあるが、忘れたことのほうが多い。
-「 此処 何処 ? 」
-記憶の中には断片的な言葉しかなく、彼女が求めている答えを繋ぎ合わせることができない。
-「 …… 何 ? 」
-そう思った瞬間、長いこと摩耗してきた感情が突如として胸に湧いた。
-七……
-彼女と最も親しい七人。
-七人が共謀し、彼女を嵌めた。[\s]
-七本の剣が罠を仕掛け、彼女を殺した。
-「 …… 何 故 ? 」
-湧き上がる感情が消えることはない。[\s]
-怒り、[\s]
-困惑、[\s]
-憤怨、[\s]
-腹立ち、[\s]
-そして悲しみ。
-「……どうして?」
-答えはない、あるのは答えを求める渇望だけ。
-……仙人は待つことにした。
-かつての彼女は長い間、この地を守ってきた。時の流れは彼女にとってさほど重要ではない。
-彼女は待ち続ける、体が完治する日がやってくるまで。[\s]
- -そしてあの七人を探し出す、自分を殺した理由を訊ねるため。
-強い衝動がぼんやりした意識の中で焼印を押し、
- -彼女を促し、鞭撻し、変えていく。
- -待つことが習慣に、苦痛が自然になるように。
-それから……
-痛い
-痛い
-痛い
-痛い
-終わりのない修復、終わりのない痛み。
-仙人は沈黙したままだ。
-彼女は長い間我慢してきた、
-ここは砂漠の中の小さな宿場。
-1400年前、流浪のテュイク人がここでオアシスを発見した。
-彼らは神様の加護に感謝し、思う存分水を飲んだが、止まることはなかった。
-そこから300年、顔国の隊商がここを通った。
-宝石と絹織物を満載した隊商に、一人の外交の使者がいた。
-その使者の価値は荷物を遥かに超えている。なぜなら彼は西域に出向き、同盟を結ぶ責任を背負っているからだ。
-商人たちはここで足を休め、翌日に出発した。
-彼らは漠北を出ておらず、誰もその行方を知らない。
-740年前、ハンユー族の遊牧民がオアシスの横に拠点を作った。
- -この水源がある限り、私たちはもう漂泊しないで済むと、首領は民たちにそう告げた。
-100年後、匈人は北からやってきた。彼らはハンユーの村を一掃し、老人と男を殺し、女と子供を連れて遠い西域に向かった。
- -……オアシスは匈人たちによって残され、再び世界に忘れ去られた。
-そして時が流れる。[\s]
- -文明は生まれ、滅亡する。人々は行ったり来たり、やがて歴史という川に消えてなくなる。
-オアシスの来訪者は今、古い壁の陰に隠れながらため息をつく。[\s]
-この重苦しい烈日と砂の海を、彼は3ヶ月間も見ているのだ。
-男はもう一度ため息をつく。
-砂漠の物寂しさと暑さのせいで気が晴れない。
-見渡す限り、景色は変わらない——
-太陽、空、黄砂……何もかもが停滞していて、微動だにしない。
-空気まで固まっているような気がして、少しの風も感じられないのだ。
-相手は知っているのだ、男は単に退屈を紛らわすためだけに話しかけてきたのだと。
-しかしこの黄砂に囲まれた蒸籠のような場所では、話すこと自体が贅沢だ。
-口を開くというのは、精神の緩み、水分の流失を意味する。
-『金砂会』の番人にとってそれはもったいないことだ。
-ㅤ
-注:
-ㅤ
-『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
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-物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
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-注:
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-『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
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-物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
-男は鬱憤を晴らすために悪態をつく。
-声は大きくない。たとえ仲間に聞かれても、内容を聞き取ることはできないだろう。
-……しかし、男はちゃんと分かっている。首領は新入りの彼を馬鹿になどしていないと。
-見張りの仕事は当番制、あいにく今日は彼の番になっただけだ。
-だが、彼は亡命者だ。その手は血に汚れ、足は無数の死体を踏みつけてきた。
-略奪、強盗、蹂躙、殺戮こそが彼のすべきこと。
-刀を振り回し、血に染まる刺激こそが彼が得るべき報酬だ。
-男は自分の価値を信じている。ㅤ[em bold color=#ff0000]戦闘[/em]ㅤとㅤ[em bold color=#ff0000]殺戮[/em]ㅤ。[\s]
-もし『悪』に真偽があるのなら、男は本物の残酷非道な極悪人だろう。[\s]
-彼は暴力を恥じることなく、むしろ暴力を自分の強さの証明だと考えている。
-そのため、長く計画されてきた『大商売』から外されたことに、
-彼は屈辱に近い怒りを感じていた。[\s]
-怒りのせいで焦燥感に駆られ、口が渇き、煩わしく感じる。
-目がかすんでいる訳でも、漠北でよくある「蜃気楼」を見た訳でもない。[\s]
-あの少女……砂漠の向こうからゆっくりと歩いてくる少女は、本当に存在している。
-思わず叫んでしまった言葉は、すぐに熱気の中に消えた。
-気付かぬうちに、男は金砂会の禁忌を犯していた。
-一つ目、狼狽えること。
-二つ目、軽率な行動を取ってしまったこと。
-金砂会の古参なら、彼のように慌てることは決してないのだろう。
-しかし、男の心には疑問があった。
-漠北で横行する金砂会を相手に、自らやってくる女は今までいなかった。
-彼女は川中『憶剣山荘』の若荘主、精衛真人の七番弟子『染香剣』こと、秦素衣の一人娘である。
-精衛真人、染香剣、憶剣山荘。[\s]
-神州の武術界では、どれも知らない人はいないほど名高いものだ。
-砂漠とは、声望も虚名も関係なく、弱肉強食で生きるか死ぬかの荒原だ。[\s]
-強い者は生き残り、弱い者は砂に埋もれるという世界。
-母親は彼女を可愛がっていて、つらい思いをさせたことがないほどだった。
-しかし剣の稽古になると、母親は誰よりも厳しくなる。
-その後、素裳は今まで以上に稽古に集中し、伝家の『憶心剣法』の十二の型を自由に使いこなせるようになった。
-それでも母親は頭を横に振る。
-素裳は、一体何が駄目であったのか理解できなかった。もっと勤勉になるべきだったのだろうか?
-どうして自分はいつも母親の期待を満たすことができない?
-母親はそれを実行した。
-李素裳の5歳の誕生日に、両親は彼女にある贈り物を用意した。
-憶剣山荘、川中、そして生まれてから離れたことのない『家』と別れを告げ、
-李素裳はそのまま漠北に来て、十年間『最高の剣法』を学んでいた。
-10年の時は瞬く間に過ぎ去っていった。
-家に対する思いは紙のように薄くなり、別れた時に母親が言った言葉だけが彼女の心に残っている。
-剣法で何かを手にすることができただろうか?
-武芸で何かを成し遂げることができただろうか?
-今の自分は、母親の期待に応えられているのだろうか?
-李素裳は意味深長な微笑みを見せた。
-少女の初の『力試し』は、今日にあると!
-二人の男が左側から近付いてくる。
-そのうち一人は、最も早く少女に気付き、声を出した男だ。
-彼は剣を手に、嬉しそうな顔をしている。
-まるで罠にかかった獲物を見つめる狩人のように、その笑顔は死を語っている。
-右後ろの男は少女の視界にはいなかったが、
-先程の男の声を聞いて走ってきたのだ。
-——賊と彼女の距離はたったの五歩。
-少女は包みを開き、逆手で古剣『軒轅』を握る。
-剣が手にある感覚は、彼女を安心させる。
-その後の出来事は、
- -きっとこういう展開になる筈だ。
-少女は飛び立つ鳥のように軽い動作で飛び上がる。
-着地した瞬間、剣の切っ先はすでに男の胸元に刺さっていた。
-剣を戻し、振り返る——噴き出す血より、ずっと速い。
-次の瞬間すぐさま剣で刺し、男の凶悪そうな笑顔を固まらせる。
-こうして、四人の敵は二人だけになる——なんの抵抗もなく。
-彼女の武術の造詣と、古剣軒轅があれば——
-その幻想を現実にすることは、難しいことではない。
-——賊と彼女の距離はあと四歩。
-目の前の四人は、宝剣を拝む価値すらないのだ。
-この剣は遠い昔、仙人たちの時代から受け継がれ、幾千万年の時を見届けてきた。
-その持ち主は武術界の伝説、唯一の真仙、神州の守護者『精衛真人』である。
-精衛真人が天に昇って仙人になった後、秦素衣はしばらく隠居したが、3年後に彼女は再び武術界に名を馳せた。
-彼女と『川公子』李紳の恋物語は当時、美談として語られていた。
-10年前、引退した母親は『墨染香』を幼い素裳に渡し、[\s]
-同時に素裳の肩には、「太虚五蘊を悟り、『天下一』になる」という母親の期待がかかり始めた。
-目の前にいる平凡な人間たちの血で、この剣の威名を汚すわけにはいけない。
-——賊と彼女の距離はあと三歩。
-——あと二歩。
-一歩!
-彼は本能的に下を見る。
- -その瞬間、足が痛み出した。
-男は地面を見ようとしたが、なぜか目に映ったのは太陽だった。
-(どういう……)
-彼はまだ自分が蹴飛ばされたことに気付いておらず、何か冷たいものがこめかみに触れたと感じただけだった。
-——太陽は暗闇に呑み込まれた。
-体を屈めて攻撃を回避し、その勢いのまま男を蹴り、そして指一つで彼を気絶させる——少女はあっという間にそれをこなしてみせた。
-彼女の精神は今までにないほど集中している。[\s]
- -目の前の敵を倒す以外、少女は何も考えていない。
-それこそが、太虚剣気五蘊の「心蘊」。
- -入門の一蘊でありながら、最も難しい一蘊でもある。
-『剣心 - 止水』!
-しかし、金砂会の古参たちは少しも気にしていない。
-なぜなら少女は彼らにとって、既に死人に見えていたからだ。
-砂埃を利用し敵の視線を遮ることで、時間の優勢を手に入れる。
-環境を最大限利用できれば、勝利の可能性を最大限に引き上げられる。
- -それが少女の考えだ。
-しかし、それも敵たちに読まれている。
-広い砂漠で何年も生きてきた盗賊たちは、そういう戦い方をとっくに身につけていたからだ。
-少女よりも、彼らのほうが詳しいとも言える。
-少女が砂を蹴り上げることは別に変わったことではない。過去に対峙した敵もそうしたからだ。
-しかしそれで慌てると思ったら、それこそ金砂会を甘く見過ぎている。
-——漠北強盗団「金砂会」はここ6年間、神州とインユウの辺境で活躍している組織だ。
-彼らのすることはまさに流賊——諸国の隊商を相手に貴重な品物を奪い、男と老人を殺し、女と子供を奴隷に売る。
-しかし普通の流賊と比べ、金砂会は規律を重んじる。
-話によると、金砂会の首領「鷹」はもともと軍隊出身だった。[\s]
-冤罪に遭い、左遷され、一族はその影響を受けた。
-構成員が「鷹」を恐れているのは、彼が悪辣非道だからだ。[\s]
-構成員が「鷹」を敬服しているのは、彼が常に無敗だからだ。
-この男の出現は、金砂会に激しい変化をもたらした。[\s]
-かつての流賊は規律を守る小さな勢力になり、漠北一帯の支配者となった。
-構成員たちは朝晩、武術の稽古をしなければならない。[\s]
-稽古が終わった後は、軍隊のような訓練が始まる。
-「鷹」は飽きもせず、彼らに陣形、変化、団結、それから様々な合図や命令を教えた。[\s]
-彼が欲していたのはまとまりのない盗賊団ではなく、軍隊そのものであった。
-それは「鷹」の保証。
-彼らは「鷹」の言葉を信じて疑わない。
-三人は素早く目を閉じた。
-視覚を失うより、砂が目に入った時の痛みや条件反射による動きのほうがより危険なものになる。
-目を閉じた瞬間、三人はすでに互いの場所と敵の位置を記憶した。
-彼らがこれから取る行動や攻撃する方位は、「雁人陣」の陣形を完璧に再現したものになる。
-真ん中にいる男は真っ先に刀で攻撃する。上から下へ、勢いよく振り下ろす。
-左側の男は一歩踏み出し、標的の下半身を狙った横斬りを仕掛ける。
-この二つの攻撃の心は攻撃ではなく、敵を誘導することにある。
-「鷹」が考えた陣形と刀術は、決まった道筋に従って敵を回避させるもの。
-標的がもしこの二つの攻撃を回避できたら、次の瞬間はきっと決められた位置にいるはずだ。
-その時は右側の男が致命的な一撃を与える番となる。
-敵が見えなくても、彼らはこの陣形で敵を確実に仕留める自信を持っているのだ。
-陣形に間違いはないが、少女は金砂会の男達の想像を超えていた。
-砂を蹴り上げたと同時に、少女はもう前に出た。
-金砂会が「鷹」の陣形を信じて疑わないように、少女も自分の武芸に絶対的な自信を持っている。
-剣心を極めた彼女には、男たちの攻撃を回避する必要はなかった。
-真ん中の男が刀を上げた瞬間、少女はすでに彼の懐まで飛び入った。
-反応するより先に、男の顎は思い切り殴られた。
- -衝撃は頭骨を通して直接脳に響き、激しい揺れに襲われた彼は意識朦朧となる。
-次にやってくる少女の跳び蹴りが膝に命中することを察する暇もなく、彼は地面に倒れた。
-少女は跳び蹴りの勢いのまま、「飛燕帰巣」を決め、瞬く間に左側の男の後ろに着地した。
-片手で男の首を叩き、
-まさに電光石火、彼女は力と速度をうまい具合に計算し、正確に行動してみせた。
-太虚五蘊の『剣心』、
-それは脳の潜在能力を最大限に発揮する奥深い心法だ。
-ㅤ
-『剣腊』:
-ㅤ
-剣を構成する部分のひとつ。
-ㅤ
-剣の中央の芯は剣脊、剣脊の両側にある面は剣背。
-ㅤ
-剣脊と剣背を合わせて剣腊という。
-同時に、百里先では……
-男は金色の砂に伏せたまま、動かない。
-汗の粒が額、鼻、首、脇、足から湧き出し、体の所々が痒くて仕方がない。
-それでも彼は動こうとしない。
-服があっても、皮膚が熱い砂に焼かれているようだ。
-気絶しないように、男は必死に精神を集中させようとする。
-こういう時、彼はいつも「鷹」の言葉を思い出す——
-彼らのような者が朝廷の兵に捕まると、胸元に烙印を押される。
-烙印は砂よりも硬く、太陽よりも熱い。皮膚に触れるとすぐにくっつき、剥がす時は皮膚も一緒に剥がされる。
-あの感覚は、「鷹」曰く、まるで地獄のようだ。
-金砂会の構成員たちはよく地獄を口にする、[\s]なにせ彼らはそこで再会する運命なのだ。
-地獄の中は不気味で恐ろしく、そして退屈だ。金も酒もなく、美人もいない。
-良いものなど、地獄に存在しないのだ。
-しかしここで、今日の「商売」が成功すれば、欲しいものは何でも手に入れられる。
-今回の「商売」は今までよりも大きいと、「鷹」が信頼できる情報を掴んだのだ。
- -遠方から来た隊商は貴族の家族を連れており、金銀財宝をたくさん持っているらしい。
-その情報に間違いがなければ、あと30分で全部手に入れられる筈だ。
-彼の実年齢はもう少し若いが、それでも不惑の年に近い。そして顔全体を見れば、目だけが際立っていることが分かる。あれは猛禽類の目だ。
-彼は遠方を眺めている。まるで獲物を見つめているかのようだ。
-質問も承諾もいらない、
-「鷹」の命令に従えば、返ってくるのは——
-突如、男の顔に笑みが浮かび、
-同時にその目つきも変わった。
-砂に伏せた男は視線を戻し、息を吸う。熱い空気が肺に充満したが、まだ我慢できる。
-遠い先、塵が舞い上がる。
-「来る。」
-誰かが呟く。
-長く待ち伏せしていた男たちはほっとする。苦しい時間が、やっと終わるのだ。[\s]
- -あとは、勝利のみ。そして、この勝利を……
-彼らはすでに長い間待ちわびていた。
-よく見れば、この棺はほぼ密封されていて、その周りに少しの隙も見当たらない。
-数本の黒い本革の帯が棺をしっかりと縛っている。
-金髪緑目の男は棺の横に膝をつき、長い指で棺の表面に触れる。
-その動きは撫でるみたいに優しいが、まるで、全身の力を使っているかのようでもある。
-男は自分の手でこの棺を作り、その中身を外の世界と隔離した。[\s]
-そして男はあらゆる法則に抗い、愛する者を連れ戻そうとした。[\s]
-宿願が叶うまで、彼はまだこの世界から離れられない。
-遠い先から聞こえる咆哮、叫び声、泣き声の中で、
-ラクダの悲鳴、馬車の転覆、刀のぶつかり合う音の中で——
-——男は微動だにせず、少しも気付いていないようだ。
-まるで目の前にある棺以外のものとは、何の関係もないように。
-ラクダの足音が再び鳴り出し、馬車はゆっくりと進み出す。
-その横には刀を持つ男たちが居て、隊商の人間と馬、それから財宝を守っている。
-何もかもが同じように見えて、何もかもが徹底的に変わった。
-商人たちは奴隷となり、強盗たちはその主になったのだ。
-ㅤ
-注:
-ㅤ
-羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
-ㅤ
-羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
-ㅤ
-当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
-そして最も喜ばしいのは、部下たちの出来だった。
- -彼が金砂会の頂点に立った時の、沈んだ様子とは大違いなのである。
-今回の隊商は待ち伏せの罠にかかってしまったが、護衛の用心棒たちは責任を果たそうとした。
- -一瞬取り乱したとは言え、彼らはすぐに態勢を立て直し、手強い抵抗を始めた。
-——しかし、それは「鷹」の思う壺だった。
-彼は挑戦の中で快感を得て、存在意義を探すような人間なのであった。
-敵の抵抗が激しければ激しいほど、兵士を訓練した価値が高くなるだろう。
-勝利の意味は、上がり続ける価値の中で最高の満足を得ることにある——
-——冤罪で投獄された後、新たな『戦友』は彼を見捨てた。何度も彼を夢から目覚めさせたのは、痛みでも悔しさでもない。羅刹鬼と殺し合った時間だった。
-ㅤ
-注:
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-羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
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-羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
-ㅤ
-当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
-羅刹国を出た時から、彼の人生は止まっていた。
-その後の時間は、何の価値もない行動を繰り返す屍に過ぎなかった。
-だから、彼は漠北に逃げた。金砂会を奪い、忠実な兵士たちを手に入れた。[\s]
-だから、彼は彼らを鍛錬した。鞭撻し、苦しめ、
-彼らを死の狭間へと送った。彼らと共に生きたのだ。
-過去を繰り返し、
-過去に仕返しを行い、
-過去を渇望する。
-故に、あの『羅刹人』に出会った時、
-「鷹」は思わず、時間が繰り返され、過去の光景が再び目の前に現れたのではないかと錯覚した。
-その人間を初めて見た時、背筋が凍った。
-そいつは『災い』だと、脳が警鐘を鳴らす。
-『災い』は隊商の馬車の中にいて、その空間を独り占めしていた。[\s]
-数十人の隊商の中で、彼だけがその待遇を有している。
-男は片膝をつく。[\s]その口調は穏やかで、まるで親しい相手に囁いているかのようだった。[\s]しかし周りを見渡してみても、馬車の中に他の人間はいない。[\s]
-あるのは、棺だけ。
-相手が話しているのは羅刹語ではない。だから、「鷹」にはその意味がよく分からなかった。
-しかし、その奇異な光景を見た彼は、既に冷や汗が止まらない状態にある。
-羅刹人の見た目は大体、20歳くらいだろうか。背は高いが、逞しくはない。
-武術はできるが、達人ではない。
-筋肉が肥大している人間は、外家拳を主とする武術者。
-そういう人間たちの肩と腕は力が強く、金属や石を簡単に破壊でき、普通の鈍器を防御することも容易である。
-優れた外家拳は平衡、つまり、力が全身に渡ることを重んじる。力量のみを求めてしまうと、却って臨機応変に動けなくなるのだ。
-速度と力量を兼ね備えた者こそ、腕のある人物。
-内家拳は内なる力を、即ち、経脈と『真気』を鍛える。
-そういう者の形神は控え目でありながらも、存在感がある。眼差しと呼吸を観察すれば、その奥深さが分かる。
-彼は何人もの命を奪っている。いまさら、一人増えたって構わない。[\s]
-しかし……刀は抜かれなかった。
-ようやく視線を強盗たちの首領に向けた。
-[em italic]羅刹鬼め、勿体振りやがって。[/em][\s]
-「鷹」は思わず心の中で罵る。[\s]
-[em italic]バイホイ人にお前を売ったら、どんな表情を見せるか楽しみだ。[/em]
-死んだ羅刹人は金にならないが、生きている羅刹人は高値で売れる。
-バイホイの奴隷商人はこういうものが好みで、いい値で買ってくれるのだ。
-彼は何故、あの棺に話しかけていたのだろうか?[\s]
-馬車を貸切にしていることも、疑わしい……[\s]
-そうだ、棺の中身を人に知られたくないからだ。
-……何だ??
-「鷹」はたくさんの人間を見てきた。
-彼が見てきた眼差しも、数え切れぬほどだった。
-恐怖、憎しみ、怒り、悔しさ、苦しみ……
-いや、彼は見ていただけではない。彼自身こそが、そういう感情の原因であったのだ。
-首に当てられる刀は、この世で最も有効的な自白剤だ。
-人一人の心の奥底を徹底的に暴くことができる。
-「鷹」は死ぬ寸前の眼差しに麻痺していて、
-瀕死の際の感情に動くことはない。
-そういうものを、彼はたくさん見てきているからだ。
-しかし、この羅刹人と同じ眼差しは今までなかった。
-あれは揺るぎない、狂気、残酷、愉悦、憐れみ、そして……
-[em italic]そうだ。[/em]
-「鷹」はハッとして、唾を呑む。
-この羅刹人は終始、彼のことなど眼中にないのだ。[\s]
-相手にとって、金砂会首領たる「鷹」ですら、大漠の砂と何の違いもない。[\s]
-価値はなく、意味もない。
-次の瞬間、羅刹人に踏み潰されるような錯覚すらあった。
-きっと、散歩するかのように簡単なのだろう。
-恐怖を感じたからではない。「鷹」は、自身に言い聞かせたのだ。[\s]
-彼は決して、羅刹鬼を怖がらない。
-遠い先に、一縷の煙がゆっくりと昇る。
-金砂会の帰路を示す合図である。
-彼は目の前の二人を観察し、
-少し離れた砂場に視線を向け、[\s]
-また宿場の中へと意味深長な視線を向ける。
-男は、少女の話をデタラメだと思っているようだ。
-李素裳は相手とは意思疎通できないと判断し、無視することにした。
-師匠の、[em color=#FAFAD2]「金砂会を知っている?彼らの頭を倒してきて。」[/em]という言葉は、
-簡単そうに聞こえるが、そのせいで正直者の弟子はかなり困っていた。
-武術界で有名な名前が次から次へと現れ、また次から次へと少女に否定されていく。
-それらは名の知れた達人だ。自分のような境遇に陥ることなどある筈がない。
-[em italic]閻世羅……[/em][\s]
-不思議な力に導かれたかのように、40年前に存在した武術の怪傑の名が少女の頭に浮かんだ。
-しかし自らやってきて、「品物」の振りをしてこっそり地下牢に入ってきた人間は、
-金砂会が占領して以来、おそらく李素裳が初めてかもしれない。
-素裳は枯草を整え、その上に大人しく座り、
-『剣心訣』の黙読で時間を潰そうとした。
-剣心訣は『太虚剣気』の入門となる内功、
-武術界の誰もが求める奇術である。[\s]
- -しかし剣心訣の正体が、奇妙で不可解な音節であることを、ほとんどのものが知らない。
-その音節には形式がなく、文字で表現することもできない。
-気の流れを教えるわけではなく、体の鍛え方を教えるわけでもない。
-『口訣』とはいうものの、実際何の意味もない。
-何も知らない状況で剣心訣を聞いたとしても、うわ言としか思えず、
-それが神州の武術界の頂点に立つ、無双の神業だとは誰も考えないだろう。[\s]
- -実は、その奥深さはここにあるのだ。
-暗唱、黙読、そして、聞くこと。それが心の鍛錬となる。
-言葉には力がある。[\s]
-素裳にはその中身を理解できないが、確実に『心』の変化を感じ取れた。
-体はますます軽くなり、頭の中も澄んでいく。
-五感が一箇所に集い、心の湖に溶ける。
-それが、剣心四境の一つ。
-——『止水』。
-素裳は雑念を捨て、剣心に集中する。
-次の境界へと入る——
-心の湖が氷となり、
-些細な考えを払い、少しの痕跡をも残さない。
-硬い氷のひびは消えてなくなる。
-心の湖は限りなく透明に近く、万物を照らす。
-しかしその上には剣心の最高境界……
-この世で師匠だけが到達した第四境がある……それは……
-氷面が急に割れ、心の湖が流れ、剣心訣も頭の中から消散する。[\s]
-李素裳はその場に座ったまま、激しい頭痛に襲われた。知らぬ間に、背中は冷や汗で濡れている。
-しかし自分は、生まれた時から母親が暗唱した剣心訣を聞いて育っている。
-師匠よりも早く進展するはずなのでは?
-師匠は13歳の時に『太虚』に到達し、
-15歳の若さで無上『剣神』となった。
-自分はどうだろう?同じ15歳になったというのに……[\s]
-『剣心』が円満になっていないだけではなく、
-『剣意』もままならない。
-この二つの難題を克服したとしても、
-その先には「神」蘊が立ちはだかっている。まるで雲霧の中にいるかのように、よく見えないのだ。
-『情』は『心』蘊の敵である。
-もし心の海に現れた感情を放っておいた場合、剣心が破損する恐れがあるのだ。
-明鏡の心を有する素裳はよく知っている。
-素裳は横に置いていた包みを手にする。
-計画通りにいけば、今夜こそ、剣が鞘から抜かれる時なのだ。
-秦素衣の最初の記憶は、一片の青だった。
-青い海が音を立て、波が彼女の足元を撫でる。幼い秦素衣は海辺に立っていた。
- -何故か分からないが、その光景を思い出す度に、彼女は嬉しくなる。
-顔を伏せると、柔らかい砂と白い波。顔を上げると、青い空と白い雲。
-近くで誰かが話しているようで、声が聞こえる。しかし、秦素衣は振り向かなかった。
-シャ——
- -ヤ——カ—カ——
-奇妙な音がカモメたちを驚かせ、その羽根がゆっくりと落ちていく。
-師匠は後ろからやって来て、彼女を抱き起こし、連れ帰った。
-師匠の袖は赤く染まっていたが、その腕はとても温かかった。
-この人の腕の中にいると、穏やかな気持ちになる。
-それより前のことを、秦素衣はもう覚えていない。
-その年、精衛仙人は東海で璃島の妖獣を退治した。
-その年、八歳だった秦素衣は太虚山、精衛真人に弟子入りし、七番弟子となる。
-一番弟子の林朝雨は、知らない場所に来て不安であった素衣の傍にいて、彼女の代わりに部屋を片付け、生活用品を揃えた。
-最初、秦素衣は言葉も忘れていたが、林朝雨は、一言一言付き合ってくれた。
-それは彼女にとって、物心がついた時から最も楽しかった時間である。数年後、彼女の人生で最も苦しく、絶望した時にも、彼女はよく当時のことを思い出した。
-林朝雨は彼女と三日間一緒にいた後、六番弟子の馬彦卿の世話に戻ると言い出した。
-太虚剣派の弟子は入門した日時で順番が決まる。秦素衣は一番遅く弟子入りしたが、一番幼い訳ではないのだ。
-彼女は五番弟子と同い年で、六番弟子よりも三つ年上である。
-六番弟子のことは彼女も知っている。師匠が彼女を山に連れてきた時、六人の弟子——女五人に男一人が出迎えに来た。一番上の一番弟子の年齢は、師匠とそう変わらない。彼女の腕には迷った表情をした子供がいる。
-秦素衣は好奇心からその子を何度も見たが、男か女か分からなかった。
-その横には同じ顔をした女の子二人が並んでいる。片方は素衣を観察していたが、もう片方は目を横に向け、何かから隠れているようだった。
-その左には、赤髪の少女がいる。彼女は砂糖に漬けた果物を口に入れ、素衣に向かって片目をつぶった。綺麗な笑顔だった。
-右側を見ると、みんなの後ろに立つ少女が見える。彼女は金色の剣を持ち、無表情だった。
-三日は瞬く間に過ぎていったが、一番弟子は戻らなかった。
-体が弱いからか、それとも環境が合わなかったためか、秦素衣は病気になってしまった。最初は全身から寒気がする程度だったが、その後、火傷をしてしまうぐらいの熱を出したのである。林朝雨は秦素衣を着替えさせ、薬を飲ませ、徹夜で看病してくれた。
-秦素衣も一晩中眠らなかった。高熱のせいでぼんやりしていて、記憶が曖昧だった。
-彼女はなんとなく、赤髪の少女が綺麗な男の子を連れてお見舞いに来たことを覚えている。邪気を祓うと言って、二人が彼女の枕の下に丸い何かを置いたような気がするが、起きた後は何もなかった。
-あの双子の姉妹も来てくれたような気がする。一人は一番弟子の傍にいて、手ぬぐいを替えてくれた。もう一人は彼女の手を掴んで、悲しそうに泣いていた。
-金剣を持った、無表情な女の子のことも気になったが、彼女が来たかどうかは分からなかった。
-翌日の正午。強い日差しが降り注いでいた。秦素衣の熱は下がり、まるで生まれ変わったようだった。
-素衣が体を起こして周りを見ると、一番弟子ではなく、赤髪の少女の姿があった。彼女は穏やかな一番弟子とは違う、軽快な足取りで部屋に入り、素衣の周りを一周して、懐から飴を取り出す。
-赤髪の少女が彼女の肩を抱く。何かが服に落ちたような感覚がした。
-秦素衣にとって、誰かに抱きしめられたのはそれが二回目だった。師匠の温かいぬくもりと違い、少女の腕は冷たい。まるで彼女が、虚無の点になるまで押し潰しているかのようだ。
-李素裳が生まれた時の体重は、わずか二斤三両。一本の剣とほぼ同じ重さである。
-山荘の者たちは頭を振り、父親の李紳は母親の秦素衣に向かってこう言い放った。
- -「この子は生きられないだろう。」
-当時、産後の静養中だった秦素衣はこう答える。
-「素裳が生きることができなかったとしても、それが彼女の運命。
-私は運命を憎まないけど、二人目の子供を作るつもりはないわ。
-これで李家の血が絶えたとしても、それが運命なのよ。」
-それを聞いた李紳は真っ青になり、その場を立ち去ったという。
-乳母と母親が世話したおかげで、李素裳は生き残った。しかも、とても元気に生きている。
-素裳の生後百日の日に、李紳は有名な占い師「小半仙」を山荘に招いた。
- -小半仙は印を結び呪文を唱え、素裳の周りでしばらく観察した後、声を上げてこう叫んだ——
- -「若荘主は生まれつき、剣の才能を持つ天才。非凡な運命の持ち主。まさに、大事を成す人相ですぞ!」
-その言葉の解釈は様々である。期待していた以上のことに大喜びした李紳は、己の代わりに娘が武術界の頂点に立つという夢を叶えてくれると思い、宴を開き、盛大に祝った。
-しかし、宴の主役は席にいなかった。
- -本物の「仙人」の弟子である秦素衣は、冷たい目でその茶番を見ると、娘を抱いてその場を去った。
- -彼女は寝室に戻り、娘を柔らかい敷物に下ろして、その横に小さい木剣をいくつか置いた。
- -幼い素裳は剣に触れようと手を伸ばしたが、握ることはできなかった。秦素衣は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
-物心がついた頃から、李素裳の傍には剣があった。だから、彼女が剣を知ったのは、物心がつく前だったかもしれない。
- -母親は彼女に変わった口訣を教え、父親は憶心剣法の十二の型を一つ一つ彼女に教えた。
- -こうして、李素裳は幼年期を剣の稽古の中で過ごし、瞬く間に四年の月日が経った。
-幼い素裳は真面目に稽古し、伝家の憶心剣法の出来も悪くはなかったが、それでも母親は彼女を大漠に送り、「弟子入り」させると言って聞かなかった。
- -そのことに対して、素裳は泣いて喚いたが、多くは抵抗しなかった。
-幼い彼女は漠北、南疆などの場所に対して何の概念もなく、家から離れる感覚もよく分かっていなかったのである。
-大漠に行くことが決まった数日後、人望のある陝中の石硯道人が憶剣山荘を訪れた。貴賓を迎えるため、父親は乳母に、素裳を裏庭に連れていき、稽古させるように命令した。
- -歳を取った乳母は思うように足を動かせない。素裳は乳母に気付かれないようにこっそりと裏庭を出ると、いつもの位置に隠れて、興味津々に居間を覗いた。
-「李荘主、久しぶりだな。」
-李紳は笑顔で拱手して挨拶を交わした後、座って茶を飲み、会話の続きを妻に任せる。
-——彼の妻、太虚山の仙人「精衛真人」の七番弟子、「染香剣」こと秦素衣にあるのだと。
-当時、精衛真人がまだ世にいた頃、神州の武術界を牛耳る者と言えば、精衛真人以外はありえなかった。
-伝説によると、精衛は下界に降りた仙人。不老不死だけでなく、武術の造詣に関しても比類なき才能の持ち主だという。
- -しかし十年前、太虚山に突如、金色の光が現れた。仙人は鶴に乗り天へと昇り、業火により太虚山は焦土と化した。
-その件は、武術界で大騒ぎになった。神州を千年以上も守ってきた仙人が、突如天界に戻った理由を、誰もが知りたがっている。
-仙人がすでにこの世にいない今、その答えは自ずと、仙人の七人の弟子である「太虚七剣」に期待することになる。
-キーン——
-年寄りの道士は茶を飲み、蓋を茶器に添え、武術界の近況を話した後、最後はやはり仙人の話題を口にした。
- -「正直に言うと、若い頃のわしは真人様に助けられたのじゃが、今でも礼を言いそびれたことを後悔しておる。はぁ、精衛真人様はまた戻ってくるんじゃろうか。」
-秦素衣も茶器に手を添え、笑いながらこう答える。
- -「神仙のことは、我々凡人が勝手に憶測するものではないのです。道士様に仙人との縁があれば、きっと再会できると思います。」
- -道士は大笑いしながら相槌を打ち、その後、精衛真人に関する話を二度と口にしなかった。
-茶を飲み終えた後、道士は暇を告げた。
- -父親は客を見送り、戻った時は暗い顔をしていた。
-母親の言葉にあった軽蔑の色に、李素裳は思わず驚く。
- -彼女の記憶の中では、両親は常に仲睦まじかった。そう……他の夫婦と同じように。
- -あんな話し方をする父親と母親を、彼女は知らなかった。
-母親はそう言い放ち、居間を出た。
- -李紳はその場に立ち尽くし、長らく動かなかった。握りしめた拳から音がする。
- -素裳は、ぼんやりしたままその場に座っていた。驚きがあり、喜びもあった。
-母親は微笑んでいるが、その目には悲しさと申し訳なさがある。
-彼女はまだ母親の言葉の全てを理解できず、一部の感情しか読み取れない。
-それでも、その歳では存在するはずのない重荷が、自身の肩にかかっていることに気付いた。
-少年は大きく深呼吸した。
+彼は手を伸ばして扉を叩こうとしたが、拳が扉に当たる寸前で止める。
+太虚剣派当主――『軽塵剣』こと、林朝雨。
+今年で五十六歳になり、天命を知る年齢も過ぎている。
+精衛仙人が金色の光に包まれて天に昇り、太虚山は炎に包まれた。
+その後、仙人の一番弟子だった彼女と六人の兄弟弟子はこの天穹峰に残り、
+太虚剣派を再建した。
+ +十年余りの時を経て、太虚剣派は見事に復活を遂げ、
+神州武術界の六大派に名を連ねている。
+そのため、林朝雨の名声もとても高く、夫の『逐駒剣』こと
+馬非馬と共に、武術界の誰もが羨む武術家夫婦となっていた。
+一門の主である林朝雨は決して偏屈な性格ではない。
+その逆で、彼女は誰に対しても優しく穏やかに、
+平等に接する。
+ +幾つかの例外を除いては。[\s]
+ +その例外に接すると、林朝雨はいつも
+人が変わったように怒り狂う。
+枕玉は慌てて頷いた。夫婦の問題など、部外者が口を挟むべきではない。
+彼は口数が多いほうではない。なので、そんな失敗はしないだろう。
+無双門――それは二十年近く前、新たな太虚剣派と
+ほぼ同時期に創設されたが、規模はまったく違う。
+ +今の太虚剣派は六大派に名を連ねているが、
+無双門はいまだに小さな宗派だ。
+しかし、無双門の門弟に手を出そうとする者はいない。
+その理由は、当主――『才色兼備』の蘇湄にあった。
+絶世の美貌、そして、優れた知性を持つ女性。
+ +蘇湄は精衛真人の二番弟子だったが、武術界では
+太虚七剣の中で最も恐ろしい人物とされており、畏敬の念を込めて
+『女諸葛』、『無双仙人』と呼ばれていた。
+当主が答えた。
+その声の中には、非難というよりも自嘲の響きがあった。
+早朝の話である。『無双仙人』こと蘇湄がいきなり天穹峰へやって来て、
+副当主からの言付けを当主に伝える必要があると言ったのだ。
+ +姉弟子や兄弟子たちは師匠の逆鱗に触れるのを恐れ、
+誰も、蘇湄を連れて山を登ろうとはしなかった。
+ +そうこうしているうちに、無双門の当主はいなくなってしまったのだが……
+……まさか、既に拂雲観にいるだなんて、誰も思わなかっただろう。
+蘇湄は、過去のことにはまったく興味がなかった。
+林朝雨も理解していたが、まったく賛同できなかった。
+林朝雨は、目の前の赤髪の女性をじっと見つめた。[\s]
+彼女はかつて、自分の妹であり、親友であり、仲間であり、恋敵であり、敵でもあった。一度決別した以上、死ぬまで関わることはないと思っていた。
+心臓がバクバクと鼓動し、服には冷や汗が滲んでいた。
+少女は無意識にそばの布袋に手を伸ばし、軒轅剣を握りしめる。こうしていると、少し安心できた。
+彼はずっと、大きくて重そうな棺を持ち歩いている。彼は時折、棺に向かって何かを呟いていて、そのたびに素裳は不快な思いをしていた。
+長い沈黙だった。
+素裳が次の話題を探そうと考えた時、羅刹人が急に口を開いた。
+金の鎖が光る。李素裳は、たちまち体から力が抜けていくのを感じた。内功がなくなってしまったのだ。
+しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐにまた元に戻った。
+李素裳は腕を組んで首を傾げる。無意識のうちに、唇を軽く噛んでいた。[\s]
+羅刹人の話を信じていないわけではない。ただ、様々な用語によって、頭が混乱してしまったのだ。
+遠く離れた、彼女には想像もできないような西域の祖国が恋しいのだろうか?[\s]
+それとも、誰かを懐かしんでいるのだろうか?
+彼女はふと気付いたのだった。この羅刹人を連れて師匠の元に戻ったら、彼とは別れることになる。[\s]
+彼と一緒にいる時間はもう半日ほどしかないだろう。短い、とても短いのだ。
+馬の方は血の色の汗をかき、蹄は黄金だった。細い頭と長い首、赤褐色の体に赤いたてがみが特徴的で、背中は細長い。[\s]
+一日に千里以上を走ることができ、蹄が砂を踏んでも足跡は残らず、平らなままだった。
+男の方は修行を積んだ者のようだった。大きな体に長い髪、短い髭を生やし、引き締まった筋肉をしている。[\s]
+顔には剣による大きな傷があり、整った容姿を台無しにしていたが、豪傑らしさを損ねることはなかった。
+この男と馬は息が合っていた。主従の関係を超えた、長年来の親友のようだった。
+中原でこの奇抜な組み合わせを遠くから見かけると、武術界の者たちは心の中で罵詈雑言を浴びせる。しかし、表面的には拱手の礼を取り、笑顔を浮かべながら「馬副当主!」や「馬さん!」と声をかける。
+それは、彼が精衛真人門下の中で唯一の男の弟子であり、
+七剣の六番弟子、
+広く名を馳せている天穹峰太虚剣派の副当主、[\s]
+ +『逐駒剣』――馬非馬だからである。
+表向きには、彼はいくつもの肩書を持っている。名も轟いているため、武術界の者なら誰もが彼と知り合いになりたいと思っていた。
+しかし裏では、人々はこの馬非馬を、『異常者』、『狂人』、『変人』、『殺しても死なない馬非馬』などと呼んでおり、実際に彼に会うと、誰もが頭を痛めながらも友好的な会釈をしていた。
+実のところ、彼と親しい付き合いをしたいと思っている者など、どこにもいない。
+何故なら、馬非馬は武術に優れているだけでなく、その行いが非常に傲慢だからである。
+太虚剣派の副当主という肩書を持ちながらも、馬非馬は一匹狼の豪傑だった。
+ +太虚剣派の門弟でも、彼に会える機会は年に数回もない。彼は妻である林朝雨よりも、愛馬『夜血』と過ごす日の方が多いのではないだろうか。
+天穹峰にいる時の馬副当主は穏やかで礼儀正しく、謙虚に振舞う。
+しかし山を下りた途端に別人のようになり、どんな喧嘩や挑発も受けて立つ。
+相手が名家だろうと、王侯貴族だろうと、馬非馬は一切お構いなしだった。
+正義のために戦う?悪を駆逐する?
+逐駒剣にそのような大義名分は必要なかった。
+喧嘩したい時に喧嘩をし、戦いたい時に戦う。
+剣を使いたければ剣を使い、拳を使いたければ拳を使う。
+助けたい人を助け、殺したい人を殺す。
+すべては心の赴くままなのだ。
+そのため、武術界の人々は彼を恐れて避けている。彼の起こした騒動のために、太虚剣派の当主、林朝雨が奔走することもしばしばだ。
+ +彼の敵は各地におり、誰も公然と太虚七剣の怒りを買おうとはしないが、裏で彼の首に懸賞金をかけている者は少なくない。
+それらに対する馬非馬の態度は「来るもの拒まず」だった。
+「俺を殺したければ来るがいい。いつでも相手をしてやろう。
+俺が少しでも逃げれば俺が腰抜け、俺を殺せなければ、お前が役立たず。ただ、それだけの話だ。」
+彼を殺しに来る者は本当に後を絶たない。
+待ち伏せ、陰謀、罠、毒、色仕掛け、決闘、試合……
+あらゆる技を使ったが、それでも馬非馬は死んでいない。恐ろしい傷痕が無数に残されてはいたが、彼はピンピンしていた。
+酒が腹に入り、男の涙に変わる。
+涙は簡単には流れず、孤独な夜に大雨となって流れる。
+人々が真実だと思っていることは、世の中で最も大きな嘘であった。
+ +馬非馬には自由などなかったし、自由を好んでいたわけでもなかった。
+師匠が生き返ったことを知った馬非馬は、夜を徹して急ぎ、無双門へと向かっていた。
+このことを、真っ先に蘇湄に知らせるために。
+[em italic]しかし、昔とはもう違う……[/em]
+両目が溶けそうなほど熱くなり、彼は、何年も前に口にした言葉を彼女に言いたい衝動に駆られた。
+蘇湄は目の前の男を見た。まず彼の目を見て、次に彼の喉、そして手を見た。[\s]
+彼女の視線は彼に大きな喜びを与え、そして、話す勇気を与えた。
+馬非馬は黙っていた。彼女の言葉が彼を黙らせていた。[\s]
+なぜなら、『無双』こと蘇湄の言ったことは、いつも本当になるからだ。
+馬非馬は俯きながら、蘇湄の言葉の意味を反芻していた。
+蘇湄がそう言った以上、何らかの意図があることは分かっていたが、彼には理解できなかった。
+しかし、蘇湄とは知り合って三十年以上になる。
+賢い女性は、男に説明する行為が好きではないことも分かっていた。
+潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
+潮が満ち、[\s]潮が引く。
+目の前にあるのは、何万年もの時間をかけても見終わることのない知識の宝庫だった。[\s]
+偽りの体がある場所は、普通の肉体では決して入り込めないデータの海だった。
+潮が満ち、潮が引く。
+情報の波が男の意識に押し寄せて来る。何度も、何度も。[\s]
+彼は必死に、意識を保とうとした。
+この大海原には、言葉にできない情報が浮き沈みしている。
+男が掴み取れるのは、百億分の一の断片に過ぎない。
+そして手にした情報のうち、使えるものはほとんどない。[\s]
+ +長い時間をかけ、緻密な選別を行わなければ、
+無限の知識を持っていても、愚人と何ら変わらないのではないだろうか?
+だから彼は探し続けている。
+知られざるどこかで、かつて倒した相手――「虚空万象」の本体が彼の肉体を欲しがっている。
+無限の知識は彼をおびき寄せるための餌であり、気前のよい贈り物は彼を倒すための武器だった。
+「それ」は男が気を緩めるのを待っていた。男もそれを知っていた。
+彼はそれでもなお、探し続けていた。
+探すことを止めなかった。
+それはすべて、あの人を救い出すため――
+そのためなら、苦労が何だというのだろう?[\s]
+危険が何だというのだろう?[\s]
+時間が何だというのだろう?
+永遠も……何だというのだろう?
+潮が満ち、[\s]潮が引く。[\s]
+潮が満ち、[\s]潮が引く。
+男の意志が揺らぐことはなかった。
+潮が満ち――
+彼はなおも探し続けている。
+突如、押し寄せてきた感情が少女の心を押さえつける。
+一瞬の驚き、後悔、苦痛の下に、絶望的なほど強烈な殺意が隠れていた。
+魔に堕ちた者は死すべし――
+それは、幼い頃から母や師匠がしつこいほど彼女に教え込んだ掟である。太虚一門の使命であり、特に禁忌のない『自在門』で、唯一の鉄の掟だ。
+そうだ。彼女は彼のことをそう呼んでいた……[\s]
+記憶の中の少女は手を後ろに回して立っている。銀色の髪がそよ風に吹かれて、なびく。
+その声はいまだに耳に残っている。まるでその瞬間で時が止まり、二度と進まなくなっているかのようだった。[\s]
+しかし、それは三十年以上も前のことなのだ。
+虚空万象との戦いよりも、過去の思い出から離れることのほうが遥かに大変だ。だが、それを理解できる者はいないだろう。
+かつて天命と神州が戦った際に、羅刹人は気付いていた……[\s]
+ +奥深く、理解し難いエネルギーである『真気』だが、同じものである筈なのに、東洋と西洋とで使い方に多くの違いがあった。
+彼はそれをとても不思議に思っていた。
+西洋では真気を疫病と見なし、その汚染から逃れようと必死になっている。
+しかも、それに対抗するために、様々な技術を発展させてきた。[\s]
+ +しかし、東洋人はそれを受け入れ、利用している。
+自らを強化するための力にしているのだ。
+天命と比べ、神州の科学技術は確かに遅れている。
+ +しかし、真気に対する理解は東洋の方が全体的に優れていた。
+……どうしてこのような違いが生まれたのだろうか?
+彼はそう言ったものの、実は考えがあった。彼の異常を引き起こしたのは天命の秘宝「黒淵白花」の本体だ。[\s]
+ +模造品を使って逆行させるやり方など、自分の力では絶対に不可能である。最終的には、やはり東洋人の不思議な武術に頼るしかない。
+窓の外は、まだ暗い。だが、凌霜はすでに目を覚ましていた。
+彼女はいつも、この時間に目を覚ます。早過ぎることも、遅過ぎることもない。
+桶に水を汲み、髪をとかして着替えると、彼女は寝台の上で座禅を組んだ。
+剣心訣の黙読を始める。一度始めると二時間は続き、雷が鳴っても止めることはない。
+そして立ち上がり、ほうきで床を掃く。部屋を綺麗に掃除すると、
+近くの市場で小麦粉を焼いた生地と羊肉を買う。[\s]
+水を使い切った場合は、隣の井戸で水を汲む。
+朝食を終えると、凌霜は古い織機の前に座り、機織りをする。
+以前は、満足のいく織物を一日で織ることができた。
+弟子として素裳を迎えてからは、その速度は大幅に遅くなった。[\s]
+遅ければ一週間、早くても四日はかかるようになったのだ。
+李素裳は自分が出ていった後、
+師匠が空いた時間に何をするのか、どのような修行をするのか気になっていた。
+十年近く一緒にいたが、素裳は、
+師匠が空いた時間のほとんどを古い織機の前で過ごすとは思ってもいなかっただろう。
+はじめ、機織りは修行とまったく関係がなく、
+ただ生計を立てるための手段でしかなかった。
+しかし、凌霜にとっては全てが繋がっていた。機織りと武術に共通点があるのだろうか?
+いつの間にか、凌霜にとっては機織りも、剣心を鍛え、武術を磨くための手段となっていた。
+剣の道にはあらゆるものが含まれており、剣自体も拠り所に過ぎない。
+ +立つ、座る、寝る、着る、食べる、暮らす、動く……生活のあらゆるところに、武術の道が隠されている。
+ +一挙手一投足のすべてが武術の修行であり、不動の静寂もまた剣の鍛錬だった。これこそが、『渾然天成』。
+そして素裳の師匠、精衛の五番弟子、『自在剣』こと凌霜は――[\s]
+まさに渾然天成の人、天下無上の剣と言えるだろう。
+凌霜はというと、ただひたすら剣心訣を黙読し、機織りをする毎日を繰り返していた。[\s]
+彼女がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、誰も知らなかった。
+……こうして、李素裳が試練のため外に出てから八日目。[\s]
+凌霜が織機の前に腰かけていると、突然遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
+金砂会の最も上等な二頭引きの馬車が、飛ぶような速さで走っていた。
+ +李素裳は馬車の荷台に肘をかけ、鼻歌を口ずさんでいる。機嫌はすこぶる良い。
+「羅刹人、神通力を使うのはやめたら?ほら、風に吹かれるのって気持ちいいでしょ。」
+疾走する馬車が強い風を起こす。素裳の編んだ髪の毛が二本の黒い小川のように流れていた。
+一方、羅刹人は目に見えない空気の障壁で自分の周りを何重にも囲んでいた。[\s]
+法器「虚空万象」が作り出した領域の中で、男の長い髪は静止している。その顔も穏やかで落ち着いていた。
+「暑いよ。でも、砂漠ってこういうものじゃない。」
+「……ふむ。」
+「嫌なの?もう、ごめんね。あんたが馬車を……あんな風にするから。」
+一日目に羅刹人が使った変幻の奇術は、簡素なものだった。
+しかし、二日目に彼が使った奇術は、素裳の許容範囲を超えていた。
+その馬車は丸く、デコボコしており、鮮やかな橙色がとても目を引いた。
+羅刹人は「カボチャ」というのだと口にしながら、さらにそれを見つめ、頷きながら微笑んでいた。
+「それに、あんたは傷を負っているんだから。危険を冒して奇術を使わないでよ……
+……こうやって乗るのも悪くないでしょ!」
+素裳は、羅刹人が残りわずかな内功を使い果たしてしまうのではないかと本気で心配していた。
+しかし、羅刹人は風に対して、深い恨みでもあるかのようだった。
+ +彼はオンボロの馬車に乗ることは承諾したが、身だしなみをきちんと整え、上品さを保つよう気を配っていた。無造作に垂れているように見える金髪だったが、一本たりとも風に吹かれないようにしている。
+「……あんた、そんな能力があるのに、どうして捕まって地下牢に入れられていたの?
+いくら考えても納得がいかないんだけど。」
+「捕まった?僕は『鷹』の招待を受けて、彼らの集落に客人として滞在していただけさ。」
+「……客人?」
+「……場所は少し変だったけどね。」
+「……あんた、神州語を誤解していたんじゃないの?」
+李素裳は困ったように頭をかいた。
+「そんな話し方をする人なんていないよ。『鷹』はどういう風に言ったの?」
+「ここは俺のものだ。
+そしてお前も俺のものだ。
+出てこい。
+ついて来い。
+小細工はするな。」
+「……羅刹人、あんたの解釈はお人好し過ぎるよ……」
+「仕方ないさ。君たちの言語は複雑すぎるんだ。」
+「もう、あんたと話すのは危険すぎるよ。
+どの言葉も落とし穴みたいで、アタシが穴に落ちる姿を見て笑うのを待ち構えているみたい。」
+「そうだ、天命派のことをもっと話してよ。」
+「えっ?」
+「いや、やめよう。本当に頭が疲れるんだ……」
+「えー――」
+「それは何日か後にしよう。もう少し整理させてくれないか……
+日を改めて聞かせてあげよう。」
+「だけど、家までまだかなりあるよ。お喋りしなかったら退屈だよ。」
+「それじゃあ、君が話してくれないか?あの仙人のことについて話してみてはどうだろうか?
+確か、君は精衛と関係が深いと言っていたが。」
+「関係が深いのは師匠やアタシの母さんだよ。アタシは……仙人に会ったことがないの。」
+素裳は頑張って思い出そうとした。
+「本当だよ。アタシは会ったことがないの。父さんも母さんも、仙人について話したことはなかったから。
+精衛真人のことは、乳母から話してもらっていただけなの。」
+「仙人は世界で唯一、何千年も生きてる不老不死の本物の仙人だって言ってたよ。」
+ +「三界を超越する無限の神通力を持っていて、片手で神州を平定し、剣一本で天下を平定するんだって。」
+ +「神州の守護者として、彼女は数えきれないほどの妖魔や魔物を倒してきたの。」
+「朝廷は彼女を上仙に任じようとしたらしいんだけど、
+でも、彼女は政治や王朝の交替に興味はなかった。
+それでも新たな皇帝が即位するたびに、彼女に挨拶するために太虚山へ行こうとしたの。」
+「仙人に会えたら、寿命が延び、王朝が栄えると言われていたからね。」
+ +「一方、仙人に会えなかった君主は、志半ばにして崩御したり、王朝が変わってしまったり、良い末路を辿れなかったんだって。」
+「――大体こんなところかな。他にも色々聞いたけど、忘れちゃったよ。」
+「ふむ……」
+「実例って……邪教の聖主、閻世羅を倒したこととか?目に見えない剣で璃島の妖獣を倒したこととか?
+どれも巷の言い伝えばかりで本当かどうか分からないよ。
+どんな例を聞きたいの?乳母もあまり話してくれなかったから……」
+「たとえば……」
+「仙人が無限の神通力を持っていて、三界を超越しているのなら、人を蘇らせることもできるのかい?」
+「人を……蘇らせる?」
+男の目は李素裳をじっと見つめているが、彼の目に映っているのは彼女ではなく、彼女の横にある、何か巨大なものであった。その巨大なものは光り、熱を発しており、彼の視線も熱を帯びて明るくなり始める。
+「わ、分からないけど……」
+素裳は熱い視線から逃れ、彼の前に置かれた棺をチラリと見た。
+ある考えがパッと閃く。突然、何かが分かったような気がした。
+「あんた……誰かを蘇らせたいの?」
+「ああ。」
+羅刹人は口を開いたが、出てきたのはまったく意味を持たない言葉だった。
+言葉が消え、彼の目つきも暗く、冷たくなった。光と熱が一瞬の間に空中へと散逸する。
+素裳のそばにいたのは、時折悲しげな表情を見せつつ、冗談も言う、これまで通りの異邦人だった。
+「そうか。だから仙人を探してたんだね!……仙人に誰かを蘇らせてもらいたいんでしょ?」
+「その通り。」
+羅刹人は視線を下に向けた。
+「誰でも、こういった願望を持っているものさ。普通だろう?」
+金髪の男が優しそうな笑みを見せる。
+「彼女を蘇らせてほしい。ただそれだけなんだ。単純な話さ。
+だが、願い事が単純であるほど、叶えるのは難しくなる……」
+「あぁ……」
+李素裳はまだ十五歳だった。これまでの人生で愛された時間は短く、ましてや誰かを愛したこともない。そのため、羅刹人の言葉に込められた気持ちを理解することはできなかった。
+「十九年……」
+「ほんの一瞬さ。僕には時間があるからね。彼女も同じだよ。」
+李素裳は、自分のことを言っているのだと思い、少し呆然とした。
+[em italic](仙人は本当にあの人を蘇らせることができるのかな?)[/em]
+羅刹人が伝説の仙人に対して、これほど大きな希望を抱いているとは思いもしなかったからだ。彼を師匠に引き合わせ、仙人に会う方法を師匠が彼に教えれば済むと考えていたのである。難しいことは何もないはずだった。
+しかし、今の李素裳は、他人の願望の中に勝手に入り込んでしまっていた。
+以前は気にしていなかった言葉も、彼女の琴線に触れ続けている。[\s]
+彼女はただ……いや、彼女自身にも、はっきりとはわからなかった。
+「そうだね。うん、戻ってくるよ!」
+彼女は何度もつかえながら言葉を続けた。彼に元気になってもらいたいと、心の底から思っていた。
+しかし、恥ずかしさが邪魔してしまい、どうしても上手く言えず、声もだんだんと小さくなっていく。
+「願いは……きっと叶うよ。」
+「……」
+羅刹人は口角を上げ、かすかな笑みを浮かべた。
+「ありがとう、素裳。」
+李素裳は呆然とした。そして、自分もおかしな笑い方をしていることに気付く。
+彼女は慌てて口をとがらせ、視線を逸らす。
+偶然にも、その大男も李素裳と羅刹人をチラリと見た。
+それは何気ない一瞥だったが、一瞬、何かに目を止めたかと思いきや、目つきを鋭くした。
+「……まったく。」
+それは、突然襲いかかってきた男が、彼女のよく知っている技を使ったからだった。
+その技は太虚剣気「開剣形」の「岩破」だった!
+――それは太虚五蘊の最高境界ではないか。
+彼女が知る限り、世界でそれを会得しているのは師匠だけだ……
+体つきは長身で細身、整った顔立ちをしているが、見てくれだけで中身は大したことはなさそうだった。呼吸は基礎もできておらず、武術も平凡そうに見える。[\s]
+ +しかし、馬非馬はよく分かっていた。この者は見た目とは違い、一筋縄でいく相手ではない。
+剣心を使って見てみると、彼の体内の真気の動きは極めて不自然だった。[\s]
+ +普通の人間が内功を流す、奇経八脈の中が空っぽのようなのだ。
+だというのに、手の三陽三陰の真気は暴走しそうなほど勢いがある。
+先ほど彼が剣で馬車を停めた時にも、この羅刹人はとても不思議な反応を見せた。
+ +手足を動かしていなかったのに、ひっくり返った馬車の影響を一切受けていなかったのである。まるで、宙を浮遊するかのように。
+馬非馬は信じられなかった。
+ +金髪の男は、極めて優れた内功の使い手であることを隠しているのだろうか。それとも、怪しい武術の使い手なのだろうか。どちらかではあるのだろうが、と馬非馬は考える。
+それにこの者の両目は……
+ + +とても若い顔立ちをしているが、それにまったく釣り合わない、奥深い目をしている……
+馬非馬の脳内に、注意を促す囁きが聞こえてくる。[\s]この羅刹鬼は俺を殺せる人間だ。
+[em italic](本当か?……この男にできるのか?)[/em]
+胸の中で、重い苦しみと渇望が激しい渦を巻いていた。
+馬非馬は目を閉じる。[\s]
+ +死。[\s]
+ +夜気の中で咲き誇る花のように、死という刺激が心に広がっていき、あっという間に全身の寒さをかき消した。
+[em italic](いいだろう……お手並み拝見といこうじゃないか!)[/em]
+馬非馬は自分にそう言い聞かせる。[\s]
+ +囁きは彼の言葉を受け入れ、ひとまず衝動を抑え込んだ。
+そして、待ち切れないとでもいうように主人の号令を待つ。
+[em italic](こっちの女は……)[/em]
+馬非馬は急に嬉しくなる。
+この中途半端な太虚守剣形から、二十年前に姿を消した上品な女性の姿がぼんやりと見えるようだった。
+その歳月は彼にとって懐かしくもあり、心が痛むものでもあった。
+ちょうどその時、羅刹人が口を開いた。
+とても小さな声だったが、馬非馬のかすかな感慨を台無しにするには十分だった。
+傷だらけの男は思わず満面の笑みを浮かべた。[\s]
+彼の顔にある剣の傷痕が、まるで炎が燃え上がるかのように赤くなる。
+好奇心が再び勢いを増し、抑えきれない衝動に変わった。
+また耳元で囁きが聞こえる。「この男こそ、俺を殺せる人間だ。」
+果てしなく広がる黄砂が、太陽に照らされている。
+目に見えない気の波とともに、汗が噴き出るほどの熱気が押し寄せてくる。
+しかし、目の前の男が放つ冷たい殺意に、李素裳は寒気がした。
+上がる口角と共に赤い古傷が動く様子は、やや不自然だった。しかし、彼は楽しそうに屈託のない笑顔を見せている。
+男は笑い終えると、表情をやや和らげた。
+――突如、異変が起こった。
+激しい殺意が急に空を覆ったかと思うと、すぐさま跡形もなく消えてしまったのだ。[\s]
+まるで、目の前の人物の形跡が世界から消えてしまったかのようだった。
+無意味な感情や価値のない思考を捨て、
+欲望、怒り、邪念、憎しみを捨て、明鏡止水のような空虚さを保つ。
+それこそが太虚剣心であり、精衛真人が生み出した神業なのだ!
+「百里逐駒」こと馬非馬……
+数歩ほど後ろに下がった羅刹人は、顔を上げて馬非馬を見つめた。
+彼は何も言わず、その目は虚ろだった。
+目の前の敵は、決して力を抜ける相手ではない……
+全力を出したとしても、必ず勝てるという保証はない。
+何しろ――彼は太虚剣派の六番弟子、師匠と同等の腕を持つ最高の使い手なのだから!
+[em color=#FAFAD2](もう。人生初の決闘から数日も経っていないのに、また戦わないといけないなんて。)[/em]
+しかも相手は武術界最強の七人の中の一人……
+[em color=#FAFAD2](まさに本に書いてあった通りだね、武術界ってとこは、海のように深い。)[/em]
+李素裳は心の中で意味のない嘆きを呟くと、それを原動力にし、溢れんばかりの闘志に変えていった。
+心は穏やかで波風一つなく、透明で、澄んでいた。
+これは馬非馬の「止水」よりも高い境界だった。
+剣心・明鏡。
+三日前の素裳であれば、この技に対して為す術もなかっただろう。
+心は鏡のように澄んでおり、外界のものを映し出している。
+ +馬非馬の動きは彼女の澄み切った心の湖に落ちると、煌めき輝く波のように緩慢な動きになった。
+ +虚空に入った瞬間、彼女は男の技を見切るだけでなく、すぐさま最も適した返し技を繰り出した。
+素裳は躊躇うことなく右手を動かす。
+布に包まれていた軒轅が空を舞った。
+ +剣身が回転し、刃が寸分の狂いもなく男の手の平に向けられる。
+[em italic]――技を止めて![/em]
+李素裳はそう祈った。
+しかし、男の掌打は躊躇うことなく、真っ直ぐと軒轅に向かってくる。
+鉄をも切り裂く神剣ではなく、脆い竹竿を相手にしているかのように。
+強い箇所を避けて虚を突く。防御力が最も高く、硬いものを逆手にとって弱点へと変える。
+ +――太虚開剣形の「震風」は、まさに真気を巡らし、強烈な振動を引き起こす不可思議な技だった。
+無防備な状態で掌打を受けた素裳は、表面はそこまでではなかったものの、内臓に重い傷を負っていた。
+最も衝撃を受けたのは頭部だった。今も、激しい衝撃の余波が残っている。
+捻じ曲がった世界の中で、彼女の目が捉えられたもの。
+それは、羅刹人の翡翠のような目だけであった。
+一撃。[\s]
+馬非馬はたった一撃で勝利した。それでも、顔に喜びの色はなかった。
+掌からは命中した手応えが伝わってくる。
+馬非馬は思わず羅刹人の方を見たが、無反応で失望する。
+無反応……そうだ。
+羅刹人は素裳を注視していた。まるで、石や砂粒を見つめるかのような目で。
+落胆の感情が俄雨のように押し寄せてくる。
+冷雨のような感情が頭から足先まで降り注ぎ、馬非馬をその冷たさで包み込んだ。
+馬非馬はこの金髪の男が気に入らなかった。それは、本質的な拒絶と嫌悪感だった。
+例えるなら、この羅刹人は世界の外で孤立し、浮いている氷のようなものだ。
+ +何も必要としておらず、何も気にしていない。たとえ世界が滅んだとしても、いつまでも漂い続ける。
+一方の馬非馬は――炎のような存在だ。
+世界は煙で、馬非馬は燃え盛る炎だった。
+ +彼が燃えているからこそ、この世界は存在している。
+強烈な感情、爆発的な衝動、破壊的な戦いこそが彼を存在させている。
+そして、その虚ろでぼんやりとした存在の中から、己のかすかな断片を見つけるのだ。
+それらの断片こそが、人生の意義。
+それは間違いなく、本物の古剣・軒轅だった。
+精衛真人が七人の弟子に授けた宝物だ。
+馬非馬は自分の力をよく分かっていた。彼は内勁をほぼ抑えていた。重傷を負うことはあっても、命に別状はないだろう。
+それでも無視できるほどの傷ではないはずだが。
+十六歳で剣心を「明鏡」の境界にまで鍛え上げた……
+七剣の中でもこの才能を上回るのは、十三歳で「太虚」を会得した凌霜くらいだろう。
+少女の鼻先から血が滴り落ちた。
+李素裳が顔を上げる。その目は焦点が定まっていなかった。
+馬非馬は、このような表情を何度目にしてきたことだろう?
+二十年もの間、大勢の人が彼の命を狙いに来た。
+多数の英雄、豪傑、優れた若者が彼に挑んだ。
+ +そのほとんどがこうだった。
+僅かな勝ち目すらなくても、最後まで諦めず、生死を分ける一瞬の可能性に賭けていた。
+しかし、馬非馬はそれが嫌いなわけではなかった。
+それどころか、彼を夢中にさせていた。
+何故なら……この霧に包まれたかのような世界で、馬非馬は孤独であったからだ。
+たった一度だけの縁でも、今後二度と会うことがなくても――[\s]
+ +挑戦者が自らの命を燃やし、存在を証明しようとする姿を見ていると、己が世界に認められたように思えるのだ。
+馬非馬は、そうした人の形をした霧が自分を包み込んでくれるような気がしていた。生きているという実感を与えてくれるのだ。
+だから彼は、いつも戦いの相手に機会を与えていた。
+だから、[\s]
+ +彼は、いつも自分が殺されることを望んでいた――
+素裳は軒轅剣を拾うと、じっとそれを見つめた。[\s]
+馬非馬の言う通りなら、自分の軒轅剣はどうして変化しないのだろうか?
+少し残念だった……しかし、それも事実なのだろう。
+一口、苦い血を飲み込んだ。喪失感、羞恥心、悔しさ、悲しみも共に呑み込む。
+大丈夫。素裳、二度目の試練の機会でしょ?
+彼女の体はまだ震えていた。止まらなかった。特に、両足が震えていた。[\s]
+しかし、彼女の瞳……彼女の視線は力強かった。それは――
+「生きていくの。」
+その声は、李素裳の心の湖で反響した。
+湖面に波はなく、まさに止水であった。
+「ちゃんと生きていくの。」
+心の湖に声が響き渡る。
+澄んだ風、そして、塵や埃も止まる。
+「約束して……」
+声が……響いている。
+心は鏡のように大地を映し出す。
+何故剣意が成っていなかったのか?もう疑うことはない。[\s]
+何故剣意が成っていなかったのか?もう悔やむことはない。[\s]
+何故剣意が成っていなかったのか?もう執着することはない。
+悩みはすべて捨て去り、剣に集中する。[\s]
+剣という人を殺める武器を使い、[\s]
+剣術という人を殺める術を使う。
+敵を殺し、生き延びる。
+素裳の頭にあったのは、それだけだった。
+何と皮肉なことだろう。目的はかくも単純だったのだ。[\s]
+しかし彼女は回り道をしてしまった。遠い回り道を。
+剣の柄を握りしめると、安心した。
+今、彼女が頼れるのはこの古剣軒轅だけだった。
+目尻の血や口元の汚れを拭う。
+そして少女は剣を手にした。
+いかなる剣の構えもとらなかった。しかし、
+啓、化、守、開。
+飛鶻、玄隼、[\s]雨燕、藤雀、[\s]雲鷹、月鷺。[\s]
+垂柳、幽蘭、勁竹、[\s]墨菊、浄蓮、青松。[\s]
+岩破、乱雷、霹靂、山崩、瞬塵、震風。
+まるで、太虚四形二十一式が手の中で自由に声をあげ、呼べばいつでも出てくるかのようだった。
+応じる?
+馬非馬の言葉が素裳の頭の中を横切ったが、彼女はもう気にしていなかった。
+「赤絶影」――[\s]
+ +剣の長さは五尺九寸。古剣・軒轅は、剣意を感じ取り変化する。
+ +――それが馬非馬の持つ、世界で二本とない神剣だ。
+「山崩」――[\s]
+ +太虚開剣形第四式。左手の五指から人差し指と中指を突き出し、守剣「幽蘭」の構えをとる。
+ +右手に持った刃を肩に担ぎ、剣で寸勁を放つ。その威力は山をも砕くほどだ。
+しかし、この技には弱点があった。[\s]
+馬非馬のような達人でも、剣の構えを整えてから技を出すまでの間に、力を溜めるためのほんの僅かな時間が生まれるのだ。
+しかし、同じように太虚剣心を修練する者である李素裳が、その隙を見抜けるかどうかは分からなかった。[\s]
+……しかし、馬非馬は技の使用を避けることも、隠すこともしなかった。
+……化剣にすることもしなかった。[\s]
+守剣にもしなかった。
+生死や勝敗など気にしていない。馬非馬はただ、この瞬間だけを生きていた。
+その心の中に残されているのは「山崩」だけだ。
+技が放たれた![\s]
+巨剣「赤絶影」は山をも崩すような勢いで砂の竜巻を起こす。
+技が放たれた![\s]
+素裳の軒轅が真っ直ぐ伸びた。それは「瞬塵」だった!
+守剣でも化剣でもなく開剣だ!
+開剣対開剣――[\s]
+気が剣から放たれ、躊躇いもなく相手に向かっていく!
+命を懸けて捨て身の攻撃を繰り出したのだ。素裳は、相討ちになる覚悟を決めていたようだ――[\s]
+しかし、実際、そうはならなかった。
+緑の両目は虚ろだったが、自分の方をしっかりと見つめていた。
+その刹那……李素裳は、完全に彼のことを信じていた。
+そして羅刹人が手を貸してくれれば――
+絶対に負けない!
+そんな考えに基づいて作り上げたあらすじだったが、勝敗を決する時が来た。
+全力を剣に投じている二人の後ろで、羅刹人が左手を上げる。
+黄金の十字架がどこからともなく彼の手の中に現れ、燃え上がるように消失した――[\s]
+それは天命派の三大至宝の一つ、「誓約の十字架」だった!!!
+古代の神の遺産である法器が再び姿を現した!
+目に見えぬ鎖が馬非馬に向かって飛んでいき、彼を縛る!
+目標……固定!
+真気……禁戒!
+ちょうど三日ほど前の夜にあった、李素裳と「鷹」の死闘の光景が再現される。[\s]
+突然、馬非馬は動悸がした。真気が消え去ってしまったのだ。
+彼は手を緩めて剣を放した![\s]
+――しかし、山崩の勢いは最高潮に達し、もはや止められない。
+真気を封じられても関係ないのだ![\s]
+大剣「赤絶影」が勢いよく前に飛び出していく!
+内功を失ったとしても、彼は太虚剣派の六番弟子、百戦錬磨の馬彦卿だ!
+シャッ――[\s]
+そして[\s]
+ドーン――
+軒轅は馬非馬の頭頂部をかすめ、彼の髪の毛を何本か切った。[\s]
+赤絶影は素裳の真横を飛んだ。彼女の幼い体は大きな力に吸い込まれて後ろに引きずられ、地面に倒れる。
+馬非馬は、勝った。彼が使った技は確かに「山崩」だけだった。
+しかし、馬非馬は敗れもした。彼が「山崩」を使ったのは一度だけではなかったからだ。
+李素裳の「瞬塵」は最も速く、最も精度の高い開剣の技だった。
+「瞬塵」を使っていなければ、素裳は赤絶影の山崩を前にして、馬非馬の脅威となることはあり得なかっただろう。
+それは運によるものだろうか?いや、そうではない。[\s]
+技を見て分析する能力が卓越していたのだ。[\s]
+つまるところ、実力に大きな開きがあったのである。
+今回もまた、生死を懸けた決闘となった。[\s]
+馬非馬はゆっくりと振り返った。[\s]
+相手は、全力を出すだけの価値がある。
+[em italic]あぁ、よかった!この男は血も涙もない人形ではなかった。
+冷たい氷のようにに見えるが、燃え盛る炎があった![/em]
+内勁のまったく込められていない拳が羅刹人の頬を打った。
+羅刹人はその意図を察してはいても、避けたり防いだりしようとはしなかった。
+羅刹人の体が砂漠に倒れる。
+彼は、よろよろと立ち上がった。
+馬非馬の笑顔が固まった。
+[em italic]何故?[/em]
+このような驚きは、もう何年も味わっていなかった。
+[em italic]どうしてこんなことが?[/em]
+長らく封印されていた感情が蘇ってきた。
+羨望、
+嫉妬、
+自己欺瞞、
+狂喜、
+悔恨……
+……そして、懐かしさ。
+[em italic]どうして……こんなことが?[/em]
+目の前の羅刹人の手の中で炎が集まり、剣となっている。その剣と共に、あらゆる感情が胸に押し寄せ、止水無塵の剣心を打ち砕いた。
+馬非馬は自分の目が信じられなかった。
+目の前にあるのは、「赤絶影」のような目くらましではない。
+火炎の剣だ。
+ほんの数秒前まで、羅刹人の手には間違いなく何もなかったというのに!
+だとすれば……この真気が集まり、できた火炎の剣はどこから来たのだろうか?
+「剣神……」
+馬非馬は呟く。
+このような武術は、馬非馬の知る限り一つだけだった。
+太虚剣気第五蘊「神蘊」。
+神が剣に変わり、自ずと剣気が生まれる。
+精衛真人と凌霜しか会得できなかった最高の技だ。
+今この時、金髪の羅刹人の手中に現れた。
+完全な衝撃が、馬非馬の剣心を粉々にする。
+沸き起こっていた闘志は、剣心の欠片を別の剣心へと変えた。
+止水でも無塵でもない。
+それは
+喜悦
+興奮
+快楽
+満足
+期待
+渇望
+幸福……
+「覚悟はできたかい?」
+羅刹人が尋ねた。
+ +金髪の男が真紅の長剣を手にしている。その剣身は炎が燃え盛っている。
+剣を持つ手は火に包まれ、黒く焦げていた。
+「覚悟はできたかい?」
+――この男は、閻魔の使いのようだ。
+ +馬非馬は頷いた。もう自分が何を言ったかも覚えていなかった。
+どれくらいの時間が経ったのだろう?師匠の精衛が彼の顔に剣による傷を残してから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか?[\s]
+ +これほど恐ろしい脅威に出会ったことはなかったし、閻魔をこれほど近い距離に感じたこともなかった![\s]
+ +こんな、燃え尽きる寸前の窮地に立ったこともなかった!
+さあ、来い!
+来るがいい、羅刹鬼!
+全力でお前の剣を受けてやろう!
+周囲の真気が馬非馬の全身の経穴に入り込む。
+体は耐えられるだろうか、肉体にどれほどの損傷があるのだろうか。そんなことはどうでもよかった。
+ただ、目の前の剣を受け止めるだけだった!
+羅刹人が剣を振るった。剣光が空気を横切り、ジャッという音を立てた。[\s]
+ +守剣形、化剣形……太虚剣気の最強の防御技が一つずつ馬非馬の脳裏を横切っていく。
+ +そして、当然のことながら、
+馬非馬はこの最強の剣の絶対的な破壊力を前にして、
+どのような防御も無意味であることに気が付いていた。
+剣とはこれほどまでに恐ろしいものだったのか。
+まるで赤い死神のようだ。
+命とはこれほどまでに純粋なものだったのか。
+ただの松明のようだ。
+今日が自分の命日だったのか。遅すぎることも早すぎることもない。
+それにしても、剣神に敗れるのなら、死んだとしても何の悔いが残るだろう?
+――――
+彦ちゃん
+――――
+蘇湄の笑顔が馬彦卿の目の前に浮かんだ。
+そして炎が浮かぶ。燃え盛る焔だった。[\s]
+それは、燃えて、燃えて、燃えて。
+――――――――そして
+――――――
+――――
+―――
+消えた。
+炎は消えた。
+一度は空まで昇った炎の光は、一度は金をも焦がした熱は、突然跡形もなく消えてしまった。
+それが痛みに変わった。痛みは胸と腹、肩甲骨、頭頂部からまとめて押し寄せてくる。まるで、洪水によって堤防が決壊したかのようだった。
+彼女に答えたのは激しい痛みだった。それらは頭の中で音を打ち鳴らし、その音と心臓の鼓動が混ざり、うるさくて眠れぬほどだった。
+……安心でき、いつもと同じだと思えるほど見慣れていた。
+あれ?
+ +馬非馬?
+……素裳の心の中に、同情のような悲しみが湧き上がってくる。
+熟睡している金髪の男には、神のように澄みきった優雅さがあった。
+しかし、今の彼は、起きている時よりも生身の人間に近いように思えた。
+ごまかすことも、隠れることもなく、過去の悩みも未来への執着もない。
+羅刹人はただ眠っているだけであった。普通の人とまったく変わらず、眠っている。
+もしかしたら……これが彼の本来の姿なのだろうか?
+彼女は太虚剣派の五番弟子であり、この百年間で精衛真人以外で唯一、最高の境界「太虚剣神」を会得した人物なのだから。
+二歳で武術を習い始め、十三歳にして太虚境界に到達した。「我をも忘れる至高の神剣」と呼ばれる絶世の剣客である。
+凌霜はこれまでの三十七年間の人生において、ひたすら剣を持ち続け、本当の意味で世間に足を踏み入れたことはなかった。
+挫折も失敗も味わわず、半端な願望や絆もない。
+常識、規則、論理、理性、世情……凡人を束縛するあらゆるものに対して、凌霜は気にも留めず、注意も向けなかった。
+素裳は羅刹人の黒くなった腕を見つめる。それはもう人の腕には見えなかった。
+しかし、彼女は彼が回復すると信じていた。そして、肉体を治療できる、あの「黒淵白花」を信じていた。
+素裳は身をもって体験したので、その不思議さを理解していたのだ。
+彼に十分な真気さえあれば……
+空には雲と夕焼けしかない。雲はいつもと変わらず、夕焼けも同様だ。
+しかし、馬非馬は真剣に見つめていた。
+何を見つめているかは重要ではない。重要なのは、待つことである。
+ +彼は待つのは嫌いだが、得意だった。
+ +この数十年、彼はいつも待っていた。
+馬非馬は少し驚いた。凌霜が弟子を取ったことは知っていたが、子弟への情と凌霜を結び付けて考えたことがなかったのだ。
+馬非馬の中では、凌霜は感情をまったく持っていないという印象であった。
+馬非馬は首を振った。それは彼が予想していた答えとは違っていた。
+手合わせは手合わせとして、彼にはもう一つの目的があった。それは少女が持つ、あの軒轅剣がどこから来たのかを知ることだった。
+この二十年、彼と互角の勝負ができる者はほとんどおらず、赤絶影を鞘から抜く機会もほとんどなかったのだ。
+彼は数え切れないほど危険な目に遭ってきたし、何度も死線を彷徨ってきた。しかし、この勝負は命を懸けた戦いではなく、彼がずっと夢見てきた武術の手合わせであった。
+気合いを入れる声を上げた瞬間、急に馬非馬の姿が二つに分かれた。
+これこそが太虚剣派六番弟子の剣意「赤絶影」だった!
+真気を軒轅剣に注入し、さらに太虚剣意で光を屈折させる。
+馬非馬は剣意の鍛錬を20年以上重ねた結果、今では光を利用して自由に鏡像を作り出せるようになっていた。
+夕方の荒涼とした中庭に、無数の「逐駒剣」こと馬非馬が現れた――
+同じような馬非馬が同じような赤絶影を手にしている。
+まるで一枚の鏡から無数の破片が中庭に降り注ぎ、どの破片も馬非馬の姿を映し出しているかのようだった。
+気合を入れる声とともに、剣の鞘『刃不破』は前方へと飛んでいった。
+鞘の先端が落雷のように落ち、空気が轟音とともに爆発し、中庭全体が揺れる――
+武術に関して、師匠の精衛真人を除けば、この世で凌霜と互角に渡り合える者などいない。
+天下の「太虚剣気」には、心、形、意、魂、神の五蘊がある。
+魂蘊を会得することは、剣の道に通暁することでもある。形に囚われず、あらゆる武器を剣のように使いこなし、あらゆる武器を剣のようにできるのだ。
+剣術の研究に専念していた一番弟子の林朝雨を除き、太虚剣派の六人の弟子はいずれも剣魂を会得していた。
+しかし剣神は――精衛真人以外で会得できたのは、千年以上経った今でも凌霜ただ一人なのだ。
+いわゆる神は――
+技を使わずに技に勝ち、剣を持たずとも剣を持っている。
+剣気を意のままに操り、神によって剣を作り出す。まさに自由自在に操れるのが剣神なのだ。
+凌霜は重い足取りでゆっくりと素裳のそばへと歩み寄る。
+彼女の顔にはまったく表情がなかった。あらゆるものに対して興味がないかのようだ。
+少女が小さな声で言う。
+彼女は目の前に現れ、精衛の行く手を塞いだ。彼女の上空では墨の花が静かに回っている。
+彼女の視線はとても誠実で、その笑顔には羞恥が滲んでいた。
+彼女の言葉には熱がこもっており、尊敬と信頼に満ちていた。
+ +彼女は……
+彼女のことはよく知っている気がする。
+遥か昔、彼女たちと共に過ごしていた……
+彼女たちとはかつて……とても長い時間を共に過ごしていたのだ。
+果てしなく広がる暗闇の中で、[\s]死んだ仙人の意識が蘇った。
+『その力』は限られている。感官から情報を受け取ることも、神経に指令を出すこともできなかった。
+混沌の中、弱い意識は古の本能に従い、盲目的でありながら揺るぎなく存在し、伸びていく。
+意識はまだ自分自身の死に気付いていない。[\s]
+彼女は自分自身の死を認めようとしない——
+常識で判断すれば、仙人は確かに死んだ。
+一番重傷を負った胸部は、十数ヶ所も損傷していた。
+しかし、最も致命的な傷は頭部にある。
+剣が彼女の額に刺さり、
+しかし「仙人」は普通ではない。
+その体は千年経っても死なず、[\s]
+その魂は万年経っても消滅することはない。[\s]
+ +命の法則を徹底的に覆した、
+神州唯一無二の仙人。
+今、静かに石室に横たわる体は、まさにそういう存在であった。
+一つ一つの神経細胞から、
+仙人の脳と肉体は長い修復と再構築を始めた。
+裂けた皮膚を修復し、
+折れた骨を治し、
+ボロボロになった筋肉を繋ぎ、
+損傷した器官を再生する……
+やがて、仙人の『意識』が辺りを知覚する。
+それから、痛み、痺れ、腫れ、痒み……体の様々な部位が悲鳴を上げる。
+終わりのない苦痛が襲ってくる。
+……終わりのない修復、終わりのない痛み。
+仙人は沈黙したままだ。
+「 私 誰 ? 」
+頭の中は混乱したまま。覚えていることもあるが、忘れたことのほうが多い。
+「 此処 何処 ? 」
+記憶の中には断片的な言葉しかなく、彼女が求めている答えを繋ぎ合わせることができない。
+「 …… 何 ? 」
+そう思った瞬間、長いこと摩耗してきた感情が突如として胸に湧いた。
+七……
+彼女と最も親しい七人。
+七人が共謀し、彼女を嵌めた。[\s]
+七本の剣が罠を仕掛け、彼女を殺した。
+「 …… 何 故 ? 」
+湧き上がる感情が消えることはない。[\s]
+怒り、[\s]
+困惑、[\s]
+憤怨、[\s]
+腹立ち、[\s]
+そして悲しみ。
+「……どうして?」
+答えはない、あるのは答えを求める渇望だけ。
+……仙人は待つことにした。
+かつての彼女は長い間、この地を守ってきた。時の流れは彼女にとってさほど重要ではない。
+彼女は待ち続ける、体が完治する日がやってくるまで。[\s]
+ +そしてあの七人を探し出す、自分を殺した理由を訊ねるため。
+強い衝動がぼんやりした意識の中で焼印を押し、
+ +彼女を促し、鞭撻し、変えていく。
+ +待つことが習慣に、苦痛が自然になるように。
+それから……
+痛い
+痛い
+痛い
+痛い
+終わりのない修復、終わりのない痛み。
+仙人は沈黙したままだ。
+彼女は長い間我慢してきた、
+ここは砂漠の中の小さな宿場。
+1400年前、流浪のテュイク人がここでオアシスを発見した。
+彼らは神様の加護に感謝し、思う存分水を飲んだが、止まることはなかった。
+そこから300年、顔国の隊商がここを通った。
+宝石と絹織物を満載した隊商に、一人の外交の使者がいた。
+その使者の価値は荷物を遥かに超えている。なぜなら彼は西域に出向き、同盟を結ぶ責任を背負っているからだ。
+商人たちはここで足を休め、翌日に出発した。
+彼らは漠北を出ておらず、誰もその行方を知らない。
+740年前、ハンユー族の遊牧民がオアシスの横に拠点を作った。
+ +この水源がある限り、私たちはもう漂泊しないで済むと、首領は民たちにそう告げた。
+100年後、匈人は北からやってきた。彼らはハンユーの村を一掃し、老人と男を殺し、女と子供を連れて遠い西域に向かった。
+ +……オアシスは匈人たちによって残され、再び世界に忘れ去られた。
+そして時が流れる。[\s]
+ +文明は生まれ、滅亡する。人々は行ったり来たり、やがて歴史という川に消えてなくなる。
+オアシスの来訪者は今、古い壁の陰に隠れながらため息をつく。[\s]
+この重苦しい烈日と砂の海を、彼は3ヶ月間も見ているのだ。
+男はもう一度ため息をつく。
+砂漠の物寂しさと暑さのせいで気が晴れない。
+見渡す限り、景色は変わらない——
+太陽、空、黄砂……何もかもが停滞していて、微動だにしない。
+空気まで固まっているような気がして、少しの風も感じられないのだ。
+相手は知っているのだ、男は単に退屈を紛らわすためだけに話しかけてきたのだと。
+しかしこの黄砂に囲まれた蒸籠のような場所では、話すこと自体が贅沢だ。
+口を開くというのは、精神の緩み、水分の流失を意味する。
+『金砂会』の番人にとってそれはもったいないことだ。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
+ㅤ
+物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+『※』は罵り言葉です。悪影響を避けるため、ここでは米印で表現しています。内容はご想像にお任せします。もしくは、お忘れください。
+ㅤ
+物語の登場人物は、出自、環境、個人の教養などの要素により、罵り言葉を口にすることがあります。しかし、小説内では登場人物の性格を尊重するため、一部非表示となります。予めご了承ください。
+男は鬱憤を晴らすために悪態をつく。
+声は大きくない。たとえ仲間に聞かれても、内容を聞き取ることはできないだろう。
+……しかし、男はちゃんと分かっている。首領は新入りの彼を馬鹿になどしていないと。
+見張りの仕事は当番制、あいにく今日は彼の番になっただけだ。
+だが、彼は亡命者だ。その手は血に汚れ、足は無数の死体を踏みつけてきた。
+略奪、強盗、蹂躙、殺戮こそが彼のすべきこと。
+刀を振り回し、血に染まる刺激こそが彼が得るべき報酬だ。
+男は自分の価値を信じている。ㅤ[em bold color=#ff0000]戦闘[/em]ㅤとㅤ[em bold color=#ff0000]殺戮[/em]ㅤ。[\s]
+もし『悪』に真偽があるのなら、男は本物の残酷非道な極悪人だろう。[\s]
+彼は暴力を恥じることなく、むしろ暴力を自分の強さの証明だと考えている。
+そのため、長く計画されてきた『大商売』から外されたことに、
+彼は屈辱に近い怒りを感じていた。[\s]
+怒りのせいで焦燥感に駆られ、口が渇き、煩わしく感じる。
+目がかすんでいる訳でも、漠北でよくある「蜃気楼」を見た訳でもない。[\s]
+あの少女……砂漠の向こうからゆっくりと歩いてくる少女は、本当に存在している。
+思わず叫んでしまった言葉は、すぐに熱気の中に消えた。
+気付かぬうちに、男は金砂会の禁忌を犯していた。
+一つ目、狼狽えること。
+二つ目、軽率な行動を取ってしまったこと。
+金砂会の古参なら、彼のように慌てることは決してないのだろう。
+しかし、男の心には疑問があった。
+漠北で横行する金砂会を相手に、自らやってくる女は今までいなかった。
+彼女は川中『憶剣山荘』の若荘主、精衛真人の七番弟子『染香剣』こと、秦素衣の一人娘である。
+精衛真人、染香剣、憶剣山荘。[\s]
+神州の武術界では、どれも知らない人はいないほど名高いものだ。
+砂漠とは、声望も虚名も関係なく、弱肉強食で生きるか死ぬかの荒原だ。[\s]
+強い者は生き残り、弱い者は砂に埋もれるという世界。
+母親は彼女を可愛がっていて、つらい思いをさせたことがないほどだった。
+しかし剣の稽古になると、母親は誰よりも厳しくなる。
+その後、素裳は今まで以上に稽古に集中し、伝家の『憶心剣法』の十二の型を自由に使いこなせるようになった。
+それでも母親は頭を横に振る。
+素裳は、一体何が駄目であったのか理解できなかった。もっと勤勉になるべきだったのだろうか?
+どうして自分はいつも母親の期待を満たすことができない?
+母親はそれを実行した。
+李素裳の5歳の誕生日に、両親は彼女にある贈り物を用意した。
+憶剣山荘、川中、そして生まれてから離れたことのない『家』と別れを告げ、
+李素裳はそのまま漠北に来て、十年間『最高の剣法』を学んでいた。
+10年の時は瞬く間に過ぎ去っていった。
+家に対する思いは紙のように薄くなり、別れた時に母親が言った言葉だけが彼女の心に残っている。
+剣法で何かを手にすることができただろうか?
+武芸で何かを成し遂げることができただろうか?
+今の自分は、母親の期待に応えられているのだろうか?
+李素裳は意味深長な微笑みを見せた。
+少女の初の『力試し』は、今日にあると!
+二人の男が左側から近付いてくる。
+そのうち一人は、最も早く少女に気付き、声を出した男だ。
+彼は剣を手に、嬉しそうな顔をしている。
+まるで罠にかかった獲物を見つめる狩人のように、その笑顔は死を語っている。
+右後ろの男は少女の視界にはいなかったが、
+先程の男の声を聞いて走ってきたのだ。
+——賊と彼女の距離はたったの五歩。
+少女は包みを開き、逆手で古剣『軒轅』を握る。
+剣が手にある感覚は、彼女を安心させる。
+その後の出来事は、
+ +きっとこういう展開になる筈だ。
+少女は飛び立つ鳥のように軽い動作で飛び上がる。
+着地した瞬間、剣の切っ先はすでに男の胸元に刺さっていた。
+剣を戻し、振り返る——噴き出す血より、ずっと速い。
+次の瞬間すぐさま剣で刺し、男の凶悪そうな笑顔を固まらせる。
+こうして、四人の敵は二人だけになる——なんの抵抗もなく。
+彼女の武術の造詣と、古剣軒轅があれば——
+その幻想を現実にすることは、難しいことではない。
+——賊と彼女の距離はあと四歩。
+目の前の四人は、宝剣を拝む価値すらないのだ。
+この剣は遠い昔、仙人たちの時代から受け継がれ、幾千万年の時を見届けてきた。
+その持ち主は武術界の伝説、唯一の真仙、神州の守護者『精衛真人』である。
+精衛真人が天に昇って仙人になった後、秦素衣はしばらく隠居したが、3年後に彼女は再び武術界に名を馳せた。
+彼女と『川公子』李紳の恋物語は当時、美談として語られていた。
+10年前、引退した母親は『墨染香』を幼い素裳に渡し、[\s]
+同時に素裳の肩には、「太虚五蘊を悟り、『天下一』になる」という母親の期待がかかり始めた。
+目の前にいる平凡な人間たちの血で、この剣の威名を汚すわけにはいけない。
+——賊と彼女の距離はあと三歩。
+——あと二歩。
+一歩!
+彼は本能的に下を見る。
+ +その瞬間、足が痛み出した。
+男は地面を見ようとしたが、なぜか目に映ったのは太陽だった。
+(どういう……)
+彼はまだ自分が蹴飛ばされたことに気付いておらず、何か冷たいものがこめかみに触れたと感じただけだった。
+——太陽は暗闇に呑み込まれた。
+体を屈めて攻撃を回避し、その勢いのまま男を蹴り、そして指一つで彼を気絶させる——少女はあっという間にそれをこなしてみせた。
+彼女の精神は今までにないほど集中している。[\s]
+ +目の前の敵を倒す以外、少女は何も考えていない。
+それこそが、太虚剣気五蘊の「心蘊」。
+ +入門の一蘊でありながら、最も難しい一蘊でもある。
+『剣心 - 止水』!
+しかし、金砂会の古参たちは少しも気にしていない。
+なぜなら少女は彼らにとって、既に死人に見えていたからだ。
+砂埃を利用し敵の視線を遮ることで、時間の優勢を手に入れる。
+環境を最大限利用できれば、勝利の可能性を最大限に引き上げられる。
+ +それが少女の考えだ。
+しかし、それも敵たちに読まれている。
+広い砂漠で何年も生きてきた盗賊たちは、そういう戦い方をとっくに身につけていたからだ。
+少女よりも、彼らのほうが詳しいとも言える。
+少女が砂を蹴り上げることは別に変わったことではない。過去に対峙した敵もそうしたからだ。
+しかしそれで慌てると思ったら、それこそ金砂会を甘く見過ぎている。
+——漠北強盗団「金砂会」はここ6年間、神州とインユウの辺境で活躍している組織だ。
+彼らのすることはまさに流賊——諸国の隊商を相手に貴重な品物を奪い、男と老人を殺し、女と子供を奴隷に売る。
+しかし普通の流賊と比べ、金砂会は規律を重んじる。
+話によると、金砂会の首領「鷹」はもともと軍隊出身だった。[\s]
+冤罪に遭い、左遷され、一族はその影響を受けた。
+構成員が「鷹」を恐れているのは、彼が悪辣非道だからだ。[\s]
+構成員が「鷹」を敬服しているのは、彼が常に無敗だからだ。
+この男の出現は、金砂会に激しい変化をもたらした。[\s]
+かつての流賊は規律を守る小さな勢力になり、漠北一帯の支配者となった。
+構成員たちは朝晩、武術の稽古をしなければならない。[\s]
+稽古が終わった後は、軍隊のような訓練が始まる。
+「鷹」は飽きもせず、彼らに陣形、変化、団結、それから様々な合図や命令を教えた。[\s]
+彼が欲していたのはまとまりのない盗賊団ではなく、軍隊そのものであった。
+それは「鷹」の保証。
+彼らは「鷹」の言葉を信じて疑わない。
+三人は素早く目を閉じた。
+視覚を失うより、砂が目に入った時の痛みや条件反射による動きのほうがより危険なものになる。
+目を閉じた瞬間、三人はすでに互いの場所と敵の位置を記憶した。
+彼らがこれから取る行動や攻撃する方位は、「雁人陣」の陣形を完璧に再現したものになる。
+真ん中にいる男は真っ先に刀で攻撃する。上から下へ、勢いよく振り下ろす。
+左側の男は一歩踏み出し、標的の下半身を狙った横斬りを仕掛ける。
+この二つの攻撃の心は攻撃ではなく、敵を誘導することにある。
+「鷹」が考えた陣形と刀術は、決まった道筋に従って敵を回避させるもの。
+標的がもしこの二つの攻撃を回避できたら、次の瞬間はきっと決められた位置にいるはずだ。
+その時は右側の男が致命的な一撃を与える番となる。
+敵が見えなくても、彼らはこの陣形で敵を確実に仕留める自信を持っているのだ。
+陣形に間違いはないが、少女は金砂会の男達の想像を超えていた。
+砂を蹴り上げたと同時に、少女はもう前に出た。
+金砂会が「鷹」の陣形を信じて疑わないように、少女も自分の武芸に絶対的な自信を持っている。
+剣心を極めた彼女には、男たちの攻撃を回避する必要はなかった。
+真ん中の男が刀を上げた瞬間、少女はすでに彼の懐まで飛び入った。
+反応するより先に、男の顎は思い切り殴られた。
+ +衝撃は頭骨を通して直接脳に響き、激しい揺れに襲われた彼は意識朦朧となる。
+次にやってくる少女の跳び蹴りが膝に命中することを察する暇もなく、彼は地面に倒れた。
+少女は跳び蹴りの勢いのまま、「飛燕帰巣」を決め、瞬く間に左側の男の後ろに着地した。
+片手で男の首を叩き、
+まさに電光石火、彼女は力と速度をうまい具合に計算し、正確に行動してみせた。
+太虚五蘊の『剣心』、
+それは脳の潜在能力を最大限に発揮する奥深い心法だ。
+ㅤ
+『剣腊』:
+ㅤ
+剣を構成する部分のひとつ。
+ㅤ
+剣の中央の芯は剣脊、剣脊の両側にある面は剣背。
+ㅤ
+剣脊と剣背を合わせて剣腊という。
+同時に、百里先では……
+男は金色の砂に伏せたまま、動かない。
+汗の粒が額、鼻、首、脇、足から湧き出し、体の所々が痒くて仕方がない。
+それでも彼は動こうとしない。
+服があっても、皮膚が熱い砂に焼かれているようだ。
+気絶しないように、男は必死に精神を集中させようとする。
+こういう時、彼はいつも「鷹」の言葉を思い出す——
+彼らのような者が朝廷の兵に捕まると、胸元に烙印を押される。
+烙印は砂よりも硬く、太陽よりも熱い。皮膚に触れるとすぐにくっつき、剥がす時は皮膚も一緒に剥がされる。
+あの感覚は、「鷹」曰く、まるで地獄のようだ。
+金砂会の構成員たちはよく地獄を口にする、[\s]なにせ彼らはそこで再会する運命なのだ。
+地獄の中は不気味で恐ろしく、そして退屈だ。金も酒もなく、美人もいない。
+良いものなど、地獄に存在しないのだ。
+しかしここで、今日の「商売」が成功すれば、欲しいものは何でも手に入れられる。
+今回の「商売」は今までよりも大きいと、「鷹」が信頼できる情報を掴んだのだ。
+ +遠方から来た隊商は貴族の家族を連れており、金銀財宝をたくさん持っているらしい。
+その情報に間違いがなければ、あと30分で全部手に入れられる筈だ。
+彼の実年齢はもう少し若いが、それでも不惑の年に近い。そして顔全体を見れば、目だけが際立っていることが分かる。あれは猛禽類の目だ。
+彼は遠方を眺めている。まるで獲物を見つめているかのようだ。
+質問も承諾もいらない、
+「鷹」の命令に従えば、返ってくるのは——
+突如、男の顔に笑みが浮かび、
+同時にその目つきも変わった。
+砂に伏せた男は視線を戻し、息を吸う。熱い空気が肺に充満したが、まだ我慢できる。
+遠い先、塵が舞い上がる。
+「来る。」
+誰かが呟く。
+長く待ち伏せしていた男たちはほっとする。苦しい時間が、やっと終わるのだ。[\s]
+ +あとは、勝利のみ。そして、この勝利を……
+彼らはすでに長い間待ちわびていた。
+よく見れば、この棺はほぼ密封されていて、その周りに少しの隙も見当たらない。
+数本の黒い本革の帯が棺をしっかりと縛っている。
+金髪緑目の男は棺の横に膝をつき、長い指で棺の表面に触れる。
+その動きは撫でるみたいに優しいが、まるで、全身の力を使っているかのようでもある。
+男は自分の手でこの棺を作り、その中身を外の世界と隔離した。[\s]
+そして男はあらゆる法則に抗い、愛する者を連れ戻そうとした。[\s]
+宿願が叶うまで、彼はまだこの世界から離れられない。
+遠い先から聞こえる咆哮、叫び声、泣き声の中で、
+ラクダの悲鳴、馬車の転覆、刀のぶつかり合う音の中で——
+——男は微動だにせず、少しも気付いていないようだ。
+まるで目の前にある棺以外のものとは、何の関係もないように。
+ラクダの足音が再び鳴り出し、馬車はゆっくりと進み出す。
+その横には刀を持つ男たちが居て、隊商の人間と馬、それから財宝を守っている。
+何もかもが同じように見えて、何もかもが徹底的に変わった。
+商人たちは奴隷となり、強盗たちはその主になったのだ。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
+ㅤ
+羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
+ㅤ
+当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
+そして最も喜ばしいのは、部下たちの出来だった。
+ +彼が金砂会の頂点に立った時の、沈んだ様子とは大違いなのである。
+今回の隊商は待ち伏せの罠にかかってしまったが、護衛の用心棒たちは責任を果たそうとした。
+ +一瞬取り乱したとは言え、彼らはすぐに態勢を立て直し、手強い抵抗を始めた。
+——しかし、それは「鷹」の思う壺だった。
+彼は挑戦の中で快感を得て、存在意義を探すような人間なのであった。
+敵の抵抗が激しければ激しいほど、兵士を訓練した価値が高くなるだろう。
+勝利の意味は、上がり続ける価値の中で最高の満足を得ることにある——
+——冤罪で投獄された後、新たな『戦友』は彼を見捨てた。何度も彼を夢から目覚めさせたのは、痛みでも悔しさでもない。羅刹鬼と殺し合った時間だった。
+ㅤ
+注:
+ㅤ
+羅刹国は神州北方の酷寒の地にあり、よく神州の国境に侵攻し、戦争を起こす。
+ㅤ
+羅刹人は独特な顔立ちをしており、その多くは髪の毛の色が薄く、碧眼である。神様のように美しい者もいれば、悪鬼のように醜い者もいる。
+ㅤ
+当時の神州人は一際変わった容貌をした者を、差別的な意味を含めて羅刹人と呼んだ。
+羅刹国を出た時から、彼の人生は止まっていた。
+その後の時間は、何の価値もない行動を繰り返す屍に過ぎなかった。
+だから、彼は漠北に逃げた。金砂会を奪い、忠実な兵士たちを手に入れた。[\s]
+だから、彼は彼らを鍛錬した。鞭撻し、苦しめ、
+彼らを死の狭間へと送った。彼らと共に生きたのだ。
+過去を繰り返し、
+過去に仕返しを行い、
+過去を渇望する。
+故に、あの『羅刹人』に出会った時、
+「鷹」は思わず、時間が繰り返され、過去の光景が再び目の前に現れたのではないかと錯覚した。
+その人間を初めて見た時、背筋が凍った。
+そいつは『災い』だと、脳が警鐘を鳴らす。
+『災い』は隊商の馬車の中にいて、その空間を独り占めしていた。[\s]
+数十人の隊商の中で、彼だけがその待遇を有している。
+男は片膝をつく。[\s]その口調は穏やかで、まるで親しい相手に囁いているかのようだった。[\s]しかし周りを見渡してみても、馬車の中に他の人間はいない。[\s]
+あるのは、棺だけ。
+相手が話しているのは羅刹語ではない。だから、「鷹」にはその意味がよく分からなかった。
+しかし、その奇異な光景を見た彼は、既に冷や汗が止まらない状態にある。
+羅刹人の見た目は大体、20歳くらいだろうか。背は高いが、逞しくはない。
+武術はできるが、達人ではない。
+筋肉が肥大している人間は、外家拳を主とする武術者。
+そういう人間たちの肩と腕は力が強く、金属や石を簡単に破壊でき、普通の鈍器を防御することも容易である。
+優れた外家拳は平衡、つまり、力が全身に渡ることを重んじる。力量のみを求めてしまうと、却って臨機応変に動けなくなるのだ。
+速度と力量を兼ね備えた者こそ、腕のある人物。
+内家拳は内なる力を、即ち、経脈と『真気』を鍛える。
+そういう者の形神は控え目でありながらも、存在感がある。眼差しと呼吸を観察すれば、その奥深さが分かる。
+彼は何人もの命を奪っている。いまさら、一人増えたって構わない。[\s]
+しかし……刀は抜かれなかった。
+ようやく視線を強盗たちの首領に向けた。
+[em italic]羅刹鬼め、勿体振りやがって。[/em][\s]
+「鷹」は思わず心の中で罵る。[\s]
+[em italic]バイホイ人にお前を売ったら、どんな表情を見せるか楽しみだ。[/em]
+死んだ羅刹人は金にならないが、生きている羅刹人は高値で売れる。
+バイホイの奴隷商人はこういうものが好みで、いい値で買ってくれるのだ。
+彼は何故、あの棺に話しかけていたのだろうか?[\s]
+馬車を貸切にしていることも、疑わしい……[\s]
+そうだ、棺の中身を人に知られたくないからだ。
+……何だ??
+「鷹」はたくさんの人間を見てきた。
+彼が見てきた眼差しも、数え切れぬほどだった。
+恐怖、憎しみ、怒り、悔しさ、苦しみ……
+いや、彼は見ていただけではない。彼自身こそが、そういう感情の原因であったのだ。
+首に当てられる刀は、この世で最も有効的な自白剤だ。
+人一人の心の奥底を徹底的に暴くことができる。
+「鷹」は死ぬ寸前の眼差しに麻痺していて、
+瀕死の際の感情に動くことはない。
+そういうものを、彼はたくさん見てきているからだ。
+しかし、この羅刹人と同じ眼差しは今までなかった。
+あれは揺るぎない、狂気、残酷、愉悦、憐れみ、そして……
+[em italic]そうだ。[/em]
+「鷹」はハッとして、唾を呑む。
+この羅刹人は終始、彼のことなど眼中にないのだ。[\s]
+相手にとって、金砂会首領たる「鷹」ですら、大漠の砂と何の違いもない。[\s]
+価値はなく、意味もない。
+次の瞬間、羅刹人に踏み潰されるような錯覚すらあった。
+きっと、散歩するかのように簡単なのだろう。
+恐怖を感じたからではない。「鷹」は、自身に言い聞かせたのだ。[\s]
+彼は決して、羅刹鬼を怖がらない。
+遠い先に、一縷の煙がゆっくりと昇る。
+金砂会の帰路を示す合図である。
+彼は目の前の二人を観察し、
+少し離れた砂場に視線を向け、[\s]
+また宿場の中へと意味深長な視線を向ける。
+男は、少女の話をデタラメだと思っているようだ。
+李素裳は相手とは意思疎通できないと判断し、無視することにした。
+師匠の、[em color=#FAFAD2]「金砂会を知っている?彼らの頭を倒してきて。」[/em]という言葉は、
+簡単そうに聞こえるが、そのせいで正直者の弟子はかなり困っていた。
+武術界で有名な名前が次から次へと現れ、また次から次へと少女に否定されていく。
+それらは名の知れた達人だ。自分のような境遇に陥ることなどある筈がない。
+[em italic]閻世羅……[/em][\s]
+不思議な力に導かれたかのように、40年前に存在した武術の怪傑の名が少女の頭に浮かんだ。
+しかし自らやってきて、「品物」の振りをしてこっそり地下牢に入ってきた人間は、
+金砂会が占領して以来、おそらく李素裳が初めてかもしれない。
+素裳は枯草を整え、その上に大人しく座り、
+『剣心訣』の黙読で時間を潰そうとした。
+剣心訣は『太虚剣気』の入門となる内功、
+武術界の誰もが求める奇術である。[\s]
+ +しかし剣心訣の正体が、奇妙で不可解な音節であることを、ほとんどのものが知らない。
+その音節には形式がなく、文字で表現することもできない。
+気の流れを教えるわけではなく、体の鍛え方を教えるわけでもない。
+『口訣』とはいうものの、実際何の意味もない。
+何も知らない状況で剣心訣を聞いたとしても、うわ言としか思えず、
+それが神州の武術界の頂点に立つ、無双の神業だとは誰も考えないだろう。[\s]
+ +実は、その奥深さはここにあるのだ。
+暗唱、黙読、そして、聞くこと。それが心の鍛錬となる。
+言葉には力がある。[\s]
+素裳にはその中身を理解できないが、確実に『心』の変化を感じ取れた。
+体はますます軽くなり、頭の中も澄んでいく。
+五感が一箇所に集い、心の湖に溶ける。
+それが、剣心四境の一つ。
+——『止水』。
+素裳は雑念を捨て、剣心に集中する。
+次の境界へと入る——
+心の湖が氷となり、
+些細な考えを払い、少しの痕跡をも残さない。
+硬い氷のひびは消えてなくなる。
+心の湖は限りなく透明に近く、万物を照らす。
+しかしその上には剣心の最高境界……
+この世で師匠だけが到達した第四境がある……それは……
+氷面が急に割れ、心の湖が流れ、剣心訣も頭の中から消散する。[\s]
+李素裳はその場に座ったまま、激しい頭痛に襲われた。知らぬ間に、背中は冷や汗で濡れている。
+しかし自分は、生まれた時から母親が暗唱した剣心訣を聞いて育っている。
+師匠よりも早く進展するはずなのでは?
+師匠は13歳の時に『太虚』に到達し、
+15歳の若さで無上『剣神』となった。
+自分はどうだろう?同じ15歳になったというのに……[\s]
+『剣心』が円満になっていないだけではなく、
+『剣意』もままならない。
+この二つの難題を克服したとしても、
+その先には「神」蘊が立ちはだかっている。まるで雲霧の中にいるかのように、よく見えないのだ。
+『情』は『心』蘊の敵である。
+もし心の海に現れた感情を放っておいた場合、剣心が破損する恐れがあるのだ。
+明鏡の心を有する素裳はよく知っている。
+素裳は横に置いていた包みを手にする。
+計画通りにいけば、今夜こそ、剣が鞘から抜かれる時なのだ。
+素裳は大騒ぎした。いざ大漠に着いた後は、泣き真似もしてみたが、すぐに好奇心が勝り、師匠に質問し始めた。
+子供は隠し事ができない。そんなに話してもいないうちに、軒轅剣のことを口にした。
+そして母親の予想通り、師匠はあの軒轅剣を渡すように言ってきた。[\s]
+正直者の素裳はしばらく考えて、最後は両手で古剣を差し出した。
+さすがに師匠は5歳の女の子をいじめて、ものを奪ったりしないでしょう?[\s]
+軒轅を渡した瞬間、少女はなぜか新しい服を見せびらかすような気分になった。
+七番弟子……素裳は呆気にとられたが、すぐに母親が師匠と同じ門派の出身で、七番弟子であることを思い出した。[\s]
+『墨染香』は母親が使っていた軒轅剣の名前である。
+しかし素裳にとっては、無限のように長い一秒だった。[\s]
+幼い頃から剣と共に生きてきた彼女であったが、今まで、剣がこれほど美しいものだと知らなかった。
+その減速されたかのような時間の中で、軒轅は輝きを纏い、ゆっくりと落ちていく。[\s]
+そして彼女の目の前に落下し、剣身は、音一つなく地面に刺さった。
+思い出の中の素裳が、プッと吹き出した。[\s]
+今の彼女には、この軒轅を使う資格がある。
+理性が邪魔するよりも先に、本能が率先して行動に移す。[\s]
+少女は宝剣を撫で、それからあの時の師匠のように、切先を指で弾いた。
+『侵入者』がまさかの小娘だと聞いた時、驚きを覚えた。
+なんという侮辱だ!!!
+この漠北で、金砂会を恐れぬ者はいない。
+官兵の精鋭でも、遠くて頑丈な金砂会を恐れ、衝突を避けている。
+一体誰が、身の程知らずにも自らやってきて、この「鷹」を敵に回すというのだ?
+しかし予想外にも、先に口を開いたのは彼ではなかった。
+彼の縄張りでは、彼が先に口を開き、彼が先に質問するのが鉄則である。
+「鷹」は手を拭い、少女の前にしゃがむ。
+少女もまた彼を見ていた。その視線に恐れの色はなく、あるのは強情と怒りのみだ。
+少女は鼻をすすり、大人しく頷き、一言も口にしなかった。
+様々な反応の中で、こういう態度が一番彼の逆鱗に触れる。
+男は気が動転して、慌てて跪く。
+首領の口調が穏やかであればあるほど、怒り心頭の状態にあるということを、知っているからだ。
+先程跪いた男は、まだその場にいる。
+頭を伏せ、顔を上げていないが、体の震えは彼の緊張を物語っている。
+しばらくして、「鷹」はふと笑い出した。包みを取って帯を解き、宝剣の本当の姿を見る。[\s]
+目の前の男には隠し事も嘘もないということを確認できた。それで十分だ。
+ガタッ。[\s]
+鉄格子の鍵がかかった。
+素裳は体を動かしながら、座ろうと試みる。[\s]
+彼女の目はまだ暗闇に慣れておらず、何も見えない。両足を動かす時に、何かにぶつけた。
+李素裳は、驚く。[\s]
+彼女を驚かせたのは突如現れた火の光ではなく、ため息をついた相手だった。
+[em italic]羅刹人……[/em][\s]
+李素裳は強盗たちのひそひそ話を思い出した。[\s]
+[em italic]羅刹人は、こんな感じなんだ。[/em]
+その横を見ると、女性の横には大きな棺が置いてあった。
+危うく蹴ってしまいそうになったものである。
+素裳は本能的に視線を逸らし、また羅刹の女性に戻す。
+最初はチラッと見ただけだったが、相手の反応がないと分かった後は、開き直ってじっと見つめ始める。
+口の中に布が入っていることを忘れていた彼女は、意味不明な音しか出せない。[\s]
+李素裳は気まずそうな表情をしたが、周りは暗く、相手に悟られずに済んだ。
+だが、羅刹人は視線を戻し、素知らぬ顔をした。
+何度か目配せをしてみたが、全部相手に無視される。少しの反応もない。
+そして、再び火が灯る。李素裳は壁際にいる羅刹人をチラリと見たが、彼女は先ほどの姿勢のままだった。[\s]
+ただ、彼女がこちらに向ける視線には、かすかな苛立ちが混ざっていた。
+羅刹人は口を閉ざし、黙って李素裳の言葉を肯定した。
+しかし李素裳の口からは、立て続けに言葉が出る。
+猿轡をされ、手足に枷をはめられていた李素裳とは異なり、
+この羅刹人の体は一切拘束されていなかった。
+少女は怖いもの知らずだが、霊的なものには弱かったのだ。[\s]
+彼女は羅刹人の妖術に腰を抜かした。女傑としてのメンツなどお構いなしである。
+少女は、興奮した口調で目を輝かせながら言った。[\s]
+彼女の話がどれだけ飛躍し、論理が支離滅裂であっても、羅刹人は興味深そうに耳を傾けている。
+精衛真人のこの奇術は、武術界の一般的な内功とはまったく違う。
+通常の内功は丹田を鍛え、その中に真気を溜める。
+しかし、『太虚剣気』はそうではない。
+『剣心』を習得した者は、
+天地を丹田とし、肉体を経絡とすることができるのだ。
+ましてや『武』道の本質とされる『気』は、隠す必要すらない。
+彼がそう言った瞬間、素裳は手足が軽くなったのを感じた。手足にはめられていた硬い鉄枷は粉々に砕け、地面に散らばっていた。[\s]
+彼女の両手両足には傷一つなく、服も同様だった。
+彼が妖術で椅子やグラスを消せるのであれば、鉄枷を粉々にできてもおかしくはないが……[\s]
+……そんなバカな!!!!
+彼女は思わず自分の学んだ知識を総動員して、目の前の棺を持った不思議な男を見つめ直した。[\s]
+まさか、『彼』はただならぬ腕前を隠した達人なのだろうか?
+彼女が思い描く武術界の達人とは、師匠、母親、または未来の自分のような姿だった。
+目の前の羅刹人は、彼女が思い描く武術の達人像とはかけ離れていた。
+羅刹人が微笑むと、空中の火が突如として消えた。[\s]
+……違う。火は残っている。
+その火は瞬間移動したかのごとく、突如として羅刹人の手のそばに現れると、ますます勢いよく燃えていく。[\s]
+火の勢いが……まるで……
+素裳は唖然としながら、羅刹人の『妖術』を見ていた。[\s]
+彼女が我に返った時、火はすでに消え、地下牢の扉が破られていた。焦げた臭いが鼻をつく。
+はじめ、この暗い牢の見張りは二人しかいなかった。
+そのうちの一人は羅刹人を丁重に牢に入れると、病気だと偽って持ち場を放棄した。もう一人は食事を届けに行ったが、腰を抜かしてしまい、それ以後は二度と地下牢に入ろうとしなかった。
+「あれは人間なのか?ありゃ妖怪だ!言葉を話す灯籠なんて、見たことあるか?俺は行かねぇ、死んでも行かねぇぞ。」
+彼の口ぶりは、「鷹」よりも牢屋の中の異邦人を怖がっているようだった。
+最も不思議だったのは、そのことを聞いた「鷹」がまったく怒らなかったことだ。これまでの彼からは想像もできない。
+「数日もしないうちにバイホイ人が来る。人手を増やせ。」
+ +彼が『人手を増やす』と、すぐに十数人と十数の武器が追加で配置された。
+新たに来た者たちは戦々恐々としながら牢の配置につく。しかし、特に変わった点はなく、一同の恐怖は消え、前の二人の見張りを存分に嘲笑ったのだった。
+ +金砂会の盗賊たちは、笑いながらも油断することはなかった。誰に言われるでもなく昼と夜で交代するようにし、常に五人が地下牢の扉を見張るようにしていた。
+ +この時、五人の不運な男たちは、中で何が起こっているのかをまだ知らなかった。
+その夜は控えめに言っても奇妙な夜だった。首領を怒らせたあの少女が牢に入れられてからは、中から何の音も聞こえてこなくなったのだ。
+ +完全な静けさ——静寂が訪れた。
+人の声も雑音も一切聞こえなかった。
+見張りたちは異様な音には気付かなかったが、不思議な臭いには気付いた。それは、焦げた臭いだった。
+ +何かが焦げているような臭いが強まっていく。五人はそれぞれの刀を抜き、入口の前に集まった。
+「下りるか?」
+見張りの一人が、小さな声で他の者たちに意見を求めた。
+他の者が返事をするよりも早く、扉は轟音と共に爆発した。
+五人が最後に目にしたのは真紅の火柱だった。
+剣と刀は似ているように見えるが、まったくの別物だ。
+「剣は軽やかに、刀は力強く」と言うように、剣が変幻自在の素早い動きをするのに対し、刀は直線的な動きで力を使って相手を倒す。
+剣術を習得した者が刀を扱うと、剣術のような動きになる。その逆もまた然りだ。
+そのため、「鷹」は剣舞を披露しているが、実のところは刀舞だった。
+彼はこれほど見事な武器を見たことがなかった。
+これは剣筋の美しさを示している。まさに完璧そのものだ。
+これは剣身のしなやかさを示している。剛と柔を兼ね備えているのだ。
+これは剣の光の強さを示している。骨に突き刺さるほど冷たい光だ。
+「鷹」は決して、剣を愛でたり集めたりするような人間ではない。
+彼が剣のことを褒めたとしても、それは山賊が戦利品を評価するようなものでしかなかった。
+彼の目の前には信じられない光景が広がっていた。[\s]
+8人の手下がいつの間にか地面に倒れ、気を失っていたのだ。
+そして、彼が自ら牢屋に閉じ込めるように命令したはずの少女が、目を瞬かせながら彼を見ていた。[\s]
+[em italic]どういうことだ!?!?[/em]
+「鷹」は心の中で自分をひどく罵った。[\s]
+『災い』だと気付いた時、すぐに始末しておけばよかったのだ。
+皆が災いを恐れるからこそ、災いは問題を生じさせる。[\s]
+「鷹」はあの羅刹の変人を軽んじたことを後悔した。しかし、今となっては後悔しても後の祭りだ。
+彼は静かに後ずさりし、安全な会話の距離を保とうとした。しかし、剣を手にしているのは彼の方だ。本来なら必要のないことである。[\s]
+……しかし、「鷹」が最も心配しているのは少女ではなかった。
+彼は最初から例の羅刹人のことを、今宵の最も危険な人物と見なしていた。
+そして、その人物の動きをつかめないことによって、彼は自信を大きく失ってしまった。
+その掌打は内功を使っておらず、重くはあったが、内臓を傷つけるほどではなかった。
+しかし、少女の軽功の妙技は、「鷹」も見たことがないほどだった。
+驚きと怒りのあまり、羅刹人の存在を忘れる。
+「鷹」は、この十幾つかの相手を改めて見定めることにした。
+その技は太虚剣気ではなく、李家に伝わる軽功だった。
+「飛燕功」。
+彼女の右手が「鷹」の前腕に命中し、彼は「軒轅」を落とす。
+そして返す手で稲妻のような掌打を男のみぞおちに叩き込み、吹き飛ばした。
+慣れ親しんだ安心感が素裳の胸に満ち溢れた。
+再び剣を握り締める。しっくりくる感じだ。
+長年、漠北を旅してきたが、これほどまでに打ち負かされたことはない。
+たちまち「鷹」に殺意が芽生え、それとともに復讐心が満ち溢れていった。
+ただ李素裳を殺すだけでは飽き足らない。彼女にはこれ以上ないほど悲惨な死を与えなくてはならない。
+彼は敵を迎え撃つ姿勢を保った。
+ +金砂会の首領は気力を振り絞り、
+目の前の少女を紛うことなく『強敵』と見なした。
+これは戦争だ。
+武術の手合わせでも、決闘でもない。戦争なのだ。
+規模は極めて小さく、目的も単純だが、戦争に他ならない。
+ならば、
+ +この場所は「鷹」が最も得意とする戦場だ。
+この時間は「鷹」が最も戦い慣れている時間だ。
+ +わずか数秒のうちに、彼は頭を高速回転させ、弱み、強み、変数を全て計算した。
+「鷹」はそのことをよく分かっており、恥じることなく認めていた。
+目の前のこの少女の内功と外功は、いずれも自分のそれをはるかに上回っている。
+もしかすると、自分が知っている武術界のどの人間よりも強いかもしれない。
+天と地のような大きな実力差は、最初からこの戦いの結末を決定づけている。
+——もし、これがただの手合わせであればの話だが。
+先ほど2回繰り出した掌打は、いずれも内功を使っていない。「截気散」がまだ効いているのだろうか?
+この二人は地下牢から逃げ出した。「羅刹人」はまだ近くにいるのか?
+この二つの不明の事実も、結末を左右する可能性がある。
+これらを悪い方向で考えれば、「鷹」に勝ち目はないと言ってもよいだろう。
+——もし、不幸にも予想通りになればの話だが。
+……形勢は非常に悪く、勝ち目はないに等しい。
+それでも「鷹」は絶対に勝つ自信があった。
+ +なぜなら、彼は「強み」も計算していたからだ。
+これが一つ目の強み、「経験」だ。
+ +武術界に長年身を置いている彼に比べれば、李素裳は外の世界の経験がないに等しかった。
+彼女は「鷹」が言葉の中に隠した糸口に気が付かず、
+知らず知らずのうちに罠の中へと足を踏み入れていった。
+二つ目の強みは「個性」だ。
+ +「鷹」は敗北の味を知っている。だからこそ、勝つためなら何でもできる。
+一方の李素裳は、融通が利かないほど正直でお人好しだ。
+彼女の心の中では、いまだに公正さと正義が最優先となっている。
+この二つの強みを活かしつつ、
+三つ目の強みに頼るのだ。
+そして、変数に賭ける。
+ +「鷹」は、「勝利」の天秤が必ず自分の方に傾くと確信していた。
+揺らめくロウソクの光が夜の闇の中で幼い少女を照らし、彼女の姿を実際よりもはるかに大きく見せていた。
+一方、正面の男はかすかに前かがみになり、背中、両足、両腕を曲げていた。[\s]
+この構えは河東駱氏に伝わる奥義「虎吼震九霄」だ。
+男と少女は向かい合って立ち、微動だにしないまま互いに探り合っている。
+ +今夜の月明かりのような沈黙が小さな中庭を包み込んでいた。
+東洋人が決闘する前は、いつもこのような静寂が訪れるのだろうか?
+……
+ +二人とも、相手の隙を窺っている。
+ +しかし、三人目の人物はやや痺れを切らしていた。
+その一瞬、真気の動きが滞り、虎吼の構えも消えたのだった。
+パンッ![\s]
+平手打ちの音が鳴り響いた。
+「鷹」は怒りが収まらなかった。
+気の動かし方を誤り、ほんの一瞬だけ真気を失ってしまったところに、少女の平手打ちを食らってしまったのだ。
+ +大した被害を受けてはいないものの、この失態によって彼は面目を失ったと感じていた。
+ただし、李素裳はまだ本気を出していないようである。
+ +このことで、「変数」に対する自信が増した。それと同時に、屈辱感も倍増した。
+彼は長いこと「虎吼功」を使っていなかった。久しぶりに使ってみたが、やはり錆びついているようだ。[\s]
+ +敵は気を抜いて勝てる相手ではない。同じ過ちは絶対に繰り返せなかった。
+二人は空中で三つの技を繰り出した。
+力は拮抗しており、どちらも優位に立てなかった。
+虎の咆哮が空を飛ぶ燕を驚かせる。[\s]
+ +河東駱家の虎吼震九霄はかねてから勇ましいことで有名であり、
+垂燕十三式は軽快かつ変幻自在で、どちらにもそれぞれの強みがあった。[\s]
+ +しかし、実力では勝っているはずの少女は「鷹」を相手に互角がやっとだった。
+このこと自体が、信じられないような躓きだった。
+「鷹」は賭けに勝った。
+戦いが始まった時から、李素裳は真気を使うことができなかった。
+彼女が家伝の垂燕十三式の後に太虚啓剣形を続けたのは、
+まさにそのことを確かめるためだったのだ。
+(あの薬はアタシに効いていないはずなのに……)
+内功の強さで言えば、自在門の「太虚剣気」は天下一だろう。
+神州の各派にはそれぞれ独自の心法がある。しかし、形式は変われど本質は変わらず、結局は鍛錬次第なのだ。
+ +真気を水に例えると、通常の内功は水を入れる器を鍛え、容量を増やしていくようなものだ。[\s]
+過酷な鍛錬を繰り返さなくてはならないばかりか、上達も非常に遅い。そして何より、人体に大きな負担をかける恐れがある。
+一方の「太虚剣気」は、他の功法とは本質的に異なっている。[\s]
+ +「剣心」は「容器」ではなく、「桟道」を鍛える。
+ +天地万物から真気を吸い取り、内功を体の中で小川の水のように自由自在に流れさせるのだ。
+この新しい方法は、太虚一脈の祖師である精衛真人が作り出した。
+奥深く不思議なものだったが、非常に大きな制約もあった。
+例えば、男性が太虚剣気を鍛錬した場合、大多数が途中で挫折し、上達できなくなる。類まれな才能を持つ少年でもない限り、この奇功を習得するのは不可能なのだ。
+一方、女性が太虚剣気を鍛錬した場合、わずかな労力で大きな成果が得られる。
+平凡な才能の持ち主でも、男性の手練れに勝てるほどの強さを手にすることができるのだ。
+素裳の師匠は、歴代最強の剣心と言われ、内功だけに限れば、世界の誰にも負けないほどだった。
+ +その彼女が教えた少女も、並外れた腕前を持っている。
+しかし、真気を使えなくても、少女にはまだ絶対的な強みがあった。
+剣心を鍛錬した肉体の強度は、常人をはるかに凌駕しているのだ。
+そして剣形は、世界で最も奥の深い武術である。
+大男は雨のように重い拳を繰り出すが、李素裳は一式の守剣形だけでほとんど防ぎ切った。
+金砂会の首領はまったく疲れていないかのようだった。
+柳のように伸びやかな少女の柔勁に尽く拳を阻まれながらも、
+一瞬たりとも攻撃の手を緩めなかった。
+こんな簡単な理屈を「鷹」が分かっていないはずはない。[\s]
+しかし、彼はどうして変わらず猛攻を続けるのだろうか?
+同様に、「鷹」も機会を窺っていた。
+そのために、彼は自分から隙を見せようとしていた。
+「鷹」は既に少女の性格を理解している。
+「平手打ち」の仕返しをするまで、少女の攻撃目標は決して他に向かないはずだ。
+敵の意図さえ分かってしまえば、
+その目標は急所ではなくなり、命を救う護符に変わる。
+「鷹」は全力で猛攻を仕掛けると同時に、肩の上の部分だけを守っていればよかったのだ。
+同じく命を賭けて戦っている李素裳に比べ、彼の負担は圧倒的に軽い。
+もちろん、彼は「賭け」に応じるつもりなどなかった。
+宝剣を手元に残し、李素裳の命も取るつもりだ。[\s]
+そのために平手打ちを食らったとしても、どうということはない。
+「鷹」はあらゆる技や秘技を惜しみなく繰り出す。その目的は敵を傷つけることではなく、
+あの「軒轅」古剣がある場所に近付くためだった。
+双方が互いに技を繰り出した瞬間、「鷹」はすぐさまこの少女が幼いながらも恐るべき腕前を持つことに気付いた。
+勁力の強さや敏捷さは言わずもがな、虎吼九霄の中で自由自在に技を変えて繰り出せている点だけを見ても、武術界でも一流の腕の持ち主と言えるだろう。
+その点だけは、彼は足下にも及ばなかった。
+戦いが長引けば、敗北は必至だった。
+——戦いの規則を守ればの話だが。
+しかし、「鷹」は規則を守る人間ではない。[\s]
+彼の望みは試合に勝つことではなく、戦いに勝つことだ。
+これこそが三つ目の強み、「目的」である。
+ +同じ「勝利」でも、「鷹」の「勝利」と李素裳の「勝利」はまったく異なっていた。
+少女が追い求めているのは「試合」に勝つことだ。
+「鷹」が望んでいるのは「戦い」に勝つこと。
+「戦いに勝つ」……これは欲しいものを手に入れ、壊したいものを壊すことを意味している。
+ +だから、李素裳は約束を守っている。
+一方、「鷹」は約束を利用するのだ。
+ +相手の「標的」を利用して自分を守り、
+自分の「隙」を利用して敵をおびき寄せ、
+さらにあの鋭利な「宝剣」を利用して相手を殺す。
+これこそが「鷹」の仕掛けた罠だった。[\s]
+これまでのところ、全てが彼の思い通りに運んでいる。
+宝剣は彼のそばの石畳に突き刺さっている。[\s]
+手を伸ばせば届く……
+「鷹」が左手を緩める。[\s]
+仕掛けは完成した。片を付ける時が来たのだ。
+必殺技、技の駆け引き、一進一退の攻防など、期待していたものは一切ない。
+あったのは怒涛のように押し寄せ、せわしなく単調な攻撃と、徐々に罠を形作っていく防御だけだった。
+彼女の目は既に「鷹」の拳術に慣れている。
+「剣心」で観察を続け、虎吼震九霄にも
+対抗する術があることを見つけた。
+新たな「隙」はその時に訪れた。
+「鷹」の右拳はまったく威力がなく、明らかに陽動だった。[\s]
+しかし、その陽動は敵を誘い込むためでも、防御のためでもなく、彼女に態勢を整える十分な時間を与えるだけの、実に中途半端な動きだった。
+素裳はそのわずかな隙をずっと待っていた。
+一式「化剣・雲鷹」で防御から攻撃に転じ、
+瞬時に「開剣・瞬塵」を繰り出して「鷹」の喉元に突き刺した。
+太虚剣気の剣は実体を伴って伸びる。[\s]
+剣を手にしている場合、この技は真気を注入して敵の喉の急所を真っ直ぐに狙う無慈悲な剣術となる。
+李素裳の神速をもってすれば、相手は無理矢理この剣を受ける以外になす術はないだろう。
+彼女は剣の代わりに指を使い、「鷹」の返し技に備えていた。
+しかし、「鷹」は防御も回避もしなかった。[\s]
+それどころか、彼の上半身ががら空きになり、隙だらけになる。
+勝利に近付いた時ほど、危険が増す。
+生きるか死ぬかの状況になると、人は往々にして思いもよらぬ行動を起こせるものだ。
+「瞬塵」の速度は極めて速く、彼女に考える時間を与えてはくれなかった。
+剣が実体を伴って伸びる。「鷹」が応じなければ、たちどころに絶命するだろう。
+間一髪のところで、李素裳は唐突に気が付いた。
+実のところ、自分はこれまで覚悟ができていなかったのだと。
+彼女には剣を扱う覚悟、戦う覚悟、勝利の覚悟、人を殺める覚悟がなかった……
+彼女は15歳の少女に過ぎず、武術界に足を踏み入れたつもりになっているが、実際には人の命を大切にする情、命に対する畏敬の念を捨て切れていなかった。
+間もなく自分の手にかかって死のうとしている極悪人を前にして……
+首を賭けた約束、平手打ちの仕返し、一瞬で全てが頭から消え去った。
+李素裳は歯を食いしばり、技を引っ込めることにした——
+繰り出した太虚剣気を無理矢理押し戻す。
+反動の指の力が体に戻り、腕に大きな痛みが走った。
+技の勁力を分散させるため、彼女はつま先を軽く叩き、
+「飛燕帰巣」を繰り出し、回転を利用して力を削ぐしかなかった。
+ちょうどその時、足下にザザッという音が響いた。
+一筋の白い光が目の前で煌めき、先ほどまでいた空間を寸断していた。
+素裳が技を引っ込めるのと同時に、
+「鷹」の左手が急に「軒轅」を引き抜き、上向きに斬撃を繰り出した。
+少女が後ろにさがっていなければ、体は一刀両断されていただろう。
+李素裳の優しさが正しかったのかどうかは分からないが、
+彼女自身の命を救ったのは間違いない。
+(あれはロウソクの光?それとも月明りかな?)
+死が訪れる直前、李素裳はふと思った。
+十年の修行で極めた剣心はとても穏やかだった。[\s]
+これまで死に直面したことがなかった少女だが、死の間際、これほどまでに虚しくなった。
+それは女性の声だった。
+遠い場所から、はるか遠くの場所から聞こえる……
+彼女は体からほんのわずかな距離で剣の刃を受け止めた。[\s]
+続いて指で弾いた。
+この指の動きは、かつての師匠の指さばきに匹敵するほど完璧だった。
+両者の目的は古剣「軒轅」だ。[\s]
+手にした者が勝ち、手にできなかった者は死ぬ。
+(……アタシを助けてくれるよね?)
+体の動きを、完全に本能に任せる。
+「少女」の、李素裳の意識が呟いた。
+「あんたはアタシの剣でしょ……」
+軒轅は最高の位置に達して一瞬停止すると、すぐに落下してきた。
+突如、李素裳の中に、とても懐かしい感覚がこみ上げてきた。
+この光景、どこかで見たことがあるような?[\s]
+ +目の前に落ちてくる剣は、どうしてこれほど親しみがあるんだろう?[\s]
+ +…………
+何年も前のこと
+…………
+指が剣の柄に近付いていく。
+剣のぶつかり合う音が、少女の頭の中で鳴り響いているかのようだった。
+まさにその時、李素裳は、自分が「剣意」を会得したのだと確信した。
+この時の絶望と失望は今まで以上に大きかった。[\s]
+ +少女は死ぬことを恐れてはいない。[\s]
+ +しかし、希望を手に入れては失い、頂上まで登りつめては落ちていく苦しみを味わったのだ。
+体に沁みこむような大きな後悔とともに。
+悲鳴や震えは絶えることがなかった。
+「——いや!」
+次の瞬間には一刀両断されようとしていても、
+本能は負けを認めようとはしなかった。
+極めてぼんやりとした意識が素裳の掌剣を押し出し、
+相打ちするつもりで必死に敵に攻撃を繰り出す。
+この瞬間、「死」を理解して受け入れた少女は、
+ついに一足遅れて、手にしたのだ……
+「鷹」は剣客ではなく兵士である。
+ +彼が使うのも剣術ではなく、刀術だ。
+そのため、逆手で柄を握った彼は、習慣的に手首をひねり、
+刃側を前にして敵に向ける。
+しかし、今夜は——[\s]
+ +今夜、勝敗と生死を決める一瞬、
+「鷹」の脳裏にある奇妙な考えが浮かんだ。[\s]
+ +その考えは、彼が剣舞をしていた時に知らず知らずのうちに根を張り、芽を出していた。
+(剣術と刀術は違うはずだ……)
+ただの思いつきにすぎなかったが、拭い去れなくなってしまった。[\s]
+ただの思いつきにすぎなかったが、「鷹」の生死を分ける場面で、手首をひねる習慣を止めさせてしまった。
+そのおかげで、彼は一瞬の時間を無駄にせずに済んだ。[\s]
+その一瞬を無駄にしていれば、剣の刃が少女の体を切り裂く前に彼は死んでいただろう。
+少女の掌剣が稲妻のごとき速さで真っ直ぐ頭に向かってくる。
+「鷹」は剣の柄を握りしめ、逆手のまま振り上げる。[\s]
+ +剣と刀は違う。剣は両刃で前後は関係ない。
+このように、ほんの一瞬の違いが、結果を全く異なるものにすることがある。
+非常に鋭利な宝剣が月の光を切り裂いた。[\s]
+剣先は柔らかく貫通し、少女の体に別れを告げ、両断する。
+ +薄い紙を切り裂くかのごとく、容易く。
+彼女の視線は空中の一点を見つめたまま固まり、もう動くことはない。[\s]
+恐るべき手刀も力を失い、動きを止める。
+「鷹」は少女を殺し、彼女の剣を奪った。
+ +辛く残酷ではあるが、勝利に変わりはない。
+——そうなるはずだった。
+しかし、剣の切っ先が前を向き、李素裳の腹部に突き刺さろうとした時、「鷹」の真気が急に消えた。
+長年鍛錬してきた強力な内勁が、まるで存在していなかったかのように跡形もなく消え去った。[\s]
+彼が何をしようと、空虚な経脈は何の反応もなかった。
+[em italic]バカな——[/em]
+恐怖という名の寒気が瞬時に「鷹」の血管を駆け巡った。
+[em italic]バカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカなバカな——[/em]
+彼の内息や気の動きには何の問題もなかった。
+彼も、このような時に自分の気が暴走することはないと確信していた。[\s]
+ +しかし、それは実際に起こった。彼の勝利が目前に迫った時に。
+今夜、彼が内功を完全に失ったのはこれが2度目だった。
+ +「鷹」はどういうことなのかを急に理解できた。しかし、時すでに遅しだった……
+力が入らない手は、剣の柄を握っていられなかった。
+ +「軒轅」は空中の少女を切り裂き、骨が見えるほどの深い傷を負わせたところで彼の手から離れた。
+少女の掌剣が彼の頬を打つ。[\s]
+ +平手打ちと骨が砕けるような音とともに、強烈な痛みと無念の感情が襲ってきた。
+[em italic]何故だ?[/em]
+砕けた側の頭から暗闇が押し寄せ、彼を呑み込もうとするが、彼は必死に抵抗した……彼の両目は狂ったように動きながら、何かを探している……
+[em italic]何故だ————!?[/em]
+あるものが彼の目に入った。[\s]
+ +遠くの、古い宿場の広間、彼が気に入っていた椅子の前に一人の男が立っていた。
+[em italic]羅刹人……[/em]
+その男の横には、棺が静かに立っている。
+[em italic]貴様か……[/em]
+男は遠くから彼を見ていた。ロウソクの炎が揺らめく。彼は目を凝らして、その男の表情を見ようとした——
+[em italic]貴様か!!!!!![/em]
+彼の思考はそこで止まる。
+怒りがこみ上げてきたところで、暗闇が彼を呑み込み、連れ去ってしまったのだ。
+疲労と痛みが怒涛のように押し寄せる。まるで、再び体の支配権を取り戻したことを少女に知らせているかのようだった。[\s]
+……ただ、その知らせ方はあまりにも残酷だった。
+少女の口の中に、しょっぱい血の味が広がる。人生を疑うほどの苦みを伴っていた。[\s]
+ +内臓が破裂したとかじゃないよね?
+……剣に斬られた腹部から急に痛みを感じるようになった。
+武術の修行には怪我や病気がつきものだが、
+これほどの重傷は少女にとって初めてのことだった。
+[em italic color=#FAFAD2]これが勝利の味だとしたら……
+本当にほろ苦いんだね。[/em][\s]
+ +李素裳はあれこれ考えているうちに、思わず吹き出して笑った。
+そしてまたもや痛みで顔をしかめた。
+返事はなく、ただ足音がコツ、コツと聞こえるだけだった。[\s]
+コツ、コツ。[\s]
+遠くから近くへ、誰かが歩いてきた。
+李素裳が問う。
+その声はとても小さく、耳元のガサガサという音のせいで、自分でもよく聞こえぬほどだった。
+[em italic color=#FAFAD2]これでも酷くないっていうの?[/em]
+李素裳は聞こうとしたが、あえて心の中に留めておいた。
+素裳の目には、その物体は不思議な花模様が描かれた真っ白な紙の傘のように見えた。
+傘はとても長く、先端は尖っており、とても鋭利だった。
+[em italic color=#FAFAD2]金髪の人って、汗も金色なのかな?[/em]
+李素裳は考えながら、心の中の3割が後悔、3割が喜び、3割が恥ずかしさで埋まる。残りの1割は彼に対する申し訳なさだった。
+夜の風が優しく吹き抜け、羅刹人の長い金髪をなびかせる。
+髪の毛が顔をかすめ、微かにくすぐったく感じた。
+李素裳はそのことを口に出そうと思ったが、言いたくないとも考えた。
+彼女は思い切って目を閉じる。[\s]
+ +羅刹人の言ったように、体のあちこちが痺れたり、痛くなったりしていくのを感じた。不思議な感覚だが、我慢できるものだった。
+生と死の境を経験した少女は、天の裂け目を飛び越えたかのような気分だった。
+今朝の自分のことを思い返すと、一昔前のような気がした。
+満足感と虚しさ、楽しさと悲しさ。
+李素裳の心の中では、何とも言えない感情が交錯していた。
+いつの間にか、痛みは徐々に消えていった。[\s]
+素裳の心の中に、成長したという小さな誇りが満ち溢れていく。
+天穹峰、入雲階。
+不思議な形の峰が天に向かって伸び、山の階段が延々と続いている。
+ +見上げても、石段の先は見えず、山の中腹にかかっている雲や霧しか見えなかった。
+山は高く、その山の頂にいる人物も達人だった。
+数千段の石段を登ると、峰の頂に「拂雲」という名の小さな道観が見えた。
+名前、構造、屋内の調度品、
+拂雲観のどれもが、かつての太虚山、精衛真人の旧居とまったく同じであった。
+この道観の主こそ、
+まさに現在の神州六大派の一つ「太虚剣派」の当主だった。
+精衛の一番弟子、「軽塵剣」の林朝雨。
+……当主の寡黙な性格に加え、困難で長い道のりが待ち受けている。
+そのため、太虚門の門弟はよほど重要な用事でもない限り、この入雲階を登ってくることはない。
+ +そのため、この日もいつもと変わらず、穏やかで平凡な一日になるはずだった。
+武術界に現れることは滅多になく、その門弟たちも目立たないように行動している。[\s]
+しかし、この者の名前は、六大派の当主や長老に劣らないほど有名だった。
+彼女こそ精衛の二番弟子、現在の「無双門」の主、[\s]
+「無双仙人」——蘇湄だった。
+門を叩く者がずっと待っていたことに気付いていないかのようだった。
+「軽塵剣」こと林朝雨は、ゆっくりと中から出てくると、かつての二番目の妹弟子を冷たい目で見た。
+その声が林朝雨の耳の中へと入り、細い尖った針のように彼女の心を刺した。
+彼女は思わず目の前の女性を一瞥する。
+美しい顔には潤いとハリがあり、触れれば破けてしまいそうだ。
+彼女の目は……相変わらず大きく、人を魅了する……
+彼女の唇は朱く、色っぽいと思えるほどだった……この女狐は、一体どれだけの紅を使ったのだろう?
+蘇湄の言った彦ちゃんとは、二人の弟弟子「百里逐駒」こと、馬彦卿のことだ。[\s]
+ +この太虚剣派の六番弟子は傲慢な性格で、常に世間に縛られずに生きている。
+ +馬彦卿と「無双」蘇湄は親密な関係で、武術界の誰もが羨む武術家の男女だった。
+しかし彼は突然、二十歳以上も年の離れた一番上の姉弟子と結婚すると宣言し、武術界に衝撃を与えた。
+ +婚礼の当日、今度は酒に酔った勢いでくだらない話をし、自分の昔の名前を恥じて捨てたと言い、居合わせた招待客たちに気まずい思いをさせた。
+結婚後も、この太虚剣派の副当主が腰を落ち着けることはほとんどなかった。
+ +1年のほとんどを、自分の愛馬「夜血」と共に各地を旅して過ごしている。彼の行いは良く言えば「義侠心がある」、悪く言えば「悪事を働いている」ということになるだろう。
+上は権力者や金持ち、下は悪党や盗賊に至るまで……馬非馬は相手が誰であろうと構うことなく手を出し、喧嘩を売っていた。この「狂人」は十年ほどの間、確かに各地の武術界で名を馳せていた。
+[em color=#FAFAD2 italic]いえ……[/em]
+林朝雨は心の中で思った。
+[em color=#FAFAD2 italic]彼が嫌っているのは過去、まさに、あなたが作り出した過去よ。[/em]
+その思いは胸にしまい、それきりにした。
+それを言葉にすることもしなかった。
+林朝雨は再び聞いた。[\s]
+蘇湄は彼女に向けていた視線をすぐに逸らし、ため息をつきながら言う。
+突如、怒りの炎が硬い氷を融かした。
+林朝雨は大きく前に一歩進むと、銀色の長剣を音もなく左手に握る。
+長年溜め込んでいた言葉を痛烈に吐き出したが、決して気分は良くなかった。
+林朝雨は相手の沈黙に満足したが、その沈黙を訝しんでもいた。
+風が吹き荒び、天穹峰の頂には骨に突き刺さるような寒さが漂っている。
+このような天気は怒りをかき立てるが、怒りの炎をかき消して意気消沈させることもある。
+二十年前のあの日の話題になり、林朝雨は無意識に一歩後ずさりした。[\s]
+冷たい空気が背筋で凝結して水滴となり、氷のような汗となって服の背中を滑り落ちていく。
+何年もの間、あの時の光景は骨の髄にまで入り込み、彼女を苦しめ続けていた。
+彼女は過去を振り払ったつもりでいた。
+しかし今日、蘇湄が訪れたことで、古傷に再び触れることとなった。
+再び顔を上げて蘇湄を見た時、林朝雨の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。
+それは、怒りと疲労が限界を超えたことによる笑みだった。
+林朝雨はドキッとした。[\s]
+それは彼女がよく知っている蘇湄の目だった。
+秦素衣の最初の記憶は、一片の青だった。
+青い海が音を立て、波が彼女の足元を撫でる。幼い秦素衣は海辺に立っていた。
+ +何故か分からないが、その光景を思い出す度に、彼女は嬉しくなる。
+顔を伏せると、柔らかい砂と白い波。顔を上げると、青い空と白い雲。
+近くで誰かが話しているようで、声が聞こえる。しかし、秦素衣は振り向かなかった。
+シャ——
+ +ヤ——カ—カ——
+奇妙な音がカモメたちを驚かせ、その羽根がゆっくりと落ちていく。
+師匠は後ろからやって来て、彼女を抱き起こし、連れ帰った。
+師匠の袖は赤く染まっていたが、その腕はとても温かかった。
+この人の腕の中にいると、穏やかな気持ちになる。
+それより前のことを、秦素衣はもう覚えていない。
+その年、精衛仙人は東海で璃島の妖獣を退治した。
+その年、八歳だった秦素衣は太虚山、精衛真人に弟子入りし、七番弟子となる。
+一番弟子の林朝雨は、知らない場所に来て不安であった素衣の傍にいて、彼女の代わりに部屋を片付け、生活用品を揃えた。
+最初、秦素衣は言葉も忘れていたが、林朝雨は、一言一言付き合ってくれた。
+それは彼女にとって、物心がついた時から最も楽しかった時間である。数年後、彼女の人生で最も苦しく、絶望した時にも、彼女はよく当時のことを思い出した。
+林朝雨は彼女と三日間一緒にいた後、六番弟子の馬彦卿の世話に戻ると言い出した。
+太虚剣派の弟子は入門した日時で順番が決まる。秦素衣は一番遅く弟子入りしたが、一番幼い訳ではないのだ。
+彼女は五番弟子と同い年で、六番弟子よりも三つ年上である。
+六番弟子のことは彼女も知っている。師匠が彼女を山に連れてきた時、六人の弟子——女五人に男一人が出迎えに来た。一番上の一番弟子の年齢は、師匠とそう変わらない。彼女の腕には迷った表情をした子供がいる。
+秦素衣は好奇心からその子を何度も見たが、男か女か分からなかった。
+その横には同じ顔をした女の子二人が並んでいる。片方は素衣を観察していたが、もう片方は目を横に向け、何かから隠れているようだった。
+その左には、赤髪の少女がいる。彼女は砂糖に漬けた果物を口に入れ、素衣に向かって片目をつぶった。綺麗な笑顔だった。
+右側を見ると、みんなの後ろに立つ少女が見える。彼女は金色の剣を持ち、無表情だった。
+三日は瞬く間に過ぎていったが、一番弟子は戻らなかった。
+体が弱いからか、それとも環境が合わなかったためか、秦素衣は病気になってしまった。最初は全身から寒気がする程度だったが、その後、火傷をしてしまうぐらいの熱を出したのである。林朝雨は秦素衣を着替えさせ、薬を飲ませ、徹夜で看病してくれた。
+秦素衣も一晩中眠らなかった。高熱のせいでぼんやりしていて、記憶が曖昧だった。
+彼女はなんとなく、赤髪の少女が綺麗な男の子を連れてお見舞いに来たことを覚えている。邪気を祓うと言って、二人が彼女の枕の下に丸い何かを置いたような気がするが、起きた後は何もなかった。
+あの双子の姉妹も来てくれたような気がする。一人は一番弟子の傍にいて、手ぬぐいを替えてくれた。もう一人は彼女の手を掴んで、悲しそうに泣いていた。
+金剣を持った、無表情な女の子のことも気になったが、彼女が来たかどうかは分からなかった。
+翌日の正午。強い日差しが降り注いでいた。秦素衣の熱は下がり、まるで生まれ変わったようだった。
+素衣が体を起こして周りを見ると、一番弟子ではなく、赤髪の少女の姿があった。彼女は穏やかな一番弟子とは違う、軽快な足取りで部屋に入り、素衣の周りを一周して、懐から飴を取り出す。
+赤髪の少女が彼女の肩を抱く。何かが服に落ちたような感覚がした。
+秦素衣にとって、誰かに抱きしめられたのはそれが二回目だった。師匠の温かいぬくもりと違い、少女の腕は冷たい。まるで彼女が、虚無の点になるまで押し潰しているかのようだ。
+李素裳が生まれた時の体重は、わずか二斤三両。一本の剣とほぼ同じ重さである。
+山荘の者たちは頭を振り、父親の李紳は母親の秦素衣に向かってこう言い放った。
+ +「この子は生きられないだろう。」
+当時、産後の静養中だった秦素衣はこう答える。
+「素裳が生きることができなかったとしても、それが彼女の運命。
+私は運命を憎まないけど、二人目の子供を作るつもりはないわ。
+これで李家の血が絶えたとしても、それが運命なのよ。」
+それを聞いた李紳は真っ青になり、その場を立ち去ったという。
+乳母と母親が世話したおかげで、李素裳は生き残った。しかも、とても元気に生きている。
+素裳の生後百日の日に、李紳は有名な占い師「小半仙」を山荘に招いた。
+ +小半仙は印を結び呪文を唱え、素裳の周りでしばらく観察した後、声を上げてこう叫んだ——
+ +「若荘主は生まれつき、剣の才能を持つ天才。非凡な運命の持ち主。まさに、大事を成す人相ですぞ!」
+その言葉の解釈は様々である。期待していた以上のことに大喜びした李紳は、己の代わりに娘が武術界の頂点に立つという夢を叶えてくれると思い、宴を開き、盛大に祝った。
+しかし、宴の主役は席にいなかった。
+ +本物の「仙人」の弟子である秦素衣は、冷たい目でその茶番を見ると、娘を抱いてその場を去った。
+ +彼女は寝室に戻り、娘を柔らかい敷物に下ろして、その横に小さい木剣をいくつか置いた。
+ +幼い素裳は剣に触れようと手を伸ばしたが、握ることはできなかった。秦素衣は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
+物心がついた頃から、李素裳の傍には剣があった。だから、彼女が剣を知ったのは、物心がつく前だったかもしれない。
+ +母親は彼女に変わった口訣を教え、父親は憶心剣法の十二の型を一つ一つ彼女に教えた。
+ +こうして、李素裳は幼年期を剣の稽古の中で過ごし、瞬く間に四年の月日が経った。
+幼い素裳は真面目に稽古し、伝家の憶心剣法の出来も悪くはなかったが、それでも母親は彼女を大漠に送り、「弟子入り」させると言って聞かなかった。
+ +そのことに対して、素裳は泣いて喚いたが、多くは抵抗しなかった。
+幼い彼女は漠北、南疆などの場所に対して何の概念もなく、家から離れる感覚もよく分かっていなかったのである。
+大漠に行くことが決まった数日後、人望のある陝中の石硯道人が憶剣山荘を訪れた。貴賓を迎えるため、父親は乳母に、素裳を裏庭に連れていき、稽古させるように命令した。
+ +歳を取った乳母は思うように足を動かせない。素裳は乳母に気付かれないようにこっそりと裏庭を出ると、いつもの位置に隠れて、興味津々に居間を覗いた。
+「李荘主、久しぶりだな。」
+李紳は笑顔で拱手して挨拶を交わした後、座って茶を飲み、会話の続きを妻に任せる。
+——彼の妻、太虚山の仙人「精衛真人」の七番弟子、「染香剣」こと秦素衣にあるのだと。
+当時、精衛真人がまだ世にいた頃、神州の武術界を牛耳る者と言えば、精衛真人以外はありえなかった。
+伝説によると、精衛は下界に降りた仙人。不老不死だけでなく、武術の造詣に関しても比類なき才能の持ち主だという。
+ +しかし十年前、太虚山に突如、金色の光が現れた。仙人は鶴に乗り天へと昇り、業火により太虚山は焦土と化した。
+その件は、武術界で大騒ぎになった。神州を千年以上も守ってきた仙人が、突如天界に戻った理由を、誰もが知りたがっている。
+仙人がすでにこの世にいない今、その答えは自ずと、仙人の七人の弟子である「太虚七剣」に期待することになる。
+キーン——
+年寄りの道士は茶を飲み、蓋を茶器に添え、武術界の近況を話した後、最後はやはり仙人の話題を口にした。
+ +「正直に言うと、若い頃のわしは真人様に助けられたのじゃが、今でも礼を言いそびれたことを後悔しておる。はぁ、精衛真人様はまた戻ってくるんじゃろうか。」
+秦素衣も茶器に手を添え、笑いながらこう答える。
+ +「神仙のことは、我々凡人が勝手に憶測するものではないのです。道士様に仙人との縁があれば、きっと再会できると思います。」
+ +道士は大笑いしながら相槌を打ち、その後、精衛真人に関する話を二度と口にしなかった。
+茶を飲み終えた後、道士は暇を告げた。
+ +父親は客を見送り、戻った時は暗い顔をしていた。
+母親の言葉にあった軽蔑の色に、李素裳は思わず驚く。
+ +彼女の記憶の中では、両親は常に仲睦まじかった。そう……他の夫婦と同じように。
+ +あんな話し方をする父親と母親を、彼女は知らなかった。
+母親はそう言い放ち、居間を出た。
+ +李紳はその場に立ち尽くし、長らく動かなかった。握りしめた拳から音がする。
+ +素裳は、ぼんやりしたままその場に座っていた。驚きがあり、喜びもあった。
+母親は微笑んでいるが、その目には悲しさと申し訳なさがある。
+彼女はまだ母親の言葉の全てを理解できず、一部の感情しか読み取れない。
+それでも、その歳では存在するはずのない重荷が、自身の肩にかかっていることに気付いた。
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